ハーピストの動向
1週間のゲネプロのうち5日目を消化した日、ザシャが城を訪ねてきた。
「なんか久しぶりだな」
「そうだね。工房の皆は元気?」
「おう。ユリウスとヴィムは王都だけどな」
カミラのことは特に気にしていないのか、ザシャがいつも通りの様子で安心する。
「レッスン室と練習室の調律は終わったから、あとはホールだけだ」
マルコがアールダムに行く前に作ったという音叉を片手にザシャが調律を始める。物珍しそうにテオやジゼルが近くで見ていた。
「音が小さか」
「よく聞こえなーい」
「ふふっ、下に空の箱を置くと大きな音になるんですよ」
ザシャが持っている音叉には箱が付いておらず、二本になっている側面を叩いて耳を近づけて聞く。
「うるせえ。聞こえねえから黙ってろ」
「はーい」
ピアノの音と音叉の音を同時に聞いて調律を行う。調律が狂っていると、うわんうわん、というような音のうねりが発生する。
元の世界では基準音は440Hzと決められていて、場合によっては442Hzに調律することもある。これは録音技術が発達していたからこそ定められたものだ。例えばオーケストラとピアノを別の日に録音する場合は同じ周波数にしないと音程が狂う。
しかし、録音技術がないこの世界では特に周波数を気にする必要はない。今回はピアノの音で他の楽器もチューニングを行うことになる。ちなみにモーツァルトの時代は基準音の周波数はだいたい435Hzとふわっとした感じに決められていたらしい。
「なあ、あの女、アイツだろ? 設計図の犯人」
「……ユリウスはなんて?」
「特になんも言わねえけど、名前でわかるっつの」
調律が終わってホールから一緒に外に向かう途中、ザシャが軽い調子で言う。
「ザシャは平気?」
「結局、スプルースを独占出来たおかげで商会は潤ってるし、ルテナ鉄もあったからうちの工房の有利は変わらねえしな。けどアイツがなんで何も言わねえのかってのは腹立つ」
ザシャが言うアイツとはユリウスのことだろう。
「けどまあ、そういうのは全部、演奏会の後だ。お前も余計なこと考えるなよ」
「……うん」
気にならないと言えばウソになるが、ゲネプロに参加しているマリアからは、カミラがヴェッセル商会に滞在しているわけではないと聞いている。それに一番腹立たしいはずのザシャが我慢しているのだから、私が文句を言っても仕方がない。
「ああ、頼まれていたあれ、付けといたぜ」
私の様子を気にせず、ザシャがニヤリと笑って言う。その笑顔に私の気持ちも少し上向く。
ザシャに頼んだのは購入済みの馬車の細工だ。馬車の後ろ側に組み立て式のシロフォンを取り付けてもらったのだ。
シロフォンの音板の下には共鳴管があるが、馬車の床を底上げして床下に棚を設置し、演奏する時は取り出して使う。その上に糸でつないである音板を並べる仕組みだ。なかなか面倒な細工だったと思うのだが、もう出来ているとは驚きだ。
「色々考えたくなかったからな。一気に作っちまった」
「そっか。ありがとね。私も頑張るよ!」
たぶん、私のことも心配してくれたんだろうなと思う。ザシャの気遣いを無駄にしないように、まずは演奏会を頑張らなくてはと気合を入れる。
「調律は終わったのかい?」
城門でザシャの背中を見送っているとクリストフが声を掛けてきた。いつもよりもだいぶくたびれた様子に苦笑する。
「面倒を押し付けてしまってすみません」
「構わないよ。アロイスもピリピリしているからね。僕が適任さ」
ユリウスが王都に行った後、カミラはようやく城に姿を見せるようになった。だが彼女の目的は手伝いではなくアロイスだった。アロイスは慈善演奏会でもご令嬢の心を鷲掴みにしたのだから、わからなくはない。
「近付かないでいただけますか」
澄んだ青色の目を眇め、低い声でそう言ったアロイスは、私でもちょっと怖かった。
アロイスは姿は変わったとはいえ、元はゲロルトの仲間でカミラのことも知っているのだ。ほとんど接点はなかったようだし、カミラ自身はそのことに気付きもしないが。
しかし、さすがのカミラも全身で拒絶されていることはわかったようで、アロイスには近づかなくなったが、代わりのターゲットとして狙われたのが、驚いたことに私だった。
「君にまとわりつかれるのは許容できないからね」
クリストフはカミラをうまく誘導して私から引き離す役回りを演じてくれているのだ。
「事務所に入りたいみたいだよ、彼女」
「アマリア音楽事務所にですか?」
せっかく劇場のハーピストになったのにもったいないと思うが、もしかするとフルーテガルトに住んでユリウスの側にいたいのかもしれない。
「マイスター、まさかとは思うけれど、彼女を雇うなんて言い出さないでくれよ」
「さすがにそれはないです」
「そうかい? ベルトランのことも君は簡単に許したからね。念を入れておかないと」
クリストフはそう言うが、アロイスのあの塩対応っぷりを見れば、彼女を音楽事務所で雇い入れる気にはさすがにならない。
「面倒が起こる未来しか見えませんから」
疑わしいと言いたげな目で私を見ていたクリストフだが、私の言葉を聞いて納得したように頷いた。
「ところで今日のゲネプロ、マリアがすごく良くなってたね」
「クリストフもそう思います? カッサンドラ先生の指導の効果ですよね」
カッサンドラ先生が見てくれている以上、あまり口を挟まないようにしていたのだが、それが良かったのかマリアの上達は目を見張るものがあった。
「演奏会の翌日には帰ってしまうんだろう? 残念だね」
「ええ。ずっとフルーテガルトにいてくださると良いのですけど」
足が悪いカッサンドラ先生は、テンブルグの医師に定期的に診てもらわなければならないらしい。演奏会の翌日にはユリウスが送っていくと言っていた。
「朗読劇は劇場の演奏家たちに手伝ってもらうのだろう? 楽譜は配ったのかい?」
「ええ。テオが配ってくれてますけど、何か問題が?」
「ハープがあるだろう?」
朗読劇の演目は『コッペリア』だ。編成にはハープも加わっている。
「誰が演奏するのかわかりませんよ」
「そうだろうけど、あの調子ならまた来るんじゃないかい?」
「それは仕方ないです」
カミラが劇場の演奏家である以上、これからも付き合いがあるのは仕方がないことだ。設計図の件で裁かれないことはもやっとするけれど、訴えるとすればヴェッセル商会なのだから、ユリウスが動かないのならばどうしようもない。
「ベルトランはどうですか?」
「怒っているけれどね。問題を起こすのは得策じゃないとわかっているはずだよ」
「クリストフがいてくれて助かります」
クリストフは何も言わないが、ベルトランを説得してくれたのはクリストフだとダヴィデから聞いたのだ。
「クリストフにもご褒美をあげないといけませんね。何が良いですか?」
「……リードかな?」
ダブルリード楽器のリードは高価だが、リードなら経費で落とせるし、そもそもクリストフは自分でリードを削っている。
「クリストフは欲がないですね」
「最近は欲しいものってあまり無いんだよ。貢ぐ女性もいないし」
ならばちょっとでもお給金が上げられないか、まゆりさんに交渉してみようとこっそり考えた。
◆
公開ゲネプロを終えた夜、覚えのある気配に私は苦笑した。
「そろそろ来る頃かなって思ってたよ」
「意外と元気そうで何よりだよ。あの女がいるみたいだから、塞いでいるかと思ったのだけれど」
見透かしたように言うドロフェイを私は睨みつける。
「どうしてドロフェイが知ってるの?」
「宿屋で会ったからだよ」
マリアからはヴェッセル商会には滞在していないと聞いていたが、カミラは宿屋に宿泊しているようだ。
「ドロフェイが会いに行ったの? 何のために?」
「知った気配があったから様子を見に行っただけさ。とても機嫌が悪そうだったけれど、何かしたのかい?」
「特にはしてないけど、ユリウスがいないからじゃないかな?」
もしくはアロイスが冷たくしたからとか? そう言うとドロフェイは人の悪い笑みを見せた。
「カミラさんとドロフェイで何か企んでたりする?」
「そうだったらおもしろいのだけれど、ね。あの女は僕にとっても不都合だから」
「そうなの? でも仲間だったんでしょう?」
「ゲロルトの、ね」
ドロフェイだってゲロルトの仲間だったのに、ドロフェイの言い様ではカミラとドロフェイは仲間ではなかったような口ぶりだ。
「さて、湖には行かなくていいのかい?」
「行きたい! 王都にいる間に行けなかったから、気になってたんだよ」
3週間近くも留守にしていたのだ。せっかく奉納しても間が開いたら元に戻ってしまうのではないかと心配していたのだ。
「じゃあ行こうか」
そう言ってドロフェイはいつものように私を抱き上げた。
「エルヴィン陛下と一緒に来たんだよね?」
高いところにいるという事実から気を逸らしたくてドロフェイに雑談を持ち掛ける。
「陛下は演奏会後にキミに会いたいと言っていたよ。夕食に招きたいと言っていたけれど、キミの予定は?」
「打ち上げがあるけど、他の人に任せても大丈夫かな?」
夕食となるとマナーが心配だけど、せっかくフルーテガルトまで来てくださったのだから、本来ならこちらがもてなさなければならない。断るのは難しいだろう。
「でも何のご用?」
「王宮でのことを謝りたいって」
それはもう落着したのだし、陛下に謝っていただくようなことではないと思うのだが、どうやら指揮棒やその他の私物を盗んだ犯人がわかったらしい。
「ギュンターに言い含められた侍女だったよ」
「そう。別にもういいのに」
「そういうわけにはいかないのだろう、ね」
いくらギュンターに唆されたとはいえ、王宮の侍女が滞在者の物を盗むなんて大問題ではある。同じようなことが起こらないようにするためにも厳しく罰せられるらしい。
「ねえ、レセプションの時、ユリウスとどんな話をしたの?」
「おや、聞いていないのかい?」
ユリウスには一応聞いたのだが、たいして教えてくれなかった。ただものすごく機嫌が悪かったのは確かだ。
「水の加護の本来の使い方を聞かれたけれど、それは言ってないよ。僕とキミとの2人だけの秘密だから、ね」
思わせぶりに言うドロフェイを睨みつけたいが、ユリウスに伝わってほしくない話なのは確かなので我慢する。
とぷん、と水の中に入ると周囲が青の風景に変わった。
「湖の中、私が1人で来れたらいいのに」
「それは無理だよ」
わかっているけれど、美しい光景をずっと見ていたいのだ。
ほどなくして湖底に辿り着き、ウェルトバウムの根の近くで降ろされる。とは言ってもドロフェイが背後から私のお腹に手を回しているのはいつも通りだ。
「よかった。広がったりはしていないね」
根の傷はユリウスとアロイスの2人に手伝ってもらった時に見えた状態と同じに見えた。
「キミのナイトは創世の泉を探していたよ」
「ああ、そういえば……ドロフェイは場所を知ってるの?」
「さあ?」
「ふうん。創世の泉で奉納した方が効率がいいんだ?」
私の質問を聞いてドロフェイはとても嫌そうな顔をする。私はちょっと気を良くした。
「なんだ。やっぱり聞いていたんじゃないか」
「レセプションよりも前に聞いたんだよ」
離宮の創世の泉を見た時に聞いたのだ。
「ウルリーケさんは創世の泉を使っていたんじゃないかって」
「…………」
ドロフェイが答えないということは、ドロフェイにとっては都合が悪いことで、つまりは私にとって都合がいいということだ。
「創世の泉を使えば水の加護はいらない?」
「水の加護はどうしたって必要さ」
ドロフェイの答えを聞いた私はがっかりする。
「どうしても必要なのか……」
「キミはライナーを受け入れたのではないのかい? 僅かだけど気配がするよ」
「そんなこともわかっちゃうの?」
それはものすごく嫌な能力だ。
「フフフ、あの女の影響かな? ナイトとケンカでもしたのかい?」
「ケンカなんてしてないよ」
だってカミラと最初に会った日以降、ユリウスには会ってすらいない。会わないままに王都に行ってしまったのだ。
「ふうん。ライナーがやる気を出してくれたのなら、僕としては嬉しいよ」
「ライナーじゃなくてアロイスだよ」
楽しそうなドロフェイが恨めしかったけれど、怒ったら何かに負けるような気がして唇を噛むしかなかった。