ゲネプロ
演奏会まであと1週間を切り、ゲネプロが始まった。
「アマネ先生、この部分はピアノの音があまりよく聞こえなかったのですが……」
「協奏曲ですから、ピアノだけが目立てばよいということではないのです。オーケストラ全体の音を聞いてみてください。この部分なんかは後から弦楽器が入って来てピアノの音が融け込むような感じがするでしょう?」
休憩に入るとキリルやモニカの質問タイムが始まる。忙しく走り回っているまゆりさんやテオには申し訳なかったが、せっかくの機会なので2人はゲネプロを見学してもらっているのだ。
「アマネ先生!この部分は節の取り方が不思議な感じがします」
「良いところに気が付きましたね。ここはヘミオラと言って3拍子の曲に使われることがあるのですが、2小節をまとめて大きな3拍と考えるとよいのですよ」
2人にはピアノ協奏曲とヴァイオリン協奏曲の総譜を渡してある。キリルはピアノ譜だけで良いと言ったが、演奏技術を高めるだけならここにいる意味がないと考えた私は無理やり総譜を押し付けたのだ。
「後半はオケが走りすぎであるな。演奏が軽すぎるように吾輩は思うのだが」
「うーん、まあ1日目ですから、追々直していきましょう」
指揮者のエグモントと簡単な打ち合わせをしていると、劇場支配人がやって来る。
「素晴らしいですな。しかし、アロイス殿にしてもエグモント殿にしても、失礼ながら今まで聞いたことがない方々ですが、よく見つけられましたな」
グレーゴールの指摘に私は冷や汗をかいた。
「あー……ははは……アロイスは葬儀の演奏にも出てもらってましたし、エグモントさんは、ええと……」
「吾輩はアールダムで活動しておったのだ」
「そう! そうなんですよー、あはは……」
エグモントのフォローでなんとかなったが、これは事前に打ち合わせておかなければならなかったなと反省する。
「あ、アロイス。休憩が終わったらヴァイオリン協奏曲をやりますけど、問題ないですか?」
「ええ、準備は出来ております」
ヴァイオリン協奏曲は私が指揮をする。
プログラムの順番としては、ピアノ協奏曲とマリアの歌が前半で、休憩を挟んでヴァイオリン協奏曲という流れに決めた。
きっとこの演奏会が成功すれば、ヴァイオリニストとしてのアロイスの名はノイマールグント中に広まるだろう。秋にフルーテガルトに来てから、ずっとアロイスの練習を聞いてきた私は確信している。
「マリアさんのゲネプロはいつ行うのですか?」
「本番の3日前ですね。ギリギリまでカッサンドラ先生に指導してもらおうと思ってます」
マリアの歌は私のピアノ伴奏なので合奏と合わせる必要がない。足を悪くしているカッサンドラ先生に何度も城まで来てもらうのは申し訳なかったので、会場での練習は3日前からにしてあるのだ。
「演奏会の2日前には街の人たちを招待しているのですよね」
「ええ、公開ゲネプロですね。せっかくの機会ですし、普段からとってもお世話になっているので」
演奏会の前日だと、すでにフルーテガルト入りする来場者たちのおかげで宿屋は大忙しになってしまう。そのため2日前に公開ゲネプロを行うことにしてあった。
街の人たちに楽しんでもらえるかはわからないが、音楽を伝えるという目的がある私としては、たくさんの人に聞いてもらいたいのだ。
「楽しみですけど、緊張もしますね」
「手は空いておりますよ?」
「…………当日はお願いするかもしれません」
私の弱気な発言にアロイスが苦笑する。
「ユリウス殿は楽屋にはいらっしゃらないのですか?」
「どうなんでしょうか」
ユリウスは2日後にはギルドの会議のために王都に向かう予定で、演奏会の前日にフルーテガルトに戻ってくることになっている。だが演奏会当日に楽屋に顔を出すのかは不明だ。
落ち込んでいるように見えないように、私は視線を上げてホールを見渡す。
休憩中のホールは人がまばらに残っているだけで、ほとんどの演奏者たちは新鮮な空気を求めて廊下に出ていた。木管楽器や金管楽器を担当する者がそうするのは、私もバスーンで経験済みなのでよくわかる。吹きっぱなしだと酸欠で頭痛になるのだ。ひどい時は過呼吸になることもある。
観覧スペースを見上げれば、椅子を数えているギードやジゼルが見えた。
「ギード、お前一人か? カミラはどうしたのだ?」
グレーゴールの大声に思わず肩がぴくりと反応してしまった。
「す、すみません……どこにいるのかわからなくて……」
「まったく、手伝いに来たというのにどこで遊んでいるのか」
ぺこぺこと頭を下げるギードから視線を外せば、隣から押し殺したような小さなため息が聞こえてきた。
「気になりますか?」
「……すみません」
謝ってしまうのは小さなことで動揺する自分が不甲斐ないからだ。
遅れて到着した劇場の女性演奏家たちの中にカミラはいた。
彼女たちがエルヴェシュタイン城に到着したのは昨日の夕方で、マルコが作ってくれたグランドハープの商談を終え、ユリウスとグレーゴールが南1号館の応接室から出てきた時だった。
カミラはユリウスを見るなり「会いたかった」と言って抱き着いた。
「なぜここにいる」
そう問うユリウスの声は苦いものを含んでいたけれど、私はそれを気にする余裕がなかった。ベルトランが今にも飛び掛かからん勢いでカミラに歩み寄ろうとしていたからだ。
その場にいたダヴィデとともに、どうにかベルトランを押しとどめているうちに、ユリウスはカミラを伴い城を去った。グレーゴールも一緒だったので、もしかするとヴェッセル商会でグランドハープの実物を見るためだったのかもしれない。
城門を潜るユリウスの腕にはカミラの腕が絡みついていた。
「ユリウス殿から弁明は?」
「あの後は顔を合わせていませんから」
私はすでに北館の住人だ。ユリウスは忙しいのか今日は城には顔を出していないので、話ができようはずもなかった。
漏れ聞いたところによれば、カミラは昨年の秋から劇場でハーピストの任についているらしい。そういえばギードに会った時に新しいハーピストが入ると言っていた。
グレーゴールが言っていた急遽来ることになった演奏者もカミラのことだった。フルーテガルトの知人の家に泊るという話だったから、もしかするとヴェッセル商会にいるのかもしれない。
工房にいるザシャは大丈夫だろうか。
カミラはピアノの設計図を盗んだと目されているが、ユリウスが何故カミラを放置しているのか、私にはわからない。
それに、ドロフェイはあの動画は本当のことだと言っていたけれど、私はどちらもユリウスに問い質すことができないでいた。
「待っていてくれ」「時間をくれ」と言ったユリウスを信用したかったし、本音を言えば聞くのが怖かった。
「アマネさん、練習が終わったらエルヴェ湖に行きませんか?」
「そう、ですね…………そういえば今日はまだ音楽を捧げていませんでしたね」
唐突な話題転換に一瞬反応が遅れたが、アロイスは気にした風でもなくケースからヴァイオリンを取り出している。
そろそろ練習再開だ。私もスイッチを切り替えるべく、総譜と指揮棒を手にした。
◆
傾いた陽の光がエルヴェ湖を薄赤く染めているのを眺めながら、アロイスと並んで坂道を下る。湖の手前には新しい葉を付け始めた繁みが見えた。
そういえばこの世界に来てしばらく臥せっていた私が、外に出られるようになったのはこんな季節だったなと思い出す。
(お父さんやお母さんは元気かな? きっと心配してるよね……)
臥せっている間には何度も考えたけれど、外に出るようになってからは極力思い出さないようにしていた家族のことが頭を過る。
どんなに帰りたいと願っても帰れない。考えてもしょうがない。そんな風に思っていた。
「どうかされましたか?」
物思いに耽る私を訝しんだのか、アロイスが顔を覗きこむ。
「いえ、この世界に来てからあっという間の1年だったなと思って」
底知れぬ孤独感に捕らわれそうになっていた私は、誤魔化すように笑った。
「そうそう、ちょうどこの辺りに私が倒れていたんですって」
いつも歌っている場所に辿り着いて辺りを見回す。気を失っていた私は全く覚えていないのだが、前にラースが教えてくれたのだ。
「そうでしたか……私が貴女を見つけたかったですね」
「傷だらけでしたから、きっと驚かせてしまったと思いますよ」
「この傷はその時に?」
アロイスが私の前髪をすくう。あの時は起きたら前髪が無くなっていたけれど、今はすっかり伸びて、すでに何度か切り揃えている。
視界を塞ぐアロイスの表情が、思いのほか真剣味を帯びていて私は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません」
目を伏せるアロイスが気にはなったが、音楽を捧げるために来たのだからと、青くて静かな湖底を思い浮かべながら、私は歌を奉納した。
終わるとさざ波がざあっと湖面に立つ。その景色を見ると、いつも厳かな気持ちになる。波が消えるのを静かに眺めていると、アロイスが身動ぐ気配がした。
「アマネさん」
私に向き合うように立ち位置を変えたアロイスが囁くように言う。
「卑怯者と罵ってくださって構いません」
その声が聞こえた直後、私はアロイスの腕の中にいた。
振り払おうとすればできたはずなのに、そうしなかった。体を預けることこそしないものの、身動きできなかった。誰かに触れられている安心感に抗えなかった。
「卑怯者は私です。アロイスこそ怒っていいんですよ」
しばらくして解放された私は、ぼんやりと湖面を眺めながら言う。今、アロイスを見たら縋ってしまいそうだった。
静かな湖面を見ているとそのまま飛び込みたい衝動が込み上げる。あの青い世界に逃げ込めたら、ちょっとは楽になるだろうか。
「私は今の状況に付け入っているのですから、貴女が私を頼ってくださるのは本望です」
不健全な考えを見透かされたのか、アロイスが私を庇うようなことを言う。
「ユリウス殿と貴女の睦まじい様子を見ていると幸せな気分になります。私は楽器でいいのだと、自分の考えを肯定されているような心地になります。ですが、ユリウス殿が貴女を悲しませるなら、私が貴女を攫って差し上げますよ」
アロイスの言葉は私にとっては耳障りの良いことばかりで、それに酔うことが出来れば本当は楽なんだろうと思う。けれど、私の中の神様がそれは都合の良い夢物語だと囁いていた。
「アロイスは私を甘やかしすぎです」
「甘えてくださることが私へのご褒美になるのですよ」
空気を変えるようにアロイスが悪戯っぽく笑った。そんな風に言うのはアロイスの優しさだと、ちゃんとわかっている。
この人の優しさに縋ったら、あの青い世界みたいに、美しくて穏やかな心でいられるのかもしれないけれど。
私はぎゅっと強く目を瞑って湖から顔をそむけた。