声楽の先生とピアニストの卵
「ピアニストの卵、ですか?」
エルヴェ湖に音楽を捧げた後、事務所に戻った私はアロイスから意外な報告を受けた。
「ええ。アマネさんの留守中にレッスンを受けた生徒の中に、秀でた者がいたのです。ルシャから来たそうで、貴女に弟子入りしたいと言っております」
ルシャと言えばノイマールグントの北東にある大国だ。ノイマールグントが一つにまとまっていない影響からか、それほど交流があるわけではないらしい。広大な土地を持つ国ながら気候が厳しく、独自の文化を持っているという。
「技術は高かったですね。表現の幅を増やし、経験を積めばよいピアニストになるのではないかと思います。エグモント殿も褒めていらっしゃいましたよ」
私自身はピアニストではないので、実を言うと演奏を任せられる者が欲しいとは思っていた。現状では起こしたい楽譜はたくさんあるのに練習に負われて時間が足りないのだ。
「年はいくつですか?」
「ジゼルと同じ14歳だそうです」
指揮者を目指すフォルカーの娘は13歳だったから、一緒に教えても良いかもしれない。
「弟子を取るつもりはないのですが、ルシャからだと通うのは無理ですよね」
ルシャのどのあたりの出身なのかはわからないが、フルーテガルトまでは半月近く旅をしてきたらしい。
遠方からレッスンを受けに来る生徒はそう珍しくはないが、ほとんどが貴族の子息や令嬢で、宿に連泊してレッスンを受ける。
だがアロイスが言うピアニストの卵は貴族の子息ではなく、貴族の庇護を受けて学んでいた者で、今は理由があって庇護を受けてはいないのだという。
「テオのように見習いとして扱ったらどうです?」
門番や警備の者が増えたアマリア音楽事務所だが、出来れば忙しいまゆりさんやテオを手伝えるような人材が欲しいと思っていた。ピアニスト見習いなら多少は事務仕事をしてもらってもよいのではないだろうか。
「そうですね。増資しましたし演奏会のチケットの売れ行きもよいので、給金を出せないかまゆりさんに聞いておきましょう」
もちろん実際にどうするのかは本人の意思を確認してからになるが。
「前から聞きたかったのですが、弟子をとらないのは何故です?」
アロイスが不思議そうに聞いてくる。
「私はピアニストではありませんから。それに才能があれば弟子入りなどしなくても、いずれ身を立てられるようになると思うのです」
「アマネさんはどうしてピアニストにならなかったのですか? 渡り人の世界では女性はピアニストになれないのでしょうか?」
「そんなことはありませんよ。ただ合奏が好きだったのと、交響曲を作ってみたかったので」
私が明確に作曲家を目指そうと思ったのはベートーヴェンの交響曲第5番を聞いた時だ。最後まできちんと聞いたのは意外と遅くて中学3年生の時だった。
あの有名な冒頭部分はもちろん知っていたが、最後まで聞いた時のあの万能感。あの重苦しい冒頭から、目の前が開けるような第4楽章が導かれたのは予想外だったし衝撃だった。
「なるほど。あなたの音楽のルーツはあの曲なのですね」
アロイスはタブレットの音源を聞いたことがあるので、納得だというように頷いた。
「もっと経験を積まなければ演奏も作曲も難しいと、あの曲を聞くたびに自分の未熟さを思い知らされます」
「ですがそう思われる貴女だからこそ、若い者たちの指導をされることは意味があるでしょう」
そうなのだろうか。でもそういえば、兄にはよく作曲家としては大成しないだろうと言われていた。その理由は自分でもよくわかっている。出来上がった曲を後から聞いてみると、どうにも無難にまとめたなという感じがしてしまう。真面目すぎて発想に大胆さがないのだろう。
どちらかと言えば指揮者の方がまだ向いているのかもしれない。何かを生み出すことよりも、すでにある楽譜を正確に読み取り、合奏を整えていくことが指揮者の役割だ。
ただ、ぶっちゃけた話をしてしまえば、指揮者や演奏者よりも作曲家の方がまだ仕事があったということも、作曲家の道を選んだ理由のひとつだった。
いずれにしても、教えるということに興味を持ったことはあまりなかったし、ちゃんと導けるか自信はないけれど、引き受けるからには責任を持たなければと気を引き締める。
それにしても10代前半の者が一気に増えることになる。13歳がマリアとテオとフォルカーの娘、14歳がジゼルとピアニストの卵くん、門番の2人は15歳と16歳。まるで学校みたいだ。
「では、アマネさんは先生ですね」
「そういうアロイスはすでに先生じゃないですか」
レッスンで教えているのだから、生徒たちからはアロイス先生と呼ばれているわけだ。しかし、クリストフとアロイスが先生……女生徒に大人気だろうなと思う。
「ダヴィデやベルトランも先生ですよ」
「ダヴィデは体育教師っぽいです。ベルトランは……数学とか化学とかかな?」
ダヴィデは体格が良くて明るく朗らかだし、ベルトランはちょっと理屈っぽくて神経質だ。
「でも私の中では一番先生っぽいのはまゆりさんですね」
「渡り人の世界では、女性も教師になれるのですか?」
「なれますね。美人教師は男子生徒の憧れなのですよ!」
私が力説していると、タイミングよくまゆりさんがお茶を持って来てくれた。
「なんの話かしら?」
「あ、まゆりさん。今、みんなが先生だったらっていう話をしてて……」
説明するとまゆりさんは悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、りっちゃんは養護教諭かしら?」
「ぶふっ、似合いますけど、それって……」
破廉恥な意味で、というのがわかって吹き出してしまう。
「ラウロやエドも体育ですかね?」
「ラウロは社会っぽいわよ。エドは英語教師だと思うわ。でも、そう考えると乙女ゲームみたいね」
「ぐっ……、ゴホッゴホっ……」
まゆりさんの言い様に咽てしまった。ゲームをほとんどしたことがない私だが、乙女ゲームの音楽は作ったことがあるので概要は知っているのだ。
「でも、それだと養護教諭も男性にしないとだめね。誰がいいかしら? ユリウスさんとかどう?」
「い、いやあ、クリストフじゃないですかね?」
「そうねえ。ユリウスさんは理事長とか隠しキャラかしらね」
女子会のノリで話す私とまゆりさんは、アロイスの存在をすっかり忘れているのだった。
◆
「アマネ様は…………女性でいらっしゃるのですね」
言い難そうに口を開いたその人物は、マリアの歌の師となるカッサンドラ先生だった。
「さすがに声楽の先生は誤魔化せませんね」
「ええ。どう聞いても貴女の声は女性ですからね」
フルーテガルトに戻って来た日の夜、私とマリアはカッサンドラ先生を夕食に招いた。ユリウスももちろん一緒だ。
「カッサンドラ先生、出来れば私の性別については他の方に言わないでいただけるとありがたいのですが……」
「ご事情があるのでしょうから、言いふらすようなことは致しませんが、少し無理があるのではございませんか?」
すでにギュンターにもバレてしまっているのだ。カッサンドラ先生の言う通り、いずれ私の性別は広まってしまうだろうとは思っている。
「聞かれたら答えるという方向でよいのではないかと考えております」
ユリウスが言うには、私は意識したことがなかったのだが自ら男であると宣言したことは少なかったようだ。にもかかわらず私が男性だと認識されたのは、服装の影響が大きいだろう。
「性別を聞いてくる者はあまりいらっしゃいませんものね」
「ええ。ですが、話が広まると縁談が厄介ですから、誤魔化せるうちは誤魔化そうと考えております」
私のことなのにすらすらと答えるユリウスだが、私としても同意するところなので問題はない。
「ところでカッサンドラ先生、マリアの歌はどうでしょうか?」
「ええ。歌を学んで1年も経っていないことを考えれば、十分歌えておりますわ。中声用の曲を学ばれたのはよい判断です」
マリアが褒められて嬉しい私は上機嫌でカッサンドラ先生の話を聞く。
「特に『側にいることは』は素晴らしいです。随分歌い込んでいらっしゃるようですわね」
マリアを見るといたずらっぽく笑っていた。『側にいることは』を流行らせよう計画は、私が不在の間も着々と進んでいたようだ。
「練習曲が少ないとユリウス様から伺いましたので、テンブルグで使用している曲集をお持ちしました。お使いになられますか?」
「とてもありがたいです。使わせていただきます」
タブレットに声楽曲はあまり入れていなかったのだ。教本があるといいなと思っていたので大変ありがたい。
「マリアさんは今度の演奏会で歌われるのですよね」
「ええ。あまり無理はさせたくないのですが、王族の依頼なので断れなくて……」
「でしたらその後は演奏会の予定はないのですか?」
「いえ、6月に朗読劇をするので、朗読をしてもらう予定です。あとは8月のレッスン生の発表会ですね」
「そうですか…………なるほど」
カッサンドラ先生は何かを思案するように視線を巡らせた。
「私、演奏会、頑張るです」
カッサンドラ先生の指導が刺激になったのか、マリアがやる気になっているようだ。
「お前は大丈夫なのか?」
「あ、ははは……今日から泊まり込みで練習しようかなって……」
ユリウスの問いに苦く笑う。王宮でも練習はしたが、いくら練習しても心配だしエグモントとの打ち合わせもまだ完全ではない。
「アマネ様は協奏曲に集中された方がよいでしょう。マリアさんは私にお任せ下さい」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
カッサンドラ先生の厚意に甘えることにして、夕食会はお開きとなった。
◆
翌日、アロイスがピアニストの卵を連れて書斎を訪れた。
「キリルです。よろしくお願いします」
キリルは緊張しているのか、だいぶ硬い表情だった。14歳だということだったが、だいぶ上背がある。太っているわけでもぽっちゃりしているわけでもないが、ノイマールグントの者と比較すると鼻が丸い印象で、体つきもガッシリしていて骨太な感じだ。
「ではキリル、早速ですが演奏を聞かせてもらえますか?」
そう言って私は立ち上がる。南1号館はレッスンがあるので北館に移動しなければならないが、私も自分の練習があるので丁度良かった。
結論から言うと、キリルの技術は本物だった。
『英雄のポロネーズ』を始めとする上級向けの曲を卒なく弾きこなした。手が大きいのでオクターブの連続パッセージも難無く弾けていた。
「結構です。よく練習しているようですね。元はオルガンかチェンバロを学んでいたのでしょうか」
「はい。チェンバロは毎日練習しておりました」
難点を挙げるとすれば、音が固いという点だろう。力強い演奏は上手く弾きこなせるが、ノクターンのような柔らかい曲調のものは不向きだろうなと考える。
「キリルはピアニストを目指していると聞きましたが、間違いありませんか?」
「はい。ピアノで身を立てるのが夢です」
キリルは元々ルシャの貴族の支援を受けて、その家の専属演奏家を目指すつもりであったらしい。ところが別の貴族の館を訪れた時、ピアノに魅せられたのだという。
「たくさん練習をしたかったのですが、後見を申し出て下さった方の家にはピアノが無く、その上、チェンバロ以外をやるなら後見を降りると言われまして……」
「では今まではチェンバロでピアノ曲の練習をしていたのですか?」
「そうです。鍵盤が足りないところは紙に書いたもので練習をしていました」
それはなんだか健気だ。
「アマリア音楽事務所で事務仕事の見習いをしながらであれば、この北館の練習室やレッスン後の南1号館のピアノを使っても構いませんけれど、どうでしょうか?」
「練習できるのはありがたいので事務仕事のお手伝いをさせていただきたいと思います。……あの、アマネ先生にもレッスンをしていただけるのでしょうか?」
アマネ先生だって。
照れてしまうけれど、どうにか口元を引き締める。
「もちろん時間がある時には見させていただきますよ。そうですね。課題を出しましょうか」
「はい。ぜひ、お願いします!」
やる気があって大変よろしいと思いながら私は楽譜を手にする。
「これは『ロマンス曲集』です。キリルなら問題なく弾きこなせるでしょう。ただし柔らかい音を心がけてください」
「柔らかい音ですか……」
「ええ。手首の使い方を工夫してみると良いですよ。こんな風に……」
真剣な表情で話を聞くキリルは好印象だ。技術的には全く問題ないのだから、色々な表現方法を覚えてもらえればよいピアニストになるだろう。
頭の中でキリルの学習計画を立てながら、きちんと導けるように自分もしっかりしなければと思った。