即位式
暦が4月に変わったその日、即位式が行われた。
白いふわふわの毛皮で縁取られた深紅のマントを身に纏ったエルヴィン陛下は、緊張気味ではあったものの、キリリとした表情で前を向いていた。
豪華な椅子に腰かけた陛下の頭に、教会の偉い人が王冠を載せた瞬間はなんだか私もじーんとしてしまって、子どもの発表会を見守る親ってこんな感じだろうかと場違いなことを考えた。
私やクリストフを含めた指揮者たち、そして宮廷楽師たちも演奏においては大きな失敗もなく、無事にその役目を果たすことができた。
即位式の夜は他国からの賓客を招いた晩餐会が行われ、別会場では即位式で役目を果たした貴族や官僚たちが参加するレセプションが行われており、私を含めた指揮者たちはそれに参加していた。
「出来れば宮廷楽師たちと共にいたいけれど、あれは侍従長なりの罰だろうから仕方ないね」
クリストフが肩を竦めて言う。狼藉を働いた者をレセプションに出席させることはできないという侍従長の判断で、ギュンターは晩餐会場で宮廷楽師たちを率いて指揮をしているらしい。ギュンターは練習をサボることが多かったので、宮廷楽師たちからすれば迷惑な話かもしれない。
「エドもレセプションには出られないし、ユリウス殿が来るまでは僕がマイスターをエスコートしないとね」
こういった場で護衛を連れ歩くわけにはいかないのだ。今日のレセプションは立食ではあるが、全員が護衛を連れていればとんでもない人数になってしまうからだ。
そんな話をしていると、見知った人影が入室してくるのが見えた。
「ユリウス! 即位式に間に合ったんだね」
「ああ。演奏も聞いていたぞ。お前、泣きそうになっていただろう?」
ユリウスは前日にはテンブルグからフルーテガルトに戻り、そのまま客人をマリアと引き合わせて王都に来たらしい。
しかし感動していたところを見られていたとは、全く気が付いていなかった。
「だって若いのに重責を引き受ける陛下が健気だなあって思ったら……」
「お前は母親か?」
小馬鹿にするようにユリウスは鼻で笑うが、王宮で何度かお会いしているうちに、私としてはなんだか姉のような気分になってしまったのだ。
エルヴィン陛下は次男ということもあり、将来はヴィーラント陛下の補佐をするつもりでいたようで、自分に大役が務まるか不安だと時折零していたのだ。
ちなみにエルヴィン陛下のお母上はご存命で、ヴィーラント陛下の奥様だった元王妃と共に離宮で暮らしていらっしゃる。離宮と言っても先日ユリウスと共に行った離宮とは別の宮殿だ。
「ミヤハラ殿、今日はお疲れ様でした。ユリウス殿、ご無沙汰しております」
「フォルカー様もお疲れ様でした」
威厳のある声に振り向けば、いつも通り厳めしい表情のフォルカーが立っていた。
「フォルカー殿は次の宮廷楽長に内定されたと伺いました。おめでとうございます」
ユリウスの発言に私は目を丸くした。
「本当ですか? それはおめでとうございます!」
現在の宮廷楽長は高齢でほとんど寝たきりだ。今はカルステンさんが宮廷楽師をまとめているが、いつまでもそういうわけにはいかない。葬儀も即位式も結局取り仕切ることができなかったのだから、いい加減退任させた方が良いだろうという話になり、フォルカーに声がかかったようだ。
「では次にご一緒できるのはヴィルヘルミーネ王女の婚約を祝う演奏会ですね!」
「そうですな。総譜をお待ちしております」
真面目な顔でそう言われて私は言葉に詰まった。王女の婚約祝いの楽譜起こしはまだ半分も出来ていない。
「早めにお渡しできるようにがんばります……」
盗まれた可能性が高いとはいえ依頼されたのは半年近く前だ。遅くなってしまったのは自分の段取りが悪かったのだという自覚がある私は、そう言うしかなかった。
「ところでミヤハラ殿、今度、私の末の娘に会ってもらえませんかな」
私の様子を見ていたフォルカーは、口元を緩めて言った。
「フォルカー様の娘さんですか? もちろん構いませんが」
「私は反対しておるのですが、娘は指揮者になりたいと言うのです」
フォルカーの意外な言葉に私は目を瞬いた。娘さんだったらもちろん女性だ。女性が指揮者を目指すなんて、この世界では難しいことだ。
「あなたに預けたいと即位式の練習を見て思いました。フルーテガルトを尋ねるように勧めようと考えております」
「ありがとうございます。ぜひ……ぜひ私もお会いしたいです」
指揮者になれるかどうかは実際に会ってみないとわからないし、女性の指揮者が受け入れられるかはわからないけれど、学ぶことすらできない現状はなんとかしたい。それにフォルカーの信頼にも応えたいと思った。
「長く滞在されるのであれば、滞在先は私の方で手配させていただきましょう。娘さんはおいくつでいらっしゃいますか?」
「13歳ですな」
フォルカーは50代前半位に見えるが、見た目通りだとすれば40歳近くで授かった娘と言うことになる。威圧感のあるフォルカーだが、もしかすると末娘にはデレデレだったりするのかもしれないと思ったら、私はつい微笑んでしまった。
「13歳ならマリアと同い年だね。ヴェッセル商会でもいいんじゃない?」
「…………考えておく」
マリアが喜ぶだろうと思って提案してみたが、どういうわけかユリウスの返事は素っ気なかった。どうしてだろうかと首を傾げたが、ユリウスのことだから何か考えがあるのかもしれないと思って気を取り直す。
フルーテガルトへの来訪日は後で連絡するということで、フォルカーは他の者にも挨拶すると言って去っていった。
フォルカーと入れ替わるようにやってきた者を見て、私はついユリウスを見上げてしまう。
「やあ。ようやくナイトのお出ましかい?」
へんてこな服に奇妙な化粧をした道化師がにこやかに声を掛けてきた。
「これは宮廷道化師殿。随分とうちの渡り人が世話になっているようで、あなたにお礼を言わねばと思っていたのです」
「ふうん。うちの渡り人、ね」
ドロフェイは意味ありげに笑みを深める。
そういえばユリウスはドロフェイと話したいと言っていたっけ。ドロフェイにあったら言ってみようと思っていたのにすっかり忘れていた。
2人の周囲の空気はやけにひんやりしているけれど、舞い上がった私は全く気にならない。
だって、ユリウスってば「うちの渡り人」って! 「うちの」って!! 自分の物みたいな? 独占欲? うわ、なんか恥ずかしいような嬉しいような……?
「なら場所を移そうか」
「そうですね。クリストフ、アマネを頼む」
私が一人で赤くなっているうちに、ユリウスとドロフェイが移動していった。
「あれ? どこに行ったんでしょう?」
「聞いていなかったのかい? 別室で話をするみたいだよ。ぼくはマイスターのお守りを仰せつかったけどね」
私は除け者か、と思わないわけではなかったけれど、もしかするとゲロルトの話もするのかもしれない。
「クリストフ、こっちを見ているご婦人がいますけど……?」
会場を見渡すと美しい女性と目が合った。髪を高く結い上げ淡い色のドレスを身に纏っている。
「バルタザール男爵夫人だよ。僕の訴訟の原因だね」
「…………バルタザール男爵って40過ぎに見えたんですけど?」
女性はどうみても20代前半にしか見えない。寄る辺ない雰囲気は儚げで、つい声を掛けてしまいたくなるような雰囲気だ。
「クリストフは面食いなのですね」
「そうかな? まあ遊びだったからね。美しい方が楽しめるというのはあったけれど」
「うわ、サイテー」
誠意のかけらもないクリストフの言い分に、私はつい眉を顰めてしまう。
「そうは言うけれど、向こうだって遊びのつもりだったと思うけど? そうでなければ誘ってきたりしないだろう?」
「あちらからだったのですか?」
「暇を持て余したご婦人達にはよくあることさ。身分のある女性は子どもを産んでから恋する自由を手に入れるのさ」
そういうものなのだろうか。まだこちらを見ている女性は恋を楽しむタイプには見えないのだが、クリストフは視線すら向けようとしない。こんな大勢が集まっているところで、かつての訴訟相手と談笑するわけにはいかないのはわかるので、私も女性から視線をはずす。
「フルーテガルトの女性はいいよね。そういうのとは無縁で」
「律さんの工房に来ている女性たちに手を出してはダメですよ」
「一生懸命でかわいいなあとは思うけれど、僕には不釣り合いだよ」
目を伏せて言うクリストフは何かを諦めているような感じで、そのらしくない様子に私は慌てて言い募った。
「あの、真剣な気持ちなら構わないのですよ? クリストフに一生独身でいろと言っているわけではないのですよ?」
「ふふ、気にかけてくれるのかい? まあ、僕は基本的に女性を信用できないから、まともな恋愛や結婚は無理だろうね」
クリストフは女性が大好きなのだと私は思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「信用できる女性を好きになればいいのでは?」
「マイスター、僕は今回、君と同じ部屋になってつくづく思ったんだけどね」
苦悩を滲ませた表情でクリストフが言う。
「信用できる女性に対して、僕は欲情しないらしい」
「それは…………どうしようもないですね」
本当に、人の心は理解しがたいものだ。
「揶揄ったりするのは楽しいのだけどね。手を出したいとは思わないんだよね」
「私にとっては喜ばしいことのはずなのですが、なんか貶されてるような気分になるのは何故でしょう?」
クリストフの弁では私に女としての魅力がないということではないだろうか? クリストフに恋愛対象として見られたいとは全く思わないので、問題は無いのだけれど、自信をなくすというかなんというか……複雑だ。
「どうしてだろうね? 君の服装のせいかな?」
そう言ってクリストフは私の全身を舐めるように見る。
「ジロジロ見るの、やめてもらえませんか?」
「いや、ちょっと待って。ドレス姿を想像してるから」
クリストフの頭の中で自分が着せ替えさせられているのかと思ったら、急に羞恥心が湧いてきた。
「あのっ、本当にやめて!」
「うん、なんかいけそうな気がしてきた」
「ひいぃぃ! 勘弁してください!」
誰かの影に隠れたいが、エドがいないので後ずさることしかできない。
本気で嫌がる私を見て、クリストフは「冗談だよ」と笑ったけれど、やっぱりこの男はダメ大人だと再認識したのだった。