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ヴァノーネの王太子

 眠れぬ一夜が明けると、私は頬を叩いて気合を入れ直した。正直に言うと全身筋肉痛だし頭のコブ以外にもお腹に大きな青アザができていた。他にも腕やら足やら内出血がたくさんあったけれど、即位式まではあと3日しかないのだ。


「目が腫れているよ」


 身支度をして寝室から出ると、クリストフが心配そうに世話を焼いてくれる。


「医師を呼んであるから診断を受けて」

「お医者さん? でも……」


 女だとバレてしまうのではないかとクリストフを見上げる。


「侍従長に言って手配してもらったんだよ。大丈夫、詳しくは言っていないよ」

「うん。クリストフ、ありがとう」


 いつもダメ大人って言ってごめんね、と心の中で付け加える。


「君の合奏練習は今日は午後からだろう? 僕は休んでおいた方がいいと思うけれど……」

「ううん。行きます。あと3日しかありませんから」

「無理をしてはいけないよ。…………王宮に報告はしないのかい?」


 大事にはしたくない。向こうがこれ以上何もしないのならば、ドロフェイが言ったように放置するのも手だと思う。だが、あれで終わりと考えて良いのだろうか?


「ひどい顔だな。侍従長が来ているがどうする?」


 私が悩んでいるとエドが入って来て言った。エドのあまり動じない態度は良いところだと思う。クリストフが甘やかすのでバランスが取れてちょうどいいし、私も落ち込みすぎないで済むからだ。


「断るわけにはいきませんね。お通ししてください」


 椅子に座って待っていると、医師を連れた侍従長が入室してきた。


「昨晩のことはドロフェイから報告がございました」

「そうでしたか……」


 放置でいいと言っていたのに侍従長に報告するなんて、ドロフェイがどういうつもりなのか測りかねる。


「アマネ様の事情は私もわかっておりますが、診断書だけでも作っておきましょう。ギュンターが何を言おうとも、暴力を振るった証拠を残しておけば対応がしやすいです」


 おそらく私が騒ぎ立てるのも、侍従長にとっては困ることなのだろう。即位式まであと3日しかないのだ。ギュンターを断罪したとして代わりの指揮者を手配しなければならない。当面、放置せざるを得ないが証拠を残しておくというのは、侍従長なりの私への気遣いなのだと思う。


 侍従長の意を汲んで私は大人しく診断を受けた。


 男性の医師が怖くないと言ったらウソになるが、侍従長が連れて来た医師は私と同じくらいの背丈のヨボヨボのおじいちゃんで、女性を押さえつけるどころか、今にも倒れるんじゃないかとこっちが心配してしまうような弱々しい人物だった。


 他の男性陣が一度退室すると、おじいちゃん医師は私を椅子に座らせたまま服を胸の下まで捲り、お腹をしわしわの手でくっと押した。


「痛いかの? こっちはどうじゃ?」

「うっ、そこはちょっと痛いですけど我慢できないほどじゃないです」


 そんなやり取りを数回行った後、おじいちゃん医師が告げた見立てでは、赤黒く広がった腹は内臓を傷つけたりはしていないだろうということだったが、頭のコブは様子を見た方がよいらしい。


「出血していないようじゃが、脳に血が溜まっとると後から具合が悪うなるかもしれんからの。吐き気がしたり頭痛、眩暈がするようじゃったら、夜中でも構わんからすぐに知らせなさい」

「はい。ありがとうございます」


 どうやらおじいちゃん医師は王宮に滞在しているようで、夜中でも来て良いと言ってもらえた私はなんだかほっとして、変な所に入っていた力が抜けるような気がした。


「大事が無かったようで、安心いたしました」


 そう息を吐く侍従長に私は躊躇いながら聞く。


「あの……ギュンター様はどうしていらっしゃるのでしょうか?」

「特に動きはございません。侍従に監視を命じておりますのでご安心ください」

「お気遣いありがとうございます。可能であればギュンター様も診察を受けた方が良いと思います。私も思いきり暴れてしまいましたし、たぶん拳を痛めていらっしゃると思います」


 人を殴ったことなどもちろんないが、開きにくい扉をグーで叩いたことがあり、その時に小指から手のひらにかけて内出血を起こしたことを思い出したのだ。殴られた方も痛いが、殴った方もたぶん痛いはずだ。


「マイスター、あの男のことなど心配する必要はないよ」

「でも指揮棒が持てないと困るでしょう?」


 即位式全体にかかわることだと説明すると、侍従長は渋々ながらも診察させることを請け負ってくれた。






 ◆






 午後に練習に向かうと、練習会場には右手に包帯を巻いたギュンターがいた。


 どうしても体が竦んでしまうけれど、そんな様子を悟られるのは悔しいので、奥歯を噛み締めて背筋を伸ばす。


「昨日はどうも」


 会釈をして通り過ぎようとすると、意外なことにギュンターの方から声を掛けてきた。片側の口端だけを上げた表情は、今までの気安いものとは全く違う。


「診察を受けるように勧めてくれたそうで、渡り人殿はお優しいですねえ」

「よくも声を掛けられたものだな」


 私が大事にしたくないと言ったせいか、クリストフが周りに聞こえないように威嚇する。


「あんただって似たようなことしてるんじゃないのか? 同じ部屋だろう?」

「貴様っ、」

「クリストフ、止めましょう」


 声を荒げるクリストフに、周りの宮廷楽師たちが数名驚いたようにこちらに視線を寄越したため、私はわざと何でもないことのように止める。でもクリストフを侮辱するのは許せない。


「ギュンター様、私はクリストフを信頼しております」


 女性関係についてはクリストフはダメ大人なところがあるけれど、少なくとも女に手を上げたりなんかしない。周囲の視線が集まりつつあったので、私は睨みつけたい気持ちを抑えて笑顔で言った。


 ギュンターは鼻で笑って退出しようとしたが、そうは問屋が卸さなかった。


「エルヴィン陛下……」


 練習会場にエルヴィン陛下が数人の侍従たちやドロフェイを伴って現れたのだ。宮廷楽師たちに倣って礼を取ると、エルヴィン陛下は私に声を掛けてきた。


「体調が悪いと聞いたが、大事無いか?」

「問題ありません。ご心配をおかけして申し訳ございません」


 ドロフェイが陛下にまで余計なことを言ったのだろうかとお供の人たちを盗み見ると、意外な人物と目があった。


 その人物は片目を閉じて口に人差し指を当てている。知らぬふりをしろということだろうけど…………いいのか?


 僅かな逡巡の後、私はまるっと無視することに決めた。


「エルヴィン陛下、今日はご見学でいらっしゃいますか?」

「そうだな。知人が見たいと申すので連れて参った」


 そう言って紹介されたのは、知らぬふりをすることにした人物だ。


「ヴァノーネの王太子であるヴィルジーリオ殿だ」

「はじめまして。あなたが渡り人殿でいらっしゃいますか?」


 その人物はあくまでも初対面を装うつもりであるらしい。


「渡り人のミヤハラと申します」


 私は困惑を隠してどうにか挨拶する。


「ヴィルとお呼びください」


 黒いくせ毛に浅黒い肌、人懐っこくて陽気な笑みを見せるその人物の頬にはチャーミングなえくぼがある。3月の初めにフルーテガルトに来ていたあのヴィル様だ。


 商家の次男とか言ってたのに。ヴィル様の嘘つきーーーっ!


「ところで其方はギュンターと申したか? その手はどうしたのだ?」


 私が内心で悪態をついていると、エルヴィン陛下がギュンターの包帯を見咎めた。


「これは……その…………不注意でぶつけてしまいまして……」

「そのような手で指揮ができるのか?」

「も、もちろんでございます」


 ギュンターが慌てふためいて答えるのを見て、こっそりクリストフと目を合わせて苦笑する。


「そろそろ開始の時間であろう? 我らは適当に見ておるゆえ始めるがよい」

「承知しました」


 宮廷楽師たちはこういった状況に慣れているのか、あまり動揺している風ではなかったので、エルヴィン陛下に促されるままに練習を始めた。


 一段落つく頃にはエルヴィン陛下やドロフェイの姿は無く、ヴィル様が部屋の隅に用意された椅子に座っていた。


「ヴィル様…………お人が悪いですね」

「ふふふ、驚きましたか?」


 悪びれない笑顔にしかたないなあと私も笑ってしまう。不敬かもしれないが、ヴィル様はあまり王子様という感じがしない。王太子と言うからにはご長男でいらっしゃるのだろうけれど、どうにも彼は弟という雰囲気がある。懐っこい笑顔がそう思わせるのかもしれない。


 そう考えてふとヤンクールに嫁いだ姫君のことを思い出す。確かヴァノーネ出身ではなかっただろうか。


「ヤンクールに嫁がれた姫君はヴィル様のお姉さまでいらっしゃるのですか?」

「いいえ、末の妹ですよ。オリーヴィアはまだ17歳なので、私としてはエルヴィン様と娶せたかったのですが、当時はヴィーラント陛下がご存命でしたので」


 ヴィル様によれば、ヤンクールの王から望まれてしまえば、次男であるエルヴィン様に嫁がせるのは難しかったようだ。エルヴィン様もオリーヴィア様との婚約は乗り気だったようなので、ヤンクールの王の横槍さえなければ今悩む必要は無かったのだという。


 ちなみにヴァノーネの王族で未婚の女性は、3歳になるヴィル様の娘アンジェラ王女だけらしい。


「実は私も花嫁を探さなければならないのです」


 ヴィル様が困り顔で言う。23歳のヴィル様は奥様との間に娘1人を設けたが、奥様は2年前にご病気で他界されたそうだ。そんなわけで男児を望む家臣たちに再婚をせっつかれているらしい。


「そう簡単に妻を忘れられませんが、王族の務めですから仕方ありません」


 そう言って目を伏せるヴィル様だが、エルヴィン陛下と同じように、近隣の王族に良い年回りの女性が少ないため困っているそうだ。


 しかし、ヴィル様はともかく、オリーヴィア様は嫁がれた時は15歳、ヴィルヘルミーネ様は14歳、エルヴィン陛下は15歳で結婚相手を決めなければならないなんて、王族って大変だなあとつくづく思う。


「ちなみにヴァノーネでも渡り人の花嫁は大歓迎ですよ」


 にこやかにいうヴィル様だが、私が女だと知っているのかいないのか……。


 フルーテガルトの律さんやまゆりさんも心配だと私はため息を吐きたくなった。


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