アルフォードの石
[注] 暴力描写があります。
迂回したい場合は、あとがきにあらすじを載せてありますので、すすっと一気に下までスクロールしちゃってください。
協奏曲の練習を終え、自室に戻ろうとピアノの間を出た時、目の前に見知った男が立っていた。
「このような時間にどうされましたか?」
いつもなら仕事をする侍女が数人いるが、すでに真夜中と言ってよい時間帯だ。通路は人影が無く静まり返っている。
通路を挟んで向かい側に侍従の控室があり、声を掛ければ施錠してくれることになっているのだが、遅い時間だからなのか扉はぴっちりと閉められていた。
「渡り人殿にお話があるのですよ」
その男――ギュンターは人が良さそうな笑顔を向け、私の肩を押してピアノの間に戻した。
「あの、お話って……?」
「いえね、少し確かめたいことがあるのです」
そう言うとギュンターは私の腹を思いきり殴った。
「ぐっ……何をっ……」
体をくの字に曲げてふらつく私の足を、ギュンターが払って床に抑えつける。全身で伸し掛かってくるが、私も頭を押して足をバタつかせて必死に抵抗する。怒ったギュンターは拳を振り上げ、私の頭を思いきり殴りつけた。
ガンッと脳が揺さぶられてくらくらしているうちに、手足が縄のようなもので拘束される。
「嫌っ! 誰かっ! 誰か来てくださいっ!!」
「この部屋は防音だろ。叫んでも無駄だ。それに誰か来たら困るのはアンタだろう?」
ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながらギュンターが言う。
「何が望みなんですかっ!?」
「アンタ、女なんだろう? だったら俺にもチャンスがあると思ってな」
縛られた腕がピアノの足に固定され、胴の上に乗り上げられる。乱暴にシャツとベアトップが捲り上げられる。
「嫌ですっ! やめてくださいっ!!」
「ふーん、やっぱり女だったか」
そう言って無理やりズボンを脱がされそうになった時、胸元で何かが淡く光った。
「あ……? なっ……ひいぃっ!」
ギュンターの悲鳴に何事かと思って見れば、指先が銀色になっているのが見えた。銀色はそのまま手首に、腕に、とじわじわ広がっていく。
「ぐっ、なんなんだ、これは!?」
銀色になった場所は動かせなくなるのか、ギュンターはおかしな形に手を固定したまま、私の上から飛びのく。
手足を縛られたままの私は、動くこともできずにその様子を眺めるばかりだったが、ギュンターの銀色が肩まで達した時、頭上から声が聞こえた。
「ふうん。猫が対策していたんだ、ね」
「ドロフェイ!」
私を見下ろしたドロフェイは表情が無かった。蹲る男を横目で見ると、歩み寄って腹を蹴り上げる。
「キミ、テンブルグの指揮者だったかな? エルヴィン様のお気に入りに手を出すなんて、馬鹿なことをしたものだ」
「そいつはっ、周りを欺いているんだっ! 俺は陛下にそれを伝えようと、ぐっ」
もう一度ドロフェイがギュンターを蹴る。ギュンターは呻いて動かなくなった。いや、手が固まっているせいで動けないのだろう。目玉だけがギロギロとドロフェイと私を交互に睨む。
「エルヴィン様も承知していることさ。キミはそろそろ黙ろうか」
ドロフェイが右腕を軽く振ると、どこから出てきたのか大きな黒い布がふわりとギュンターを包み込むように飛んでいく。逃げようともがいたギュンターだったが、黒い布で覆われると、どういうわけだか沈黙して動かなくなった。
「僕の領域に連れて行くと、君の体がここに残ってしまうから、ね」
そう言ってドロフェイが私の手首に手を翳すと、不思議なことにふわりと拘束が解けた。同じように足の拘束も解いたドロフェイは私を横抱きにする。
「捕まっておいで。下を見てはダメだよ」
吹雪の中をエルヴェ湖に連れて行ってくれた時のように、ふわりと浮き上がる。私は落ちないようにドロフェイの首に縋りついて目を固く瞑った。
上っている感覚も移動している感覚もしなかったが、しばらくするとぽふんと背中に柔らかい感触がして、どこかに降ろされたのだと知る。恐る恐る目を開けるとそこは薄暗い部屋であるようだった。
「ここって……?」
「僕の部屋だよ」
どうでもいいことのようにドロフェイが言う。首に回した手がそのままだったせいで、至近距離にドロフェイの顔がある。
「その顔はおもしろくないな」
私の涙腺はとっくに決壊していた。助かったのだと安心したら涙が止まらなくなった。抱き着いていたので涙を拭えなかったが、あんなことで泣くなんて悔しくて、唇を噛み締めて声を必死にこらえる。
体を起こしたドロフェイは、苦笑して寝台の縁に腰かけ、私の頭を撫でた。
しゃくりあげそうになるのをどうにか抑えつけ、涙を止めようと目をぎゅっと瞑る。しばらくそうしていると、頭に感じる優しい手つきに、怒りだか悲しみだかよくわからないドロドロした何かが解けていくように感じられた。
「あの人…………ギュンター様の手が銀色になったのはどうして?」
「あれはキミの猫がしたことさ。しばらくすれば元に戻る」
言われてみれば、確かにギュンターの銀色はアルフォードの銀色に似ていたし、私が預かった石の色とも同じだった。
アルフォードに助けられたのだ、とようやく私は理解する。
「どうしてあんなこと……」
「キミのことを陛下に告げ口するか、渡り人の君を手に入れれば出世できるとでも思ったのだろうさ」
フォルカーの言った通りだ。善意で近づいてくる者ばかりではない。私はもっと注意しなければならなかったのだ。
そう思ったら情けなくて、止まりかけた涙が再び滲んだけれど、唇を噛んで堪える。
「ごめんね、ドロフェイ」
「どうして君が謝るんだい?」
「こんな風になりたくなかったら、私自身が気を付けなきゃいけなかったんだよね」
ドロフェイは何度もそう言ってくれていたのに。
私が見上げると片手で自身の目を覆ったドロフェイは大きくため息を吐いた。
「…………あの男のことはどうするんだい?」
「ギュンター様のことは、正直、顔を合わせたくないけど放置はできないよね」
ギュンターを放置したらきっと私が女だってバラされる。
「何故? 罰するつもりがないのなら放置したらいいだろう?」
ドロフェイが不思議そうに言うが、私は目を瞬いた。
「どうやって知ったのかをバラされたら、あの男の方が困るだろう?」
それは確かにその通りだが、何とでも誤魔化せそうな気もする。
「僕がわざわざ顔を見せたのだから、言い逃れも出来ないよ」
簡単なことだとドロフェイは肩を竦めて立ち上がった。棚から手ぬぐいを取り出して私に投げて寄越す。
「わ、冷たっ!」
乾いた布だと思ったのに、渡された手ぬぐいはべしょりと濡れていた。ひょっとして水の加護だろうかと考えていると、ドロフェイが自分の頭を指差して言った。
「頭にコブが出来ているから、冷した方がいい」
「え……、痛っ……ほんとだ…………」
頭を触ってみると左側面が少し腫れていた。無我夢中で忘れていたが、そういえば殴られたのだったと思い出す。
受け取った布で頭を冷やしながら見ていると、ドロフェイは書物机の側にあった椅子をベッドの脇に置いて座った。
「ねえ、聴きたいことがあるんだけど」
ドロフェイの様子がいつも通りに見えたので、私は思い切って気になっていたことを問いかける。
「ラーカヴルカンの噴火って、この世界が壊れていくことと関係があるの?」
「そうだろう、ね」
エルヴィン陛下の話を聞いた時、そうではないかと思ったのだ。
「私を連れて行ったら気候は安定する?」
賭けの結果はまだ出ていないけれど、実害があるのだとしたら行かなければならない。
なぜ私がそれをしなければならないのかという想いが無いわけではなかったが、行かなければ後から自責の念に駆られるだろうとも思った。
「起こってしまったことは変えられない。この世界の外側まで飛び散った塵は、この先もまだ降ってくるのさ。それが無くなるまで異常気象はどうにもならない」
その異常気象が納まるのは何年先なのか、ドロフェイにもわからないという。ため息を吐きたくなるのを堪えて私はドロフェイを見据えて問う。
「でも、これから起こることは防げるんだよね?」
ドロフェイはじっと私を見る。私も黙ってドロフェイを見つめた。
改めて見るとへんてこな化粧をしていないドロフェイは、精巧に作られた人形みたいだ。瞬きだってするし触れれば暖かい。それに笑ったり表情らしきものを見せる時はそうは思わないのに、不思議だなと思う。
長い長い沈黙の後、彼は言った。
「エルヴィン様は、キミの音楽は灯火だと言ったよ」
「灯火? …………どういうこと?」
「キミができることは、自身を差し出すことだけではない、ということさ」
何故そんなことを言うのだろう。ドロフェイは私を連れて行く方が都合が良いのではないのだろうか。
「どうしてだろう。僕はもう同じことを繰り返したくはないのに、キミを連れて行くだけではつまらないと思ってしまう。心とは理解しがたいものだ、ね」
いつだったかカスパルもアロイスのことをそう言っていた。自分の心を自分で理解出来るのなら、世の中はもっと楽に生きられるのかもしれない。
仕方なさそうに笑うドロフェイは、もう人形のようには見えなかった。
◆
「マイスター! 心配していたんだよ!」
ドロフェイに連れられて自室に戻ると、血相を変えたクリストフが待っていた。
ドロフェイは簡単に事情を説明し、ピアノの間に様子を見に行っているというエドにも伝えると言って帰っていった。
「眠れないかもしれないけれど、横になるだけでも休まるから。僕は扉の前にいるから、何かあったら声をかけるんだよ」
襲われた後ならば男が側にいるのは怖いだろうと、クリストフは気を遣って寝室から出て行った。
一人になった私は寝台に横になりながらロケットを取り出す。
「アルフォード、ありがとね。でも、もう春だよ。早く起きておいで」
こういう時、銀色のぬくもりを抱き締めていたら眠れるのになと思ったら、無性にアルフォードに会いたくなった。春になったら、と言っていたけれど、具体的にいつ起きるのかはわからない。
頭のコブが痛くて寝返りも打てない。目を閉じるとギュンターのニヤけた顔が思い浮かんで吐き気がした。
「ユリウス…………会いたいよ…………」
ドロフェイのところであんなに泣いたのに、じわりと涙が溢れてしまう。ロケットにはめ込まれた青い結晶を握り締めるとほんのり暖かかった。
[あらすじ]
ギュンターに襲われたアマネだったが、アルフォードにもらった石が光り、ギュンターの腕が石化する。そこにドロフェイが現れ、助け出される。
ギュンターの蛮行は、アマネが周りを欺いていると陛下に告げ口するためだったらしい。
助けられたアマネはどうにか気を落ち着け、ラーカヴルカンの噴火が世界が壊れていくことと関係があり、自分を連れて行けば収まるのかとドロフェイに尋ねる。
すでに起こってしまったことは変えられず、気候は安定しないままだと告げられるアマネだが、これから起こることは防げるのではないかと質問する。
そんなアマネに対し、ドロフェイはエルヴィン陛下がアマネの音楽を灯火に例えたことを伝え、アマネにできることは身を差し出すことだけではないと諭す。
自分を連れて行く方が都合が良かったのではないかとアマネが尋ねると、ドロフェイは仕方なさそうに笑って言った。
「どうしてだろう。僕はもう同じことを繰り返したくはないのに、キミを連れて行くだけではつまらないと思ってしまう。心とは理解しがたいものだ、ね」
アマネがドロフェイに連れられて部屋に戻ると、血相を変えたクリストフが待っていた。
簡単に事情を説明されたクリストフはアマネを気遣い、襲われた後ならば男が側にいるのは怖いだろうと、寝室の扉の外側で待機することを告げ退室する。
一人になったアマネは、ロケットを取り出し、早く起きておいでとアルフォードに語り掛ける。