ラーカヴルカン
指揮者は他の者が練習している間は割と暇だ。
私は王女の婚約祝いの楽譜づくりがあったり、ピアノの間で協奏曲の練習をしていたりするのだが、ギュンターは暇を持て余しているらしく、侍女たちにちょっかいを掛けているのをよく見かける。
「渡り人殿はピアノの練習をされていたのですか?」
協奏曲の練習を切り上げてピアノの間を出ると、いつものごとく侍女に話しかけているギュンターと鉢合わせた。挨拶と二、三の会話をして部屋に戻ろうと歩き出すと、ご一緒しましょうと人好きする笑みを讃えたギュンターが着いてきた。
「演奏会が近いのです」
「協奏曲ですね。皆が楽しみにしているようですよ。ピアノのような楽器をお作りになる渡り人殿ですから、次はどんなビックリ箱が出てくるのだろうかと」
「ふふっ、ビックリ箱ですか?」
おどけて言うギュンターに釣られて、私も思わず笑う。
「ん? そういえば、ギュンター様は今は即位式の練習の時間では?」
「5年前に一度指揮をしてますからね」
肩を竦めて言うギュンターだが、5年前なら新しく加わった宮廷楽師も多少はいるだろう。それに昨年は木管楽器の改善をしたので、その辺りの調整は大丈夫なのだろうかと思わなくもなかったが、余計な口出しはしないでおく。
しかし5年前と言えば、ギュンターは二十歳前後だっただろう。その若さで公式行事で指揮を務めたとは、よほど優秀なのではないだろうか。
「ところで渡り人殿の部屋には、いろいろな方が訪ねていらっしゃるようですね」
「王都に来るのが半年ぶりですから。ありがたいことです」
エルヴィン陛下とドロフェイは何度か訪ねてきたが、それ以外では王女たち、ギルベルト様と二コルなどが時々顔を出していた。まあ二コルに関しては写譜の営業も兼ねていたが。二コルにはこの世界の楽譜の五線譜化をお願いしてあったりする。
「先日は女性たちの可愛らしい歌声が聞こえていましたね。いやあ羨ましい限りです」
ヴィルヘルミーネ王女たちが来た時のことだろう。3人とも『側にいることは』を気に入ってくださったようで、完ぺきにマスターして帰られたのだ。
「最初に歌われたのは渡り人殿ですか? 綺麗なソプラノでしたが、あなたはカストラートには見えませんが?」
「……私は少し特殊なのです」
言われるかもしれないと身構えてはいたが、実際に言われると冷や汗が出る。カウンターテナーやソプラニスタのように偽ることもできるが、地声からして男性に比べれば高いのだから、長々と言い訳しない方が良いだろう。
「おや? フォルカー様?」
「ミヤハラ殿、よろしいですかな?」
「もちろん構いません」
部屋の前の通路でフォルカーに声を掛けられる。私の部屋はバスルーム付きであるせいか、他の指揮者たちが寝泊まりしている部屋からは少し離れているため、ここで会うということは私を待っていたということなのだろう。
フォルカーがじろりと横目で睨むと、ギュンターは肩を竦めて退散した。ギュンターはどうやらフォルカーが苦手であるらしい。苦言をマシュマロに包んでほしいと言っていたので、さもありなんという感じではある。
フォルカーを部屋に招くべきか、私は少し悩む。エドもいるし部屋の中にはクリストフもいるはずだ。フォルカーは威厳があってちょっと怖いし苦手だけれど、話を聞いてみたいとも思っていた。
「フォルカー様、よろしければお茶をご一緒しませんか?」
「…………いただきましょう」
僅かな逡巡の後、フォルカーはエドをちらりと見て頷いた。
「先日、あなたをお見掛けしました」
エドが呼んできてくれた侍女がお茶を入れて退室した後、フォルカーが話を切り出した。
「ヴェッセル商会のユリウス殿と、離宮を散策しておいででしたね」
どくりと心臓が跳ねるように鳴った。あの時の私は女性の格好をしていた。誤魔化さなければ女であることがバレてしまう。
「あ、あの……見間違い、では、ございませんか?」
「いいえ。それについて私は誰かに言うつもりはございません」
フォルカーはいつも通り、口の端を数ミリでも上げることを拒んでいるような厳めしい表情で言う。
「ですが気を付けた方がよいでしょう」
「…………肝に銘じます」
全面的に肯定する訳にはいかなかったが、忠告は素直に聞いた方が良いだろうと頷く。そんな私をフォルカーは少しだけ目を細めて見ていた。
「即位式の練習を見る限り、あなたはとても耳が良い。それに音楽の解釈は随分素直でまっすぐだ。美点と言えますな」
「え……ありがとう、ございます」
急に話題が替わって戸惑いつつ、褒められると思っていなかった人物に言われて嬉しい気持ちが湧いてくる。
「人の心は複雑なものです。それを解するにはあなたには経験が足りないとも言えます」
「それは……自覚しています」
持ち上げられたと思ったら急降下だ。フォルカーには以前も厳しいことを言われたし、実際に自分は未熟だという想いがあるので受け入れられる。
「音楽に限らずあなたは他者を受け入れる心をお持ちだが、それは諸刃の剣です。見極められるよう、経験を積まれた方がよい」
「見極める……ですか?」
言わんとするところがよくわからず、首を傾げてしまう。
「あなたに近づく者が必ずしも善意だけを持っているわけではないということです。ご存知ですか? エルヴィン陛下がこの部屋を時々訪れていると、噂になっております」
フォルカーの言葉に私は驚いた。確かに陛下は何度かこの部屋を訪れているが、周りに気を配られているご様子だったし、そもそもこの部屋は指揮者たちの部屋からは遠い上にそれほど人の行き来が多いわけでもない場所にあるのだ。
「陛下については侍女たちの噂話でしょうな。あなたは渡り人ですから嫌でも耳目を集めます。お立場を思えば陛下がここを訪ねることは、それほど不自然という訳でもない。ですがあなたの本来の姿を知る者が聞けば、邪推する可能性がある」
なるほど。私から陛下に来てくれるなと言う訳にはいかないが、せめて性別がバレないように気を付けろとフォルカーは言いたいのだろう。
「ご忠告、感謝いたします。私はもっと注意深くならなければいけませんね」
「ご理解いただけたのなら結構です」
フォルカーはお茶を一口飲み、僅かに口元を歪めた。たぶん笑ったのだろうと思う。
「初日に私が言ったことを覚えてますか?」
「葬儀の曲のことでしょうか?」
未熟だと言われたのを思い出す。
「そうですな。未熟ではありましたが、冒頭のハープは良かった。合唱も悪くない。パーツの繋ぎ方に工夫がほしいところですな。それと金管楽器の使い方はもっと学ばれた方が良い」
「はい。ご指摘通り金管楽器はあまり詳しくないので、精進いたします」
葬儀の曲の冒頭はハープだった。イザークの問題があったとはいえ、それ以外の皆はとても頑張ってくれたと思う。特にギードは怪我をした分を取り戻すべく猛練習してくれたのだ。
「あなたの素直さは美徳なのでしょうな。クリストフ殿もそちらの護衛の方も、気を付けて差しあげた方がよろしい」
「承知しました」
クリストフがフォルカーの視線を受けて頭を下げる。エドも小さく頷いた。
◆
その日の夜、私はエルヴィン陛下の何度目かの訪問を迎え入れた。
エルヴィン陛下は私が普段通りの服装であることを見て、少しだけ目を伏せる。これはドレスをいただいた後は毎回繰り返されていることだった。心が痛まないわけではなかったが、礼を述べた後は私に出来ることはないと割り切っていた。
「ヴィルヘルミーネが其方に歌を教えてもらったと喜んでいた」
「ええ。シルヴィア様とお約束しておりましたし、ヤンクールのことでお心を痛めていらっしゃるようでしたので、少しでも慰めになればと思ってお教えしたのです」
「ラーカヴルカンの噴火のことか。あの影響で我が国は水害に頭を痛めておる」
腰を落ち着けて話し出したエルヴィン陛下の言葉に私は驚く。ノイマールグントはガスの被害は無かったし、夏がいつもより暑かった程度だとヴィルヘルミーネ王女やシルヴィア嬢は言っていたが、実際はそうではないらしい。
以前、ケヴィンが小領地の水害のことを言っていたが、それがノイマールグントから離れた地にある火山の噴火が関係していたとは驚くばかりだ。
世界が壊れていく。ドロフェイの言葉が頭を過る。
どれだけの人が亡くなったのか。そして、これからどれだけの人が亡くなるのか。自分の親しい者たちはどうなるのか。不安が湧きあがる。
特に口は挟まずに同席しているドロフェイを見れば、掴みどころのない笑みを浮かべていた。
「ヤンクールもだが、噴火以来ノイマールグントの気候も安定していないのだ。今年は王都の西側は雪が多かった。まだ辺境では雪が残っているだろうが、一気に融ければ水害が発生する可能性が高いであろうな」
ヤンクールとの国境にあるマーリッツもそうだが、その麓にある小領地はただでさえ水害が発生しやすい場所だとユリウスも言っていた。
「ヴェッセル商会はスラウゼンに工房を作ったのであったな」
エルヴィン陛下は探るように私を見て言った。
「ええ。よいスプルースが採れると。ピアノの製造もスラウゼンで行うことになっております」
「スラウゼンまで水害が及ぶことはないであろうから心配には及ばない」
スラウゼンはだいぶ王都側なので大丈夫だろうと陛下は言うが、影響が全くないわけではないだろう。工房もだがリーンハルト様やアンネリーゼ嬢も心配だ。
「ところで渡り人殿はヴェッセル商会のユリウス殿のことをどう思われているのだろうか」
とくり、と心臓が音を立てた。一応、ドレスを贈られたのだから、こういう質問があるかもしれないとは考えていたが、実際に聞かれると困惑する。
「信頼しております」
かろうじてそれだけを言う。エルヴィン陛下は私が女だと知っているのだろうけれど、特に何かを言われたわけではないのだから、私は今まで通り男として答えるだけだ。
「そうか」
エルヴィン陛下は15歳らしくない複雑な無表情でそう言った。
気まずい沈黙が部屋の空気を重くしたが、その沈黙を破ったのはドロフェイだった。
「渡り人様はマール貿易の話を聞いたことはございますか?」
いつものようにお道化るような調子ではなく、小さく笑みを讃えたままドロフェイが問う。
「マール貿易……聞いたことがございますね。確か勅許会社を作るというお話だったと記憶しております」
マール貿易会社についてはシルヴィア嬢に聞いたことがあったが、それよりも前に師ヴィルヘルムにも聞いていた。確かゲロルトの話を聞いた時だ。
貿易関係の官僚の間で、国が主導となり商人たちに出資させて勅許会社を作る話が出ているということだったが、その実、裏でユニオンが糸を引いていたはずだ。
「イージドールの件があったためユニオンを排除したが、代わりにヴェッセル商会に梶を取らせてはどうかという話が出ておる」
エルヴィン陛下が解説してくれた内容に私は動揺する。
「そうなのですか? ですがそれは…………」
ドロフェイをチラリと見る。ユニオンが言い出したことをユリウスが引き継ぐのはゲロルトの怒りを煽るのではないだろうか。
ドロフェイは笑みを讃えたまま、特に表情を変えない。口を挟むつもりはないようだ。
「ユリウスが、ヴェッセル商会が判断することでしょう」
心配ではあるが私が口を挟めるような問題でもない。それにドロフェイはゲロルトの悪意からユリウスを守ってくれるはずだ。あの黒い液体を飲んだらそうしてくれると言ったのだ。
ドロフェイは相変わらず掴みどころがない笑みを浮かべているが、私はそれを信じるしかなかった。