ヴィルヘルミーネ王女
休日の夜、宮廷に戻った私を青い顔をしたクリストフが出迎えた。
「何かあったのですか?」
「マイスター…………実は楽譜が…………」
今日はクリストフも宮廷楽師の友人たちと食事に出かけていたのだが、部屋に戻ってきたら楽譜が無くなっていたのだという。
「楽譜って、王女の婚約祝いの?」
「ああ。確かテーブルの上に置いてあっただろう?」
部屋は鍵が掛けてあったが、掃除や寝具の取り換えなどで侍女たちが出入りするための合鍵があるので、絶対に誰も入れないというわけではなかった。
ちなみに私とクリストフは同じ寝室で一緒に寝ているわけではない。侍従長に頼んで手前の部屋に運び入れてもらったソファでクリストフは寝ているのだ。
「出しっぱなしにしてた私が悪いので、クリストフが気にする必要はありませんが……」
「うん。おかしいよね。最近、マイスターのものが無くなりすぎている」
指揮棒もそうだったがペンやハンカチなど、身の回りのものが最近よく無くなっている。私のうっかりが原因ではないとは言いきれないが、こうも続くのはおかしい。
「鍵を掛けてもあまり意味はありませんし、大事なものは持ち歩くようにしましょうか」
「そうするしかないね。エドに持ってもらうしかないけれど」
「俺は構わん」
祝いの行事の前にあまり事を荒立てなくはなかったので、自分たちで気を付けるしかない。
それにしても王女の婚約祝いをどうしたものか。頭を抱えてしまいそうになるが、クリストフが気にしそうなので我慢する。
「選曲し直した方がよいでしょうね」
「…………そうだね。誰かに使われてしまうと盗作騒ぎになってしまうからね」
幸い巾着リュックに入れてあったタブレットは無事だ。それに実を言うと選曲に納得していなかった部分もあったのだ。
「そうなのかい?」
「ええ。ラースの結婚式で歌った合唱曲も併せて『ローエングリン』の有名な曲を組曲にするつもりでしたけど、ヴィルヘルミーネ王女のイメージとはちょっと違う感じがして」
予定では『ローエングリン』の第1幕への前奏曲、エルザの大聖堂への入場、第3幕への前奏曲、そして、婚礼合唱を抜粋組曲にするつもりでいたが、まだ第1幕の前奏曲しか譜起こししていなかった。
「ジゼルが踊りたいって言いそうですけど、『白鳥の湖』の組曲にしようかと思います」
金管問題は解決していないけれど、ユリウスからもらったドレスを見る限りはアールダムの技術力に期待できそうだったし、ダメだったとしてもチューバをバストロンボーンで代用してトランペットは調を変えて準備すればどうにかなるだろう。
「どんな曲なんだい?」
クリストフが興味深そうに私の隣の椅子に腰かけた。
「物語的にはメリーバッドエンドでしょうか。でも、とってもロマンチックな曲なのですよ」
『白鳥の湖』のラストはいろいろあるが、オーソドックスなものとして、ヒロインが湖に飛び込んで王子も後を追うパターンがある。その場合でもあの世で結ばれたみたいな表現をすることが多いので、メリーバッドエンドと言えるだろう。
二人で覗き込んだタブレットで音源を再生する。
「うわ、オーボエが目立つね」
第2幕の『情景』はオーボエの旋律が有名な、白鳥の湖の代名詞と言ってもよいあのメロディだ。そして、第2幕の『王子とオデットのグラン・アダージョ』はヴァイオリンとチェロのそれぞれのソロがあって、すごくロマンチックなのだ。
「素敵でしょう? この曲は白鳥にされたオデットと王子が出会うシーンで……」
クリストフに笑顔を向けると困惑している様子で、まだ楽譜が無くなったことを気にしているのだろうかと私は焦る。
「あの、クリストフ? 本当に気にしないでくださいね。置きっぱなしにしていた私が悪いのですから」
そう言うとクリストフは肩を竦めて苦笑した。心なしか耳が赤いような気がする。
「違うんだよ、マイスター。今日のキミはなんだかいつもと違うなって……髪形も違うだろう?」
「そういえばそうでしたね」
編み込みも化粧もミアにしてもらったままだった。髪はほどいてしまうと跡がすごいことになっていそうだったし、もう帰るだけだからそのままでいいかと思ったのだ。
「そうしているとキミも女性だなって。でも気を付けなければ駄目だよ。ロマンチックな曲に頬を染めて男に笑顔を向けるなんて、抱き締めたくなってしまうだろう?」
クリストフがそう言った瞬間、私はざざっと距離を取ってエドの背後に隠れた。
「クリストフはやっぱりダメ大人すぎます!」
「酷いな。そんなことを言うなら何も言わずに抱き締めてしまえばよかったな。ほら、出ておいで」
「俺も一応男なんだがな。まあ特に何とも思わないが」
呆れたようにエドが言う。
「もう部屋の外には出ないのだろう? ならば俺はそろそろ部屋に戻るぞ」
「わー、エド、行っちゃ嫌です。もうちょっとここにいてください」
せめて湯浴みが終わるまでは、クリストフと2人になりたくない。必死に頼み込むとエドは仕方ないなと腰を落ち着けてくれたのだった。
◆
数日後、シルヴィア嬢とヴィルヘルミーネ王女が部屋を訪ねてきた。王女の侍女となったナディヤも一緒だ。
「渡り人様、こうして近くでお話しさせていただくのは初めてですわね」
「申し訳ございません。こちらからご挨拶に伺わなければならないところを、ご足労いただきまして恐縮です」
まだ14歳のヴィルヘルミーネ王女は可憐で上品な少女だ。もう結婚してしまうなんてなんだかもったいないなと思ってしまう。お相手はヤンクールの王の弟君で、21歳のなかなかハンサムな容姿の男性であるらしい。
「シルヴィア様やナディヤから、渡り人様の評判は伺っております」
「さて、よい評判であればよいのですが……」
緊張気味の王女のぎこちない笑顔に、どんな話を聞いたのかと不安になり、シルヴィア嬢とナディヤに視線を向ければ意味深な笑みを返されてしまった。
「ヴィルヘルミーネ様、アマネ様はのんびりしていらっしゃいますが、これで女性におモテになるんですのよ。バウムガルト伯爵のご令嬢の……」
「シルヴィア様、勘弁してください」
アンネリーゼ嬢のことを持ち出されてしまって私は慌てる。せっかくリーンハルト様と上手くいっているというのに、蒸し返されて変な噂になってしまったら、アンネリーゼ嬢が気の毒だ。
「ふふふ、ご安心くださいませ。何か行き違いがあったと聞いておりますわ」
ヴィルヘルミーネ王女がくすくすと笑ったことで、部屋の空気が一気に和やかになる。部屋にはクリストフとエドもいるのだが、男性陣は部屋の隅で固くなっていたのだ。女性慣れしているクリストフでも、さすがに王女や侯爵令嬢には気軽に声をかけたりしないらしい。
それにしても女性が3名も揃うと華やかだ。いや一応私も女だけどね。なんかいい匂いもするし、例えれば荒れ地にいきなり満開の桜が咲いたみたいな?
「ヤンクールの貴族は華やかだと聞いております。ですが皆様があちらに行かれれば、ノイマールグントの女性の株が一気に上がるでしょうね」
「ふふ、アマネ様はお世辞がお上手ですわね」
「お世辞だなんてとんでもない。心からそう思っておりますよ」
いや本当に。だってヴィルヘルミーネ王女ときたら、頭がものすごく小さくて、それでいて目がくりりと大きくて、こんな子を嫁に出すなんて私が父親だったら無理だと思うほどのかわいらしさなのだ。
「でもヤンクールは今年も不作になりそうですから、心配ですわ」
「そうなのですか?」
初めて聞く話と王女の不安そうな様子に驚いてしまう。
「ええ。渡り人様はまだこちらに来て1年ほどでしたわね。2年前にアールダムよりもずっと北にある国で火山が噴火したのです」
王女の話ではアールダムの北西にあるヴァルトライフという島国で、一昨年の6月に大噴火があったそうだ。噴火は約2か月に及び、完全に終息するまでには半年もかかったという。
アールダムの北西だから随分遠いのではないかと私は思ったのだが、火山の影響なのか何らかのガスが流れて来たらしく、ヤンクールもアールダムも北側では死者の数が大変なものだったらしい。火山があるヴァルトライフに至っては人口が3分の2まで減ったそうだ。
さらにヤンクールやアールダムでは夏に異常なほどに気温が高くなり、霧が続いていたにも関わらず雨が少なかったようだ。そして、その影響は農作物に多大な被害をもたらし、後を引いているらしい。
ノイマールグントはガスの被害は無く影響は少なかったものの、噴火以降は夏はいつもよりも気温が高くなっているようだ。
「確かに私も昨年は暑さで参っていましたが……そんなことがあったなんて存じませんでした」
噴火が2か月も続くなんて、どんな地獄絵だか想像もつかない。
「家畜もダメになってしまって……。ですがガスの被害はヤンクールよりもアールダムの方が大きかったようですわ。冬もひどい寒さだったと聞きました」
アールダムには先日マルコが旅立ったのだが、大丈夫だろうかと心配になる。
「ヤンクールはガスの被害よりも作物の被害が酷かったみたいですわね。もともと農業大国ですから、天候にさえ恵まれれば持ち直すだろうと思いますけれど」
シルヴィア嬢も不安なのだろうけれど、王女を励ますように言う。
「いざとなればナディヤにガルブレン様の元へひとっ走りしてもらって食料を調達すればよいのですわ。ね、ナディヤ」
「ええ。足にも力にも自信がありますから、お任せください」
シルヴィア嬢のお道化たような発言に乗っかって、ナディヤも笑顔で頷いた。ナディヤは侍女なので、話しかけられなければ話に参加できないようだ。
「それよりもアマネ様、今日は歌を教えていただけるのでしょう? わたくしたちでヤンクールにも流行らせようと企んでおりますのよ」
沈んだ空気を変えるようにシルヴィア嬢が言い、私は頷いて立ち上がった。
「美しい方々に見つめられながら歌うのは緊張しますね」
そう言いながら私は『側にいることは』を披露したのだった。