ドロフェイの音
「あれ? 指揮棒がない……」
宮廷楽師たちとの練習の合間、休憩から戻った私は、総譜と一緒に置いてあった指揮棒が無くなっていることに気が付いた。
「どこかに置き忘れたんじゃないかい?」
「うーん、どうでしょう? 総譜と一緒に置くのが癖になってるんですけど……」
無意識にそうしてしまうというだけなので、ちょっと自信がない。
「エド、すみませんが部屋を見て来てもらってもいいですか?」
「承知した」
「戻ってくるまで僕のを使うといいよ」
クリストフが差し出してくれた指揮棒を受け取って練習を再開する。クリストフは大聖堂の外に配置されるオーケストラの指揮をするが、天気によっては指揮棒では見えづらいので手で指揮をするという。
バッハの『管弦楽組曲第3番』は5つの曲で構成されているが、今回は入場に3番目のガヴォット、退場に2番目のエール(アリア)を使用する。
2番目のエールは後に編曲された『G線上のアリア』としても知られる曲で、バッハの原曲では弦楽器と通奏低音で演奏される。
3番目のガヴォットは弦楽器の他にトランペット、ティンパニ、オーボエが加わる。バッハの時代のオーボエにはキーが付いていなかったはずだが、演奏しやすさからか宮廷楽師たちは改良版のオーボエを使っていた。
練習が一段落すると練習会場の片隅でメモを取りながら見学していたフォルカーが、オーボエ奏者に近づいて改良した楽器を見せてもらっていた。
フォルカーは他の指揮者の練習も見学するので、私としては緊張しまくっていたりする。
「フォルカー様は今日も見学ですか? 渡り人殿は何か意地悪を言われたりしておりませんか?」
練習後、ギュンターが顔を出して茶化すように言った。
「ギュンター様、問題ありませんよ。私としては助言は大歓迎なのです」
今度はカルステンさんと話しているフォルカーをチラリと見て答える。私としてはフォルカーは威厳がありすぎて近寄りがたい人物ではあるが、歯に衣着せずに言ってもらえるのはありがたいことだと思う。
「渡り人殿はお心が広いですね。初日もあっさりと苦言を聞き入れていらっしゃいましたし」
「はっきり言ってくださる方は貴重ですから」
「へえ。私は褒められて伸びるタイプなので、苦言はマシュマロに包んでほしいですね」
マシュマロに包まれた苦言とは、ずいぶん小型の苦言だ。ギュンターのお道化た様子に、思わず笑みが零れた。
「ふふっ、ではギュンター様に苦言を申し上げる時は小出しにしないといけませんね。あ、すみません。失礼しますね」
エドが来たためギュンターに断って声を掛ける。
「指揮棒はどうでした?」
「無いな。すまん、隅々まで探していたら遅くなった」
「それは問題ありませんけれど、困りましたね。どこに置いてしまったのでしょう……」
自分のうっかりぶりに落ち込んでいると、別室で練習していたクリストフも戻って来た。
「明日は休みだから、支部で調達してきたらどうだい?」
「そうします。エドは付き合わせてしまうので申し訳ないですけど、行きたいところもあるのです。クリストフはどうしますか?」
「僕は古巣の仲間たちと食事にでも行こうかな」
明日の休みはフライ・ハイムに顔を出そうと思っていた。支部に寄ってユリウスがいればユリウスと行こうかなと考える。いなければエドに着いてきてもらうしかないが、フィンに連絡をしていないため中に入ってもらうわけにはいかないので、どこかで時間を潰してもらうことになる。
「今日の夜は相変わらず楽譜を作るのかい?」
「いえ、せっかくですからピアノを借りようかと思っています」
「僕も着いて行った方がいいかい?」
「ピアノの間は鍵が付いていますし、私一人で大丈夫ですよ」
ピアノの間は侍従に言って開けてもらわなければならない。つまり侍従に言えば行き来は案内もしてもらえるはずだ。
それに、なんとなくだがそろそろドロフェイが来るような気がしていた。前に部屋に来た時は、私がアロイスのことを責めたら帰ってしまったのだ。いったい何をしに来たのだか。まあ暇つぶしなんだろうけれど。
「エドも今日の夜は付き添いはいりませんよ」
「そうか。ならば俺も今晩は友人と出かけてもいいだろうか?」
「ええ。明日の朝に部屋まで来てくれれば問題ありません」
エドはベルトランの捕獲の時も王都に友人がいると言っていた。もしかしたら恋人だったりしてと思ったが、エドはあまり揶揄えるような雰囲気ではないので自重した。
◆
私の予測どおり、夜のピアノの間にドロフェイが来た。
「こんばんは。今日は荷物の配達さ」
「どうしたの? その大きな箱」
「エルヴィン様からキミに贈り物だよ」
開けてみると淡いグリーンのドレスが入っていた。胸元が広く開いていて、供布の細かいフリルが襟ぐりから前立てに繋がっている。スカートは布がたっぷりと使われていて、外側と内側の二枚仕立てになっていた。
「これ……私に着ろってこと?」
「それはそうだろう。次にエルヴィン様から先触れがあったらそれを着て待っていたらいいよ」
「まあ、ウィッグは一応持ってきたから、それを被れば他の人にはバレないだろうけど」
何を思ってこんなものを贈ってくれたのかが問題だと私は思うのだ。
「キミ、ウィッグを持ってきてるということは、アーレルスマイアー侯爵の令嬢の所で着ていたドレスも持ってきているのかい?」
「ううん。それは持ってきてないけど、女性用の服は持ってきているよ」
アロイスにも言われていたため、パパさんからもらったタンスの肥やしの中から一着持ってきているのだ。
「ふうん。なら今度ここに来る時はそれを着ておいで」
「どうして?」
「僕が見たいから」
何言ってんだコイツ? という表情でドロフェイを見てしまう。そんなことよりも私にとっては目の前のドレスをどうしたらよいのかが大問題だと言うのに。
「私が女だってエルヴィン陛下はご存知なんだよね?」
「僕が話したから、ね」
悪びれなく言うドロフェイが憎たらしいが、前回はアロイスのことを責めたら帰ってしまったので、どうにか文句を飲み込む。
「どうしてそんなことを?」
「おもしろそうだったからだけど?」
ドロフェイは何か問題があるのかとでも言いたげな口調だが、問題大ありだ。というか、基本的にドロフェイはおもしろそうだから、で行動しているような気がする。だんだんわかってきた。
「サイズはどうやって?」
「それは僕が教えてあげたのさ」
なぜドロフェイが私のサイズを知っているのかは聞かないことにする。
「なんで私に?」
「エルヴィン様は他国の姫君を娶りたくないそうだよ」
「だからって私? 元の世界だったら私が犯罪者になっちゃうよ」
そう言うとドロフェイは可笑しそうに笑った。
「けど困ったな。どうしたらいいんだろう? 受け取らなかったら悪いよね?」
「貰っておけばいいさ。エルヴィン様は現実逃避がしたいだけなのさ。即位式が終われば目が覚めるよ。たぶん」
最後の一言が不穏だ。けれど返すわけにもいかないだろう。明日、支部に行った時にユリウスがいたら対処を聞いてみようと考える。
「そんなことよりもキミの歌が聞きたいな。いつもエルヴェ湖で歌っている歌」
「ここで歌うの?」
「そう。何だったらキミのおねだりを一つ聞いてあげるよ」
そう言いながらドロフェイはこちらの返事も聞かずに伴奏を弾き始めた。私が腰かけている背もたれが無い椅子の隣に座って。
腰の位置をずらすが、狭いし密着状態が気になる。文句を言いたいけれど、すぐに前奏が終わってしまう。
「Star vicino al …………」
歌い出してみたものの、うまく歌えない。
ドロフェイのピアノの音に心臓がバクバクして息が続かない。途切れ途切れで、声も小さくなってしまう。
私は音から気を逸らせようと鍵盤を滑るドロフェイの指を見つめる。長くてきれいな指だ。
どうにか歌い終わるとドロフェイが私を見た。私は顔を上げられなかった。
「ごめん……うまく歌えなかったね…………」
「いいや。仕方ないさ」
ドロフェイが静かに言う。
「今のは水の加護に反応したのだろう、ね」
「そう、なの?」
確かにアロイスの演奏でも同じような感覚になったことがある。でもユリウスの演奏ではそんな風にならなかったのに。
「劇場で僕が術をかけたのさ。キミが身近な人の水の加護を受け入れるように。けれどキミはナイト以外からの加護を受け入れたくないのだろう、ね」
ドロフェイが言うには、術が効いていれば私はアロイスに恋をして、水の加護を受け入れるはずであるらしい。ところが術の効き目が中途半端で、音だけに反応するようになった。中途半端になってしまった理由は、私自身が無意識にユリウス以外を受け入れたくないと思っているからではないかという。
「ナイトの水の加護だけでは足りないと言っただろう? 僕が連れて行くときは、アロイスも受け入れなければならないのだから、術が効いている方がキミにとっても都合がいいと思うけど」
「……そうなんだ」
確かにドロフェイはユリウスだけでは足りないと言ったけれど、そんなことできるわけがない。それを回避するためには、賭けに勝たなければいけない。
「でも……術なんてかかってなくても、私はアロイスやドロフェイの音が好きだと思うよ」
なんとなく全部術のせいにされるのはおもしろくなくて反論する。根拠なんてないし、こんなふうに心臓がおかしな動きをするのは確かに術のせいなのかもしれないけれど、いい音だなって思うのは変わらないと思う。私は自分の耳に関しては自信があるのだ。
私の言い分を聞いたドロフェイはひどく難しそうな顔をして、私を後ろ向きにした。背後から肩を抱き締めて、背中に寄りかかってくる。
「ちょっと! 重いんだけど!」
「キミ、少し黙ってくれないか?」
文句を言えば、ドロフェイは私の口を片手で塞いだ。
ムカッとしたので手を噛んでやろうとしたが、塞がれた口はうまく開かず、食むような動きになってしまう。
「どうしたんだい? 僕の手にキスをするなんて。そういえばキミ、僕に抱かれたいのだった、ね」
「んーーーーっ!! んーーーーっ!!」
私が肩を揺らして抵抗を試みても拘束は解けない。どうにか抗議をしなくてはと思った時、頬に柔らかい感触がした。
目を見開く私を見てドロフェイはくつくつと背後で笑っている。いたずらが成功した子どもみたいだ。拘束は解かれたけれど、おもしろくない私はそのままの姿勢で首だけドロフェイに向けて言った。
「さっきの話だけど、2人分の水の加護が必要ってことは、ドロフェイに頼むのも無理っていうこと?」
「……無理ではないよ。僕は彼らよりも加護が多いから」
ドロフェイは600年の間に人の魔力が減ってしまったと言っていた。つまり以前は1人で大丈夫だったのだろう。
だが、そうであるならば、賭けに負けた時の確約が欲しい。
「うまく歌えなかったけれど、お願いは聞いてくれる?」
「おねだり、ね。構わないよ」
どっちだって同じではないかと思う。
「何を望むんだい?」
「さっき言ったことだよ。私が賭けに負けた時の水の加護のこと。ちゃんと返事をもらってないもの」
前回を思い出さないわけではなかったが、2人を巻き込んでしまうことを考えたらどうでもいいことだった。
「ふうん。構わないけど、僕に抱いてっておねだりするのかい?」
そういう言い方はなんか嫌だ。じろりとドロフェイを睨みつければ、そっぽを向かれてしまった。
「前から思っていたけれど、キミ、僕のことを人だと思っていないだろう?」
「それはそうでしょ? 人は600年も生きられないよ。それに突然消えたり水の上に立ったりしないよ」
「まあ、確かに。でも元は人間さ」
元は、ということはやはり今は人間ではないということだ。ドロフェイはいったい何が不満だというのかサッパリわからない。
「キミ……僕のことを珍獣かなんかだと思っていないかい?」
「ぶふっ、珍獣って……精霊みたいなものかなって思っているんだけど?」
アルフォードと似たような存在だと思っているのは確かだ。そうでなければ水の加護をもらおうなんて、思いつかなかったかもしれない。
「キミはウルリーケにそっくりだ。僕が悲しい思いをすることはちっとも考慮してくれない」
ドロフェイは冗談とも本気ともつかないような声音で言って、再び私の向きを変え、背中に身を預けてきた。
ドロフェイが悲しい思い? そんなこと、考えたこともなかった。ドロフェイに悲しいという感情があることすら思いもしなかった。
人ではないのだろうけれど、ドロフェイはちゃんと生きている。トクントクンと背に鼓動を感じる。生きているなら感情だってあるはずなのに。
そう思ったら、背中の重みを振り払えなかった。