フライ・ハイムと渡り人
ぜひ昼食を共にというシルヴィア嬢とギルベルト様の誘いを、ユリウスは心底申し訳なさそうに断り、アーレルスマイアー侯爵家を辞した。
そのまま支部に帰るのかと思いきや、途中で昼食を取るという。
「飲食店みたいなのってあるんだ?」
「少し特殊な店だ。お前は行っておいた方がいい」
なんのこっちゃと疑問に思うが、着けばわかるとユリウスはそっけない。諦めて馬車の窓から街を眺める。
フルーテガルトと違って王都は道が整備され、石畳が敷かれている。その反面、馬車が入っていけないような細かい路地も多い。通りには様々な店が並んでおり、身なりの良い奥様が従者を伴って歩いていたり、学生らしき男性たちが集まって何かを話し合っている様子が伺えた。
「さっきのアーレルスマイアー侯爵、なんで強引に演奏会への参加を勧めたの?」
あの場では聞きにくかったので、忘れないうちに質問してみる。
「陛下の葬儀で葬送の音楽を演奏するのだが、まだ曲も演奏者も決まっていないのだ」
「うん、そんな話をしてたね」
「お前……察しが悪いな。その曲を作りたいとか演奏したいとか思わんのか?」
思いもよらないことを言われて目を瞬く。
「え、やりたいけど……そんなことできるの?」
まだ音楽のお披露目など一度もしていないというのに、そんな都合の良い話が出ていたとは思わなかった。
「渡り人が名乗り出て、宰相のお墨付きがあれば可能性は高い」
「そうなんだ…………」
王宮への報告は明日を予定している。
アーレルスマイアー侯爵は二日後の演奏会で見定めたいと言っていた。その評価次第で候補に挙がるかもしれないということらしい。
う、ちょっと演奏会が怖くなってきた……。失敗しないように練習を積まなければ。二日しかないけれど。
「ここで降りるぞ」
そう言ってユリウスが先に馬車を降り、手を差し出す。
「ええと、ユリウス? 私、男装中なんだけど……?」
「ここからは徒歩で移動だ。路地に入るから勝手にうろつかぬよう捕まえておかねばならん」
私は犬や猫ではないのだが、ユリウスの中の私がどういうことになっているのか、一度話し合わなければならないようだ。
しかし示された路地は少し薄暗い。仕方なくユリウスの手を取って馬車を降りる。
「特殊な店って……お昼ご飯を食べるんだよね?」
「そうだ。客はあまりいないが味は悪くないはずだ」
「おいしいのにお客さんが来ないの?」
「外食の習慣があまりないからな」
そうだったのか。道理で馬車から見た街並みに飲食店風のお店がなかったわけだ。
よくよく聞けば、王宮の官僚や貴族たちは主に午前中に仕事を終わらせるらしい。昼は親しい者を家に招いて親交を深めるのだという。職人や労働者は賄いが出て足りなければ露店で買う者もいるようだ。
もしかして発想がないだけで需要はあるのではないかと思うが、復興が遅れたせいで数年前まで農地が荒れ放題だったため、野菜の値がまだ高いという。
薄暗い路地をぐねぐね歩いて、自分一人では戻れないなと思ったところでその店に辿り着いた。『フライ・ハイム』という看板が掛かっている。
「入会を求められるだろうが、判断はお前に任せる」
「会員制なの?」
「説明をよく聞くように」
ユリウスが説明してくれた方が早いのにと思ったが、背中を押されて店内に入る。
事前に聞いてはいたが、本当に客が一人もいなくて少し怯んでしまった。
「あら? いらっしゃいませ」
明るい声と共に給仕らしいすらりとした女性が出てきて席に案内される。給仕は長い髪を後ろで一つに括り、かわいらしいというよりは美人という言葉が当てはまる風貌だ。
しかしメニューらしき紙を渡されて、私は心底驚いた。
「え、日本語……?」
メニューには『本日のおすすめランチ』と日本語とドイツ語の両方で書かれていた。
「うふ、やっぱり渡り人だったのね!」
給仕の女性が手を叩いて嬉しそうに笑った。
「え、あの、もしかして……」
「そう。私も渡り人なのよ。まゆりって言うのよ。よろしくね」
「あ、アマネです。よろしくお願いします」
私より少し年上に見えるまゆりさんは二年前まで日本で銀行に勤めていたという。交通事故に合って気が付けばこの世界に来ていたようだ。最初に助けてくれた人がこの店を勧めてくれたそうだ。
私とユリウスは『本日のおすすめランチ』を注文した。
「ということは、ここって渡り人がたくさんいたりするんですか?」
「私ともう一人、ドイツ人の男がいるわよ。その男が受付係」
そう言ってまゆりさんはもう一人の男性を呼んできてくれた。
「フィンです。よろしく」
フィンという名はブロンドの髪を持つ子に付けられることが多い名前だ。フィンは名前の通りプラチナブロンドの持ち主だった。
短く刈った髪にべっ甲縁の眼鏡をかけ、懐っこく人が良さそうな笑みを浮かべている。
フィンはユリウスにも握手を求めた。意外なことにユリウスも受け入れ、隣にフィンが座ることにも承諾した。
「じゃあ、説明するね」
そういってフィンが語り始めた内容に、私は開いた口が塞がらなかった。
この『フライ・ハイム』という店は、渡り人の受付窓口的な役割を持っているが、そもそもの設立目的は違うもので、理念に賛同する者ならば渡り人以外も受け入れる組織らしい。
「自由」「平等」「友愛」の三つが基本理念であるという。
「それって、どこかで聞いたような……?」
「フ……、よく気付いたね。そう、あの有名な秘密結社のパクリなんだよ、ここは! ここを作った初代が会員だったっていう噂もあるけど、僕は眉唾物だと思ってる。だってあの世界の秘密結社は秘密を漏らしてはいけないという決まりがあるだろう? それに理念だって三つじゃなくて五つなんだよ!」
随分詳しいと思ったが、ツッコミを入れるのはたぶんマズいだろう。
「ユリウスも会員なの?」
「まあ、そうだな」
ユリウスが入会したのは七年前、まだ王都でアカデミーに通っていた頃であるという。こう言っては何だが、こんな怪しげな組織に入会するなんて、普段のユリウスを思えば考えられないことだ。
「この『フライ・ハイム』はね、国籍も身分も宗教も一切関知しない組織なんだよ!」
「あのう、儀式とかあるんですか?」
「ないない。ここ、結構緩いから。基本理念に賛同した者同士で助け合う互助組織みたいな?」
自信満々にアピっておいて緩いと言い切るフィンだが、急に真面目な顔で語りだした。
「この世界ってさ、僕たちがいた世界の大昔に似てると思わないかい? だから、僕たちがいたあの世界と同じような歴史を辿るんじゃないかと初代は考えたみたい。それに、ここはドイツ語が使われているでしょう? 僕たちはあの大きな戦争を阻止したいし、非人道的なことが起こらないようにしたいんだ」
「確かに似てるところはありますけど……違うところもかなりありますよね? たぶんなんですけど、生活スタイルから予想する元の世界の時代を考えると、音楽的にはもっと古い感じがします」
オペラや借りた楽譜を、そして工房で作られている楽器を見てそう感じた。女子力マイナスの私だから確かなことは言えないが、アーレルスマイアー侯爵家で会ったシルヴィア嬢が着るドレスは、絵で見たマリーアントワネットみたいに見えた。
だがマリーアントワネットならナポレオンの直前であるはずだ。ベートーヴェンはナポレオンが皇帝になったことを怒って交響曲第3番の表紙を破り捨てたという逸話があるから、音楽的には古典派からロマン派の時代であるはずだ。
なのにオペラはバロックだったし、借りた楽譜も楽器もバロック期の音楽のような気がする。
「ところどころ違うのは渡り人たちの間でも言われているよ。まあ、万が一に備えてってことだよ。無駄になったっていいんだよ。あんなことは起こらないに越したことはないからね」
しかしこの世界の人たちにあの非人道的な行いや戦争話をしても信じてもらえまい。一体ユリウスは何に賛同して入会したのだか。
「ユリウスはなんで入会したの?」
「基本理念に賛同したからだ」
「それだけ?」
「…………渡り人の道徳観や教育に興味があったからだ」
そういえば、オペラの前に会ったアカデミーの先生とそんな話をしていたなと思い出す。ユリウス自身が考えて決めたことなら私に否やはない。
「他の渡り人さんたちは? みんな入会してるんですか?」
「ほとんどはね。こっちに知り合いが少ないからね。まあ、幽霊会員みたいになってる人もいるけど」
「渡り人の情報って公開されてるんですか?」
「入会した渡り人には元の世界の職業と国籍くらいは公開しているよ。どうしてだかほとんどが日本とドイツなんだけどね。渡り人以外に対する情報公開は、本人の了解を得てからだね。連絡を取りたければここが窓口になるんだ」
なるほど。名前や現住所は公開されないのか。個人情報保護が叫ばれたあの世界らしいなと思う。連絡を取ってどうするのか、ぱっと思いつくものはなかったが、繋がりがあるのは心強い。
それにしても、話を聞く限りは随分と渡り人に都合のよい組織のような気がする。
「何か活動ってしてたりするんですか?」
「うん。一番は募金。ほら、あそこに募金箱があるでしょう?」
フィンが示した場所には20センチ大の木箱が置いてある。
「孤児院に寄付とかするんですか?」
「多少はね。でも一番はここみたいな事務局を他の地域にも増やすためだね。その次に多いのは融資だよ」
「貸すんですか? それって商人がやることなんじゃ……」
「商人は貴族にはお金を貸すけれど市民には貸さないじゃないか」
「そうでもない。回収できる見込みがあれば融資はする」
「その見込みの基準が厳しいし、そもそも出資者が良い人間かどうか、渡り人側から判断するのは難しいよ」
フィンが言うには、融資は主に渡り人に行われるらしい。ほとんどの渡り人は、この世界に来た瞬間は文無しだ。この世界の貨幣など持っているはずがない。
渡り人は元の世界の知識や技術を恩恵としてもたらすと言われているが、それにたかろうとする悪人も多いのだという。親身に見せかけて近付き、わずかな金で恩恵を独占しようとする者もいるそうだ。
「だからこの組織で募ったお金を融資するんだ。ちゃんと返してもらってるしね」
「そっか……私は運が良かったんだね」
ユリウスを見ればそっぽを向かれてしまったが、感謝の気持ちは伝わっただろうか。
ユリウスだけじゃない。ラースやデニス、助けてくれた医師、面倒を見てくれたハンナ、仲良くしてくれたザシャやエルマー、パパさんにレイモンさんも。みんなに感謝しないといけない。
「でも、お話を聞く限りは渡り人に都合がよすぎませんか?」
「仕事の斡旋もしてるんだ。この世界の会員は希望すれば渡り人を雇うことができるんだよ。もちろん本人の意思を尊重するけどね。それに雇わないまでも意見を聞きたい場合は、ここを通せば適任者を紹介するんだよ」
雇う余裕はないけど技術や知識を得たい場合は、ここに入会して紹介してもらうという仕組みのようだ。それならば渡り人以外の会員にも利はある。そして、こちらの世界の者が会員になるためには審査と複数の会員の推薦が必要であるという。
「それに融資だけじゃない。僕たちの当面の目標は学校を作ることなんだ。」
意外な話に驚いてしまう。しかしユリウスが賛同したのも納得できる話だ。
「あの忌まわしい出来事を阻止したいと思ったら、教育は必要だよ。こっちの初等学校は計算や文字のような最低限の知識しか教えないからね。僕たちは心を育てたいんだ」
言うのは簡単だが実際にやるとなれば難しいことだと思う。やりすぎると思想を縛ることになりかねないし、そうなってしまえば反ユダヤ主義のような考えも出てくるだろう。それでは元も子もない。
「正直に言ってしまうと、方法については『フライ・ハイム』内で揉めているんだ。だからなかなか実現できないでいるのさ」
ヘルム教というひとつの宗教を国教と定めているこの国では難しいことだろう。神の名のもとであれば何でもありになり得るだからだ。魔女狩りなんてその最たるものだ。
「自由」「平等」「友愛」の三つを基本理念に掲げているのも、宗教を問わずに会員を募っているのも、その辺りが根本にあるからかもしれない。
いずれにしても私の気持ちは固まった。
「フィンさん、入会手続きをお願いします」
今後どう動くのかわからないところがあるにはあるが、何か動きがあった時に外にいたのでは止めることもできない。
「お話は終わったかしら?」
入会用の書類を書き終えると、まゆりさんがランチを運んできてくれた。
トレイにはシュペックカルトッフェルというジャーマンポテトに似た料理とソーセージ、それにパンと具沢山のスープが乗っている。
「ふわあぁ、いい匂い! おいしそう」
「こっちって電化製品がないでしょう? 一番困るのは冷蔵庫なのよね」
「そうですよね。もしかして、注文のたびに食糧庫に行くんですか?」
「ええ。どれも保存が利く物だけど、ソーセージなんかは出しっぱなしは心配だもの。お客さんがいっぱいいるなら温めるだけにしてもいいのだけれど」
うーん、むこうの世界を知っているからこその苦労話だ。食糧庫は通常地下にある。注文のたびに取りに行くのは面倒だろう。
「ユリウス、この後って何か予定ある?」
「ない。長くなるだろうと思ったからな。馬車も帰してある」
ユリウスは本を広げてくつろぎモードだ。
「じゃあ、まゆりさんとお話しててもいい?」
「構わんが、お前、性別を明かすつもりだろう?」
なんでわかっちゃうかな。女同士のおしゃべりがしたいんだよ。それに入会書類にも女であることを明記したし。
「ダメかな?」
「口止めはしておけ」
ユリウスが折れてくれたので、さっそくまゆりさんとお話しようとカウンター席に向かう。まゆりさんははにかみながらもおしゃべりに付き合ってくれた。
「まゆりさん、渡り人の中に楽器経験者っていませんかね?」
「あら、私、小学校の時はピアノやってたわよ」
「演奏してくださいよー。チェンバロ、あるじゃないですか」
「いやあねえ、プロに聞かせられるような腕前じゃないわよ」
そう言いながらもまゆりさんは店の片隅にあるチェンバロを弾いてくれた。覚えている曲は少ないといいながら演奏してくれたのは『貴婦人の乗馬』だ。
「私、この曲大好きです」
「小学校の休み時間に、友だちと競うように弾いてたわ」
ブルグミュラーの『25の練習曲』の一番最後の曲だ。ブルグミュラーはドイツ生まれの作曲家でピアニストだったが、どちらかと言えば教える方に才があったようで、練習用の小曲をたくさん残している。
ふと視界の端に動くものを捕らえそちらを見れば、小さな頭が三つ。ひょこひょこと曲に合わせて跳ねている。
「まゆりさん、小さな観客が来てますよ」
「うふふ、フィン!」
呼ばれたフィンはしょうがないなと言うように肩を竦めて入り口を開け、小さな観客たちを招き入れた。
「時々、こうやって演奏してると来てくれるのよ」
「へえ、こんにちはー」
「おにいちゃん、おねえちゃんのおともだち?」
「バッカだなーおまえ、こいびとだよ、こいびと!」
ませた発言にまゆりさんと二人で笑ってしまう。
「ね、音楽好き?」
「わかんないけど、おねえちゃんはすき」
おおう、いきなりの告白。まゆりさんはにこにこと笑って次の曲を演奏し始めた。
ショパンの『子犬のワルツ』だ。ぽこぽことした音の連なりが楽しい曲だ。ピアノとチェンバロの違いはあるが、ピアノだったらこういう風に鳴るだろうなと想像すると楽しい。まゆりさんの手の動きに合わせて子どもたちの頭が左右に動くのもおもしろい。
「アマネちゃんも、何か弾いてよ」
「まゆりさん、一緒に歌ってくださいね」
「え、歌? ちょっと……」
戸惑うまゆりさんをあえて無視して演奏する。
日本が誇る作曲家、成田為三の『浜辺の唄』だ。
覚えてないわと言いながらもまゆりさんは歌ってくれる。なかなか艶のある歌声だ。歌詞があやふやなところは私も一緒に歌った。
「こんな所で日本の歌を歌うなんて。考えたこともなかった……」
曲が終わるとまゆりさんは涙を流した。郷愁を誘ってしまっただろうかと心配したが、まゆりさんは微笑んで言った。
「私『かなりや』も好きなのよ。友だちに言ってもあまり興味を持ってもらえなかったけれど」
「わかります! 最後の方で三拍子になったり、フェルマータが使われてたり、子ども向けの童謡なのにすごく凝ってますよね。発表当時はきっとすごい反響だったと思うんですよ!」
勢いに引かれてしまうかとも思ったが、まゆりさんは目を輝かせて話を聞いてくれた。
言葉がわからないながらも、子どもたちはまゆりさんに歌ってくれとせがみ、小さな演奏会はしばらく続いたのだった。