運命はこのようにノックする
紀元前500年頃、ピタゴラスという男がいた。
一定の年齢を超えた者ならばその名を聞いたことがあるだろう。中学校で習う『三平方の定理』の代名詞としても彼の名前が冠されているし、某国営放送の教育番組でもお馴染みだ。
ピタゴラスはある日、散歩の途中に鍛冶屋の前を通った。彼は鍛冶屋から聞こえてくるハンマーの音が、共鳴して快い和音になっていることに気が付いた。
好奇心の赴くままに鍛冶屋の中に入った彼は、職人たちが手にしているハンマーに着目し、その重さが音程に関係していることを突き止めた。
その後、彼は弦や笛でも実験を重ねる。そうして「ピタゴラス音律」が生まれた。
ところで現在、私は一軒の鍛冶屋の前に立っている。
鍛冶屋は静まり返っており、私が期待したようなピタゴラスと同じ体験はできそうになかった。
「アマネ? 何突っ立ってんだ?」
ほけっと突っ立ったままの私に声をかけてきたのは、ザシャという青年だ。赤茶の長い髪を緩いポニーテールに結い、お揃いの色を持つ吊り気味の瞳を瞬かせている。
「ここって鍛冶屋だよね? 音がしないなって思って」
ザシャを見上げて私は言う。身長が150センチあるかないかの私からすると、ザシャはちょうど頭一つ分大きいのだ。
「ああ、昼寝でもしてんだろ」
「ふうん。残念」
ピタゴラス気分が味わえるかと思ったのに。
鍛冶屋の扉の上には、トランペットとヴァイオリンを組み合わせたような紋章が掲げられている。この街 ―― フルーテガルトの紋章だ。
フルーテガルトは王都から馬車で半日ほどの距離にある王領地だ。街の南から東にかけて三日月のように湾曲したエルヴェ湖があり、東側の高台にはエルヴェシュタイン城がある。
国主であり王都に住まうヴィーラント陛下は、頻繁にこの城を訪れ、貴族たちを集めて狩りを楽しみ、贅を尽くした宴を催したという。
民から見れば浪費がすぎると文句を言いたくなるような行いだが、そのおかげでフルーテガルトの街は栄えたと聞いている。
「ザシャ、前に言ってた仕事のことなんだけど……」
「わりぃ。探してはいるんだけどな。今、マジでねーんだよ」
難しい顔をしたザシャが、首にかけた手ぬぐいでこめかみの汗を拭きながら言った。
フルーテガルトは現在、経済的危機に瀕している。
件のヴィーラント陛下が先日亡くなられたのが原因だ。享年23歳。早すぎる死だ。奇しくも私が倒れていた場所からそう遠くない場所で、冷たくなった彼は発見されたそうだ。
陛下が亡くなったことで、この街を訪れていた貴族や商人たちもその数を減らした。おかげで富裕層向けの商品を扱っている店や宿屋は閑古鳥が鳴いている。
「これからますます商売が厳しくなるだろうし、タイミングが悪かったな」
私がこの街に降り立ったのは、ちょうどひと月前のことだ。発見者である男によれば、私はエルヴェ湖の湖畔に倒れていたらしい。
目が覚めた時の私は、満身創痍で記憶も曖昧だったが、発見時に着用していたものだと黄色いベストを見せられて、直前の状況を思い出した。
ひと月前の私は空にいたはずだった。
もちろん自力で飛んだわけではなく飛行機に乗っていたはずだ。ミュンヘンで行われた友人の結婚式に参列し、日本に帰るところだったのだ。
その事故は離陸してそれほど時を待たずして起こった。膝の間に頭を入れる姿勢を取ったのは覚えている。機内は意外なほど静かだった。機体に損傷があったのかは知る由もないが、風が吹き荒れるということもなかったように思う。静かに、しかし確実に落ちていることだけはわかった。
飛行機は、他の乗客はどうなったのか。当然、私は発見者に問い質した。しかし私が倒れていた周りには、大きな残骸などの異常を感じられるようなものは何もなく、兄からもらった巾着リュックだけが落ちていたと聞かされたのだった。
「渡り人だろう」と発見者は言った。
―― 渡り人
フルーテガルトが属するノイマールグントという国には、そう呼ばれる存在がいた。
この国の人々と同じような姿形であるにも関わらず、全く異なる文化、知識、技術を持つ者たち。そういった存在が時々現れるのだという。
渡り人はこの国に様々な恩恵をもたらした。公衆衛生の概念がその最たるもので、この国を疫病から救った。ゆえに人々から敬われる対象となっていると聞かされた。
発見者の説明によれば、この国は私が存在した世界とは別の世界にあるらしい。俄には信じられない話だが、渡り人たち自身の弁であるという。
ひとまず私が知りたかったのは帰れるのかということだった。しかし発見者が言うには一方通行であるらしい。先の渡り人たちもそう言っていたという。
これ以上なく混乱した私は発見者に質問をした。
「この世界にベートーヴェンはいますか?」
今にして思えば他に聞くべきことがあるだろうと突っ込みたくなる質問だ。しかし当時の私の頭の中で鳴り響いていたのは『運命』の冒頭部分だったのだから仕方がない。
――運命はこのようにノックする
ベートーヴェンの言葉は本当だった。
さらに言えば、発見者が話す言葉はベートーヴェンが生まれ育った地であるドイツの言葉だったし、顔や髪形はベートーヴェンのそれとは全く違っていたものの、その男が醸し出す近寄りがたい雰囲気は音楽室の肖像画を彷彿させたのだ。たぶん。
結論から言えば、ベートーヴェンはいなかった。
ならば音楽の母ヘンデルは、音楽の父バッハは、と時代を遡って質問を重ねた私だが、彼は私が満足する答えをくれなかった。
なんということだろう。音楽の母も父もいないだなんて。子どもたちとも言えるあの偉大な音楽家たちは一体どうなるのだろう。あの素晴らしいたくさんの音楽は生まれないのだろうか。
絶望した私は臥せっている間にも必死に考え、思い付いた。
「私が彼らの音楽を伝えよう!」
楽譜を作って、演奏をして、この世界に彼らの音楽を広めよう、と。
そんなこんなで私は絶賛求職中だ。楽譜を作ろうにも紙も印刷代もないし、演奏したいと思っても楽器を買わなければならない。何をするにも元手が必要なのは、この世界もあの世界も変わらないのだ。
「けどなあ、別に仕事探さなくてもいいんじゃねえか? このまま居付けばいいじゃん。俺と一緒に工房で働こうぜ」
ニカリと笑うザシャは、私を発見した男が経営するヴェッセル商会で、職人として働いている。
ヴェッセル商会は楽器の製造販売をしており、フルーテガルトと王都に店を構える比較的大きな商会だ。私の野望を考えれば悪くない就職先と言える。
「でも……ユリウス、怖いし」
これが一番のネックだった。ユリウスというのは発見者の男である。
ニコリともしないこの男が、私はどうにも苦手だった。渡り人として自分が大して役に立てないという引け目があるので、余計にそう思ってしまうのかもしれない。
「ははは! アイツ、最近、機嫌わりーもんな」
「笑い事じゃないよ……工房で働くにしても居候は解消しないと。ユリウスと夜に二人きりって、なんか怖いんだよ? こう、無反応がさあ」
「はあ? もう一人いるだろ?」
「はい? もう一人って……見たことないんだけど? 別の意味で怖いんだけど!?」
初耳だ。一ヶ月も過ごして会ったことがない同居人なんて。それは本当に人なのか。
「あー……、相変わらず引き籠ってんのか、大旦那サマは」
「大旦那様? ってことは、ユリウスのお父さんとか?」
「そう。奥様が亡くなってからは、部屋からあんまり出てこなくなったんだよな」
なんだヒキニートか……しかしその人物は幾つなのだろうか。ユリウスが私の一つ上の26歳ということを考えれば、その父親なら40は超えているだろう。中高年の引き籠りはこちらの世界では問題にならないのだろうか?
「ま、店はユリウスが継いじまってるし、することねえってのもあるんだろうけどな。アイツもアイツで指揮系統が明確になってやり易くなったとか言ってたし」
「言いそう。すっごく言いそう」
しかしどうしたものか。居候させてもらっているというのに挨拶もしていないなんて、顔を合わせることがあったら気まずい。
「やべ。そろそろ行かなきゃ。じゃあな、アマネ」
「うん。また後で。仕事頑張れ」
そう言ってザシャはポニーテールを揺らし、片手を上げて去っていく。シャツ越しに浮き出る肩甲骨の動きをぼんやり眺める。
「ああそういや、エルマーが新作あるって言ってたぜ」
首だけ回して言うザシャの言葉に思わず頬が緩んだ。
菓子作りが趣味のエルマーは、作ったものは存分に食えと人にふるまう器の大きい少年なのだ。
通りの少し先で右に曲がると川があり橋がかかっている。私が今いる場所は工房が多い地区で、橋を渡ると商店街がある。この川は工房や店から他の街へ荷物を運ぶために使われているらしく、船が止まっているのが見えた。荷運びの男たちが忙しそうに動き回っている。
あ、また、鳴ってる ――
何かはわからない。この世界に来てから、時々何かの音がかすかに聞こえることがある。遠くにある鐘の音のようにも聞こえるが、人の歌声にも似ている。
微かな微かなその音は、常に鳴っているわけではなく、鳴る時間も決まっていない。気が付けば鳴っているのだ。
ザシャやエルマーに聞いてもわからない、聞こえないという不思議な音。
耳障りな音ではない。いつの間にか鳴っていていつの間にか終わっている。
おそらく悪いものではないのだろう。その音が鳴っているとなんとなく満たされた気分になるのだ。
不思議な現象だと思うが、さらに聞こうと耳を澄ませると途端に掻き消えてしまう。なのであまり意識しないようにしている。
なんとなく幸先がいいような気がして、上機嫌で橋を渡る。
白いチュニック越しに感じるほかほかとした陽気が気持ちいい。ざあざあと音を立てる川から緩く吹き上がる風が、チュニックの裾を遊ばせ、膝が隠れる丈のズボンを控えめに膨らませる。
視線を川に移せば、水面がキラキラ輝いて汚れがないことが一目瞭然で、それも渡り人の恩恵だと聞いていた。
「過去の渡り人様に感謝だね。ほんと清潔な場所で助かるよ」
川沿いの小道を進むと、エルマーの父親が営む菓子店の裏手に出る。裏口の少し手前で足音を忍ばせる。そおっと扉を押すとギシリという音がした。
「よっ、アマネの旦那。んなこっそり入ってくるたァ、何か企みごとでもあるのかい?」
クリームと格闘中のエルマーが、灰色の目だけをこちらに向けてニヤリと笑う。くすんだブロンドのさらさらとした髪は首筋にかかり、13歳であるというのに慎ましくも色香を漂わせている。こういうのを色男というのではないだろうか。将来が非常に楽しみである。
「あーあ、驚かそうと思ったのに。扉、直した方がいいんじゃない?」
「ははは、そのうちアニキにでもやらせるさ。さあさあ、んなとこ突っ立ってねェで入んな。旦那の目的はこいつだろ?」
食いねえ食いねえと菓子を勧めるエルマーに、私はつい胡乱な眼差しを向けてしまう。
「相変わらず粋なしゃべり方だよね。エルマーってほんとにこの国の人?」
「何でェ藪から棒に。旦那は相変わらず突拍子もねえことを言うねェ」
だってこの世界では違和感がありまくる。訝しむ私にエルマーは心外だと言わんばかりにため息をついた。
「ところでアマネの旦那、最近傷の調子はどうだい? もう痛まねェのかい?」
「うん。全然平気」
「そいつァ良かった。ユリウスの旦那もひと安心だろうよ」
エルマーの視線の先にあるのは、私の額からコメカミにかけて斜めに入った5センチほどの傷だ。傷は綺麗に縫われ抜糸もだいぶ前に済まされた。痕は残るだろうと医師は言ったが髪形次第で隠せる程度のものだ。
縫う時に邪魔だったのか、起きたら前髪が無くなっていたが大した問題ではない。私としてはむしろ望むところで、これ幸いと私はユリウスに提案をした。
「男性、ということにしてしまおう」
理由は私の職業にある。
元の世界において、私は音楽家だ。音楽家とはあいまいな表現だが、要は作曲家だけど音楽関係の仕事ならなんでも請け負いますよというニュアンスだ。
だが、寝込んでいる間、話し相手になってくれた者たちに探りを入れた私は、この世界において女性が作曲をするのは憚られることだと悟った。
元の世界においても、昔は女性が作曲をすることはタブーとされていたのを私は知っている。『トロイメライ』で有名なシューマンの妻クララ・シューマンのレポートを学生時代に書いたことがあるのだ。
クララ・シューマンはドイツ全域に天才少女として名を轟かせた女性ピアニストだった。クララは作曲家としても、リストに絶賛されるほど素晴らしい才能を持っていたが、その時代は女性が作曲家になることは認められていなかった。女性というだけで彼女が作った曲は正当に評価されなかったのだ。
自分にクララ・シューマンほどの才能があるとはさすがに思わないが、仕事の幅が狭まるくらいならば、もっと言えば面倒事が起こる可能性があるなら、最初から男で通してしまった方がよいと私は考えた。
男のふりと言ったって、この世界の男性はチュニックやシャツにズボンという出で立ちだ。胸には布か何かを巻き付けるとして、スカートを履かなければそれっぽく見える。元の世界で私が好んだ服装と大して変わらないから抵抗もない。むしろこの世界の女性のように長いスカートを履いて過ごす方が憂鬱だ。
ダメだと言われれば無理を通さなくてもいいか、ぐらいの軽い気持ちだったのだが、ユリウスは少し考えた後、私の提案を了承してくれた。話し相手となってくれた者たちには私が女であることは知られていたが、皆も口をつぐむことを了承してくれた。
「ちょいと味に深みが足りねえなァ。そう思わねェかい? アマネの旦那」
回想に耽る私にエルマーが言う。和菓子でも食べているような口ぶりだ。ぼんやりしていた私に気付いたエルマーは、ふたたび私の額をみて言った。
「どうしたんでェ。やっぱり痛むのかい?」
「え、いやあ、あはは。大丈夫大丈夫」
慌ててそう返すと、エルマーは少し考えてから、何かを思いついたような楽し気な表情で私に提案をした。
「アマネの旦那、今度おいらと塾を見に行かねェかい?」
「塾?」
「おうよ。ユリウスの旦那がやってる私設塾があるんだ」
「え、ユリウスが教えてるの? なんか想像できない」
子どもたちと戯れるユリウスが思い浮かばず驚いていると、ちがうちがう、とエルマーが笑った。
「教えてんのはユリウスの旦那が連れて来た御仁だ。それに塾って言っても、ほとんど研究所みてえなもんでェ」
「研究所? まあ、それなら想像できるかも」
白衣に銀縁メガネのユリウスを思い浮かべて納得する。とても似合いそうだ。眉間の皺が標準装備なだけに。
銀縁メガネに眉間の皺という共通項に、思い浮かべた白衣姿のユリウスの顔がうっかり兄の顔に変化しそうになって慌てて消去した。兄はマッドでサイコな、人として大切なものを母のお腹に忘れてきたような人物だ。思い出してはダメだ。
突然頭を振り出した私を見てエルマーが怪訝そうな顔をした時、表の扉がカランと音を立てた。
「へい、らっしゃい!」
寿司屋かな?
「やっぱりここにいらっしゃいましたか。アマネさん、旦那様が探していらっしゃいましたよ。」
そう言って入ってきたのは、私が居候するヴェッセル商会で働くデニスだった。40代半ばの上品で優し気なおじさまだ。デニスはこの世界のことを丁寧に教えてくれる、私にとっては先生とも言える人物だった。
「デニスの旦那、いつもありがとさんよ」
「いえいえ、こちらの焼菓子はおいしいですからね」
菓子を購入するデニスを見て私は席を立つ。
「エルマー、ごちそうさま。私にはちょうどいい甘さだったよ」
「おう、また来てくんねェ」
お菓子はおいしかったのだが、人間味のない男を思い出したらため息が零れた。
「やっぱり、これからの話ですよね?」
「さて、どうでしょうか」
エルマーの菓子店を出てデニスと二人で大通りを歩く。石畳に移る二つの影はまだ短い。帰宅の時間でもないせいか、通りには遣いに出されたらしい少年の影がいくつかあるだけだ。
外に出られるようになって一週間。そろそろ先のことを考えなければならない。忙しいユリウスが探しているというならばその話だろうと見当をつける。
「機嫌悪くないといいなあ……」
「しっかりなさってくださいませ。後でこれを差し入れましょう」
デニスがエルマーの店で買った焼菓子を持ち上げる。
お菓子に釣られたわけではないが、私はうん、とひとつ伸びしてユリウスが待つ書斎へと向かった。
ピタゴラスは「天球の音楽」を研究していました。古代ギリシャでは音楽が万物を構成する要素であり、宇宙全体をも調律していると考えられていたようです。この考えは中世ヨーロッパでも一般的なものでした。そのせいなのか、当時の大学で一般教養として学ばれていたリベラル・アーツ(自由七科)の数学分野には音楽が含まれています。