心の中
「私の心、お見せしますね」
Aはそうぽつりと言うと、彼女の心をぱちりと取り出してSに見せた。Aの心はいつもと違って3月の残雪のような灰色で、仄かに湿った香りを漂わせていた。ずっと昔、Sがまだ子供だった頃、この香りをどこかで嗅いだことがあるのを、彼はぼんやりと記憶の片隅に思い出した。Aの心は、小さく震えている。心の下についた、Aの身体まで伸びる細く長い管が、その震えに合わせてゆらゆらと揺れる。Sはふと、この管をいま自分が切ってしまえば、Aはたちどころに心を無くしてしまうのだと思い至った。緊張で喉が渇き、ごくりと唾を飲み込む。脂汗が、死ぬ間際のように戦慄く喉元をつうと伝った。
「普段は白いのですが、今日は何だか灰色ですね」
Aは、自分の心を見てそう言った。
「さ、開けてみましょう。今日はどんな風でしょうか……」
Aは左手に心を持ち、右手でゆっくり開いた。Sが覗き込むと、中には、剥き出しのドロドロとした黒いぬめりが溢れ、その奥に、ぬめりに浮かぶSの古びたセピア色の写真があった。Sは、この写真に覚えがある。以前、Aに「あなたの昔のお写真を見せて下さい」とせがまれ、古いアルバムを開いて見つけた、中学生の頃の写真だ。頬にプツプツとにきびが吹き出て、がらんどうの目は、硝子の玉のようであった。なぜAがこの写真を心に仕舞い込んでいるのか、Sは何となく分かるような気がした。それでSは、
「僕の写真が入ってるんですね」とだけ言った。
果たしてAはみるみるうちに青ざめて、ただ泣きながらごめんなさいとばかり繰り返すので、Sは自分の写真を彼女が心に仕舞っていたことを取り立てて咎めようとは思わなかった。ただ、彼女の頭をずっと撫でていた。
Aは暫くして泣き止み、お見苦しいところをお見せしましたと言いながら寂しく微笑んだ。彼女の心は、ぬめりに覆われ残雪の灰色が徐々に黒々とした色彩へ滲んでゆく。心の中で、まだごめんなさいと言い続けていることは明らかであった。
「別に、僕の昔の写真をAさんがどうしようが、僕は気にしないです。むしろ、Aさんがこんなに僕の写真を黒々と覆い尽くしていることは嬉しいくらいなのです」
Sはそう言って、Aの心を静かに両手で包んだ。Aは身も心もまた泣き出して、目は透明な滴をひたひたと流すが、心はどす黒いぬめりを滲み出すように、嘔吐のように、ドロリドロリと流していた。
「ごめんなさい……私、分かっているのに……。分かっているのに、どこかで疑ってしまって……。許して、許して下さい……」
Sはやっぱりかと思った。この前、TがSに自分の心を見せてふふふと笑っていたのを、彼女が如何にも悲しそうな顔をして見ていたので、Sは彼女に何度も謝ったのだが、Aはただ涙を流すばかりであった。AはAで、許せないという激情を抱く一方で、やはり自分はネガティブな面倒臭い女で、大した魅力があるわけでもないから、Sが私に愛想を尽かしたとしても全く自分が悪くって、そもそも私なんかが恋人など烏滸がましいとか何とか、考えているうちに心はますます黒々とぬめりを蓄えて、はちきれんばかりに苦しくなり、普段は真っ白な筈のAの心も、ぬめりが段々滲んできて、それで取り出したときは灰色になっていたのである。そうなるともう心が苦しくっていけないから、Aの方でもいつまでも何を言うでもなく泣いてばかりいることに、寂しさと申し訳無さを感じてきた訳だ。
それで今日、先刻AがSの謝罪を受け入れて、そのときAが自分の心をSに見せたいと言ったのである。
Sは、ただAの頭を撫でながら、
「僕が悪かったのです。Aさんどうか僕を罰して下さい」と言った。Aは涙に暮れて厚ぼったくなった瞼をしばたいて、
「では、一つだけ。私の心を、少しでもいいので美しくして下さい」と呟いた。Sは黙って頷いた。
Aが心を見せてくれた頃に空の片隅で瞬いていた宵の明星は、すっかりどこかへ消えてしまった。今はオリオンが、真夜中の空にその身体を横たえている。
Aの白い吐息が、12月の空へと昇ってゆく。Sは珈琲を飲みながら、Aが空を眺める横顔に、先程自分が磨きあげた、彼女の真っ白な美しい心を取り出さずとも見た思いがした。彼女の心は、嫉妬と独占欲という名の黒い泥濘にあまりにも覆われやすく、またそれを表立って現すには、あまりにも脆すぎた。心を見せるという、Tにとっては話の種でしかないことにしても、Aにしてみれば羞恥と恐怖に震えながらの行為であって、しかし彼女はこのような手でしかSに自分のありのままの黒いぬめりを見せることが出来なかった。今日のことで、Aが少しでもSと、そして自分自身を信じてくれたらと、Sはそんなことを考えた。
Sはゆっくりと立ち上がり、ベランダの手すりに掴まって空を見上げるAの横に立った。AはSの顔をちらりと見て、頬をますます赤くしていた。
「私の心、Sさんさえ良ければまた見てくださいね……」
Aの呟きに、Sは彼女を静かに抱き締めた。