第八章 浅井家の勢力図
第八章 浅井家の勢力図
真美が浅井家に上がりこんで一週間が経った。健太郎はとりあえず真美には千紗と同じ部屋で暮らすようにしてもらった。さすがに自分一人の家ではないので、この部屋もどうぞご自由にというわけにはいかない。
だが、真美の居住自体については両親から承諾を得ていた。千紗の時といい心の広いというか広すぎる両親に一抹の不安はあるものの、自分が真美は悪い人間ではないだろうと判断していたので問題はなかった。
そして居住の許可を貰った真美その人はすっかり浅井家に馴染んだ様子で日々暮らしている。元々気後れするような人間ではないことはわかっていたが、それでも人様の家でここまで臆せず振舞えるかと思うほど自然体であった。いや、あまりに自然体過ぎた。
「おい……、せめてスカートなりジーンズなりなんか履けよ」
「うん?」
浅井家のリビングに上はタンクトップ、下は下着というラフを通り越した格好で寛いでいる真美は煎餅を齧りながら健太郎の声に振り向く。ソファーに寝そべってテレビを見ている姿はあまりにもみっともなかった。
「この格好が楽なんだからいいだろ。いちいちガタガタ言うなよ」
健太郎の苦言など意に介さず真美は再びテレビに向き直る。もはやこれは馴染んできたどころか傍若無人の振る舞いである。我慢ならなくなった健太郎は今頃、バイト先で汗水たらして働いている千紗を見習えと言おうとしたその瞬間、真美は信じられない行動を起こす。
健太郎の言葉を遮るようなタイミングで真美の尻からブッ! とおならが出た。あまりの奇襲に健太郎は口をパクパクさせたまま、言葉を失っていた。どう見ても自分と同年代のうら若き女の子が人様の、それも男の前で平気で放屁するということに信じられないといった表情である。
「あっ、悪い。出ちゃった」
しかもたったそれだけで今の出来事を済ましてしまうあたり、少なくとも自宅ではごく日常的にしていたのであろう。その点ではすっかり浅井家を自宅と同じぐらい安心し、寛げる空間と思ってくれているのであろうが、少しは恥じらいを持ってもらいたいと健太郎は思った。
健太郎はそう言えばとここ一週間の真美の所業を思い返す。浮かんでくる所業はどれも放屁に勝るとも劣らない豪快なものだった。
まず最初に健太郎の頭の中に浮かんできた真美の所業は風呂場での事件だった。
「なあ、バスタオルないか?」
「うわっ! そんな素っ裸で出てくるな。タオルなら脱衣場にあるだろ」
全裸で風呂場から出てきた真美に健太郎は目を手で覆いながらタオルの在り処を教える。それにしてもせめて腕で隠すなり何かしてほしいと健太郎が言うと、真美は豪快に笑い飛ばす。
「どうせこんな胸ぐらい男とそんなに変わらないだろ? 気にするなよ」
そう言って胸をこれ見よがしに張る真美。確かに控えめな胸ではあるが、それでも女の裸ということには違いない。健太郎は急いで脱衣場へ入り、バスタオルを取る。そして真美にそのバスタオルを突き出した。
「いいからもうこれ持って着替えて来い」
「何だよ、つまんないなあ」
不満そうに唇を尖らせながら真美は脱衣場へ戻る。それを見て健太郎は一つため息を吐き、真美の所業に頭を悩ます。
「本当に恥じらいの欠片もないな、あいつは」
だが、それと同時に垣間見えた真美の全身像を健太郎は頭の中に投影しだしてしまう。
活動的な印象を与える茶髪のショートカットに、強気な性格を思わすややツリ目気味の瞳、そして長身でスレンダーな体型の美少女が健太郎の頭の中に描かれていく。間違いなく魅力的な女の子には違いないが、内面に問題がありすぎた。
「風呂場から全裸で出て来るんだもんなあ……」
それさえなければと残念に思った健太郎だったが、まだこんなものは序の口だった。
次に健太郎の記憶から呼び出されたのはつい最近の出来事で場所は浅井家のトイレであった。
「なあ、ケン。ちょっとお願いがあるんだけどさあー」
トイレから聞こえてくる真美の声。何かしら嫌な予感がすると思いながらも呼ばれた以上、行くしかないと健太郎はトイレへ向かう。健太郎のことを勝手にケンというあだ名で呼んだり、トイレに呼びつけたりと気ままな真美にすっかり健太郎は振り回されていた。
「何だよ。何かあったのか?」
トイレの目の前まで来て健太郎は中の真美に声をかける。予想外の行動を避けるよう、ドアにもたれかかりながら声をかけることを忘れない。するとドアにもたれかかっている健太郎は背中に圧力がかかったのを感じた。ドアを開けて健太郎をからかおうとすることが何となく予想できたため健太郎はそれを未然に回避することに成功した。
すると中からはチッと舌打ちする音が聞こえてきた。健太郎は先読みに成功した余裕からかニヤニヤしながら中に真美に再び声をかける。
「どうした? 何か問題でも起こったか?」
「くそっ、意地の悪い……」
「何もないならもう行くぞ?」
「ああ、紙がもうすぐなくなりそうなんだけど、どこにあるかわからないから持ってきてくれないか?」
真美のお願いとはトイレットペーパーが切れそうだから持ってきてくれというものだった。それにしてもなくなりそうだというのが、よくわからない。別になくなりそうだというなら今は大丈夫なわけだから自分はトイレに篭っていなくても、取りに行けるわけである。それに一緒に付いて行って、場所を覚えておけば何かと便利なのに。健太郎はそう思ったが、特にそれ以上考えることなくトイレットペーパーを取りに行った。
そして何ロールかを持ってトイレに戻ってくると中の真美に声をかける。
「持ってきたぞ。それでどうするんだ? ここに置いとけばいいのか?」
「ああ、ありがと。ついでだし中に渡して」
「中って。お前、今大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫大丈夫。駄目だったら渡してって言わないし」
「それもそうか。そんじゃ開けるぞ」
健太郎はそう言ってドアを開ける。するとそこには便座に座っている真美がいた。下着を下ろしたまま座っている真美はニヤニヤ笑っている。これで健太郎を驚かせてやろうという魂胆らしい。しかし元からこんなことだろうと想像していた健太郎は全然驚かなかった。何事もなかったかのようにトイレットペーパーを置いて外へ出る。想定外の反応に真美は口惜しがる。
「ちょっと! 何かあってもいいだろう?」
「何かとは?」
もう外へ出て、相変わらずドアにもたれかかってこれ以上開けられないように対策をしている健太郎は完全勝利を確信した。子供のような意地の張り合いだが、当人達にとっては本気の戦いである。どちらが思惑通りに掌の上で踊ってしまうのか。今現在では健太郎が優勢でことが運んでいる。これはあまりにも真美が恥じらいのない様子で行動してきたことが、健太郎に耐性を付けてしまったことも関係しているだろう。この状況が健太郎と千紗だったら今頃は両者赤面で気まずい雰囲気になっているところである。
「くそっ。千紗に言い付けてやる。ケンに大事な所を見られたって言ってやる」
「ちょっ、おまっ。何でそんなところに話がいくんだ!?」
思わぬ所へ話を持ち込もうとする真美に健太郎は必死になって焦りだす。こういう反応が見たかったんだと真美はほくそ笑む。もはや真美にとって健太郎は恩人から、からかって遊ぶ相手へと移り変わっていた。
「千紗〜。気を付けろ、ここに変態がいるぞ〜!」
「お前! そんなでかい声で変態とか言うな!」
「っていうか早くドア閉めなよ。本当に変態になっちまうよ?」
「わわっ!? すまん!」
真美に指摘されてやっと気付いた健太郎は急いでトイレの扉を閉める。トイレの中からは勝ち誇った笑い声が聞こえてくる。こんな感じで突っ掛かってくる真美に健太郎は半ば呆れていた。からかうのはともかくそれをお色気を通り越した次元でやるのはやめてほしい。もう少しデリカシーを持ってほしい。これが健太郎の切なる願いだった。
ここ最近の真美の行動を振り返った健太郎はため息を吐いてしまう。健太郎の願いは全く成就していない。たった今かまされた放屁などまさにその最たる例である。
回想から帰り、ため息を吐いていた健太郎の目の前では真美が煎餅を齧りながら尻を掻いている。しかも下着の中に手を突っ込んで、直にである。下着が手の分だけ伸び、チラチラと見てはいけない所が見えかけても相変わらず平然としている。
こんな体たらくを見ていると健太郎としては真美のことが心配になってきてしまう。千紗の時も心配事はたっぷりあったが、真美は真美で問題が山積みのようである。健太郎は現状を確認しようと真美にいくつか質問をしていく。
「なあ、外でもお前はこんな感じなのか?」
「んあ?」
煎餅を加えながら振り返る真美は何の用だと言わんばかりに不機嫌そうである。どうやらテレビが見たいようで、こっちの話に付き合おうという感じには見えない。
「テレビ見たいんだから邪魔するなよ」
そう言ってテレビに向き直る真美。あまりの態度の悪さに健太郎は少しイラっときてしまう。お前は一体何様のつもりだと怒鳴りつけてやりたいが、声を荒げると確実に喧嘩になるだろう。そうなると真美は真美で容赦なさそうだし、自分も真美相手に加減が出来るかわからない。何しろ全く女の子っぽさを感じさせないので本気で応じてしまいそうな気がする。そこで健太郎はとっておきの武器で真美に迫る。
「追い出すぞ」
「!?」
健太郎が放った一言で真美は過剰に体をビクッとさせる。そしてすぐさま健太郎の方へ振り返るどころか健太郎に詰め寄り、悔しそうな顔をしている。
「ひ、卑怯者。それを言ったらあたしは逆らえないだろうが」
「ふふん。武器は有効に使わないとな」
「ぐぐぐっ……」
口惜しそうに歯噛みする真美だが、現状は圧倒的に不利である。追い出されたら元も子もない真美は観念して健太郎の言うことを聞くことにした。
「それで何だよ。外であたしがどうしてるのか聞きたいのか?」
「ちゃんと聞いてるじゃないか。それでどうなんだ?」
「どうって今とあんま変わんないけど」
「お前は外でも構わず屁をこいたり、尻掻いたりしてるのか?」
「そりゃちょっとは配慮するけど我慢は体に悪いだろ?」
外では少しは配慮していると聞き、健太郎は安堵した。少なくとも開けっぴろげなままではないだけでまずはよしといった具合である。見てくれは悪くないどころか上質なだけにそういう態度が身に危険を招きそうで健太郎は心配していたのだった。その点に関して安心した健太郎は思わず言うつもりはなかったことを口走ってしまう。
「これでもう少し慎みがあればかなりいい女なのになあ。勿体無い」
「えっ!? いい女?」
健太郎が零したいい女という言葉に真美は過剰に反応する。あれだけやりたい放題していた真美がその一言で顔をあっという間に朱に染めてしまう。それだけでなくあたふたと慌て始め、落ち着きがなくなっていた。
「い、いい女って……。そんなわけないだろう。あたしがいい女だなんてそんな……」
そう言いながら体をくねらせる真美はいつもとのギャップもあって非常に可愛らしかった。どうやらあまりそういう風に言われたことがないらしい。
あれだけ恥じらいのない様子を見せ付けていた真美の思わぬ態度に健太郎は、
「弱点見っけ」
と頭の中にこの一事を記憶させるのだった。
夜、健太郎達はバイトから帰ってきた千紗を加えて晩ご飯を食べていた。キッチンのテーブルで済ましてしまうわけだが、三人も席に着くと皿がたくさん並び、少し窮屈であった。一番真美が場所を取り、次に千紗、そして健太郎に関してはおかずが一つの皿にまとめられてしまっている。
「おい、別に一つにまとめなくても余裕あるだろうが」
健太郎はあまりの扱いに抗議を始める。彼が言うとおり、別にそこまでしなくてもスペースはまだ空いている。不当な扱いを受けている健太郎の抗議はもっともなことであろう。
「男なんだから細かいこと気にすんなよ。モテナイぞ」
真美のその言葉を千紗は心の中で否定した。一人とんでもない劣情を持て余してる程の女性がいますと。そんなことなど全く知らない真美と健太郎は俺だってちょっとはだとか全くないだろだとか言い合いを続けている。馬が合うのか合わないのかよくわからない二人だと千紗は思ったが、結局喧嘩する程仲がいいということなのだろうと納得した。確かに喧嘩はするがそこに険悪な雰囲気は感じられない。だいたい本当に仲が悪いなら口だけで留まらずとうの昔に健太郎は真美を追い出しているだろう。
だが、真美を追い出そうという気がない健太郎の心を知ってか知らずか真美の所業は我侭だった。まるで自分は追い出されないと悟っての行動かと思うぐらい大胆である。
「だいたいね、ケンは女の子をもっと大事にするべきだ。場所の広さぐらいでガタガタいうなよ。ねえ千紗?」
「えっ!? う、うん」
突然話を振られた千紗はよく考えずに返事をしてしまう。そして暫くしてから質問の内容を悟ってあたふたするのが常だった。
「ち、違う。私そんなこと……」
「千紗まで……。俺の家なのに」
もはや浅井家における主導権は真美が握っていた。そしてそのおこぼれのような形で千紗が続き、健太郎は徐々に肩身が狭くなっていた。住まわせてもらっている自分達が好き勝手に振舞って申し訳ないと思いながらも千紗は真美のある限り健太郎の立場はこれから先も小さくなっていくんだろうなと思った。