第七章 大型新人
第七章 大型新人
千紗が浅井家に住み着いてから実に一ヶ月余りが経過した。その間は千紗がバイトを始めるなど変化があったが、それでも特に何も問題なく日々が過ぎていっていた。
季節は六月。そろそろ天気がすっきりしない日も増え、徐々に蒸し暑くなってきた。千紗の地元は割りと寒冷な地方らしく慣れない暑さに苦しんでいた。
「暑いです〜。べたべたして気持ち悪いです〜」
リビングのソファーに寝そべりながら、だらけ切った声を出す千紗はもうすっかり浅井家に馴染んでいた。暑いと言いながら寝そべるなどかつての千紗からは考えられない程の態度である。
最近はまだ目立って気温が高いわけではないが、今日はよく晴れて気温が上がったし、更に高い湿度によって蒸し暑さは今季最高かもしれない程だった。そのため千紗はTシャツをだらしなく捲り上げてへそが丸見えになっている。
蒸し暑さが増すにつれて露出が多くなる千紗に健太郎は目のやり場に困り始めていた。なまじスタイルが抜群なだけに厄介なものであった。
「おい、ちょっとは恥じらいを持て」
こう健太郎は毎回注意をするのだが、千紗は一向にそれを聞き入れる気はない。以前であればその指摘に顔を赤らめながら、服装を直しにかかるのであったが、もう今では慣れたのかそんな様子も見せない。
「でも街ではこんな格好で歩いている子結構いますよ?」
それどころかこんな屁理屈を捏ねては健太郎の指摘を却下する。最近はバイト代が入ったためか服やアクセサリーなどを買うようになった千紗はもう世間知らずな田舎少女ではなくなっていた。雑誌も読んでいるようだし、時折CDを買ってくる姿も見受けられた。
健太郎としてはそんな変化を好ましく見ていたのだが、あまり調子に乗られると不安も増える。何だかんだ言ってまだ一ヶ月しか経っていないのである。まだ単純なところや純朴なところははっきり残っているし、その上でハメをはずしすぎると何かトラブルを起こしそうで心配なのである。そんな健太郎の様子はまるで急に色気づき始めた娘を心配する父親のような姿である。
「はあ……。頼むから危ないことだけはするなよ? まあ、色々なことに興味が涌くのはわからんこともないけどな」
「大丈夫ですよ。ちゃんと弁えています」
そう返事をする千紗を今は信じるしかない。健太郎としては出来る限り千紗に都会での生活を楽しんでほしいのだからそれを抑圧することはしたくない。何とも難しい問題だった。
そんな風に健太郎が悩んでいると千紗は突然ソファーから起き上がり、リビングを出て二階へと上がっていく。いきなり何だと気になった健太郎は千紗の後を付いていく。健太郎が階段を上がっていくと既に階段を上がりきって自室へと入ったらしい千紗が部屋から出てきて、階段を降りようとするところにぶつかった。
「おい、いきなりどうしたんだ?」
千紗の不審な行動に健太郎は何をするつもりなのかを問いただす。
「今からちょっとコンビニに行こうかなと。アイスが食べたくなって」
「お前、俺の話聞いてた? 危ないことは止めろと言ったばかりだろうが」
千紗の行動に健太郎は苦言を呈する。女の子が夜道を一人歩きしようなどというのは危険な最たるものの一つである。千紗はどうやら自分の魅力に対する理解が不十分らしく薄着で外に出ようとしている。これはもう健太郎にとっては問題外の行動だった。
「とにかくもう夜十時なんだから駄目だ。アイスぐらい明日でもいいだろ」
「今食べたいんですよ。暑いじゃないですか」
「お茶でも飲んどけ」
「甘い物が食べたいんですよ」
千紗は全く引く姿勢を見せず、執拗に粘る。この辺りも以前ならば健太郎の言うことに従って今頃は渋々諦めてお茶を飲むなりしていただろうが、今では自分の意志をなかなか引っ込めない。良くなったとも言えるし悪くなったとも言える微妙な変化だった。
とにかく引く姿勢を見せない千紗に健太郎は苦慮していた。このままではいつまで経っても埒が明かない。どうにか千紗が納得して自分も納得できる着地点を探したいところであったが、なかなかそれが浮かんでこない。千紗があの様子である以上解決は健太郎の方で行わなければならなかった。
「そんなにアイスが食いたいのかよ」
「食べたいです。私の田舎に比べると種類がすごい多くてどれも食べたくなっちゃいますよね」
幸せそうに頬を緩ませる千紗を見ていると健太郎としては禁句と分かっていてもあの言葉を言わざるを得なかった。
「……太るぞ」
その言葉を聴いた瞬間、千紗の動きが止まる。そしてゆっくり健太郎の顔へと視線を動かし、にっこり微笑む。しかしその表情は明らかに怒りを感じさせるものだった。
「健太郎さん。今、何て言いましたか?」
「あっ、いや、すまん。失言だった」
本当は失言でもなんでもなく言おうとして言ったことだったが、千紗の威圧感に思わず謝ってしまう。どうやら今の禁句は純朴な少女ですら鬼へと変貌させる危険な単語だったらしい。
千紗ですらこの有様なのだから他の女の子の場合はどうだろうかと想像すると健太郎は何を間違ってもこれだけは言わないでおこうと強く肝に銘じた。
千紗を怒らせてしまった健太郎は明らかに自分が悪いのだからという詫びの気持ちと、ご機嫌をとるために千紗に一つの提案をする。そしてその提案は先ほどの問題のちょうどいい着地点になるのではというものであった。
「本当にすまん。お詫びとして俺がコンビニまで一緒に行くよ」
「えっ? いいんですか?」
健太郎の思わぬ好意に千紗の怒りはたちどころに消えていった。健太郎に対して放っていた静かな威圧感、圧迫感もまた消えていく。
「ああ、そんなに食べたいんだったら仕方ないもんな。でも程々にな」
「あ、ありがとうございますっ!」
先ほどまでの怒りはどこにやら、高速で頭をペコペコ下げながら千紗は喜びと感謝の気持ちを表す。
そんなに頭を下げられると逆に居心地が悪くなってしまう健太郎は千紗に少し待っていてくれと言い残して自室へ向かう。部屋に入るとテキトーに財布やら家の鍵やらを持ってポケットに入れる。そして再び廊下へと出て、千紗に準備が整ったとアピールをする。
「待たせたな。それじゃ行くか」
「はいっ。行きましょう」
健太郎の準備が整ったのを見ると千紗は喜び勇んで玄関まで駆け出す。そこまでアイスが楽しみなのかと健太郎は苦笑しながらも千紗が子供のように喜ぶ姿を見ると満更でもない気分になっていた。
(本当に俺、爺くさくなったなあ)
まるで娘のはしゃぎっぷりに目を細める父親のような感じに今度は自分に対して苦笑してしまう。同じ年頃の女の子と二人きりだというのに何で甘酸っぱい空気ではなく、こんな和んだ空気になるんだろうと思いながら健太郎も玄関へと向かう。
「健太郎さん。早く行きましょう。夜遅くなっては危険です」
だったら行かなけりゃいいじゃないかと言ってしまうとまた険悪な空気になってしまうので健太郎はわかったわかったと言うが、内心不満である。早く行きたいからともっともらしい理由を付けて人を急かすのは止めてほしいものである。
そんなことを思いつつも、靴を履き終えた健太郎は千紗が愚図らない内に早く行こうと玄関を出る。
「そんじゃ行くか。公園近くのコンビニでいいか?」
「はい。どこでもいいです」
とりあえず行き先を決めた二人は玄関の鍵を閉めて、歩き始める。湿気の多いムッとした空気が纏わり付くが、幸い雨が降りそうな気配はなかった。
暗い夜道ではあるが、千紗はそんなことなど全然気にした風もなく歩いている。
「よく女の子の方からこんな暗い夜道を歩こうなんて言うなあ。怖くないのか?」
「だって私の田舎なんて何にも見えないんですよ。それに比べればへっちゃらですよ」
明るさ暗さ云々の話ではないと健太郎は言いたかったが、もうここで暮らし始めて大分経つのだから比較的安全な道、危険な道ぐらい弁えてるかとそれ以上は特に話を続けなかった。
公園近くのコンビニまではそんなに距離はない。それでもホームレスが住み着いている可能性のある公園があることを思うとやはり気は抜けない。どんな人間がいるかわからないから極力物音は出さないで通過したいという狙いもあって話を打ち切ったのだったが、千紗はそんな狙いなど微塵も悟らずにボリュームを下げないまま話しかけてくる。
「もうすぐですね。ああ、早くアイスを食べたいです〜」
「馬鹿っ! やかましい!」
小声で怒鳴るという芸当を披露しながら健太郎は千紗の頭を軽く小突く。突然頭を小突かれた千紗は恨みがましい顔で健太郎に抗議をする。
「痛いじゃないですか! いきなり何ですか!?」
「だからやかましい。音量を下げろ。ホームレスがいるかもしれないだろう」
健太郎のその言葉に千紗を周囲を見回す。もう既に公園へと差し掛かっていることはコンビニしか眼中にない千紗にはわかっていなかった。今更気付いたといった様子で声の音量を下げ始める。
「そうでした。もう公園に差し掛かっていたんですね」
「そうだ。だから黙ってさっさとコンビニに行くぞ」
「はい」
そう二人で意見を一致させるとどちらからともなく小走りで公園横を通り過ぎる。公園さえ通り過ぎればコンビニはすぐそこである。小走りによって少し汗ばんだ二人は冷房の涼しさも求めつつコンビニへと向かう。
コンビニの扉を開けると冷気と共に夜のためか少しだれているらしいバイト店員のやる気のない挨拶が二人を出迎える。店内に入った二人はまずはアイスの場所に向かうのではなく、ついでだからと何か要る物はなかったかを調べるため店内をぐるっと回る。
特に必要な物はなかったが、今後の夜のお供にと適当に菓子を見繕い、そしてその後は千紗お待ちかねのアイスである。アイスがたくさん入っている容器を眺めていると千紗は幸せそうに微笑んでいる。見ているだけでも幸せといった様子である。それでも待っている方は早くしてほしいものである。健太郎は決めかねているように見える千紗を促すために声をかける。
「おい、どれにするんだ?」
「あっ、はい。あの、ちょっと迷っちゃって」
「まあ気の済むまで選べばいいさ」
あまり急かすのも可哀そうかと思い直して健太郎は時間つぶしに雑誌コーナーへ行くことにした。どうせ千紗のことだから選ぶのに時間がかかるだろう。そう思い健太郎は適当に雑誌を見繕って読み始める。
最初はマンガ雑誌を読み、気に入っている作品だけを読み終えるとまだ千紗は迷っていた。一体いつ決めるんだと思いながらも健太郎はまだ大丈夫かと次はこっそりエロ雑誌を読み始める。はっきり言って危険な行為ではあるが、そう直ぐにはアイスを決めれないだろうと高をくくった健太郎はページを捲っていく。
「そういえばあいつが来てからこういった類の雑誌を読んでなかったからなあ。微妙に懐かしい……」
女連れの男が読むものではないが、健太郎は気にせず読み続ける。どうせまだ決められないだろうと思い続けていた健太郎だが、その実結構時間は経っていた。そんなことには全く気が付かない健太郎はますます本に夢中になっていく。
「おお……。千紗に勝るとも劣らないスタイルだ……」
「誰がですか?」
「この子だよ……。うおおおっ!?」
突如背後から独り言に加わってきた千紗に健太郎は驚愕する。あまりの驚きぶりに本を閉じるのも忘れていた。彼の手には怪しい雑誌がそのまま握られている。
健太郎の背後から声をかけた千紗は健太郎の手に握られたままの雑誌をつい見てしまった。その瞬間、もう既に会計を終えたのか握っていたビニール袋を落とし、顔を真っ赤に染める。
「な、何てものを見てるんですかっ!」
「はっ!? し、しまった」
自分の手には開かれたままの雑誌がそのまま残っていることに気が付いた健太郎は急いで本を閉じて、それを棚に戻す。そして何もなかったように口笛を吹きながらすました顔で誤魔化し始める。
「ああ、もう選び終わったのか? そ、それじゃそろそろ帰るか」
「……。ええ、帰りましょうか」
深くは突っ込まないものの、明らかに警戒した様子を見せている千紗に健太郎はへこんでしまう。これならまだ詰られた方が幾分かマシである。さらに失望したといった表情までおまけで付いてくるのだから尚更堪らない。
こんな険悪な雰囲気でコンビニを出た二人は若干離れて道を歩く。千紗が前、その後ろを健太郎が歩くといった構図は傍から見るとストーカーに見えなくもない。そのことに気が付いた健太郎は急いで千紗の横に並び、一緒に歩き出す。
「何ですか。近寄らないで下さい」
「まあまあ。そう怒るなよ。あれぐらい男なら誰でも読んでるって」
「それはわかりますけど。女の子と一緒に出掛けてる時に普通読みますか?」
くどくど説教を始める千紗に健太郎はため息を吐いてしまう。コンビニまでよかれと思って付いてきてあげたのにこの仕打ちとはと思うが、確かにデリカシーのない真似をしたかなとも思う。
そんな負い目からか健太郎はもうあれこれ口を挟むことなく千紗の言いたいようにさせておいた。もうすっかり立ち止まってしまい、説教を続けている千紗は健太郎が神妙に聞いているのに気が付くと、口を押さえて顔を赤らめる。
「す、すみません。こんな偉そうに説教するつもりなんてなかったんですけど……」
「いいさ。俺が悪かったんだ。許してくれるか?」
「は、はい。私こそすみません……」
突然の終止符におかしな空気になってしまった二人は立ち止まりながら苦笑いをしている。とりあえず険悪な雰囲気からは脱せたのだと健太郎は胸を撫で下ろす。
あまり暗がりでいつまでも立ち止まっているのは危険だと感じた健太郎は千紗にそろそろ帰ろうと言おうとした刹那、人の気配を感じた。辺りを見渡すとそこはひっそり静まり返った公園。だが、健太郎は確かにそこに人間の気配を感じていた。
「おい千紗……。誰か公園にいるぞ」
「えっ? 公園ですか?」
健太郎の言葉に千紗はきょろきょろと辺りを窺う。だがそれでも目に見える範囲には誰もいない。
「誰もいませんよ?」
「いや、多分あの樹辺りに隠れてるんだろう」
そう言って健太郎は公園に生えている樹を指差す。その指の指す方を追って千紗も目をそちらに向ける。するとそこには樹から微妙に衣服が見えていた。それに気が付いた千紗は思わず健太郎の後ろに隠れる。
「け、健太郎さん……。だ、誰かいます」
「なっ、だから夜に出歩くのは危ないんだよ。これでわかっただろ」
「こっちに来ないでしょうか」
「大丈夫だって。二人組みだし。それに男がいるなら尚更だ」
健太郎は千紗を安心させるために気丈に振舞うが、その実不安もあった。相手がホームレスで切羽詰っていた場合相手に構わず、向かってくるかもしれない。健太郎は警戒をしながら、徐々にその場を離れようとする。
「いいか千紗。ゆっくりゆっくりここから離れるぞ。相手を刺激するなよ」
「わかりました」
そう打ち合わせた後、二人は公園から離れようとゆっくり移動を始める。相手を刺激しないようあくまでゆっくりと移動する。こんな時に限って誰もこの付近を通らない。そのことが余計に二人を不安にさせていた。
何事もなくこの場を離脱できるだろうか。そんな不安に駆られながらも二人は確実に公園から離れていっている。そしてもうすぐ安全圏だというその瞬間、樹に隠れていた何者かが樹から離れて二人へと接近してきた。
最悪の展開になってしまった。不審者はかなりのスピードで追いかけてくる。もうこうなってはこっそりなどと言ってられない。二人は全力でその場から駆け出す。
「くそっ! 何でこんなことに」
「早く、早く逃げましょう! 健太郎さん」
駆け出した二人だったが、徐々に相手は接近してくる。どうやら相当足が速いらしく稼いでいたアドバンテージをあっという間に詰めてくる。何とか逃げ切りたい二人だったが、健太郎が少しずつ遅れ始める。
「健太郎さん! 頑張ってください。もうすぐお家ですよ!」
「お、おう。大丈夫だ。ゼェゼェ……」
息を切らせながら駆け続ける健太郎だったが、ようやくゴールが見えてきた。自宅が目に映ったことで健太郎に最後の気力が涌いてくる。
「追いつかれてたまるかあぁぁああっ!」
夜分に迷惑な大声で健太郎は気合を入れる。ラストスパートをかけて不審者を振り切ろうと必死に足を上げる。
「健太郎さん! 早く家の中にっ!」
もう既に家へと到着していた千紗は鍵を開けて、健太郎を呼び込む。健太郎は全力で残りの距離を駆け抜け、家へと飛び込む。健太郎が家の中に入った瞬間、千紗は扉を閉めて鍵もかけてしまう。そして玄関で倒れこんでいる健太郎を尻目に今度はリビングへと向かい、窓の鍵も閉める。これでとりあえず窓を割るなどの強行に出ない限り、不審者が入り込んでくる恐れはない。
ひとまず安心した千紗は玄関で倒れこんでいる健太郎を思い出し、玄関へと向かう。するとそこには汗でびしょ濡れになった健太郎が荒い息で寝転んでいる。
「健太郎さん。大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ……。それにしても不甲斐無い」
「そんなことないですよ。健太郎さんが気付いてくれなかったら不意を突かれて逃げることも出来なかったでしょうし」
「それより……、外にはもう誰もいないか?」
そう言われて千紗はまだ脅威が完全に去ったわけではないと気付いた。戸締りをしたからといって相手が諦めるというわけではない。千紗は玄関に横たわる健太郎を飛び越して外を窺う。
「えーと……。ああっ!?」
扉に付けられている小さな覗き穴から外を窺った千紗は驚きの声を上げる。明らかに異変があったと悟った健太郎は疲れきった体に鞭を打って立ち上がる。
「どうした? ちょっと代われ」
乳酸の溜まった足でよろよろしながら健太郎は千紗に代われと告げて穴を覗き込む。するとそこには疲れきったのか玄関のすぐ近くにある門にもたれかかりながら息を整えている者がいた。若干離れているのと暗がりのためはっきりしないが、どうにも薄汚れた格好をしている。
「多分ホームレスだろうなあ……。つーかお前よくあんなのがいる公園で暮らしてたな」
「あんな追っかけてくる人いませんでしたよ。……それでどうします?」
千紗は不安そうに健太郎に問いかける。その顔は通報した方がよいと言いたそうだったが、自身もホームレスをしていたこともあってか言葉は弱々しい。ホームレスをしていた挙句に逮捕では少々可哀そうとも思ったのであろう。
それを察した健太郎はもう一度よく外にいる不審者を確認する。するとその不審者は何を思ったのか家へと近付いてくる。健太郎は思わず緊張のあまり唾を飲み込むが、近付いてくるにつれ意外な事実が判明した。
「女の子?」
「えっ?」
健太郎が呟いたその言葉に千紗は首を傾げる。女の子のホームレスというと自分のことが真っ先に頭に浮かぶが、見知らぬ人を追いかけようなどとは思ったこともなかった。
「本当に女の子ですか?」
そのことが信じられない千紗はもう一度健太郎に尋ねる。しかし返ってくる返事は一緒だった。健太郎は首を縦に振って肯定の意を表す。
「お、おいっ。もう目の前まで……」
健太郎がそう慌てると扉をノックする音が聞こえてきた。弱々しく扉を叩く音は恐怖よりも哀れさを伝えてくる。
どうするかといった具合に健太郎が千紗に目線を送ると千紗はお任せしますと目配せをする。責任を丸投げされた健太郎は一つため息を吐くと扉を開ける。相手は弱った女の子だし、危険は少ないだろうと判断した結果だった。
扉が開くなり、目の前にいた少女は玄関に倒れこんでくる。
「う、うわっ! おい、大丈夫か!?」
「み、水と……。何か食べる物を……」
倒れこんできた少女は慌てて抱きとめた健太郎に対して弱々しく水分と食料を求めてくる。健太郎としてはその前に色々と問いただしたいことがあったが、このままにしておくわけにもいかず、千紗にとりあえずお茶を持ってくるように頼んだ。
千紗はその頼みを受けて、台所へ走っていく。その間に健太郎はとりあえず名前ぐらいは確認しておこうと名前を尋ねる。
「ところであんた、名前は……?」
「あ、あたし……? 山中……。山中真美っていうんだけど」
途切れ途切れの声で何とか名前を言い終わった真美は激しく咳き込む。喉がカラカラに渇いているのであろう。健太郎はそれ以上は喋らなくていいと手で促す。
そうこうしている内にコップにお茶を注いできた千紗が急いで玄関へと帰ってくる。健太郎は千紗が持ってきたお茶を受け取ると、真美にコップを渡す。
「ほら。とにかく飲んで」
「あ、ありがとう……。んぐっんぐ……」
お茶を凄い勢いで飲み干していく様子に健太郎はとりあえずこれで大丈夫だろうと安堵する。まだ油断は出来ないものの、別段悪い人間には見えない。あとは話を聞いていけばいいだろうと見通しをつけていた。
「ぷはーっ! 生き返ったあっ! ホントに死ぬかと思った」
実に美味いといった具合に息を吐く真美は喉の渇きも癒え、声に張りも出ていた。真美は暫く水の美味さの余韻に浸っていたが、ふと健太郎と千紗の視線が自分に集中していることに気が付く。そう言えば名前を言ったぐらいで他に何も話していないなと真美は思った。特に千紗に至っては名前すら聞いていない。
「ああ、ごめんごめん。何にも詳しいこと話してないのに上がりこんでたら気になるよな」
千紗とは違い、言葉遣いがやや荒っぽい真美は特に畏まることもなく姿勢を崩したまま、そう話し始める。怖気づいたり、緊張したりといったような様子は微塵も感じさせない。そういった点では全く千紗とは違うなと健太郎は感じていた。千紗の場合は逆に畏まりすぎるぐらいである。
同じホームレスでもここまで違うものかと健太郎が考えていると真美はゴホンと一つ咳払いをして場の空気を整える。そして口を開き始めた。
「あたしは山中真美って言うんだ。ちょっと訳があって家出してたんだけど、食べる物にも飲む物にも困ってさ。それであんた達を見かけたから何か恵んでもらおうと思って追いかけたんだ」
「俺は浅井健太郎。この家の家主ってことになるのかなあ、現状では。両親が不在だからな」
「そして私は石川千紗です。一ヶ月ぐらい前にホームレス暮らしから抜け出して今はこの家に厄介になってます」
真美の自己紹介に健太郎と千紗もそれぞれ自己紹介を返すと真美は首を傾げる。どうやら気になることがあったようだ。
「なあ、あんた今ホームレスやってたって言ったな。それで今はこの家で暮らしている……」
「は、はい。そうです」
「ということは……」
千紗の返事を聞くと何やら考え込んだ真美は今度は健太郎の方へ顔を向け、ニヤリと笑う。その笑みに健太郎はとてつもなく嫌な予感がしていた。
「あんた恵まれないホームレスの救出事業をやってるのか? あたしも救ってくれよ」
「断じてそんなことはやってない!」
いきなり滅茶苦茶なことを言う真美に健太郎は語気強く否定する。既に千紗一人面倒をみている時点で両親に大分迷惑をかけてしまったと思っているのにその上更に一人など考えられない。更にまるでそれを生業のごとく言われたのでは堪らない。
「頼むからあたしをこの家に置いてくれよ。家には帰れないんだよ」
「何でだよ。遠いのか?」
「いや、すぐ近く」
「帰れよっ!」
家がすぐ近くにあるのに何故自分の家に上がりこもうとするのかと健太郎は吼える。家が遠くで更に可哀そうな事情もあったので千紗は何とか助けてやりたいと思ったが、さすがに今回は感情的にも理屈的にも無理だった。
「何だよっ! か弱い乙女に帰れとか酷くないか!?」
「図々しい女には水をあげただけでも十分だ」
「あの〜……」
言い合い繰り広げる健太郎と真美の間に入って千紗は声をかける。それまで静かにしていた千紗が突然割り込んできたので、何事かと二人は言い合いを中断する。
二人が黙ったのを見ると千紗は真美に向かって疑問を投げかける。
「家出したってさっき言ってましたけど、原因は何なんですか?」
「あっ、そう言えば詳しいこと話してなかったな。それにしてもあんた優しいね。ちゃんと理由を聞いてみようと思うあたり、この男とは全然違うね。こいつなんか頭から駄目だ駄目だの一点張りだもんな」
「ああ、そうだな。というわけで駄目なもんは駄目だ」
「実はあたしの家さ、親父が再婚することになったんだけどどうしても新しい母親っていうのが受け入れられなくて、家を飛び出したんだ」
真美は健太郎を無視して千紗に事情を話し始める。無視された健太郎は少し腹が立ったが、親の再婚に関しての意見の相違や感情の問題と意外にまともな理由なので態度を改めようと思った。それまでの頑なな態度から少し態度を柔らかく変えていく。
「それでどのぐらい家に帰ってないんだ?」
「もう二週間ぐらいになるかなあ」
「二週間って一番辛い時期ですよね。徐々に食べ物に困り始めて。一ヶ月ぐらい経つと耐性が付いてるんですけど」
「あんた一ヶ月もホームレスしてたの!?」
千紗の衝撃の発言に真美は驚く。ここ最近では身なりもかなり良くなってきた千紗はもうホームレスの面影などとうに無くなっている。見た目が落ち着いた美人なだけにホームレスをしていたというだけでも驚きだが、それが自分よりも長い期間ホームレスをしていたのだと知ると真美は上には上がいるものだと妙な悟りを開いた。
「すごいねあんた。あたしは一ヶ月も耐えられそうにないよ。ねえ、だから住まわしてくれよ」
そう言って真美は健太郎に拝み倒し始める。そう下手に出られると健太郎としては無碍に断りにくくなってしまう。先ほどまでは断固として拒否しようと思っていたのが、徐々に悩み始めることになってきた。
「でもなあ。もう千紗も住まわしてるのにこれ以上は……」
「ちゃんとバイトもして稼ぐからさ。な、頼むよ」
「って言うか両親と和解しなよ。それが手っ取り早い」
よくよく考えれば和解して家に帰るのが一番いい展開である。そう思って健太郎は提案するが、その提案に真美は首を横に振る。
「そんなことが出来るなら今頃家に帰ってるよ」
「それもそうだよなあ……」
健太郎は頭を掻いて悩む。徐々に流れは真美がこの家に住むことになるという方向に向かっていた。千紗一人ならば良心の訴えに素直に従って住まわせたが、これ以上となると色々考えることも多くなる。
健太郎としてはこれ以上真美にホームレスをさせるのは千紗の時と同様に避けたい。千紗よりは遥かに逞しいとはいえやはりそこは女の子である。危険が迫る不安はある。そう考え始めてしまうともう健太郎は受け入れる気になってきてしまう。両親への説明など諸々は自分がちゃんとすればいいかと思うようになってきていた。
「まあ、いいか。やっぱり何だかんだいってホームレスなんて危険だし」
「マジでっ!? よっしゃーっ! あんた話がわかるな」
喜びを爆発させる真美を見るとやはりこれでよかったんだと思う健太郎だが、その一方で何だか女を複数連れ込んでいる嫌な男のようにも自分が思えてくる。何とも複雑な心境だった。
「何か食べる物ない? もう腹が減ってしょうがないんだよね」
「飯よりも先にまず風呂に入ってくれよ……」
汚い身なりのまま家の中にズカズカ入り込んでいく真美に苦言を呈しながらも健太郎はこれで家の中がより一層明るくなるんだろうなという楽しみや両親への罪悪感などが混在した複雑な心境になっていた。