第六章 初体験
第六章 初体験
土曜日の間に簡単な模様替えを済まし、日曜日も買い物や家事等であっという間に過ぎ去った。そして本日は週初めの月曜日。健太郎は大学生なわけで、当然学校に行かなければならない。だが、健太郎の頭には懸念が残っていた。それは千紗をどうするのかということだった。
幸い先週は週末にバイトを入れてなかったこともあって千紗が一人で家に残されるということはなかった。だが学校があるとなっては当然千紗は一人で留守番ということになる。
千紗も一人でホームレスをしながら生き抜いてきた立派な大人である。そこまで心配する必要もないかと健太郎は考えたが、やはり不安も付き纏う。なんと言っても極端に人が良い千紗のことだ、怪しい訪問セールスがもし訪ねて来ようものなら一発で騙されそうな気がしてならない。それ以外にも未だ住み始めて浅いこの家を一人で任されるのは生真面目な千紗にとっては不安材料であろう。双方にとって不安が満載である。
だからといってまさかまたサボるわけにはいかない。完全な八方塞である。
「どうしようかなあ……」
誰に呟くともなく健太郎は言葉を虚しく空気中に発する。こんな言葉を発してみたところで何も解決しないことは分かっているが、それでも呟かずにはいられない。それほど健太郎にとって深刻な問題だった。
そんな風に健太郎がキッチンで考え込んでいると寝惚け眼を擦りながら千紗がキッチンに入ってきた。
「おはようございます……」
半分まだ夢の世界に足を突っ込んでいるのか、ゆらゆらと揺れながら歩いている。不安な足取りで歩いていく千紗を見ていると健太郎はますます千紗を一人にするのが不安に感じてきた。だいたい田舎から出てきて一人でやっていこうとした挙句にホームレスになった経緯を
考えるとやはり一人にしてはいけない人物であるとの判断に徐々に傾いていく。
健太郎はこうして結論を一人にしておけないというものに定め、今度はどうして千紗を側に置いておくかを考え始める。それを実現するには方法は一つしかない。大学に連れて行くということである。大学ともなると高校までとは違って比較的人間が多く、更に違う学科ともなると顔見知りすらいないということもある。まだ大学に入ってから一ヶ月余りの健太郎は顔見知りも少ない。不審に思われることはないだろう。
そして健太郎は次に今日の授業を頭の中に思い浮かべる。今日は午前から英語、日本史学、そして午後から日本倫理思想史というスケジュールだ。日本史好きが高じて日本文化学科に進んだ健太郎としては英語などやりたくはないが、必修のため避けては通れない。そして何よりこの科目は出欠をしっかり取るという点でも厄介だった。欠席をするわけにもいかない。だが、千紗が紛れ込むことも出来ない。他の授業は出欠を取らないので紛れ込んでも恐らく気付かれることはないだろう。まず目下の障害は英語だった。そしてこいつは朝からあるためタイムリミットも目前である。
「なんとかばれないように出来ないかな」
「何をですか?」
健太郎の独り言に千紗が加わってくる。どうやら眠気はようやく覚めたらしくそれなりにしっかりした口調である。
「何ってどうやってお前を学校に連れて行こうかと……」
「えっ!? 私、学校に行くんですか?」
驚いたと言わんばかりの顔で千紗が質問してくる。その反応を見て健太郎は今更ながら千紗の考えを聞いてなかったと思い至った。勝手に一人で話を進めていたことに気付いた健太郎はすまんすまんと手で謝りながら自分が考えていたことを説明していく。
「悪い、お前に話すの忘れたわ。今日、俺は大学に行かなきゃならんわけだが、そうなると家にはお前一人になる」
「そうなりますね」
「だけど正直お前を一人にすると不安が一杯だ」
「ひどい言い草ですね」
「まあ、それに退屈だろうしな。まだお前の部屋にはCDもなければ本もないわけだから」
「そうなると私は大学に付いて行くことになりますよね」
「結論から言うとそうなるな」
説明をしていっても特に千紗には嫌がるような様子はない。これは簡単に了承は取れるかと思った健太郎だが、ここでも千紗の真面目さは健太郎の前に立ちはだかる。
「でも私は学生じゃないですよ? 入れないですよ?」
「あ〜、それはだなあ……」
思わず健太郎も言葉に詰まってしまう。よくよく考えれば真面目な千紗が無断で大学に紛れ込むなどという行為をするとは思えない。千紗の遠慮しがちな態度は説きえたものの、これに関しては完全に大学からすれば規則違反なわけだから正当性がない。なかなか筋道を立てて説くのは難儀そうである。そう思った矢先に健太郎の頭に名案が浮かんだ。
「あれだ、オープンキャンパスみたいなもんだと思えばいいんだ」
健太郎はこれはいい理屈だろうと自分で自分を褒めた。確かに勝手に紛れ込むのはよくないが、大学の参考資料としてならばそれなりに正当性はあるだろうという考えだった。それでも結局大学に許可を取っていないわけだから根本的には何も変わってはいないのだが。
「千紗だって大学を見てみたいだろう? これも一種の社会勉強だな」
とりあえずまず千紗を納得させてから、最初の授業である英語の対策を考えなければならない。だから健太郎としてはこんなところで時間を取られている場合ではないのだが、そもそも千紗を説得し得ないのでは英語の対策を考える意味もなくなる。
健太郎は一気に千紗を納得の方向へ転がらせようと畳み掛けていく。
「それに大学だって一人でも生徒を獲得したいんだから宣伝は出来るに越したことはないはずだ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろう。学生が入ってこないと運営できないんだから」
「そうですよねえ。う〜ん……」
悩む千紗を見て健太郎は徐々に焦りを見せ始めた。そろそろ大学に行く準備をしないといけない。それまでの間に今度はどうやって千紗を英語の授業に潜り込ませるかを考えなければいけないとやることはまだたくさんあるのだ。
「それに何だかんだ言ったってお前だって大学を見てみたくないか?」
「えっ? それは見たいですけど……」
「それなら行けばいいさ。見学だ見学」
「いいんでしょうか?」
大学を見てみたいかそうでないかと言われるとどうやら千紗も興味があるらしく、心は未だ揺れてはいるものの明らかに罪悪感よりも興味の方へと意識はシフトしていっている。ここが好機と見た健太郎は力押しに攻め立てる。
「教える側だってどうせやるんなら一人でも多い方がモチベーションも上がるってなもんだ。だから行こうぜ」
「そういうものでしょうか。それなら行ってみようかな」
「おお、行け行け。家でじっとしているよりもよほど意義があるぞ」
「はい。それじゃあお世話になります」
「よし決定!」
こうして話をまとめた健太郎は今度はどうやって英語の授業に千紗を潜り込ませるかを考えなければならない。だが、時間を見るともう危ない時間帯だった。移動しながら考えるしかない。そう悟った健太郎は千紗に支度をするよう指示する。
「とりあえずお前はまず着替えろ。すぐ出なきゃいけないからな」
「わかりました」
千紗は聞き分けよく返事をするとすぐにキッチンを出て、部屋へと向かう。既に着替え終わり、支度は整っている健太郎は改めて対策を練ることにした。千紗の支度が終わり次第すぐに家を出なければならないため余裕はさほどない。大学までは約二十分の距離。タイムリミットは三十分ほどといったところか。
まず健太郎は千紗を連れて教室に入った場合を考えてみる。英語の授業は学科ごとで受けるため、ほとんど顔見知りである。だから見知らぬ女の子を連れて入って行こうものならすぐに注目の的だろう。それだけでも下策だが、さらに出欠を取っていくとまず教師にも発覚することは間違いない。これは現実的に採りえない策である。
そうなると今度はとりあえず英語の時間だけはどこかで大人しくしてもらっていて午後からは同伴で授業を受けるという形が浮かんでくる。
「これしかないように思えるけど……」
そう呟く健太郎だが、この案には不安も大きい。第一家に残しても不安が残る千紗を英語の間だけとはいえ一人にするのだから無理もない。構内で迷子になりかねないし、何か想像もつかないトラブルを巻き起こしそうな予感がする。健太郎はとりあえず中策としてこの案を保留にしておいた。
「だけど他に案なんてあるのか?」
八方塞といった様子で悩みこむ健太郎。やはり家に残らせる方が一番マシだったかもしれないとも思ったが、何とか説き伏せた手前今更残れともやはり言い辛い。こうなると何とかよりよい方法を考え付いて、切り抜けるほかない。健太郎は頭を抱え込んで必死に知恵を振り絞る。
「一か八か英語の授業をこっそり受けさせるか? いや駄目だ、当てられた場合一発でばれる。……はっ!?」
徐々に焦りの表情を隠せなくなってきた健太郎は上から聞こえてきた音に敏感に反応した。どうやら扉を閉める音らしく、それは千紗の支度が終わったということだろう。予想外に早い支度にさらに健太郎は狼狽し始める。
「くそっ! あいつの準備は何でこうも早いんだ」
年頃の女なんだから化粧でもして時間をかけろと健太郎は毒づくが、千紗がそんなものを持っていないことはよくわかっている。
こうなるともう自棄だと健太郎は開き直って千紗を待ち受ける。
「こうなったら出たとこ勝負だ。とりあえず学校へ行くか!」
健太郎はそう吼えると鞄を持って玄関に向かい、千紗を待つ。階段を降りてきた千紗はTシャツの上にシャツを羽織り、下はジーンズというラフな格好である。何というか野生的で健太郎にとってはらしく思える格好なのだが、長い黒髪の似合う美人といった容姿のためアンバランスさも感じさせる。
何にせよこれは間違いなく目立つ、特に男子に凝視されるだろうと感じた健太郎はもう覚悟を決めた。もうこれは絶対に一人にしておけない。放っておけば大学内でナンパの嵐に遭うだろう。純朴な田舎少女では飲み込まれてしまうに違いないと簡単に予想できるだけに決断は
早かった。
「英語は休もう……」
出席を重視される授業のため痛手だが止むを得ない。千紗がこっちの生活に慣れるのにあと一週間もあれば大丈夫だろう。だから今回一回きりだと自分に言い聞かせて休むことへの罪悪感を和らげる。そうは言っても先週はそもそも学校自体を休んだのだから何を今更という感じではあるが、出欠を取られる授業を休むことへの罪悪感は何故か数割増に感じられてしまう。欠席が明らかにわかってしまうからであろうか。
とにかく午前中は千紗に構内でも案内して回るかと考えながら千紗と共に家を出る。しっかりと施錠をして、歩き始めると千紗はやはり明らかに楽しそうにしている。男である健太郎よりもむしろ早い足取りで歩いている。大学の学生でないなど真面目なことを言ってはいても
やはりそこは行けるものなら行ってみたかったのであろう。
「健太郎さん! 大学ってどんな所ですか?」
ハイテンションに質問を投げかけてくる千紗に苦笑しながら健太郎は答えていく。
「そうだなあ、とにかく広いってのがまず目に飛び込んでくるかな。高校なんて話にならないからな」
「そ、そんなに広いんですか?」
「高校とはそもそも生徒数が違うからな」
いちいち反応が大きい千紗に何かを教えていくのは非常に楽しい。健太郎はそう思い始めていた。自分の話に興味を持って食いついてくれるというのはこんなにも嬉しいものかと健太郎はある種人生の喜びを発見していた。これまでにも友達は数多くいたが、ここまで話に興味を
示してくれる人はそういなかった。妙なやり甲斐に燃えた健太郎は千紗の興味は逐一答えてやろうと静かに気合を入れた。
「大学には電車で行くからな。お前は電車には乗ったことあるのか?」
この質問には千紗は頬を膨らませて不満を顔一杯に表す。どうやら田舎者と侮りすぎたようだ。そもそも田舎からここまで出てきたのだからその時点で電車に乗っているだろう。完全に気合が空回りした結果だった。何でも教えてやろうと意気込み過ぎである。
「で、電車ぐらい乗ったことありますよっ! 馬鹿にし過ぎです!」
「す、すまん。今のは俺が完全に悪かった」
「バスだって乗ったことありますからね!」
「ああ、わかった。わかったからとりあえず落ち着いてくれ」
「全然話を聞く気ありませんね? 田舎者だって何でもかんでも知らないわけじゃないんですよ」
「だから落ち着けって。周りが見てる」
「えっ?」
それまで大声で捲くし立てていた千紗は健太郎に言われて周りを見渡す。すると何の騒ぎかと数多の視線がこちらに突き刺さっていた。結構な人数が何と言っていたかわかっているようで笑いを堪える者、堪えきれずに友達と一緒に笑っている者など様々な反応が千紗の視界に
入った。
それらの反応を理解した瞬間千紗の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
「き、きゃああぁぁぁぁぁあっ!」
真っ赤になった顔を両手で隠しながら千紗は叫んでその場から離脱する。突然の奇行に再び周囲の視線を釘付けにするが、あっという間にその場から消え失せた千紗の代わりに今度は周囲の視線が取り残された健太郎に突き刺さる。
「うっ、ま、待てよ千紗!」
その視線に居た堪れなくなった健太郎は千紗を追って駆け出す。気合を入れた結果、全てが裏目に出てしまった健太郎は一体自分はどうすればいいのかわからなくなっていた。
頭の中で納得のいかない感情が渦巻きながらもとりあえずまずは千紗を捕まえなければいけないと健太郎は千紗を追い続ける。
走って火照ったためかそれともまだ先ほどの羞恥が引かないのか顔を赤くしたまま両者とも鬼ごっこを続ける。田舎育ちのためかやけにタフな千紗に健太郎はなかなか追いつくことが出来ない。健太郎の顔は赤いどころかもはや汗まで噴き出し始めている。
「ま、待て千紗……。大学に行くんじゃないのか……。はあはあ……」
息が切れ、体力も尽き掛けてきた健太郎はとぎれとぎれに声をかける。女の子に競り負けたことが微妙に悔しいようだが、そんなことを顕わにすればまた難しいことになりそうだから健太郎は素直に待つよう呼びかける。
そのか細い声を聞いた千紗は走るのを止め、健太郎の方へ振り向く。こちらはまだ余裕綽々といった様子である。顔がわずかに赤いのはまだ高まりきった羞恥心が冷めてこないためであろう。だが幾分かは冷静になったようで疲れきってへたり込む健太郎に驚いて駆け寄っていく。
「健太郎さん! ど、どうしたんですか!? そんなに弱りきって……」
健太郎の側に駆け寄り、背中を擦り始める千紗は健太郎がこんなに弱りきっているのがどうしてなのか全くわからないといった様子である。ただただ突然の健太郎の異変に驚いて労わるだけである。
健太郎としてはお前のせいだろうと言ってやりたいところだったが、これ以上予想外の展開を作りたくないということと何より今は息も乱れて疲弊しきっているため喋りたくないということから黙って千紗にされるがままになっていた。
もう英語の授業を休むことに決めた以上、時間はそこまで問題ない。ただ広い構内を回るのに乳酸が溜まった足では億劫になりそうだと健太郎は思ったが、これ以上無様な姿を見せたくないという感情もまたあった。複雑な心境である。
「しかしこれだけ走っただけでこんなになるなんてな……。体力落ちたのかなあ」
それは健太郎の素直な心境だった。少なくとも受験シーズンで体育の授業が遊びの時間に変わり果てる以前はこれぐらい走ったぐらいでは確かに息が切れるぐらいはしたが、へたり込むようなことはなかったはずである。ここ三、四ヶ月で急激に体力が落ちたことを実感した健太郎は千紗を賞賛の眼で見上げる。
「それにしてもお前はすごいな。俺なんかこんな有様なのにビクともしてない」
「やっと田舎育ちのいい面を見せることが出来ましたね」
「それ田舎育ち関係あるのか?」
「農作業を手伝ったりしてましたから体力には自信があるんです」
そう言うと千紗は筋肉自慢をしたがる男のように腕を曲げて力強さをアピールする。一見長い黒髪の似合うお淑やかな女の子に見えるが、その腕は細いものの引き締まっていてよく鍛え上げられていた。ラフな格好にボディビルダーのようなポーズは纏う雰囲気とのアンバランスさが凄まじかった。そんな様子を見ていると余りのギャップにどうしても笑いが込み上げてきてしまう。そしてその内、堪えきれずに健太郎は思わず吹き出してしまう。
「ぶっ、あはははっ! やめてくれ、笑える。普通女の子が取るポーズじゃないよ、それ」
「な、何笑ってるんですか! 失礼ですよ!」
「だって明らかに筋肉自慢のポーズだぞ、それ」
「筋肉自慢なんかしてません!」
「プロポーションよりも筋肉の方が自信ありますってな感じ? あはははっ」
「……」
「おっとこんな馬鹿言ってる場合じゃないな。早くしないと構内回る時間がなくなっちまう。そんじゃそろそろ行くか。……って千紗?」
「……健太郎さんは……」
「ど、どうしたんですか? 千紗さん?」
千紗の異変に今更ながら気付いた健太郎は千紗の様子を恐る恐る窺う。つい今まで千紗をからかって遊んでいたというのに原因がわからないと言わんばかりに千紗の様子を観察している。その態度がまた千紗の怒りに火を注いだ。
「健太郎さんは……最低ですっ!!」
「えっ? ぐはああっ!」
引き締まった腕から繰り出された右ストレートで健太郎は吹き飛ばされてしまう。あまりの破壊力に健太郎はきりもみ回転しながら地面すれすれを暫し飛んでいた。しかし一、二秒後今度は地面を滑走する。その衝撃に健太郎は再び地面に伏すことになった。先ほどは疲労、今度は衝撃によるダウンである。
「お、俺ってやつはさっきのからかいで懲りたはずなのに……。何にも学習してなかったか……。ぐふっ」
千紗をからかうとろくなことにならないと先ほどの全力疾走で悟ったばかりなのに早速またやらかした健太郎は悶絶の果てに気を失った。どうやら反省を超えるほど千紗をからかうことは楽しいのであろう。これはもはや本能だった。
自分が取った行動にようやく気付いた千紗は焦りながら健太郎へと近付く。こうして先ほどの繰り返しのように千紗は健太郎を助け起こして背中を擦る。この二人が学校に着くのはまだ時間がかかりそうであった。
「やっと着いた……」
健太郎は疲れきった様子でそう呟く。千紗に介抱してもらい数分後蘇生した健太郎だったが、頬に見事にグーパンチの痕が残っていたため電車内ではちょっとした晒し者だった。そして連れが女であるというのが尚更精神的に応えた。まるで浮気でもしてそれがばれたという
修羅場の名残のような状態に見えかねない。いや実際そう見られていたのだろう。周囲から微かに笑い声が聞こえたような気がすると健太郎は感じていた。
「はあ……。まあいつまでもこうしてても始まらないからな。元気出していくか」
そう言いはするもののここまでの間に色々起こったことを鑑みるとこれからも何かよからぬことが起こりそうな予感がしてならない。そう思うと口で言ってることと実際の様子はかけ離れていく。前向きなことを言っているのにテンションは下がっていく一方である。
時間は現在既に英語が始まっている頃合である。千紗に殴られたゴタゴタで時間を随分と無駄にしたため予定よりも一本後の電車に乗ることを余儀なくされた結果がこれである。テンションが下がるのも無理はなかった。
隣では反省したのかすっかり落ち込んでいる千紗がいる。失礼な言動が多々あったとはいえ手を出してしまったことに罪悪感を感じているのであろう。千紗はせっかくに大学に来たというのに周りを見渡すこともなく俯いてしまっている。
(せっかく大学に来たっていうのにこんなんじゃいい体験にならないよなあ。俺が引っ張っていかなくちゃ)
使命感を強く感じた健太郎は落ち込んでいたテンションを無理矢理高揚させるため、頬を両手で叩いて気合を入れる。
「おしっ! それじゃ構内を見て回るか、千紗。そんで見て回ったら学食で昼飯でも食べようぜ」
「は、はい。そうですね……」
まだ元気というには程遠いが、見て回る内にテンションも上がっていくだろうと健太郎はこの場ではあえて無理に元気を出すよう執着しなかった。千紗を促して構内をゆっくり歩いていく。
健太郎がまず向かおうとしているのは連絡掲示板や履修等の手続きでお世話になる管理棟であった。管理棟には教授等の研究室や共同研究室、更には大講義室や学食もここに入っている。本来ならば学食もあるため最後に回したい場所だが、まずは休講情報や個人連絡がないかをチェックしておかないといけない。登校したらまずは管理棟というのが日常の決まったパターンとして定着している。
管理棟は大学内の真ん中辺りに位置しており、講義棟と並んで建っている。高さが違うもののツインタワーとして大学の名物的な建物になっている。そして管理棟の側には人工的な水路が作ってあり、管理棟の対岸には芝生が植えられているなど環境も配慮した設計になっている。健太郎も時折昼ご飯を持って、この芝生に座り込み、のんびりと昼休みを過ごすこともある。
このようなまるで高校とは違った風景に千紗は圧倒されていた。まずはツインタワーに目を釘付けにされ、そして次に水路と芝生に驚かされる。先ほどまでのテンションの低さはすっかり改善されていた。
「す、すごいです……。高校とは全然違うんですね」
「まあ大学によって景観はだいぶ違うとは思うけどな。ここは環境に力を入れてみたいだし」
「これが大学……」
千紗は憧れを抱いた目で管理棟を見つめている。田舎から出てきて都会の風景は見たものの、大学となるとそれらの風景とはまた違ったものを感じさせるのだろう。実際健太郎もオープンキャンパスにて構内、教室、テニスコートや屋内プールなどを見て驚いたことがあった。
これまでずっと都会といわれる地で育ってきた自分でも大学を初めて見た時は憧れや物珍しさで頭が一杯になった。これまでの学校観とはだいぶ違いが生じるのである。
しかし物珍しいからといっていつまでもここでボーっと突っ立っているわけにもいかない。健太郎は管理棟を見つめる千紗に移動するよう促して再び歩き始める。まずは管理棟に入って掲示板を確認する。ドアを開けて管理棟の中に入ると千紗はやはり新鮮な光景にまた歩を止めてしまいそうになるものの、健太郎は気にせず歩みを続けるとそれに気付いた千紗は置いていかれては堪らないと健太郎に追いすがる。
入り口を入って真っすぐ行くと左手に休講情報が書かれたボードがある。まずはここで本日の休講、そして先の休講もチェックしておくのが健太郎の日課である。休講であるのに朝一番から出て行くというお馬鹿な状態を避けるためには必ず必要な行動である。
健太郎がいつものように休講情報を眺めていると数人の学生が健太郎と千紗に近寄ってきた。それに先に気付いたのは千紗で焦りながら健太郎の脇を肘で突く。いきなりなんだと健太郎はまず千紗に視線を向ける。そして千紗は健太郎が視線を自分に向けたと気付くとすぐに
顔で学生が歩いてくる方向を指す。
そのジェスチャーを汲み取り、顔をそちらの方向に向けた健太郎は途端に怪訝な表情になった。
「あれ? 木下に小久保、それに中島と片平じゃないか。お前ら英語の授業はどうしたの?」
本来であれば今頃は教室で英語の授業を受けているはずの同学科の同級生が目の前にいることに健太郎は疑問を持った。その質問に健太郎の男友達である木下義人が嬉しそうに説明をし始める。
「今日学校来たら休講ってなっててよ。いや〜嬉しいね。英語はよく当てられるから寝れないんだよなあ」
不真面目な言を吐く義人の説明を聞いた健太郎は視線を掲示板に向ける。すると成程、確かに当日休講を示す赤文字で英語の授業名が記されている。とりあえずこれで遅刻でも欠席でもなくなったと健太郎は気持ちが楽になった。これで何に気兼ねすることもなく正々堂々と構内を案内することが出来る。そう考えていた健太郎だったが考えが甘かった。
同学科の同級生が集まった中、見知らぬ女子が一人健太郎の横に立っているのである。当然のように彼らはそこに食いつき始める。
「おい、浅井……。その子誰だ? 俺は見かけたことないんだけど」
恐る恐る中島が健太郎に質問を投げかけてくる。どうやら中島は同じ大学内の学生だと思っているようだ。どこの学科なのか、先輩なのかそれとも同級生かと彼らが聞きたいことは色々あるであろうと一瞬で悟った健太郎はどう対応すべきかと頭をフル回転させ始める。
別に千紗がこの大学の学生じゃないと言ったところで特に問題はないだろう。目の前にいる四人は特に知らないという人間でもなく先生には黙っていてくれと頼めば二つ返事で承諾してくれるはずである。それどころかお調子者の義人であればむしろ面白そうと積極的に協力してくれるかもしれない。そう頭の中で計算した健太郎は思い切って事情を素直に説明することにした。
「ああ、こいつは石川千紗っていってな、この大学の学生じゃない」
「やっぱりか。道理で見たことないはずだ」
納得したように中島は頷く。この男の場合はこれで済むのだが、少なくともこれだけでは済まない者が一人いる。そしてそいつはすかさず健太郎に更なる質問を浴びせかける。
「それでその子はどうしてここにいるんだ? お前の彼女だから?」
「はあ!?」
あっさりしている中島とは違ってもう一人の男子、木下義人は更に踏み込んでくる。そしてその一言が呼び水となり、一気に周囲を活性化させる。大好きな恋愛話に反応した片平が参戦してきたのである。
「えっ? この子、浅井君の彼女なの? ねえねえ、どうなの?」
「片平まで……。違うって。そんなんじゃない」
「じゃあ何で大学まで連れてきてんだよ。一時も離れたくないからとかじゃねえのか?」
「アホか。そんなやつ聞いたことない。マンガの読みすぎだ」
健太郎が義人と片平の集中攻撃を受けている間に中島はそれを見て笑っているだけだったが、もう一人の女子、小久保耀子は動き出していた。健太郎が必死に防戦している姿を見てどうすればいいのかわからなくなっている千紗に耀子は近付いていく。そして千紗の横に並ぶと
小さな声で千紗に話しかけ始めた。
「ねえ、あんたって本当のとこどうなの? 浅井君の彼女なの?」
「えっ?」
突然話しかけられた千紗は呆然としてしまう。自己紹介も何もないまま話しかけられればこうなるのは当然だが、そんな態度に腹が立ったのか耀子は少し苛々しながらもう一度同じことを質問していく。
「はっきりしなさいよ。浅井君の彼女なの?」
「ち、違いますよ。私はただ家に住まわせてもらっている居候です」
健太郎が願ったこととは反する答えだったが、下手に家族ですなどと言うと余計な勘違いを生みだす恐れがあると判断した千紗はそう答えた。
割と上手いこと言えたのではと思った千紗だったが、その回答を聞いた耀子は次第に震えながら顔を紅潮させていく。何故そんな状態になっていくのか全くわからなかった千紗は再びうろたえ始める。
そして千紗が思い至った考えは耀子が自分の言を信じかねているというものだった。そこで念を押そうと千紗は細かく説明していく。
「私、お金がなくなっちゃってホームレスになってしまったんですけど、健太郎さんに助けてもらったんです。そして家がないと危ないからって住まわせてくれたんです。本当ですよ?」
「……」
千紗が細かく説明するほどに耀子の表情が険しくなり、震えも大きくなっていく。どうしたらいいのかわからなくなってきた千紗だが、健太郎の方を見ると義人と片平の猛攻を受けて防戦一方の状態である。援軍は期待できそうにないと判断した千紗は何とかしなくてはと耀子の方へ再び向き直ると耀子は不機嫌な表情のまま口を開き始めた。
「汚い女ね」
「えっ?」
「可哀そうな自分を見せ付けて家に転がり込むなんて汚いって言ってるのよ」
「そういえばそうですね。長いことホームレスしてましたから、そんなのが転がり込んだら家が汚くなっちゃいますよね。でも今は大丈夫ですよ。お風呂にも毎日入って清潔です」
「そういう意味じゃないわよっ! 巧妙な策略で上手いこと家に上がりこんで住み着くなんて汚いって言ってるのよ」
「策略も何も健太郎さんとは偶然出会って……」
「健太郎さん!? 何、下の名前で呼んでるのよ。彼女面でもしてるつもり?」
「そんなつもりは……」
千紗は困り果てた。全く取り付く島もない。千紗が説明をしようと試みても相手には全く聞き入れるつもりはないようだ。この険悪な雰囲気に気付いた中島が何とか健太郎に伝えようとするが、そちらはそちらで怒涛の質問攻めでどうにもなりそうにない。結局おろおろする人間が増えただけで終わった。
その間にも耀子の口撃は止むことがない。千紗はもう弁明する気力も尽き果てていた。こんな人間には出会ったことがないと改めて都会の怖さを知ったような様子である。黙ったままでいる千紗に対していい気になったのか耀子はますます饒舌になっていく。
「だいたいね、浅井君にはあんたみたいなみすぼらしい女は似合わないわよ。私みたいな女の方が似合ってるのよ」
そう言うと耀子は少しポーズを決めてみせ、自分の魅力をアピールする。茶色の少しウェーブがかかったセミロングヘアに整った顔立ちは確かに自分で言うだけあって魅力的である。スタイルもよく、まさに完璧な容姿である。
千紗に自分の容姿を見せつけ、悦に入った耀子だったが千紗の様子を見ようと視線を移すと途端に衝撃に襲われた。自慢のスタイルのはずが千紗を見るとそのスタイルは耀子を凌駕するものだった。
特に胸の大きさは耀子の逆鱗に触れるほどのもので耀子は悔しそうな顔をしながら、千紗の胸を両手で握り始めた。
「何でこんな大きいのよ……。おかしいじゃない。こんなにみすぼらしいくせに」
「ちょ、ちょっとやめてください! お願いですから揉まないで下さい!」
突然の耀子の奇行に千紗は頬を染めながら必死に抵抗する。ぶつぶつ呟きながら千紗の胸を揉み続ける耀子の姿はおかしいを通り越してもはや恐怖を感じさせていた。
「はっ!? この胸で浅井君を誑かしたのね。汚い。汚すぎるわっ!」
「今度は何ですか……」
小さく呟きながら千紗の胸を揉んでいたかと思うと今度は吼え始める。千紗はもう付いていけないと半ば諦めながらなされるがままになっていた。
「この胸が相手じゃ勝てないじゃない……。浅井君が汚されていっちゃう……」
「だから何度も言ってるように健太郎さんとは何もないですから……」
勝手な妄想で一喜一憂している耀子に振り回されて千紗は疲れきっていた。もうここまでくれば鈍感な千紗でも気付いていた。耀子がここまで千紗に突っかかってくるのは健太郎のことを好きだからだと。そしてその健太郎と一緒に住んでいる千紗はどんな人間であろうと耀子の中では不倶戴天の敵のため、攻撃せずにはいられないということを。
そう悟ったからには千紗はもう耀子と関わりたくなかった。しかし向こうは見たくもない相手のはずなのに積極的に突っかかってくる。そこが何とも厄介だった。
「何もないって言っても同じ家に住んでるんだから何か起こるかもしれないじゃない。例えばお風呂場で鉢合わせちゃったとか……」
「あっ、それはありました」
「何っ!?」
耀子の挙げた例に素直に反応してしまった千紗。そして反応してから口に手を当てる。全く逆効果だった。自分の言をなかったことにするどころか信憑性を増す効果しかない。そしてそれに素早く耀子も反応する。もう後の祭りであった。
「鉢合わせたの?」
目を光らせながら千紗に詰め寄る耀子。ちゃんと聞こえたはずなのにもう一度確認を迫るところがいやらしい。千紗はそう思ったが、とても恐ろしくて口には出せない。しかし耀子はその沈黙でさえも勝手に肯定と受け取ってしまう。
そして更に質問を千紗に浴びせかけてくる。
「ど、どうだった? 逞しい体だった?」
「……えっ?」
声を若干トーンダウンしながら千紗に尋ねる耀子。千紗にはその質問は予想外で思わず間の抜けた声を出してしまう。
(そ、そっち!?)
間の抜けた声の後、千紗は心の中で激しく耀子に突っ込みを入れる。普通鉢合わせたと言ったら先に出てくるのは自分が見られた側でそっちではないだろうと千紗は思った。どうやら耀子の頭の中でのお約束は男の方が見られてしまう側らしい。
「見たんでしょ? 浅井君の裸。いいなあハァハァ……」
頬を上気させながら息を荒くする耀子を見て千紗はこれは余程特異な人だと思った。他に都会にはどういう人間がいるかは知らないが、少なくとも絶対的な少数派だろうと本能で判断した。そしてこういう人とは付き合わない方がいいとも判断した。
しかしそんな千紗の判断も虚しく、何かのスイッチがオンになった耀子はますます千紗に絡んでくる。
「居候してるってことはおいしいハプニング満載じゃない……。あっ、そうだ!」
何かを閃いたらしい耀子に千紗は嫌な予感を感じた。出来得ればこの場から離脱したいが、何か離れられない力を耀子から感じていた。
そんな風に千紗が立ち竦んでいると耀子は自分の鞄からデジカメを取り出して千紗の手に握らせる。そして次に何やら紙に書いてそのメモも千紗に手渡す。
千紗がメモの方を見てみると、『小久保耀子』という名前と何やら数字が羅列してある。千紗はこれが電話番号だということには気付けたが、もう片方のデジカメは一体何なのかといった顔で見つめている。
「あ、あの……これは何ですか? カメラみたいですけど……」
「えっ? デジカメだけど、知らないの?」
「は、はい。私すごい田舎から出てきたので」
千紗は少し恥ずかしそうにそう答える。しかし耀子はそんなことは別にどうでもよいと言わんばかりに話をどんどん進めていく。
「これでさ……。浅井君の写真を撮ってきてくれない?」
「ええっ!? 撮ってどうするんですか?」
「決まってるじゃない。コレクションよ。部屋に飾るのよ」
気持ち悪い。今の千紗の心境はまさにその一言だった。千紗の頭の中に耀子の部屋の想像図が広がっていく。その光景は部屋一面に貼り付けられた健太郎の写真。そしてその空間の中で悦に入る耀子の姿。思わず千紗は身震いしてしまう。アイドルといった芸能人ならともかく
単なる一般人の写真というのが余計に身震いをさせる。完全に恐怖しか感じさせない部屋である。
健太郎をそんなことに巻き込むわけにはいかないと千紗は断固拒否の意志を固める。それに第一先ほどまで言いたい放題してくれた人間にそこまでしなければならない義理などない。
「私、そんなことする気なんて……」
千紗が拒否の言葉を口にしようとする刹那、耀子はそれを素早く察知した。そして最後までは言わせないと千紗の言葉を遮って間に割り込んでいく。
「もしあなたが断るなら、この学校にこっそり忍び込んでいることを先生にばらすわよ」
「ええっ!? な、なんでそんな話になるんですか!?」
「当たり前じゃない。あいての弱みを狙って交渉する。こんな有利な条件が揃ってるのに使わない手はないわよ」
「ううぅぅぅうう……」
「もしばれたら部外者を勝手に大学の敷地内に入れた浅井君はどうなっちゃうかなあ?」
「うううぅぅぅうう……」
「もしかしたら退学になっちゃうかもね」
「そ、そんな……」
「あなたの態度次第では黙っててあげてもいいんだけどなあ」
「……わかりました。喜んでお手伝いさせていただきます」
「なかなか話がわかるじゃない。見所あるわよ」
交渉に勝った耀子は千紗と無理矢理握手しながら微笑む。一方の千紗は脅されたとはいえ健太郎のプライバシーを侵害する行動をしなければならなくなったことに罪悪感を感じていた。そして目の前でこれからのことを想像してかだらしなく鼻の下を伸ばしている耀子と共犯者に
ならなければならないことに強いショックを受けてもいた。変態という同類項で括られてしまうことが堪らなく嫌だったのである。
千紗はため息を吐きながら横を見るとどうやら質問攻めはかわしきったらしく和やかに雑談をしている健太郎の姿が目に入った。こっちはとんでもない事態になっているというのに暢気に雑談をしていることに少しイラっときた千紗だったが、これから先耀子との契約によってあられもない写真を撮られかねないことを思うと不憫にも感じた。
「ごめんなさい健太郎さん。でもこうするしか道はないんです」
千紗は小さく呟きながら懺悔をする。隣にいる変態に生贄として捧げたことを詫びた千紗だったが、改めてその変態こと小久保耀子を見ると勿体無いと思わずにはいられなかった。見た目は確かに綺麗だというのに中身は完全にストーカー気質の危ない人物である。これがまだ
綺麗な見た目だからこそ耐えられたが、これが危ない男だったりすると未遂の時点でも通報モノである。だが、見た目で緩和されてる分要注意とも言える。とにかく厄介な人物に捕まってしまったことには違いない。
「それじゃ、そろそろ昼飯でも行くか。おーい、千紗学食行くぞ」
雑談も一段落ついたのか昼食を取ろうと千紗に呼びかける健太郎。隣では呼びかけられた千紗以上に素早く反応して健太郎に近付いていく耀子の姿がある。積極的に健太郎の隣を占めて歩き始める様子は周りからは仲のいい同級生、友人、もしくは恋人同士に見えるが、千紗には
餌を見つけた肉食獣と狙われた草食動物にしか見えない。ちっとも微笑ましいものではなかった。
自分の決断は果たして正解だったのだろうかと悩みながら千紗は健太郎らの後ろについて行くのだった。
六人で昼食を食べ終わった後、健太郎と千紗は次の授業がある教室に移動していた。メンバーは健太郎、千紗、そして義人の三人である。他の三人は違う授業を取っているため途中で別れていた。千紗にとっては悩みの種である耀子と離れることが出来たことが何よりも嬉しかった。
一方でそんな事情など一切知らない健太郎は学校内を千紗に説明しながら歩いている。耀子と離れた今、千紗はようやく大学を心から楽しんで見られそうだった。
「これまで外観とか学食は見てきたけど、ようやく教室のお披露目だな」
「はい。楽しみです」
千紗はこれまでの経緯もあって授業を尚更楽しみにしていた。そうでなければ大学生活の初体験が嫌なものとしか認識されなくなってしまう。素直に楽しみと言ってくれる千紗に満足したのか健太郎は足取りも自然軽くなっていた。
そんな二人を眺めながら一人蚊帳の外へと放り出され気味の義人は何とか存在をアピールしようと話に割り込んでくる。
「これから授業を見学してみて面白そうだったら千紗ちゃんもうちの大学に入ればいいんじゃね?」
「そ、そんなお金ありませんよ。私、元々はホームレスだったんですよ」
「バイトしながらとか奨学金制度とか使えば何とかなるんじゃない?」
「でも……」
これまで蚊帳の外へと出されていた分を取り返すかのように義人は千紗に捲くし立てる。対応に困った千紗は健太郎の方を見て助け舟を求める。
「おい義人。その辺にしとけよ。千紗が困ってるじゃないか」
「でも千紗ちゃんが大学入ったら楽しくなりそうじゃね? もう耀子とも仲良くなったみたいだしさ」
義人の口から出てきた耀子という単語に千紗は敏感に反応する。出来れば今日はもう聞きたくない単語だったが、そこで露骨に嫌な顔をするわけにもいかず、何とか笑顔を作りながら誤魔化しにかかる。
「そうですね。気さくに話してきてくれたので」
「まあそうやって知人の輪が広がったのなら連れてきて正解だったかな」
健太郎は千紗を大学に連れてきてよかったと安心する。なんだかんだで見知らぬ環境へと千紗を引っ張り込むことに不安も感じていたのであろう。とりあえず上手いこといってくれたと判断しているようだが、その実千紗はとんでもない爆弾を抱え込むことになってしまっているということには気付きようもなかった。
義人と二人でやっぱ連れてきてよかったなどと言いながら歩いている健太郎は突如、その歩みを止めて千紗の方へ向き直る。健太郎と義人の正面には扉がある。どうやら教室に着いたらしい。
「次の授業はここの教室でやることになる。とうとう千紗の授業初体験だな」
そう言いながら扉のノブに手を掛ける健太郎。初めて見ることになる大学の教室に幾分か緊張しながら千紗は扉が開くその瞬間を待つ。
健太郎がノブをぐっと回し、扉を押し開けると千紗の目の前に教室の全容が広がっていた。椅子、机、教卓などが置かれている教室だが、千紗にとっては予想外というような感想が頭に浮かんできた。
「あ、あの……。あまり高校と変わらないんですね?」
目の前に広がった教室の光景は机も椅子も高校時代の教室と大差ないものだった。せいぜい違うところといえば高校の教室では黒板だったものがホワイトボードになっているぐらいである。
そのことに関しては健太郎も自覚しているらしく頭を掻きながら苦笑いをしている。
「そう思うよなあ。俺も最初入ったときにはこれが大学の教室かと目を疑ったからなあ」
健太郎の言に義人も頷いている。どうやら皆最初はそう感じたようである。
「ただ高校の教室に比べてちょっと広いかなってぐらいだもんなあ」
「俺は大学の教室っていうと、三人ぐらいで使う長い机があって、後ろに行くにつれてどんどん段が高くなっていくようなのを想像してたよ」
健太郎がそう自分の想像図を話すと千紗はそれだと言わんばかりに首を縦に振る。どうやら健太郎も千紗も義人も同じような教室図を思い描いていたようである。
「まあ、とにかくどっか座ろうぜ。三人で固まれるところはっと……」
義人はそう言うと辺りを見渡しながら席を探す。昼食を賑やかに取っている間にだいぶ時間が経っていたらしく、席はけっこう埋まってきていた。授業開始まであと十分。まだ時間に余裕はあるのにこんなに埋まっているとは真面目な学生が多いなと義人は小さく愚痴る。
だが、ちょうど奥の方に三人固まって座れる所を発見した義人は健太郎と千紗を連れてそこへと移動する。健太郎としては千紗を連れて他の人の間を通り抜けていくのは少し不安だったが、幸い不審に思う人はいなかったようである。まだ授業は五回程度しか行われていないので、同じ授業を取っている人間をよく覚えている人などそういない。いたとしても教師ぐらいであろう。
奥の窓際の席にまで移動した三人はそこに座る。健太郎と千紗が隣同士に、そしてその前に義人という配置である。
「とりあえず固まって座れてよかったな」
健太郎がまずは上々の首尾と胸を撫で下ろす。さすがに初めての、ましてや無断参加の大学の授業で千紗と離れ離れというのは不味いと思っていただけに上手いこと乗り越えて安心したのであろう。
「それにしても千紗ちゃん大丈夫? 大学の授業は九十分間だよ?」
義人が千紗に長時間の授業に耐えられるかと尋ねる。高校までとは授業時間がかなり違うことに最初の内はなかなか慣れなかった経験があるのだろう。健太郎も心配そうな表情で千紗を見ている。
「大丈夫ですよ。それぐらいなら」
「そっか。まあ辛くなったら遠慮なく教室から出るなりなんなりすればいいからな。この授業はけっこうそういうとこ緩いから」
「はい。わかりました」
千紗が健太郎の説明に返事をしていると教室前方の扉が開き、教師が入ってきた。授業開始まであとまだ五分もある。なかなか真面目な教師である。手に持っていた大量のプリントを机に並べていき、学生にプリントを取りに来るよう指示する。いよいよ授業が始まると思った千紗は初めての大学の授業を心から楽しみにしてプリントを取りに行った。
「それで今日はどうだった?」
夕方、今日の授業を終えた健太郎と千紗は二人並んで帰っている。健太郎は今日の感想を千紗に尋ねると千紗は満面の笑みを浮かべた。
「すごい楽しかったです。あれが大学なんですね」
「それはよかった。しかし難関の英語が休講でよかった」
「それにしても案外部外者がいてもわかんないものなんですね」
「出欠を取るかよっぽど受講者の少ない授業でもないとなかなか覚えられないだろうな」
今日一日を振り返る二人は実に充実した表情で歩いていた。もう千紗には無断で大学へと立ち入ったどころか授業まで受けてくるということに罪悪感は消えていた。それほど楽しく充実した一日だったのだろう。
だが、その代わり新たな悩みの種が浮上したことが千紗に暗い影を落としていた。健太郎を異常なほど慕う小久保耀子によって脅されて手渡されたデジカメがひどく重く感じられた。
(これさえなければ最高だったのになあ……)
千紗の表情はふっと曇った。これから先耀子に求められるまま健太郎のプライバシーを侵害しなくてはならないと思うと気も重くなるものだった。無断で大学へと立ち入り授業に参加したという弱みを握られている以上仕方がなかった。
(いくら健太郎さんが提案してくれたことでも、それで私が楽しんだんだから迷惑をかけるわけにはいかない)
これを健太郎に告げ口してしまったら、確かに健太郎のプライバシーは守られるが、その代わりに友達とギクシャクし、大学からも何か言われてしまうかもしれない。それは避けたかった。それならばまだプライベート写真の方がマシなのではという方向性である。
(これが原因で大学にいられなくなったりしたら大問題です……。あれ?)
千紗は色々悩んでいる内にふとそこまで自分が追い詰められているのだろうかと思い始めた。もう既に自分が学校にいたという事実は健太郎、義人、耀子、中島、片平しか知らない。健太郎と一緒に黙っていてもらうことをお願いすれば、もし耀子が告げ口して大学から何か聞かれても黙っていてくれるのではないだろうか。
それに耀子としても友人とギクシャクしたくはないだろう。だから完全に何もなく手打ちとはいかないが、今よりは有利な条件での着地点へと持っていけそうである。
そのことに気が付いた千紗はそうなるとそこまで気を重くすることでもないと思った。それにあまりこのことを考えすぎて気を落としていては健太郎に勘付かれてしまう。千紗としてはこのことは出来るだけ自分で処理をしたかった。
「もうすぐ家に着くな。今日の夕飯はどうする?」
家も近付いてきたところで健太郎は千紗の方を見て夕飯をどうするか尋ねる。このままついでに買い物をしていくか、それとも今日のところは家にあるもので済ますのか、もしくは外で食べるのかといったところか。
千紗は帰ったらすぐ耀子に対処しようと考えていたので、家にあるものでいいかと思った。
「今日は家にあるもので済ましませんか?」
「まあ、明日はチラシも入るしな。それじゃ今日はあるもんで済ますか」
家にあるもので簡単に済まそうと決定したので二人はそのまま家へと真っすぐ帰る。家までたどり着き、玄関を抜けて自分の部屋へと入ると千紗はすぐさま電話へと向かう。一階の階段脇に置いてある電話を使うのだが、健太郎がいつ通りかかるかわからないため不安もあった。
千紗は電話の側まで来てから迷い始めた。やはり健太郎が通りかからないか気になるのであろう。辺りをきょろきょろ窺いながら電話を使うべきか少し待つべきか逡巡している。
そんな風に千紗が不審な動きをしていると二階からドアが閉まる音が聞こえ、更に階段を降りてくる音が聞こえてきた。健太郎である。千紗はやっぱり電話するのを待ってよかったと心底安堵した。
「おっ、千紗。何やってるんだ?」
「あっ、いえちょっと……」
階段を降りてきて千紗を見つけた健太郎は何気なく質問を投げかける。一方の投げかけられた千紗は言葉に詰まる。電話を掛けるところなどと言えばまず間違いなく誰にと返ってくるだろう。
しかしどう返すべきかと悩んでいる千紗を特に気にせず健太郎は通り過ぎようとする。
「まあ、いいや。俺は風呂入ってくるから。飯はその後でいいか?」
「は、はいっ! どうぞゆっくり入ってきてください。私には構わなくていいですから!」
健太郎の言葉に助かったと感じた千紗は過剰に謙る。これも不審といえば不審な行動だが、元々遠慮しがちな千紗ということもあって気に掛かるほどではなかったようで、健太郎はそのまま風呂へと向かった。
これほどの好機はないと千紗は急いで耀子から渡されたメモを見て電話を掛ける。一回、二回と耳に入ってくるコールがもどかしい。
(早く出てほしいけどそうでもないような……。不思議な感覚ですね……)
千紗が緊張して待っていると、四回目のコールの途中でようやくコールが途切れ、どうやら耀子が電話を取ったようだ。ここからが勝負である。
「もしもしっ! 浅井君!?」
「きゃっ!」
突然鼓膜が破れるかと思うほどの大音量の声が聞こえてきた。千紗は思わず悲鳴を上げて受話器を耳から遠ざける。その間にも受話器からは耳から離していても明瞭に聞こえてくるほどの大音響が鳴り響いている。
「あ、浅井君から電話が掛かってくるなんて……。ハァハァ」
「あの……。もしもし?」
少しだけ音量が下がったためようやく受話器に耳を近付けれるようになった千紗はとりあえず応答しなくてはと声をかける。受話器から漏れてくる怪しい吐息にうんざりしたが、ここで切るわけにはいかない。まだ目的を達成していないのだから。
「女の声!? 誰よあんたっ!」
「私です。石川千紗ですよ」
受話器から女の声が聞こえてきたことにご立腹らしい耀子の罵声に耳をやられそうになるが、耐えて千紗はとりあえず名乗る。名前さえはっきりさせれば少しは落ち着くだろうとの判断だった。
「石川千紗ぁ? ああ、あなたね。驚かせないでよ」
千紗からすれば散々大声でこっちを驚かせておいて何を言うかといった感じだが、今はそんなことよりも当初の目的を達するほうが大事である。早速用件に入ろうと気を取り直す。
「あの、今日のお昼の件なんですけど……」
「ああ、あれね。……何っ!? もう何か撮れたの!?」
「ひっ! と、突然大声を出すのは止めてくださいよ」
「仕方ないでしょ、本能がそうさせるんだから。そ、それでどんな写真?」
もう千紗が何かお宝写真を撮ったのだと早合点した耀子は息を荒くしながら千紗の返事を待つ。千紗は人から好意を抱かれることはよいことだとこれまでの人生では思っていたが、耀子の行動を見ていると一概にそうは言えないと思うようになっていた。人から鼻息を荒くするほど想われる。千紗はそれを想像すると思わず身震いをしてしまった。
これは絶対に止めなくてはと改めて気合を入れ直した千紗は強気に自分の意見を話していく。
「お昼のことですけど、私やっぱり出来ません。それにしなくてはならないとも思いません」
「……。はあ? 何言っちゃってんのあんた。浅井君が退学になってもいいの?」
「でも私が無断で授業に参加したっていう証拠はもうないんですよ?」
これは健太郎の友人等と会ったということで全くのハッタリであったが、一番ダメージがないのはこれが上手くいくことだった。それでも耀子の目の前で他の友達にも自己紹介までしたのだから、さすがにこれは通用しないだろうと千紗は次の作戦も用意し始める。あくまでこれは会話を繋いでの時間稼ぎにしかならないのである。
出来得るならば色々策を用意するために長く引っ張りたいと千紗は考えていたが、その願いは呆気なく散った。
「ああっ! しまった。あんた、大学から出ちゃったら駄目じゃない!」
ものすごく簡単に上手くいってしまった。千紗は聊か拍子抜けしながらもこれ以上ない展開を無駄にしないために畳み掛けていく。
「そうですよ。私が大学から出ちゃった以上もう私の勝ちです。諦めてください」
「くぅ、詰めが甘かったか。……ねえ、一枚ぐらいお情けでくれない?」
「駄目です。諦めてください」
「お願い! 失敗しちゃった以上もう手立てはお願いしかないのよ。これ以上無茶は言わないからさ。ねっ?」
しつこく縋ってくる耀子に千紗はどうしたものかと悩んだが、無碍に断るよりも一枚何かを渡して満足してもらう方がいいかもしれないと考えるようになっていた。それにここで満足してもらわないといつか気付いた時にまた要求が来そうで怖い。
ここは一つ恩を売っておくことにして後日に備えようと決めた千紗は渋々耀子のお願いを聞き入れる。
「わかりました。それでは一枚だけ撮って持って行きますからそれで我慢してください」
「本当に!? ラッキー、言ってみるものね」
心底嬉しそうにしている耀子の様子に千紗は少し不憫だなと感じていた。本当であれば証拠など自分の友達から得ることが出来るかもしれないのにそこに全く気が付かないで、かなりレベルを下げられた条件で満足する耀子にそれまでの悪い印象が大分改善されていた。
これで狡猾に千紗と交渉を続けるようであれば陰湿で変態な女としか見れなかったが、この態度で少し間の抜けた可愛い変態の女と見るようになっていた。千紗は自分も生粋の田舎育ちで都会では世間知らずの間の抜けた女と見られていると感じていたが、そんな千紗にさえ言い包められてしまう耀子の間の抜けようにどこか同類項としての親しみすら感じ始めていた。
「それでは今度写真を持っていきますから」
「お願いね! はああぁぁあ……、それまでどうやってこの昂ぶりを抑えておけば……」
そこから先は聞きたくなかった千紗は急いで電話を切る。放っておくとピンク色の世界が受話器から広がってきかねない。とりあえず当初の目的は達したのだからこれ以上通話する必要もない。
一仕事終えた千紗は階段に座り込む。この電話だけで体力、精神力ともにだいぶ消耗していた。最初の内は緊張感、最後の方は脱力感に襲われたためそのギャップも影響したのだろうか、かなりの消耗ぶりである。
階段に座り込んで体力の回復をしている千紗だったが、この後は晩ご飯の支度があることを思い出した。今日は大学に連れて行ってもらったことだし、そして帰りには家にあるもので済まそうと提案したこともあるのでせめて準備ぐらい先にやっていようと千紗は立ち上がってキッチンへと向かう。
千紗がキッチンへと入るとそこにはいつの間にか風呂から上がっていたらしい健太郎が腰にバスタオルを巻いただけという豪快な姿で牛乳を飲んでいた。どうやらシャワー程度で簡単に済ましたのだろう。
「きゃっ! け、健太郎さん、もう上がっていたんですか?」
耀子の言葉のせいで余計に意識してしまった千紗は思わず顔を赤らめてしまう。それでも全裸というわけではないので背を向けたり、手で目を隠したりまではしない。
だが、健太郎の方は千紗の小さな悲鳴に反応したのか少々慌てている。
「あっ、悪い。ちょっと行儀が悪かったな。すぐ着替えてくるわ」
そう言って急いで牛乳を飲み干して、キッチンから出ようとしたその瞬間、少々慌てたせいで巻き方が緩くなってしまったのであろう、バスタオルがはらりと地に落ちた。バスタオルが地に落ちると同時に千紗の両目にはダイレクトで衝撃映像が飛び込んできた。
「おわっ! す、すまん!」
健太郎は突如起こったハプニングに慌ててバスタオルを巻きなおすが、もう手遅れだった。衝撃映像に顔を極限まで真っ赤にした千紗はその場で昏倒してしまった。
「ち、千紗! 大丈夫か!」
慌てて駆け寄る健太郎の声が徐々に遠くなっていく。千紗は自分から離れつつある意識の中で耀子に謝った。
(耀子さん。あなたの言うお宝映像を自分一人で見てしまってごめんなさい)
耀子が思わず歯噛みをしてしまいそうな光景の中、千紗の意識はゆっくりとシャットダウンした。