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野良少女  作者: 氷室
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第五章 模様替え

第五章 模様替え


 両親から千紗滞在の許可を得た翌日の朝、健太郎はいつもどおりに目を覚ました。昨日、綺麗に掃除した物置部屋で千紗が寝始めたため、健太郎の部屋はそれまでの光景を取り戻していた。

 今日は土曜日、学校もなくバイトも入っていない。とりあえず何かに拘束されることはないので千紗の手伝いをしようということになっていた。

 十分な空間と布団は確保されたとはいえ、生活をする上で物足りないのは否めない。昨日買って来たのは衣服、生活用品といった類の物のため今度はどちらかというと装飾や娯楽といった面をフォローしたい。せっかくここに残ることになったのだから実家の方では経験できないことをさせてやりたいと健太郎は思っていた。それは千紗の願いを叶えてあげたいと千紗を送り出した両親のためにもなろう。

「いつまで千紗がいることになるかわからないけど楽しかったと思えるようにしたいな」

 健太郎はそう呟くと体を起こし、着替えを始める。まずは朝食などのやる事を済まさなければならない。健太郎は着替えて部屋を出て階段を降りて行く。そしてキッチンへと入って行き、朝食の準備を始める。とは言ってもお湯を沸かしてパンを焼くだけだが。

 そんな風に朝食の準備をしているとキッチンに千紗が入ってくる。

「おはようございます」

 どうやらすっきり目覚めてきたようで眠そうな気配はない。挨拶を終えると千紗は席に座り、朝食を待つ。

 だがそれでも何か出来ることはないかと辺りをきょろきょろ見回している。

「あの、何か手伝いましょうか?」

「ああ……。とは言ってももう準備は済んでるんだけどな」

「そうですか」

 千紗は見るからに落ち込んでいた。高校時代は家の手伝いを毎日のようにやっていたようだから何もすることなく待っているのは居心地が悪いのだろう。

 それを悟った健太郎は何かないかと考えるが、今日は洗濯物もそんなにないし食事の準備ももはや済んでいる。それでも手持ち無沙汰な千紗を見ていると何かやらせてやらないといけない気分になってくる。

「あっ、そうだ。千紗、新聞受けから新聞を取ってきてくれないか?」

「は、はいっ! わかりました。行ってきます!」

 健太郎が苦し紛れに思いついた仕事を与えると千紗は大袈裟なほど喜び勇みながら玄関に走っていく。よくよく考えると新聞を取ってくるなどものの数十秒で終わるのだからまた先ほどのように手持ち無沙汰になってしまうだろう。

 それを考えた健太郎はお湯を沸かしているやかんの火を強火にし、早く沸くようにする。トースターはどうしても無理だからこちらは焼けるのをただ待つしかない。

 そうしていると玄関の方から走る音が聞こえてくる。音は一気にキッチンに迫り、千紗が勢いよくキッチンへ飛び込んできた。

「新聞取って来ました!」

「は、早いな……」

 数十秒どころか十数秒で戻ってきた千紗は少し息が荒い。何もそこまでしなくてもと健太郎は思ったがそれだけこの家での役目に飢えているのだろう。新聞を取ってきた千紗はテーブルの上に新聞を置き、健太郎を見つめる。その目は何も語らずとも次は何をしたらいいかということを雄弁に語っていた。

 いくら役目を欲しがってももうすぐ朝食ということで何もない。パンもいい具合に焼けてきているし、お湯もあと少しで沸騰である。出来ればもう大人しく椅子に座っててくれる方がかえってありがたいぐらいである。

 だがそうは言ってもやる気に満ちた千紗の様子を見ていると無碍に断るのも憚られる。健太郎はちょっとした板ばさみ状態である。

「おっ、お湯が沸きそうだな。千紗、沸騰したらマグカップにお湯を注いでくれないか? そしてその後は茶葉のパックを入れといてくれ」

 仕方なく健太郎は役目を千紗に与える。沸騰するまではあと少しだが、それまでは実質暇である。いてもいなくても大差ない仕事だった。

「はいっ! 承知しました!」

 それでも千紗はやる気に満ち溢れた返事をしてコンロへと向かう。使命感に燃えている千紗は全く必要のない火の番をしている。この様子では沸騰するまで見守るつもりなのだろう。健太郎としてはこれで千紗が少しは落ち着いてくれるので一息つける状態になった。使命感とやる気に燃えてくれるのはいいが、あまりに度が過ぎるとかえって扱いづらい。特に千紗は洗濯機もまだ扱えそうにない上に家の中も把握しきれていないだろう。やる気が空回りしやすい状態にあると言える。薄情ではあるが千紗を閑職に追いやった健太郎の判断は正解だっただろう。

 千紗が火の番をしている間に健太郎は皿やバターをテーブルに出し、パンの焼け具合を見る。

「……もういいだろう」

 ちょうどいい具合と判断した健太郎はパンを取り出し、皿に載せる。そうしている間にお湯も沸騰したようで千紗はマグカップにお湯を注ぎ、注ぎ終わったら今度はやかんに茶葉のパックを入れている。これでやることは済ました。

「千紗、もうパンが焼けたぞ。食べよう」

「あっ、はい。食べましょうか」

 熱々のコーヒーを持って千紗はコンロから離れ、テーブルまでやって来る。そしてコーヒーを置いて席に座ると相変わらずの丁寧な挨拶が始まる。

「いただきます」

「いただきます」

 千紗と健太郎の二人が揃って手を合わせて挨拶。千紗が来てから健太郎は食事前に関してはすっかり行儀がよくなった。もっとも一人きりでいただきますと言うのは何だか虚しい感じがしたためでもあったが。

 千紗は食欲旺盛にトーストに噛り付き、まさしく一日のエネルギーを注入しているという様子である。健太郎の友達の女の子は朝は食べないという子やそもそも食が非常に少ないというのが多いため中々新鮮な光景である。

 そうしてついつい健太郎は千紗の食べっぷりを観察してしまう。

「本当によく食べるなお前は」

「えっ!? いけませんでしたか?」

 健太郎としてはむしろ褒めるつもりで言ったのだが、千紗はどうやら悪く捉えてしまったらしい。健太郎はしくじったと思い、説明を付け加えようとする。

「いや、そういう意味じゃなくてな……」

 千紗だって年頃の女の子なのだからよく食べるなどと言っては健太郎の友達の女の子のように気にしてしまうかもしれない。そう思って健太郎は弁明をしようとしたのだが、どうやら千紗の解釈は違う所へ向かっていたようである。

「すいません! そうですよね。居候の分際でそんなにパクパク食べたら迷惑ですよね」

「はあ?」

 千紗の言葉に健太郎は思わず呆けてしまう。彼が考えていた方向の斜め上を行く発言に戸惑いを通り越してもはや呆然といった様子である。

 スタイル云々の方面ではなく遠慮や食費といった方面で健太郎の言葉を捉えたらしい千紗はトーストを食べるのをやめてひたすら謝っている。このまま放っておけばいつまでも謝り続けかねない様子の千紗だったが、幸いすぐに我に返った健太郎はそんな千紗を止めようと努める。

「おいっ、落ち着けって。誰もそんなこと言ってないから。むしろ俺は感心してるんだぞ」

「……感心ですか?」

「ああ、朝から栄養をちゃんと取るなんて偉いじゃないか」

「そうですか?」

「勿論だ」

 ようやく落ち着き始めた千紗を見て健太郎は安堵のため息をつく。千紗はあまりに真面目すぎて少し言葉のニュアンスを誤解するだけでこの有様である。真面目なのはいいが、毎回これでは疲れると健太郎はこの点に関しては改善をお願いしたいところだった。

 なんとか千紗を宥めて食事を再開した健太郎は雰囲気を変える意味合いも込めて千紗に今朝考えた予定を提案し始める。

「そういえば今日はどうする? 何も予定がないならお前の部屋の模様替えをしないか?」

「模様替えってしたばっかりじゃないですか」

「ありゃ掃除レベルだよ。そこから一歩進んでお前の好きなように配置だとか色々決めるんだよ」

「えっ!?」

 驚く千紗を見て健太郎はとりあえず空気は変わったと感じて作戦の成功を悟った。あとは模様替えの話をしていけばいいと思っていたが、ここからがなかなか大変だった。

「そ、そんな悪いですよ。部屋まで提供してもらってるのにそれを私のために変えるなんて」

 基本的は押しに弱く人の言葉をよく受け入れる千紗だが、どこかに自分の判断基準があるのかそれともその日の気分によってなのかわからないが、人の提案に非常に遠慮をする時がある。細かく考えると家に上がり込んだり継続して住まわせてもらう時はむしろ自分の方から懇願したりなど積極的であったのにベッドの使用権や今回の模様替えなどどちらかというと小さなことの方に遠慮をしがちな傾向があるようだ。既に迷惑を掛けているのにその上更なる迷惑を掛けるわけにはいかないということなのだろうか。となると今回の件では既に部屋まで提供されているのにそれを自分の都合で引っ掻き回すことが悪いと思っているといったところであろう。

 とにかくこうなると健太郎は辛抱強く千紗を説得していかなければならない。別にそうかと流してしまってもいいところだが、素直に流せるほど健太郎はドライではない。そもそもホームレスの千紗を家に上げた時点でおせっかい焼きなのだから、このぐらいのことは当然のように感じているようである。

「何にも悪くなんてない。むしろ物置だった部屋が生まれ変わるんだから願ったり叶ったりだ」

「でも……」

 正論で首を縦に振らせようとするものの千紗の遠慮ぶりも頑固なものである。こう手ごたえがあると健太郎としては引く気がむしろなくなっていく。好意をなかなか受け入れようとしない千紗に苛立つどころかむしろ説得に夢中になっていく。

「それにやっぱり自分が整えた部屋の方が落ち着くぞ」

「だけど……」

「それにうちに住み着いたことに比べればなんてことないだろ。部屋の模様替えぐらい」

「それはそうですけど」

「なっ、そうしろって」

 健太郎は畳み掛けるように説得の言葉を放つ。頑固な一面はあるが、基本的に押しには弱い千紗には有効な手段である。徐々に千紗を押し込んでいく健太郎はもはや勝ちを確信していた。

「それにお前の両親だって都会で楽しく過ごせるよう願ってお前を送り出したんだろ?」

「そ、そうですね」

「だったらお前は出来る限り楽しむことが親孝行だと思わないか?」

「それは……」

「それに自分からわがままを言っているわけじゃない。むしろ俺の方から提案してるんだ。何も断る道理はないだろう?」

「……そうかもしれませんね」

 両親というキーワードを持ち出された千紗は健太郎の意見に流れつつある。慎み深い千紗だが両親の優しさでもって都会に出てきたことを考えると田舎では出来なかったことをするのも孝行かもしれない。そんな風に考え始めていた。

「わかりました。それではお言葉に甘えて私の部屋として模様替えさせてもらいますね」

「ああ、存分にやってくれ」

 健太郎はそう言うと討論を打ち切り、トーストの最後の欠片を放り込んでコーヒーを飲み干す。討論をしている間にも双方とも食べることや飲むことを止めなかったためちょうどきりよく食事も終了していた。千紗もコーヒーを飲み終わり、流し台へと持っていく。朝食が終わった以上次にやることは決まっている。

 二人はそろってキッチンから退出して二階へと向かう。そして千紗の部屋へと入っていく。目の前にはテーブルと座布団、古びたタンスと本棚ぐらいしかない。あとは布団を敷くための空間が広がっているが、壁際にスペースが目立っている。こうして見ると物置部屋となってはいたものの、ろくに使える物はなくどちらかというと粗大ゴミ集積所として機能していたことが窺える。

 健太郎は千紗の部屋の奥にある窓から下を見ると粗大ゴミが置かれた庭が目に入った。粗大ゴミ収集の手続きはしたものの、すぐに捨てれるわけではないのでそれまでは雨ざらしの状態である。粗大ゴミが去った後は庭の掃除もしなくてはと思う健太郎だが、まずはこことばかりに振り返る。

 はっきり言って殺風景なこの部屋をカスタマイズすることが今日の目標である。まずは方針を定めるべく健太郎は千紗にいくつか質問をしていこうと考えた。

「千紗、お前の実家ではどんな部屋で暮らしていた?」

「畳の部屋でしたね。兄弟同じ部屋で」

「兄弟って何人兄弟?」

 初めて聞いた情報に健太郎は思わず反応してしまう。そして気が付けば部屋のカスタマイズとは無関係な質問をしていた。

「姉が一人と弟が一人ですね」

「へえ。そう言えば俺の部屋で寝ることも抵抗なかったもんな。そうか弟がいたのか」

「はい。同じ部屋で川の字になって寝てましたよ」

 どうやら千紗は兄弟相部屋でこれまで過ごしてきたようである。そうなると恐らく自分の色や主張を押し出した部屋には出来なかったであろう。千紗の話を聞いた健太郎は旧物置部屋がフローリングの洋風間であるのでその点では体験したことがないであろう部屋になりうると感じていた。

「そうなると一人部屋っていうのはなかったわけだな」

「こっちに出てきた時に借りたアパートは一人でしたけど」

「ああ、それがあったか。そこはどんな感じだった?」

「やっぱり畳の部屋でそれと台所、お風呂、トイレぐらいしかありませんでしたね」

 徐々に千紗のこれまで住居事情を知っていった健太郎は特に考えなくても自分の部屋や友達の部屋を参考にすれば十分千紗にとって目新しい部屋に出来ると考えた。

 方針が定まった健太郎は頭の中で予算を計算し始める。さすがにあれもこれもと買い漁れるような財力はない。そうなると必要最小限の物をまずピックアップし、揃えていくことが肝要である。

「フローリングで布団って寝辛いよな」

 数年間物置として使っていたため誰かが使うことを考慮に入れていないこの部屋はベッドなどない。だが、寝やすさもあるがそれ以上に未体験であろうベッドでの睡眠ということを考えると健太郎としては是非とも設置を実現したい。

「だけど予算が……」

 しかしかなり苦しい現実がそこにはあった。そんな物を買えば部屋に追加できる物が限られるどころか今後苦しい生活を余儀なくされる。苦悩する健太郎を見ていた千紗は横から口を出す。

「あの、私布団で十分なんですけど」

「でもフローリングに布団って体痛くなったりしないか? 結構薄い布団だし」

「大丈夫ですよ。これまで路上で寝ていたんですから」

 そう言うと千紗は胸を張って自信満々にしている。威張ることではないが妙な説得力がそこにはあった。

 なかなか健太郎はそうかと頷けなかったが、実際どうにもならないとも感じているので千紗の言うとおりにしなければならない。

 それでも健太郎としてはどうにかよりよい着地点を探したかった。

「フローリングの上に何かマットでも敷くか。そうすればちょっとは変わるだろ」

「それはいいと思います。暖かいですし」

「そうだ。ベッドはお前さえよければたまに変わって使わせてもいいし」

「い、いえいえっ! そんな悪いですよ。健太郎さんをベッドから追い出すみたいで」

 健太郎は名案とばかりにベッドの貸し出しを思いついたのだが、千紗は例の如く遠慮の姿勢を顕わにする。それに対して健太郎は明らかに不愉快そうにしている。先ほどまでは説得に夢中になっていたが度が過ぎるとさすがに苛立ちも生まれてくる。

(ここらで一つ千紗のこの悪い癖をどうにかしとかないとな……)

 千紗のあまりの遠慮振りは逆に相手を不快にさせることすらありえる。それを憂慮した健太郎はここらでそれを少し抑えさせなければならないと感じていた。

 部屋の模様替えとともに千紗の性格も模様替えをせねばと意気込んだ健太郎は心を鬼にして千紗に立ち向かう。

「千紗」

「は、はい……」

 急に雰囲気が硬くなった健太郎に怯えたのかやや大人しく返事をする千紗。先ほどまでの楽しい模様替えの空気はどこにやら現在のこの場は一転重苦しく硬い空気へと変わり始めていた。

「お前はその遠慮がちな態度を謙譲の心としているかもしれないが、はっきり言ってそうではないことも多々あるぞ」

「えっ?」

「過度の遠慮はかえって相手の良心を踏みにじることになる」

「あっ……」

「そうなるとお前の態度は相手を傷つけることになるわけだ」

「……」

「確かに遠慮は大事かもしれないけど場合と程度によるってことだな」

「……」

 すっかり千紗は黙り込んでしまい、親に怒られた子供のようになってしまっていた。自分のとっていた行動が相手に敬意や尊重を示すどころか不快にさせることがあると知って衝撃を受けているようである。

 健太郎が言う遠慮もどちらかというと小さなところでの遠慮のため余計に相手に不快に気持ちを与えがちである。大きな好意は聞き入れて小さな好意を遠慮しがちというのは完全に逆転行為である。そこは改めておかないと今後千紗が困ることになると健太郎は判断した。

 心苦しいがここは鬼にならないといけないと健太郎は意志を強く持って千紗を諭す。

「まあ、これからは少しそこら辺を考えてみてくれ。あっ、だからって遠慮を知らない風になれって言ってるわけじゃないからな」

「……はい。考えてみます」

 健太郎の言葉に頷いた千紗は明らかに意気消沈といった様子である。健太郎は少し言い過ぎたかと思ったが、遠慮のし過ぎで関係を悪くさせては遠慮の意味がなくなってしまう。それは千紗に災厄をもたらす可能性があると判断した上での行動なので間違いとは思わないが、それでももっと上手い言い方があったかもしれないと健太郎はその点では後悔を若干感じていた。

 この一連のやり取りですっかりこの場の空気は悪くなってしまったようで千紗は落ち込んだように見え、健太郎もどこか居心地が悪く感じていた。それでも自分が主導して模様替えをしようと言った手前、ここから立ち去るわけにもいかない。そうなると健太郎のとる行動は一つしかなかった。

「さっ、話はここまでにして模様替えを始めるか!」

 無理に明るく振舞い始めた健太郎。どうにか空気を変えようと必死である。腕を軽く回してやる気をアピールしている。そして大股にずんずんと部屋の奥へ向かう。

「とにかくこの壁際を上手く使いたいよな。今のところタンスと本棚しかないからな。何かまだ置けるぞ」

 そう言って健太郎は手を広げる。スペースはまだ余裕があるとのアピールであろう。

 健太郎が言うとおりまだ部屋にはスペースが十分残されている。部屋には入って左手にタンスがその隣にクローゼットがある。部屋の右壁にはスライド扉の収納があり、そこが健太郎が押入れと呼ぶ場所だった。正面の壁には本棚があり、そして部屋の中央に小さなテーブルと座布団という光景である。所々にスペースがあり、まだ財力があればテレビやパソコンなどが置ける余裕がある。

「でも窓際には背丈のある物は置けないからな。色々悩みどころがあるなあ」

 さっきから一人で喋っている健太郎はそろそろ限界だった。重苦しい雰囲気はちっとも解消されておらず一人で空回りしている有様である。ぐるぐる部屋を練り歩いて模様替えの考えを巡らせ、そして時には提案もするが完全に独り言状態である。

 今のところの千紗の模様替えは完全に失敗していると言っていい。遠慮を失くさせ、壁を薄くしようとした健太郎の目論見は見事に逆効果となっている。こうなると部屋の模様替えもまるで意味をなさない。かえって居心地のいい空間を提供して部屋から出ない環境を作り出してしまうかもしれない。

 心地よく住めるようにしてこの家の一員になってもらおうと思った考えが逆に避難所になりかねない事態に健太郎は焦り始める。家の中で対立が起こるぐらいならまだ一人の方がよかった。それどころか今までの遠慮の強い千紗でもむしろそっちの方がよかったかもしれない。

千紗の遠慮など小さなものだったじゃないか。この家に住みたいと自分の願いを言ってくれた。ちゃんと自分の大事なところは口にしてくれていたのだからそれでよかったのではないだろうか。徐々に健太郎はそう思い始めていた。

「なあ、千紗……」

 弱気の虫が現れ始めた健太郎は千紗に弱弱しく恐る恐る声をかける。さっきまでの説得の姿からは考えられないほど優しい声である。

「やっぱり……」

 健太郎が先ほどの言葉を撤回しようとした刹那、千紗は伏せていた顔を上げて健太郎を見据える。突然の機敏な動きに驚いた健太郎は続けようとした言葉を思わず飲み込んでしまう。

「健太郎さんの言うとおりです。私、遠慮のし過ぎだったですよね。相手の好意を踏みにじっていました」

 千紗は何かを決意した表情で言葉を紡いでゆく。

「私も受け入れてもらった以上、この家の一員として暮らしていきます」

「お、おう。それなら俺も何も言うことはないな」

「はい。それではさっそく私好みの部屋に作り変えさせてもらいます」

「よし。それじゃ始めるか」

 結構単純に考えを改めた千紗に少々拍子抜けがした健太郎だったが、この様子なら今後も変な遠慮などしないだろうと安心することができた。一つ屋根の下で暮らすというのに他人行儀ではやっぱりお互いに気まずい。すっきり窓を開いていたいものだ。

 千紗の心の模様替えをまず逆転で、とは言っても主に千紗の思い切りがよかっただけだが成功させ、次はいよいよ部屋の模様替えへと移っていく。もはや遠慮の気配を引っ込ませた千紗は先ほどまでのような健太郎のみが張り切る事態には決してさせなかった。自ら部屋を見渡して考えを練る。

「やっぱり私としては何か都会的な物を部屋に置きたいですね」

「何だ? 都会的な物って」

 健太郎は曖昧な千紗の言葉に疑問を持った。一体何が都会的で何が都会的でないのかがなかなか判断しづらい。その辺を千紗の感覚で判断してもらおうと健太郎は考えを頭の中で止めて、千紗の次の言葉を待った。

「例えば、そうですね〜、CDラジカセ……で合ってますっけ?」

「あん?」

「音楽を聴く機械ですよ」

「あ、ああ。合ってるけど、今はあまり使わないかもなあ。家にあれば使うかもってぐらいでわざわざ買ったりはしないと思う」

「ええっ!?」

 千紗は健太郎の言葉を聞いて大袈裟に仰け反る。ようやくいつもの明るい千紗が帰ってきたなと健太郎は思ったが、それと同時に千紗の驚きに強い関心を示していた。早速自分の望みを言ってくれそうで使命感に火が点いた感じである。

「何だ音楽が聴きたいのか?」

「はい。家にはテレビとラジオぐらいしかなかったですから」

「そうだなあ。親父の部屋にCDラジカセあると思ったけどどうだろう?」

「健太郎さんは何で音楽を聴くんですか?」

「俺はMDコンポかパソコンかな。外ではケータイで聴くけど」

「ケータイ! 知ってますよ。携帯電話のことですよね?」

 千紗はケータイという単語に目聡く、いや耳聡く反応した。今や若者のみならず仕事でも欠かすことが出来ないと壮年世代でも持っている携帯電話をまるで未来の機器でも想像しているかのような反応である。

「ああ、そうだな。電話代かかるから専らメール機器になってるがな」

 そう言いながら健太郎はポケットから携帯電話を取り出す。登場した折り畳み式の携帯電話を見るとその瞬間、千紗の目が輝いた。

「ああっ! ケータイです! 本物ですよ!?」

 まるで珍獣でも見るかのように大騒ぎをする千紗。そして思わず千紗の手は携帯電話に伸びていく。

「お、おい。何奪い取ろうとしてんだよ」

「はっ!? す、すみません」

 健太郎の声で我に返った千紗はぺこぺこ頭を下げて謝る。しかし頭を下げながらも目線はしっかり携帯電話に釘付けである。その動作に微笑ましく感じた健太郎は苦笑いしながら携帯電話を千紗に差し出す。

「ほら、見ていいぞ。だけど少しだけな。模様替えもやらなきゃいかんのだから」

「い、いいんですか? もし壊しちゃったら……」

 健太郎が差し出すと途端に引く姿勢を見せだす千紗。健太郎はまた遠慮の態度が出てきたかと思ったが、どうやら違うようである。どちらかというと千紗の様子は遠慮しているというよりも未知の機械を前に怖気づいている感じである。

「大丈夫だって。俺が教えてやるから」

 そう言うと健太郎は携帯電話を操作し、アドレス帳を開く。目まぐるしくディスプレイの画面が変わっていくのを見て千紗は感嘆の声を上げている。

「ほら、これが俺の家の電話番号な。あとはここを押せば電話が繋がるから使ってみろ」

「えっ、えっ? 電話するんですか?」

 いきなり携帯電話を使ってみろと言われた千紗は狼狽を隠すどころか前面に押し出して不安そうな顔を健太郎に向ける。

「大丈夫だって。相手は俺だし」

 自分の部屋に向かいながら健太郎は千紗に安心するよう諭す。どうやら自室から子機を取ってくるつもりらしい。

「でもでも」

「いいから押せ」

「ううぅぅうう……」

「何事も経験。親孝行!」

「ううぅう、卑怯ですよ。そう言われたら引けません」

「そんなこと言っちゃって本当は使ってみたいくせに」

 健太郎はお見通しだと言わんばかりにニヤニヤしている。内心、使ってみたい気持ちは非常に大きいが踏ん切りがつかないといった感じであろうと健太郎は読んでいた。一歩踏み出せば恐らく携帯電話の虜になっているだろうとも健太郎は読んでいる。

 そうなった場合親父に相談してみようと健太郎が考えているととうとう千紗が携帯電話の発信ボタンに指を伸ばした。じれったくなるほど時間をかけて千紗は発信ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。別にそんなにしなくてもと思うほど耳に押し付けているため顔がやや変形してしまっている。余分なボタンも押しかねないので健太郎は緊張で固まっている千紗の手をやや顔から離してやる。

 そんな風に千紗の面倒を見ていると健太郎の手に握られている子機から音が鳴り始める。健太郎はすかさず通話ボタンを押して耳に子機を当てる。

「おお、ちゃんと掛けれたじゃないか」

「ああっ、すごいです。ちゃんと声が聞こえますよ!」

 千紗の喜ぶ様子を見て健太郎は今日何度目だろうかという苦笑いを浮かべる。健太郎はほぼ千紗の真横にいるのだから声が聞こえるのは当然である。それにしても隣同士にいる電話での会話。なんともシュールな光景である。

 しかし千紗はもう夢中だった。ひたすらすごいだの聞こえるだの携帯電話の賛辞を繰り返している。健太郎はそれを聞きながら徐々に千紗から距離をとっていく。そうは言ってもはしゃいで声が大きくなっている千紗の様子を考えると家の中のどこにいても聞こえてきそうである。

「これが携帯電話ですか! まさしくハイテク。素晴らしいです!」

 こうして模様替えは進まず、午前中は千紗の携帯電話いじりで終わっていくのだった。


 結局午前中を遊びたおしただけで終えてしまった二人は真面目にやろうと午後からは模様替えに没頭していた。父親から拝借してきたCDラジカセを背のやや小さい本棚の上に載せ、カーテンをつけ、テーブルの下に絨毯を敷くなどして部屋を飾っていった。

 しかし急に模様替えをしたこともあって思ったよりも小規模な出来映えになっていた。これ以上のことをしようとすると買い物をしなくてはいけないが、思いつきで買い物をすると思わぬ失敗を招くだろうと結局この程度でよしとしようという結論になっていた。これからはちょくちょく本を買うなりCDを買うなりして細かく整えてもらおうということである。

 午後から始めて中途半端な午後五時頃に模様替えが終了してしまった。この時間ではなかなか今から出かけようという気分にはなれない。午後一番にカーテンを洗濯したことが少ない作業量のわりに時間がかかった要因だった。結局カーテンは午後からでは干しが足りず、生乾きで設置した。終了時間だけでなく作業自体も中途半端に終わってしまったが、やむを得ない。

「つーか干してる間に出かければよかったんだ……」

 もうすぐ夕飯を作る時間帯という頃になってようやくそのことに気がついた健太郎はキッチンのテーブルに突っ伏して後悔していた。カーテンを干して、部屋の模様替えを手早く済ました後、優雅に午後のティータイムなんぞを楽しんでいる暇があれば買い物に行けばよかったとつくづく感じていたのだ。別にカーテンは番などしていなくても誰も盗まないし、勝手に逃げることもない。

「でも無計画に買い物しても後悔したと思いますよ。これでいいんですよ」

 千紗は暢気にそう健太郎を励ます。しかし健太郎は意気込んでいただけになかなか割り切ることが出来ない。どうも時間を無駄にしたようでならない。この辺りは性格の違いが大きく表れていた。

「まあ、でも楽しかったよな。特にケータイへの反応が」

「高校時代に持っているクラスメイトがいましたが、あんなに近くで見たのは初めてでした」

「見るどころか触って通話までしたしな」

 二人は笑いながら今日一日を振り返る。不満も残る模様替えだったが、一緒に作業をしているとやはり楽しかったようである。それに千紗の遠慮癖を吐き出させて、それを改善させる方向へと向かわせたということを考えればやはり十分な結果であっただろう。居候という立場から一歩前進したようなそんな出来事であった。

「とりあえず内装は整えたから、あとは好きな本を買うなり何なりして自分好みの部屋にするんだな」

「私個人の部屋……。何か不思議な感覚です」

「そっか。そういえば兄弟相部屋だったんだもんな」

「でも最初の内は一人の部屋っていうのに戸惑うかもしれませんね」

「何言ってんだ。一人暮らしをしてたんだろ?」

「アパートは壁が薄くてそれなりに音が常に漏れていましたからね……」

「後期は開けっぴろげな路上だもんなあ」

 それでも我が家も別に防音性に富むというわけでもないのでそんなにアパート時代と変わりはないだろうと健太郎は考えていた。それに別に自分の部屋を持ったからといって閉じ篭っていなければいけないわけでもない。寂しかったら健太郎の部屋に遊びに行くなりリビングに行くなりすればいい。健太郎が千紗に部屋を持たせようと思ったのは孤独を感じさせるためではなく証明を示したかったからなのだから。

「まあ、とにかく部屋を持った以上お前はこの家の一員だな」

「えっ?」

「ここがお前の第二の実家とかそういうことだ」

「あっ……」

 健太郎の言葉を聞いた千紗は目を大きくして驚く。そんな千紗を見て健太郎は小さく微笑む。やや芝居がかった仕草だが、本人は大真面目に話しているだけにそこに可笑しさは感じられない。

「これからよろしくな、千紗」

「……。はいっ! 改めてよろしくお願いします」

 こうして居候改め、浅井家の住人となった千紗は改めて元気よく挨拶をするのだった。

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