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野良少女  作者: 氷室
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第四章 新たな生活

第四章 新たな生活


 翌朝、目覚めた健太郎の前には見慣れた自分の部屋、私物があった。ただ違うのは背中に当たる柔らかい感触と体温だ。健太郎の後ろでは千紗が小さな寝息を立てながら眠っている。

 健太郎が時計を見ると、もう一時間目の授業など間に合いそうもない時間だった。もっとも昨日の出来事もあって学校に行く気などすっかり失せてしまっていたのだが。

 すっかり目覚めた健太郎は余程柔らかいベッドでの寝心地がいいのか目覚める気配のない千紗を残し、部屋を出た。寝間着のまま洗面所へ向かい、顔を洗う。冷たい水でわずかに残っていた眠気を消滅させると健太郎はキッチンへと向かう。

 健太郎はお湯を沸かし、パンをトースターにセットして朝食の準備を始める。それらが動いている間に自らはマグカップにインスタントコーヒーを用意し、冷蔵庫からミルクを出す。沸かしているお湯はついでに茶を作るのも兼ねているためそれなりに沸騰まで時間がかかる。その間に健太郎は新聞受けから新聞を取り出し、ざっと目を通す。これらが健太郎の朝の日課だった。

 トーストはまだ時間がかかりそうだなとトースターを覗き込んでいると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。

「ふぁあああぁぁぁ……。おはようございます〜」

 寝惚け眼でキッチンに入ってきたのは千紗だった。目を擦りながらふらふらと頼りない足取りで健太郎の近くにまでやって来る。

「おはよう千紗。よく眠れたか?」

「はい、あんなに気持ちよく眠れたのはいつぶりでしょうか〜」

「お前、ちゃんと起きてるか?」

「起きてますよ〜」

 間延びした声で話す千紗はどうみてもまだ半分夢の世界に足を突っ込んでいる状態だった。それでもトーストの香ばしい匂いを嗅ぎつけた千紗は決して恋しい布団に帰ろうとはしない。キッチンのテーブルに陣取り、椅子にすっかり着席していた。

「お前もトーストでいいか?」

 しょうがないので千紗の分も作ってやろうと健太郎は千紗にトーストでいいか尋ねる。もし朝は和食という習慣があったなら電子レンジで出来るご飯があるが、そちらは夜に面倒くさい時に使いたかったので健太郎はトーストを勧める。

 しかし千紗の反応は健太郎の予想を超えたものだった。

「えっ!? 朝ご飯があるんですか?」

「はい?」

 健太郎はそう言ったきり絶句した。朝ご飯を食べないという若者はけっこういるが、朝ご飯があるのかと問われることはあまりない。しかし三日間も絶食していた千紗の境遇を思えば無理もない話だった。

 しかしホームレス生活の間に朝ご飯があることを驚くようになるとはと思うと健太郎は背筋に寒気が走った。出来うることならそんなことは人生で一度たりとも経験したくないものだ。

 健太郎は気を取り直して袋からパンを取り出し、トースターに入れる。そうこうしている間にお湯もいい具合に沸いてきそうだ。

「お前はどうする? コーヒー飲むか?」

「いいんですか?」

「もうここはお前の家でもあるって言っただろ? 遠慮するなよ」

「それではお言葉に甘えていただきます」

「うい、了解」

 注文を受けた健太郎はもう一つカップを出すとコーヒーを入れる準備をする。

「そういえば親父達に一度連絡しとかないといけないな」

 千紗の分のコーヒーを作りながら、思い出したように健太郎は呟く。さすがに自分一人の家ではないので家主たる両親の承諾なしで勝手に人を住まわせるわけにはいかない。もし許可が得られなくても健太郎としては強引に千紗を住まわせるつもりではあるのだが、一応形式上けじめはつけたかった。

 現在午前九時過ぎ。平日のこの時間帯では父親は出勤しており、海外の家には母親しかいないだろう。

「夜になって親父が帰って来てそうな時間を狙って電話するかな」

 健太郎はそう方針を決め、思考を終了する。息子たる自分から見て話が通じない頑固な親だとは思えないので恐らく承諾の返事が返ってくるだろう。健太郎が考えを簡単にまとめ終えられたのもこうした信頼があるからこそだった。それに第一、息子を一人暮らしさせて自分達は遠い海外で暮らしている点である程度の信頼を寄せていると判断することも出来る。責任さえ持てれば自由を許してくれているということだろう。どちらにしろ最悪なケースには至らなさそうではある。

 健太郎が千紗の分のコーヒーの準備と両親への連絡事項についてのまとめを終えるとタイミングを見計らったかのようにお湯が沸き、トーストが出来上がった。

 健太郎は皿を出してトーストを載せていき、マグカップにはお湯を注いでいく。そして注ぎ終わったやかんには麦茶のパックを落として茶を作る。これで朝食の準備は完了した。

 健太郎は千紗の隣の席に座ってコーヒーをかき混ぜる。それに倣って千紗もコーヒーをかき混ぜ始める。昨日の晩にも感じたことだが、隣で誰かが一緒に食事をするというのは久しぶりだった。特に朝食時に友人と食べるということは夕食、昼食に比べて頻度は限りなく少ないので健太郎には尚更久しぶりに感じられた。

「それじゃいただきますか」

 健太郎がそう切り出すと千紗は昨日のように手を合わせ、きっちり挨拶を行う。

「はいっ。いただきます」

「いただきます」

 健太郎も千紗に倣って手を合わせて礼儀正しく朝食に臨む。一人で食事をしているとなかなかしない行動だけに新鮮味があった。だがこれも千紗と生活をしていく以上普通のことになるのだろうと考えると健太郎はこれからの生活に大きな変化が起こりそうで実に楽しみであった。

「朝食終わったら何をしような。もう学校は諦めたし……」

「学校行かないんですか?」

「ああ、中途半端な時間だしな。それよりもやることが他にもある」

「やることって何ですか?」

「物置の整理、お前の日用品の買出しとか色々あるな」

「それでも学校には行かないと駄目ですよ」

 千紗は真面目そうな顔で健太郎に注意をする。見るからに優良な生徒であっただろうと思わせる風貌だけにある種の説得力がある。それでも穏やかな雰囲気がそれを緩和し、強制力は著しく低下していた。これが眼鏡をかけたりして委員長然とした容貌だったら健太郎も少しは考える余地があっただろう。

「今日休んでも他の日に頑張れば取り返しがつく。大丈夫」

 健太郎は考える素振りも見せず、千紗の言葉を聞き入れない。やはり穏やかな雰囲気の千紗では首を縦に振らせるだけの迫力に欠けていた。

「そうですか。それなら大丈夫ですね」

 そして何より千紗の押しが弱く人の言葉を受け入れがちなため全く議論、口論にならない。簡単に健太郎の言葉に納得した千紗はもう自主休校のことを頭から追い出していた。

「朝食の後は何から始めましょう?」

「そうだな……。まず整理整頓してから必要な物を考えていこう」

「わかりました」

 千紗は健太郎の言葉に頷き、トーストを小さな口で食べていく。喋りながらもトーストを食べ、コーヒーを飲んでいた健太郎とは違い、千紗は同時に二つの行動が出来ないのかトーストがまだ大分残っていた。

 早くもトーストを食べ終え、ゆっくり残りのコーヒーを飲み干そうとする健太郎を見て食べるスピードを上げる千紗。

「もぐもぐ……。うんっ!? けほけほっ!」

 急いで食べ過ぎたのか喉に詰まらせてしまう千紗を見て健太郎は苦笑する。

「あまり急がなくていいぞ。久しぶりの朝食なんだから味わって食べればいい」

 苦しみながらも何とかコーヒーを流し込み、窮地を脱した千紗は健太郎の言葉に無言で頷く。

 マグカップを置き、一息つくと再びトーストを食べ始める。今度は急ぐことなく味を噛み締めるかのようにゆっくりと咀嚼する。徐々に徐々に量が減っていくトーストを見て健太郎もコーヒーを完全に飲み干し、食事を終える。それに遅れること数分で千紗も食事を終えた。

 朝食を食べ終えた二人は二階に上がり、物置と化した部屋に入る。

「やっぱり汚いな。やる気が一気に失せてくる」

 目の前に広がる惨状に健太郎は脱力していた。埃が積もったりしていて汚いこともそうだが、いらない物が入っていたりするのでそれらを片付けるのに結構な手間が掛かりそうなことがやる気をなくさせていた。

「私一人でやるから大丈夫ですよ。無理しないで下さい」

 千紗が健気に健太郎を気遣う。普通は男が格好良く女の子に言ってやりたい言葉なのだが、それを逆に言われてしまった健太郎は立場がなかった。

 そしてそんなことを言われた以上、そのままそうかと受け入れるわけにはいかない。健太郎は握り拳を掲げ、やる気をアピールし始める。

「いや、ここは男手が重要だ。俺に任せとけ!」

「おおっ、健太郎さんすごいやる気ですね。私も負けていられません!」

 気合の入った二人はすぐに掃除に取り掛かる。何も言わなくても意思の疎通が出来ているのか健太郎は真っ先に今は使われていない椅子に向かい、千紗は押入れを開けて布団を取り出す。力仕事は健太郎、掃除方面は千紗と役割分担が自然に出来ていた。

 健太郎は椅子を一脚だけ残してそれ以外は庭へと運び出す。続いてテーブルを引っ張り出してこれも庭へと運んでいく。階段を上り下りするので結構な重労働だったが、物が大きいこともあってあっという間に空間が開いて成果がよくわかる。

 一方の千紗は布団のシーツを外し、それを風呂場に持って行く。そして布団はベランダに干す。ここまでは至って普通の行動だったが、次に千紗のとった行動は健太郎を呆れさせるのに十分なものだった。

 千紗は再び風呂場に向かい、何故か服を脱ぎ始める。そして下着姿になった千紗はシャワーを出してシーツを手洗いし始めたのである。ちっとも洗濯機の動く音が聞こえてこないことに気が付いた健太郎は風呂場へと入っていく。するとそこにはあられもない姿でシーツを手もみしている千紗がいた。

 不意打ちを喰らった健太郎は凄まじい速度で首を動かし、千紗から目をそらす。

「お、お前は何をやってんだ!」

「えっ? 何ってお洗濯ですけど」

「そこに洗濯機があるだろうが」

「洗濯機って私の地元にはなかったんですよね。ですからついつい手洗いでやりたくなって」

 健太郎は深いため息をついた。洗濯機が普及していない地方ってどんな所だよと言ってやりたかったがその力も出なかった。そもそも手洗いするならするで風呂場の扉を閉めてほしかったし、下着姿というのもやめてほしかった。

 健太郎は顔を横にそむけながら器用に千紗からシーツを奪う。そして奪い取ったシーツを洗濯機に放り込み、電源を入れる。続いて洗剤を適量振り掛けて洗濯機内にある引き出しに柔軟剤を入れる。そしてホースを蛇口につないで、水を洗濯機に流し込んだ。それらの一連の動作を眺めていた千紗は思わず拍手をし始める。

「健太郎さんは凄いですね。私はそんなハイテク機器使いこなせませんよ」

「いや、まだそのお前の言うハイテク部分とやらには電源ボタンしか触れていないんだが」

 何しろまだシーツを放り込んで洗剤、水を投入しただけなのだから何も操作していないに等しいし、これ以降も特に触れることなどない。せいぜい洗濯終了後蛇口を止めるぐらいだ。勝手に電源も切れるし、使いこなすなんていう言葉は必要なかった。

「その電源ボタンすら私はわかりませんよ」

「書いてあるっつーの」

 健太郎は洗濯機の電源と書かれた部位を指差す。

「たいていはこれ押すだけで大丈夫。あとはスタート押すぐらいだな」

「それだけでいいんですか?」

「ああ、他に何があるか知らんけどたいてい事足りる」

「それなら私でも出来そうです」

「今度からは手洗いするなよ。まあ大事なもんはそれでいいかも知れんけど」

 健太郎はこれで済んだとばかりに洗濯機から離れて二階へ上がろうとするが千紗が付いてくる気配がしない。不審に思った健太郎は再び階段を降りて風呂場に向かう。

 そこには座り込みながら洗濯機の番をしている千紗の姿があった。

「……。何をやってるんだお前は」

「洗濯機見てないと。終わったら止めないといけないし」

「全自動だから勝手に終わる」

 その言葉に驚愕の表情を浮かべる千紗を引きずり健太郎は二階へと上がっていく。いちいちこんな面倒を見るのが厄介だった。

「さあ、邪魔なテーブルと椅子を撤去したからだいぶスペースに余裕が出来た。次は何をするべきか」

「洗濯機が……」

「勝手に終わる」

「でももしかしたら水が溢れちゃったり」

「お前が洗濯機の仕事を見てたいだけだろ」

 健太郎は完全に千紗の考えを見抜いていた。本当に勝手に洗濯をして終了するのか見たいのだろう。初めて見る機械の動きを見ていたい気持ちはわからないでもないが、千紗のための部屋を掃除するのに自分だけが動くということはしたくなかった。

 結局千紗を叱咤して整理整頓を進める。まだ洗濯機の方を名残惜しそうに見る千紗だったが、自分の部屋になるということで一生懸命やろうと動く。掃除機をかけ、雑巾がけをし、押入れの整理をする。

 そんな千紗の行動を見やり、健太郎は一階へと降りていく。そして電話をかけて、廃品回収を依頼する。これで庭に広がった不用品の始末が出来る。千紗が来てくれたおかげでいらない物を捨てる機会が出来たのだから健太郎としてはその点でも有意義だった。

「しかし結構疲れたな。まあそこまで超重量級の物はなかったから運ぶことは出来たが」

 健太郎は酷使した腰や腕を擦る。程よいどころかぐったりするほどの疲労感が体を包んでいる。さすがに一休みを入れたくなった健太郎は時計を見る。現在十二時十五分前。ちょうど昼ご飯のことを考え始めてもいい時間帯だった。

「気が付いたらこんなに時間が経ってたのか。昼ご飯どうしようかな」

 健太郎は二階に上がりながら昼からの予定も考慮に入れて考えを練る。千紗のものとなる部屋へ入るともはやそこはかつての姿とは一変していた。

 改めて部屋を眺めるといらない物がたくさんあったものだと健太郎はしみじみ思う。部屋には小さなテーブルと本棚、そしてタンスが置かれている。他にも細々とあるが、目に付くのはこの辺りだった。生活するには十分な設備である。

 健太郎の部屋とほぼ同じ間取りだが、健太郎の部屋にはパソコンやテレビなどが置かれている。さすがにそれらを設置できるほど経済的に余裕がないのでパソコンに関しては健太郎のもの、テレビはリビングのもので勘弁してもらおうと健太郎は考えていた。

 そしてこの部屋の主となる千紗は座布団に座って一休みしている。部屋の中央に置かれたテーブルに上半身を突っ伏し、眠っているように見える。

「おーい、千紗。起きてるか?」

 健太郎は千紗に呼びかけながら部屋に入っていく。そして千紗の肩を揺らして覚醒させようと試みる。

「ふあ? あっ、健太郎さん……。あれ?」

 上半身をテーブルから起こし、千紗は周囲をきょろきょろと見渡す。どうやら上半身をテーブルに投げ出して休憩していたら気が付かない内に眠ってしまったのであろう。結構な運動量だっただけに疲れていてもおかしくない。

「もうそろそろ昼ご飯の時間だぞ。どうする?」

「あっ、お昼ご飯ですか。お昼ご飯も久しぶりですねえ」

 間延びした声で言うが、結構深刻な問題だった。昼だけを抜いていたわけではないので、たまに面倒で昼ご飯を食べないということとは全然意味合いが違っている。

「お前にとっては更に久しぶりのことかも知れないが外食にしようかなと思っているんだが」

「が、外食ですか……」

 健太郎の提案に千紗が突然尻込みをし始める。声も小さくなりどことなく緊張した顔つきをしているのが気になった。

 そのおかしな態度に健太郎は当然のごとく疑問の言葉を投げかける。

「どうした? 何か不都合でもあるか?」

「いえ、その……、私、作法とかよく知らなくて」

「お前はどんな高級料理店に連れて行ってもらえると考えてるんだ?」

 あまりに馬鹿らしい不安に健太郎は呆れてしまう。もしかしなくても外食をした経験がないのであろう。実際ハンバーグなどでもフォークとナイフを使わずに箸で食べている人もいるし、フォークのみで食べている人もいる。それにファミレスなどではやかましく喋っている学生などもいて、作法など気にする必要はない。誰もそんなところ見ていないだろう。

「心配するな。行くのはファミレスとかその辺りだから作法なんか特にない」

「本当ですか? 私みたいな田舎者でも大丈夫ですか?」

「とりあえず俺の言うとおりにしてれば大丈夫」

「それなら行ってみたいです」

「よし決定」

 そうと決まると健太郎は部屋のことと昼ご飯のことは一時置いておき、一階に下りて洗濯機へと向かう。そして既に洗濯を終了し、電源が切れた洗濯機の蓋を開けてシーツを取り出す。脱水作業によってしわくちゃになっているシーツを健太郎は伸ばして折りたたむ。庭へと運ぶにあたって伸ばしたままでは下を引きずってしまう。

 そんな作業をしていると二階から健太郎を追って下りてきた千紗がシーツを見て驚愕する。

「すごい……。真っ白です」

 今度は呆けたようにシーツにふらふらと近寄る千紗。健太郎は千紗の予想外の行動につい動きを止めて見守ってしまう。

「何かすごいいい匂いがしてきます」

 敏感に匂いに反応した千紗が鼻を鳴らす。どうやら洗剤と柔軟剤の香りが漂ってきたのであろう。健太郎がシーツを左右に振るとそれに反応して千紗が顔を同じように左右に振る。

 面白い反応なので健太郎としては続けていたかったが、こうしている間に時間は過ぎていっている。昼ご飯のことを考えると早く洗濯物を干してしまいたい。

 左右にシーツを振るのを止めた健太郎はシーツを持って庭まで出る。そして物干し竿にシーツを掛けると洗濯ばさみで左右を止めて風対策をする。これで外出中にシーツが地面に落ちて大惨事になるということはほぼない。

 やるべきことを済ました健太郎は家へ入り、出かける準備を始める。

「おーい、お前も出かける準備しろよ。すぐ行くぞ」

「私はいつでも準備万端です」

 健太郎の目の前には手ぶらの千紗がいた。まあ確かに居候したての千紗にはそもそも物がないので仕方がないが。あまりに手軽で健太郎は拍子抜けしてしまった。女の準備には時間がかかるというのが健太郎の考えだっただけに尚更であった。

「まあ、時間がかからないならそれにこしたことはないけどな」

 健太郎は財布と家の鍵、預金通帳を鞄に入れて外に出る。後ろから付いてくる千紗を待って玄関の鍵を閉める。そして二人並んで歩き始めた。

「とりあえずお前の最低限の身の回りの物を買わないとな。服とか歯ブラシとか色々な」

「こんなにしてもらえるなんて……。嬉しくて涙が出てきます。ううぅぅぅうう……」

「大袈裟だなあ」

 健太郎は苦笑しながらも素直に喜びを表してくれる千紗を見て満足していた。やっぱり女の子が喜んでくれるのは男として嬉しいことだった。それが文句なしの美少女であるなら尚更である。

 健太郎は機嫌がよいため細かいところにも気を配る余裕があった。千紗の歩幅に合わせてスピードを調整するという動作をごく自然にやってみせていた。その気配りに千紗が気付いた様子を見せないことはさらに健太郎の気分をよくさせる。こういうのはさりげないのがよいものだ。

「まずは日用品を買っていくか。服とかかさばる物は後回しだな」

 健太郎は隣を歩く千紗を見ながらこれからの予定を話す。楽しそうに歩いている千紗は服という単語を聞くなり輝く目で健太郎に迫って来た。

「私、都会の服を見てみたいです! 可愛い服着てみたいです」

「お、おお。わかった、わかったから少し離れろ。もう俺、壁に当たってるから」

 あまりの千紗の勢いに健太郎は道路の脇に追いやられ、民家の壁に密着していた。千紗の言う都会の服というものがどういうものかわからないが、高級な物は容赦なく切り捨てないと家計が危くなりそうだと健太郎は千紗の勢いから判断した。

「まあとにかく昼ご飯行って、日用品、服、食料品かな」

 話を服から逸らせようと健太郎は昼ご飯の話を持ち出す。これなら入る店を選べばそこまで大出費にはなるまい。千紗が大量に食べたりすればどうなるかわからないが。

「お昼ご飯ですか! そっちも楽しみです」

 千紗の満面の笑顔に一抹の不安を健太郎は覚えたが、喜んでくれていること自体は純粋に嬉しかった。そうなると多少財布の紐が緩んでもいいかなと思い始めてしまうから怖い。まさしく無邪気な魔性の女である。

 こんな風にお喋りをしながら歩いていると徐々に車通りが多くなってくる。駅周辺の賑やかな通りは様々な店があって千紗の目を奪うのに十分なものだった。

「私もしばらくこの辺りに住んでましたけど何故だか怖くて駅の方へは来れなかったんですよ。凄い賑わいですねえ」

「怖いってどういうこと?」

「何か都会って憧れもあるんですけど逆に畏怖の対象だったりするんですよね」

「たしかに都会は恐ろしいとか言ってるのマンガとかであったりするよな」

「まあそういうわけで今回は健太郎さんもいますし、せっかくなので満喫したいと思います」

 そう宣言するなり千紗は辺りをきょろきょろ見渡し、忙しなく動き回る。正直田舎者のおのぼりさんのような雰囲気が見るからに醸し出されているが、せっかく楽しんでいるんだからと健太郎は自由にさせておいた。それでも目を離すと迷子になりかねない程はしゃいでいる千紗を見守るのは骨が折れる。

 しかし元気よく動き回る千紗だったが、突然その動きを止めた。どうしたのだろうと近付く健太郎は千紗の視線の先を見つめる。

 そこには可愛い衣装で動き回る女の子が料理を運んだり、レジを打ったりしている光景があった。健太郎は視線を上げる。高い位置に取り付けられた看板には有名ファミリーレストランの名前が書かれている。健太郎も何度か訪れたことのある店だったが、ここ最近は利用していなかったので一瞬では分からなかった。

 記憶にあまり残っていないため味がどうとかの情報は乏しいが、有名チェーンということでそれなりの信頼は置ける。千紗も興味を持っていることだしと健太郎は昼食の場をここと決めた。

「千紗。ここで昼ご飯食べようか」

 千紗はその言葉を待っていましたとばかりに首を縦に振る。

「はい。ここで食べましょう。う〜、楽しみです」

「それじゃ入るか」

 健太郎は千紗の返事を聞いてファミレスのドアを開ける。続いて入ってくる千紗のためにドアを支えて待っているが、入ってくる気配がない。すぐに移動するはずだったため前向きのまま後ろのドアを支えていた健太郎は不審に思って後ろを振り返る。

「おいっ、何やってんだ。入らないのか?」

「あの……。何だか緊張しちゃって」

 千紗はファミレスのドアにまるで彼女専用の防壁でもあるかのようにその場に留まっている。初めて入る場所には緊張してしまうのは分からないでもないが、先ほどまで楽しみにしていた人間とは思えないほどの変わりようである。

 尻込みしている千紗を健太郎は手をとって引っ張り込む。緊張しているだけなので抵抗もなく千紗は店の中へと入ってくる。店の内部に入るにはさらにもう一つドアを開けなければならないので健太郎はまた千紗が尻込みしないよう手を握ったままドアを開いた。

「いらっしゃいませ! お客様お二人様でよろしいでしょうか?」

 可愛い制服を身に纏ったウェイトレスが健太郎と千紗の前にやってくる。ウェイトレスが話しかけてきただけで千紗は少々錯乱気味になっていたが、健太郎はそちらを無視して早くことを進めようと対応する。

「はい。二人です」

「おたばこはお吸いになられますでしょうか?」

「いえ、吸いません」

「それではこちらへどうぞ」

 一通りのやりとりが済むとウェイトレスが先導して席へと向かう。千紗は尊敬の目で健太郎を見つめていた。

「どうした?」

「すごいです、健太郎さん。私だったら慌ててますよ」

「実際隣で慌ててたもんな」

 そんなことを話しながらウェイトレスに付いて行くとウェイトレスが立ち止まり、手を伸ばして促す。

「お席こちらになります」

「あ、はい」

「ご注文がお決まりになりましたらこちらでお呼びください」

 そう一通り説明するとウェイトレスは忙しそうにまた動き回る。健太郎はすぐにメニューを見ようとしたが、またおかしな行動をしている千紗が目に入ってしまう。

「……。お前は何をやってるんだ?」

 千紗はウェイトレスがこれを使って呼んでくださいと言っていた呼び出しの機械を見ていた。ボタンを押すことによって客が呼んでいることを示すものだ。

 千紗はそれを不思議そうにそれを見ていたが、不意にボタンを押そうと手をボタンにかける。

 しかしそれをやりそうだと感じていた健太郎はすぐさま千紗の手を横からはたいて死守する。

「痛いです。何するんですか」

「お前こそ何してんだ。押そうとしただろ、今」

「押すとどうなるのか知りたくて……」

「お前は子供か。押したら誰か店の人が来ちゃうんだよ。迷惑だろうが」

「はー、そうなるんですか。納得しました」

 好奇心が強いが根は良い子の千紗は迷惑と聞くともう手を伸ばそうとはしない。健太郎に倣ってメニューを開くとすぐに興味はそちらに移っていった。

 メニューには様々な料理が載っている。肉料理から和膳、カレー、デザートなどが並ぶのを見た千紗は早速選ぶのに難儀しそうな状態だった。

「たくさんあって選べないですよ〜」

「まあそう言うと思った。早くしろとは言わんが昼時は混むからな。程ほどにな」

「それって早くしろって言ってるようなものですよ〜」

 困り果てて焦り始める千紗は忙しなくページを捲る手とメニューを見る目が動く。先ほどからハンバーグやステーキなどの肉部門とピザなどの軽めの料理が並ぶページを行ったり来たりしていることに健太郎は気付いた。

「どっちとも頼めばいいじゃないか」

「健太郎さん、私のことを常に腹ペコの大食いと思ってませんか?」

「違うのか?」

「違いますよ。健太郎さんにはデリカシーが足りてません」

「ちっ、田舎者が覚えたての言葉を使いやがって」

「デリカシーぐらい知ってます。田舎出身だからって馬鹿にしてません?」

「はいはい、何でもいいから早く選べよ。席が埋まり始めてきたぞ」

 まだ文句が言い足りなさそうな千紗を急かして健太郎は注文を決めさせようとする。今までメニューに集中していた千紗もそこで人が増え始めたことに気付いたのか思い切ってメニューを決めた。

「決めました。私、やっぱりお肉を食べたいのでハンバーグにします」

「よし、それじゃ呼ぶぞ」

 そう言って健太郎が例のボタンを押そうとすると千紗がその手を遮って止める。

「何をする」

「これは私の役目です」

 千紗は真剣な目で健太郎に訴える。やはりまだこのボタンを押したい気持ちは強いらしく引く気はなさそうだ。健太郎は別にそんなにボタンを押すことにこだわりなどないのでその役目を譲る。

 すると千紗は嬉しそうにボタンに手を伸ばす。千紗がボタンを押すと電子音が鳴り、程なくウェイトレスが注文を聞きにやってきた。

「ご注文をどうぞ」

 オーダーを打ち込む準備してウェイトレスは注文を促してくる。

「はい。イタリアンハンバーグをお願いします」

 ボタンを押して店員を呼ぶ時には興奮していた千紗だが、いよいよ注文をするに至るとトーンダウンしてしまう。やはり慣れないことの上に相手が絡むと緊張をしてしまうのだろう。

「おい、千紗。単品でいいのか? ライスとかいらないのか?」

「えっ?」

 注文を終え、一仕事終えたといった風の千紗に健太郎は尋ねる。さすがにハンバーグだけを食べるというのはバランスが悪いと思ったのであろう。

 何を言ってるのかと言わんばかりの顔で千紗は呆けている。そんな千紗に健太郎はメニューを見せて説明を始める。

「セットで何か付けるなり何なりしないとハンバーグだけになるぞ」

「えっ、ご飯とか付いてこないんですか?」

「定食じゃないんだから」

「ああ、どうしましょう!?」

 慌てる千紗は横に置いていたメニューを再び捲ってオーダーを練り直す。

「おいっ! 落ち着け、反対反対!」

「えっ? あれ、あれあれ?」

 慌てているせいかメニューを天地逆様に持っている千紗に健太郎は落ち着くように言うが、既に冷静さを欠片すら失くしている千紗には無意味だった。落ち着くよう言われた千紗は却って焦りを増し始める。

「あの……オーダーは如何なさいましょう?」

 イタリアンハンバーグのみを打ち込んだまま所在無く立ち尽くしているウェイトレスが恐る恐る尋ねてくる。徐々に客が増してきている店内だけにいつまでも健太郎達に時間を費やしている場合ではないのだろう。

「あ、はい。すみません。それじゃあ、えーと……。ミートドリアで」

「はい、かしこまりました。それでこちらのお客様は如何なさいましょう?」

 未だにメニューを持ったまま慌てふためいている千紗を方を見てウェイトレスは困った表情をしてしまう。どうやら他の店員から早くオーダーを受け付けて、次に回れと指示をされているのだろう。

 仕方ないと判断した健太郎は困り果てる千紗を尻目に自らメニューを捲ってウェイトレスに千紗の分も注文してしまう。

「それじゃこっちにはライスセットでお願いします」

「はい、かしこまりました。それでは確認させていただきます」

 助かったという表情で最後のオーダーを打ち込んだウェイトレスは画面を見ながらオーダーの確認をし始める。特に問題はないため健太郎が大丈夫と伝えるとウェイトレスは一礼し、次のテーブルへと忙しなく動き回る。

「はううぅぅぅう……。店員さんに悪いことをしてしまいました……」

「まあ、初めてファミレス入ったんだろ? 仕方ないさ」

 それでも注文ぐらいであんなに慌てないでほしいと思うところもあったが健太郎は言わないことにした。初めてのファミレスを落ち込んだ気分で体験してほしくなかったからだろう。やはり飲食は楽しくしたい。

「それよりお前の故郷ってファミレスとかないのか?」

「えっ? ……そうですね。私の故郷はすごい田舎ですから」

「何があるんだ?」

「見渡す限り山とか田んぼ、畑ですね。こことは正反対のような感じです」

「自然たっぷりで良さそうな所じゃないか」

 健太郎は本当にそう思っていたが、千紗の表情はそれは違うと言わんばかりである。

「都会に住んでいる人はそう思うんですよ。ですが実際にそこにずっと住むとまた違いますよ」

「そんなもんかね。でもまた何で思い切って田舎を出てきたんだ?」

 健太郎はそう言えば田舎を出てきたと聞いたが、深く理由は聞いていなかったと思って質問をしてみた。家に住まわせているんだからそれぐらいの権利はあるだろう。

「理由ですか? それは……」

「あっ、言いたくないなら言わなくても……」

 もし話したくない事情があるなら話さなくてもいいと健太郎は言おうと思っていた。少し間があったことに反応しての言葉だったが、それを言い切る前に千紗は理由を口にし始めた。

「それは……どうしても都会を見てみたかったからです」

「……。はい?」

 健太郎は疑問と呆れの表情を隠せない。もっと深刻な事情があるのかと思えば単に都会を見てみたかったからだと言う。そんな単純な理由で都会に出てくるだろうか。

「本当にそれだけ?」

「はい。それだけです」

 健太郎はさらに確認するが千紗の答えは変わらない。あまりの無鉄砲、無計画、能天気さに頭がくらくらしてきた。よく言えば度胸があってバイタリティ溢れる女の子だと言えるのだが、その挙句にホームレスになっていては話にならない。改めて健太郎は千紗を保護して正解だったと確信した。

「私、高校まで出たんですけど田舎なので少し離れた町の高校に通っていたんですよ。そこは私の田舎とは比べ物にならないほど発展していました。そこから都会に対する憧れが出てきたんです」

 千紗の話に健太郎は共感し難いものがあったが、そんなものかと思って聞いていた。健太郎自身は生まれも育ちも都会と言われる所のため無理もない話しだった。

「それでもその町もここから見れば十分田舎なんですけどね」

「まあとにかくその町が千紗の憧れの原点なわけだな。それで千紗の通ってた高校の近くにはファミレスとかあったのか?」

「わからないです。私、家が遠かったし、家に帰ったら家事とかの手伝いしてましたから」

千紗は何でもないことのように話すが、健太郎は信じられないといったような表情である。

確かにたまに家事の手伝いをすることはあったが、高校生の時は主に友達とつるんでいたり、部活をして放課後は過ごしていた健太郎には想像も出来ない。

「それを毎日か?」

「はい。それでも私が高校を卒業する少し前に友達から貸してもらった雑誌を見てたら聞かれたんですよ」

「何を?」

健太郎は誰に、何をと要旨を大分欠いた千紗の話しに思わず身を乗り出して聞く。

 説明足らずの言葉も関係によっては苛々させることもあれば逆に興味を煽ることもある。そういう点で健太郎にとって千紗はすっかり心地の良い人になっているのだろう。

興味を示してくれることが嬉しいのか千紗は健太郎の質問に微笑みながら答えた。

「お母さんとお父さんが都会に興味があるのかって」

「やっぱり親としては子供の興味は知りたがるよなあ。俺のとこも好きな子はいないのかとかよく聞いてきたからな」

「私もです。農家ですから跡継ぎが気になるみたいで」

「それでも都会に興味があるのか聞いてきたのか。普通だったら押し止めたいだろうに」

「二人とも優しいですから……。それで私が興味があるって言ったら、今度は都会に出たいかって」

「すごい答えづらいな、それ」

「でも二人の顔が真剣だったから素直に言いました。出てみたいって」

「それで出てきたらホームレスになっちゃったわけか」

そう言われた千紗は恥ずかしそうに頭を摩っている。既に初めてあった際に公園で話したように詐欺に遭った上に詐欺と気付いていなかったのだから無理もない。

「でもそんなことになったんだったら実家に連絡するなりすればよかったじゃないか」

健太郎はごく当たり前のことを言う。身寄りがないならともかく実家があるのだから助けを求めればよい。

「出来ないですよ。あんなに優しく送り出してくれたのにすごすご帰ってくるなんて」

 千紗は俯きながら小さく言う。罪悪感と恥ずかしさなど様々な感情が渦巻いているのだろう。

「実家と連絡は取ってないのか?」

「ここ最近はホームレス生活でそんなこと出来ませんでしたから」

「まあ、そりゃそうだよな……」

 健太郎はまるで自分のことであるかのように悩んでいる。現状自宅に電話があるのだから千紗は両親と連絡を取ることは出来る。しかし今の状態を両親に話せばすぐ戻ってくるように言われるだろう。人様の家に上がりこんで、厄介になっているのだからそうするのが普通である。

 千紗が今後どうしたいのかわからないが、健太郎としてはお別れになるのは寂しいと感じていた。夜の公園でゴミ箱を漁っているのを見つけたという微妙な出会いの上にまだ丸一日も経っていないというのに千紗の存在は確かに健太郎の中で大きなものになっていた。それはやはり未だ慣れない一人暮らしという状況が大きく作用したのだろうが、健太郎と千紗の相性が良いことも一因となっているようだ。

「とりあえず家には電話あるけど……。連絡取るか?」

 健太郎は複雑な心境のまま千紗に連絡を取るか尋ねる。

 その問いに対して千紗は少し悩みながら上目遣いに健太郎を覗き込む。

「あの……お尋ねしますけど、健太郎さんは今の状況は迷惑でしょうか?」

「い、いや、俺はちっとも迷惑じゃないぞ」

 健太郎は思いがけない質問に少々慌てながら答えを返す。だがこの質問に健太郎は希望を見出し始めていた。

「私は健太郎さんさえ許してくれるなら、このまま居候させてほしいです」

 自分の望んでいた答えが千紗の口から発せられたことに健太郎は固まってしまう。普通に考えれば連絡を取って、それで地元へ帰ってしまうだろうと思っていただけに衝撃は大きかった。たとえその前の質問に光明を見出したとはいえ、千紗が真面目な性格だけに可能性は低いと思っていたのである。

 驚きと嬉しさに固まっている健太郎を余所に千紗は続けて話し始める。

「やっぱり私の望みを許してもらって来たわけですし、苦い思い出だけを残しては帰れないです。楽しんで見聞を広めて色々して

出て来た甲斐があったって言えるようにしたいんです」

「……」

「わがままだってわかっています。それでもここにいたいんです。どうかこれからも残らせてはもらえないでしょうか?」

 千紗はそう言い切ると頭を下げて健太郎にお願いをする。その行為で我に返った健太郎は周囲の目もあるため、とりあえず千紗の頭を上げさせなければと慌て始める。

「ち、ちょっと千紗。頭上げろって。大丈夫だから」

「いえ! 私の誠意が通じるまで上げるわけにはいきません。私は本気なんです」

「通じてる通じてる! だから、なっ。頭上げろって」

「……本当ですか?」

「ああ、俺だってやっぱり一人暮らしは何だかんだ言って寂しかったし」

 その言葉を聞くと千紗は頭を上げて今度は涙を流し始める。

「お、おい。何泣いて……」

「う、嬉しくて。私、すごいわがまま言ってるのに……。それを聞き入れてもらえるなんて」

 しゃくり上げながら千紗は涙を拭く。周りからの好奇の視線が気になったが、今はそれどころではない。健太郎は千紗を落ち着かせようと優しい言葉をかける。

「大丈夫。わがままじゃないって。だから泣き止めよ」

「は、はい……。すみません……取り乱しちゃって」

 健太郎はようやく笑顔を見せた千紗に安堵する。するとタイミングを計ったようにウェイトレスが料理を持って健太郎達のテーブルへやって来る。初めて食べるファミレスでの食事に千紗の笑顔はより増し、健太郎の満足感も増していくのだった。


 買い物等諸々終えた後の夜、健太郎は電話の前に立っていた。健太郎の家に留まりたいと願った千紗を安心させるべく健太郎の両親に電話を掛けるためである。恐らく千紗滞在の許可は下りるだろうと思ってはいてもこんな事例など過去になかったので、拒否される可能性だって十分考えられる。

 そんな緊張感にしばらく躊躇していると傍らに立っている千紗が目に入る。千紗を再びホームレスにするわけにはいかない。使命感に燃えた健太郎は意を決して電話をかける。

 数回のコールの後、誰かが出た音が聞こえてくる。健太郎はその瞬間唾を飲み込んだ。緊張の一瞬である。

「はい。浅井ですが」

 電話に出たのは父親だった。健太郎に緊張が走る。

「親父か? 俺、健太郎だけど」

「おお、お前から電話がかかってくるなんて珍しいな。どうした、何かあったか?」

「ああ、実はちょっとお願いしたいことがあって」

「うん? 言ってみろ。何をお願いしたいんだ?」

「昨日な、バイトの帰り道にホームレスに会ってな……」

「狩っちゃったのか!?」

「狩ってねーよ! つーか自分の息子をどういう目で見てんだよ!」

「お願いしたいのは罪の揉み消しか? 父さんは単なるサラリーマンだから無理だぞ」

「人の話を聞けよ! そのホームレスっていうのが同い年の女の子で放っておけなかったから家に連れてきたんだよ」

「人攫いも揉み消せないぞ」

「それでその子を家に住まわせたいんだけどいいかな?」

「お前こそ人の話を聞け」

「くだらないボケにいちいち突っ込んでられるか。国際電話だぞ」

「それもそうだな。それじゃ早速判決を下すか」

「早っ! 本当に考えたのかよ」

 健太郎はいちいち話の腰を折る父親に少し苛立ちこそしたものの、この感じならば大丈夫だろうと半ば予感していた。そして何より困っている人を助けたのだからそれに難癖をつけるような人ではないことも知っている。自分がこの人ならば盗みを働いたり暴行を加えて強盗をするようなことはないと判断して家に招きいれたのならそれを信じてくれるだろう。

 だからこそこれから父親が下すであろう判断も余裕で待つことが出来た。そしてその父親の判断は健太郎の期待どおりだった。

「まず困っている人、まして女の子を危険な一人の状況から救い出したことはいいことだと思う。それにその子なら何も心配はないとお前が判断して家へ連れてきたなら間違いないだろう」

「ああ、むしろ純真すぎるぐらいだ」

「それなら家の通帳を持ってかれるとかの心配はないだろうな」

「まずそれはないな」

 健太郎は話がいい具合に進んでいることに安堵していた。いくら許可が下りるだろうと予測していても実際に話してみないと何が起こるかわからない。

 健太郎は上手くいきそうだと隣の千紗に笑顔を見せる。それを見た千紗も微笑み、今にも飛び上がらんばかりの喜びが湧き上がってきた。

「安心そうだということはわかった。……だが結論から言うと許可は出来ん!」

「……。はっ?」

 健太郎の笑みが凍りついた。それを見て千紗も不審そうに動きを止める。

 今受話器から聞こえてきた父親の言葉がまるで知らない外国語であるかのように健太郎には思えた。全く今までの話の流れからは想像できない結論だった。居候娘の安全性を確認出来たのではなかったのだろうかと健太郎は頭の中で問いかける。

「聞いているのか? 許可は出来ん!」

 再度通告してくる父親の声でようやく健太郎は我に返った。信じられない父親の言葉にすぐさま健太郎は突っ掛かる。

「何でだよ! 何も心配いらない子だって言っただろ?」

「それでも許可出来んものは出来ん!」

「理由を言えよ。それだけじゃ引き下がれるわけないだろ」

 健太郎は必死に食い下がる。理由次第ではすぐさま電話を切って自由に行動するつもりだった。しかし電話口から聞こえてきた父親の理由は再び健太郎を凍りつかせるものだった。

「若い女の子と二人きりで一緒に住むだと? そんな羨ましいこと許可出来るか!」

「……。はあ?」

 健太郎は絶句してしまう。この父親は何を言い出すのかと呆れきってしまっていた。

「こっちなんか母さんと二人きりだぞ。俺だって若い女の子と二人きりで……。はっ!?」

 突然の父親の異変に健太郎は不審そうに顔を歪ませる。意味の分からない理由で許可が下りなかったことが不満だが健太郎は父親の異変を気遣う。

「どうしたんだよ親父、何か……」

「か、母さん。今のは所謂言葉の綾ってやつで……」

 うろたえる父親の声が小さく聞こえてくる。どうやら母親に今の失言を聞かれてしまったらしい。

「ついうっかりな。若いってだけで最近反応するようになってしまってな。いや、年を取るっていうのは本当に……。ぐはあっ!」

 電話口から突然父親の悶絶の声と何かを殴打する音が聞こえてきて健太郎は思わず身を竦ませてしまう。

 そして暫くの沈黙の後、今度は女の人の声が受話器から聞こえてきた。

「健太郎? ごめんね、あの人が何か変なことを言ってたみたいで。それで女の子を助けたんだって? やるじゃない」

 父親を叩きのめし、母親が電話を代わったのであろう。健太郎は脳裏に母親の姿を映す。ふわふわにウェーブがかかっており茶色がかった綺麗な髪に、十分に熟れたスタイルのよい肢体、そしておまけにこちらも大人の女といった感じを滲ませている顔つき。一体父親は何が不満なのかと健太郎が思うほどである。やはり若いというキーワードが父親の判断力を奪ってしまったのだろうか。

「健太郎? 聞いてるの?」

「うん? ああ、聞いてるよ」

 想像の世界から帰ってきた健太郎は母親の話に集中しなおす。

「それであの人は訳分からないこと言ってたけど私はいいと思うわよ。あなたのしたいようにすれば」

「ほ、本当か母さん!?」

「ええ、あなたも分別がつかない年じゃもうないしね」

「ありがとう母さん……」

「でも女の子一人守ろうとするんだからきっちりしないと駄目よ」

「ああ、わかってるさ」

「それならいいわ。それじゃ電話代ばかにならないからもう切るわよ」

「わかった。本当にありがとう母さん」

「それでもお金はちゃんと計画的に使いなさいよ。一人で大丈夫って言って日本に残ったからにはしっかりしないとね」

「ああ、わかってるよ」

「それじゃまた何かあったら連絡しなさいよ。じゃあね」

 そう言って母親は電話を切った。もう四十代だというのに未だ美人である上に話の分かる優しい人。母親でなかったら惚れていたかもしれないと健太郎が思うほどだった。

 それだけに千紗を連れてきた時に着替えとして母親の下着を失敬したことが健太郎は余計に恥ずかしかった。

 健太郎は僅かに赤く火照った顔を千紗に見られていないだろうかと様子を見る。どうやら千紗はそんな健太郎の表情の変化よりも自分の今後がどうなるのかということの方がよっぽど大事と健太郎からの報告を待っている。

 コホンと一つ咳払いをして健太郎は報告を始める雰囲気を作り出す。それは自らの表情を誤魔化す意味も兼ねていた。

 そんな小さな儀式で少し落ち着きを取り戻した健太郎は千紗の目を見つめて口を開く。

「あー、結論から言うと千紗がここに住むことは許可が下りました」

「ホントですか!?」

 千紗は眼球が転がり出るのではないかと思うほど目を丸くして驚く。途中から話の雲行きが怪しくなっていたことを感じ取っていた千紗は不安で仕方なかったのであろう。驚いた後は大きく息を吐き、体を弛緩させる。緊張が解れた一瞬だった。

「よかったですぅ……。こんな温かさに触れたらもうホームレスなんて無理ですよ」

「そうだよなあ。俺だったらそもそもホームレス出来てないな。絶対泣いて家に帰ってる」

 健太郎はしみじみとそう思う。余程芯が強いか楽天家でない限りホームレスをするなんて無理だろう。千紗が前者なのか後者なのかの判断はつきかねるが。

「家には帰れないですよ。結構なお金を貰って都会に出て来たのにそれを騙し取られて泣いて帰ってきましたなんて……」

「まあ御両親からしたら女の子一人でホームレスするぐらいなら泣いて帰って来てほしいと思うがな」

 そうは言っても一人暮らしの自由に飽き始めて少々寂しさ、物足りなさを感じ始めていた健太郎としては残ってくれて嬉しく思っていた。

「ま、とにかくこれで千紗は正真正銘この家の住人だな」

「はい。わがまま言って迷惑掛けてしまいましたけど、これからもよろしくお願いします」

 こうして父親はどうか知らないが、一応親から許可を得た二人はこれからの新しい生活に向けて新たに挨拶を交わすのだった。

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