泡沫なれども永遠に
呼吸の勝手がわからない、というのは新鮮な発見だった。
水も空気もただそこにあることは変わらないのに、難儀なことだ。
酸素を求めて海水に潜り込む。半分が魚とはいえ、残りは人間と同じ体の造りになっているはずなのに。この苦しさは一体何なのだろう。あれこそが人魚が人間の里に近づいてはいけないと言われる所以なのだろうか。
淡く発光するクラゲを眺めながら、かつて母もあの景色を見たのだろうかと思考した。
一瞬ではあったが美しい世界を見た。光に彩られた町は、闇と静寂を黙殺する存在感を放っていた。
人の世界を夢見た母は、その光に魅せられたまま漁師の網にかかって死んだらしい。そう聞かされて育った以上、疑う余地はなかった。
「礁弥」
恋人の声に振り向くと、夜光虫を引き連れた彼女がいた。彼女の周りだけが空間を切り取って貼り付けたように明るい。
その背後の闇が動いた。おおきな輪郭の影は、がばっと口を開けて彼女に迫る。
「危ない!」
力ずくで腕を引き寄せると、ほぼ同時に牙が彼女をかすめた。間一髪だ。
夜光虫に照らされ、その影の正体がサメであることが知れた。しかも、優に三メートルはあろうかというホオジロザメだ。
――ここは彼女を逃がすことが先決だろう。
決意すると、サメの気を引くためにあえて尾びれを大きく動かす。
「美海、あっちへ」
静かに告げると、彼女に示した方向とは逆へ泳ぎ出した。
鼻先で尾ひれを振れば狙い通りにサメが追跡を始める。背後に迫る圧倒的な殺意に心臓が縮んだが、その程度で止まるわけにはいかない。
怯えた目で自分を見つめ続ける彼女の姿に気付いて、遠くへ行けと手を振る。
その指先を、サメの牙が捉えた。
鋭い痛みを伴って血が溢れ出した。人差し指と中指の、第一関節から先がなくなっていた。
赤く揺らめく血の筋が更にサメを刺激したらしく、獰猛な瞳に射すくめられる。
どこをどう逃げたのかはわからない。元いた場所からは遠く離れ、彼女の姿も見えなくなった。
ここまで来る途中も何度となく噛みつかれ、血を失ったことから意識が朦朧としていた。
――ここまで来れば、彼女は助かるだろう。
執拗な追跡を続けるサメから逃げる気力は尽き果てていた。力を抜くと、身体が浮上する。
街が、近い。
母が憧れた世界がすぐそばあった。
かつて母もこの景色を見たのだろう。
最後の最後になってようやく、人間の世界に魅せられた理由が、わかった気がした。
なんとなく、光は泡沫に踊る(http://ncode.syosetu.com/n0245by/)の続編のような感じで。本編を知らなくても十分にお楽しみいただけるかと思います。