8
「青葉、気をつけろよー」
「わかってるー!」
それは9年前の夏休みの出来事だ。僕と紫苑は小学一年生、那流が小学四年生のときだ。僕と紫苑と那流の3人で九十九橋の近くで遊んでいた。近所で遊ぶところといったらこの川しかなかったし、家にいると強制的に畑仕事に付き合わされるから、僕らは毎日のように遊んでいた。
台風が去ったばかりの茶色く濁った川がおもしろくて、僕はずっとそれを眺めていた。那流と紫苑は橋に腰掛けて、ずっと話をしていた。
しばらくすると川を眺めるのも飽きてきて、紫苑と那流の会話に混ざろうと、立ち上がったときだった。
一際強い風が吹いて、僕は足を滑らせた。僕は真下の九十九川に落ちた。台風が去った後の川は水嵩も増していて、流れが早かった。泳ぎが苦手だった僕は当然溺れた。茶色に濁った水が視界を奪い、呼吸ができなくなる。僕はパニックになって必死にもがいた。
「お兄ちゃん!青ちゃんが落ちた‼︎」
紫苑が叫んだ時には、もう那流は川に飛び込んでいた。
「青葉っ、手伸ばせ!」
那流が叫ぶ。僕は懸命に手を伸ばした。ようやく那流の手を掴み、引き寄せられた。押し寄せる濁流に呑まれまいと、那流の体にしっかりと抱きつく。
「大丈夫か、青葉!しっかり掴まってろ!」
那流は岸に辿り着こうと懸命に泳いでいたが、濁流に呑まれ、岸から遠ざかっていく。
「お兄ちゃん!すぐそこに岩がある‼︎」
不意に紫苑の声がした。見ると、言ったとおり大きい岩があった。ぶつかると命は無いだろうが、うまくいけば岩を壁にして流されなくなる。僕と那流は押し寄せる濁流に翻弄されながらも、無事に岩に辿り着くことができた。下から那流が押し上げ、僕は岩に登った。僕は那流を引っ張り上げようと、手を伸ばした。
「那流!」
那流が濁流に呑み込まれた。波に揉まれ、姿が見えなくなる。僕は呆然とした。伸ばしかけた手が空を切った。
それからのことはよく覚えていない。紫苑が呼んできた大人たちに助けられ、救急車に乗って病院に行った。僕は幸い命に関わることは無かったが那流はその数時間後に意識不明の状態で救出された。那流はそれから一ヶ月間、目を覚まさなかった。
一ヶ月後、那流が目を覚ましたと聞き、僕は泣きながら謝った。そうしたら那流は微笑んで僕に言った。自分も溺れて、生死の境を彷徨ったというのに。
「青葉が無事でよかった」
「ねえ、那流。大丈夫だよ」
「あ、おば…」
那流は青ざめた顔で僕を見下ろした。
那流は多分、この橋が怖いのだろう。昔溺れたこの橋が。
「大丈夫。僕がいるから」
那流の手を掴み、一歩踏み出す。那流もつられて橋へ足を乗せる。僕らは手を繋いだまま短い橋を渡りきった。那流は生まれたての子鹿のように、終始震えていた。那流には悪いが、僕にはその姿が可愛く見えた。いつもクールでかっこいいのに、こんなときに弱い一面を見せる。これがギャップというものなんだろうか。
「青葉、悪いな…助かった」
「ううん、いいよ」
冷たいなあ、那流の手。心が暖かい人は手が冷たいってよく聞くけど、那流もそうなのかな。
「青葉の手はあったかいな」
不意に那流が呟いた。
「そう?那流の手が冷たいからじゃない?」
「じゃあ、俺の手が冷たくて、青葉の手があったかいんだろうな」
「心が暖かい人はその分手が冷たいっていうからね」
「そうだったか?心が暖かい人は手も暖かいんじゃなかったか?」
僕らは橋を渡ってからも手を繋いだままだった。那流が僕の手をぎゅっと握って、離さない。多分だけど、恐怖心がまだ那流の中に残っているのだろうと思う。ここは別の話で気を紛らわすのがいい。
「ねえ、那流好きな人いる?」
「好きな人?…いや、いないな」
「…へー」
「そういう青葉はどうなんだ?」
「んー、…いる、よ」
「それは意外だ。誰だ?」
那流の冷たい手をぎゅっと握る。今僕は、とても幸せ者だと思う。
「教えてあげなーい」
那流を見上げて、くすくすと笑う。釣られて那流も笑顔になった。
「そういえば、同じような会話を紫苑としたな」
「紫苑と?紫苑は好きな人いるの?」
「いやー、紫苑もお前と同じ答えだったぞ」
「へぇ、そう…」
まだ那流は気づいてない。そして紫苑もまだそれを伝えてない。これは好機なんじゃないのか?
「僕の好きな人、那流もよく知ってる人だよ」
紫苑には負けたくないな。僕の方がずっと那流のことを想ってる。僕の方が那流のことをよく知っている。先手必勝。
「俺も?」
「そう。ヒントは…今僕と手を繋いでる人、かな」
「え?何言って…」
那流が不思議そうな顔で僕を見下ろした。僕は那流の言葉を遮って言う。
「僕は、那流のことが好きだよ」
目の前が真っ暗になった。