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夏休みに入って7月は何事も起きず、8月がやってきた。じわじわという蝉時雨に耳を澄ませながら僕は隣町の病院へ向かった。気温は35℃を越えて、連日猛暑日だ。熱い風が頬を撫で、体温を上昇させる。陽炎が揺らめく道を、花束を提げて歩く。青々とした田んぼの稲が風に吹かれてさわさわと音を奏でていた。
昨日紫苑のお兄さんから連絡があった。手術が終わってひと段落したので、面会が可能になったという旨を伝えられた。
「…那流、どこ行ったんだろ」
あれから那流とは一度も連絡が取れていない。大学に行ってみたり、バイト先を訪れてみたりしたけれど、どこにも那流はいなかった。那流がバイトしていた喫茶店のマスターに聞いたことだが、那流は大学に退学届を提出し、バイトも辞めたらしい。アパートの大家さんにも話を聞きに行ったが、大家さんは住民への関心は皆無で、家賃が取れればいいと思っているらしかった。アパートの住民の女性にも尋ねてみたが、最近は姿を見ていないという答えしか返ってこなかった。
もしかしたら、那流が紫苑のお見舞いに来ているかもしれない。お兄さんによると、那流の電話に留守番電話を残したらしい。もし那流がそれを聞いていたら、今日来るかもしれない。
病院に着き、面会手続きを済ませて紫苑の病室へ向かった。紫苑はベッドの上で横になって、窓の外に顔を向けていた。
「…ひさしぶり、紫苑。調子はどう?」
紫苑は声で僕だとわかったようで、上半身を起こして僕の方を向いた。眼帯に覆われた左眼が酷く痛々しく見えた。
「…青ちゃん、来てくれてありがと。前と立場が逆になっちゃったね」
紫苑は泣き笑いを浮かべた。 僕は持って来た花束を花瓶に挿した。
「…それ、シオンの花だよね」
「うん、そうだよ。僕の一番好きな花」
「ふうん…」
僕は紫苑から今後のことについて訊いた。僕にはイマイチわからないことの方が多かったけど、唯一理解できたのは、紫苑の眼が良好ではないということ。
「角膜移植?」
「うん、完治させるためには移植が必要なんだって。でも角膜移植希望者は世界にいーっぱいいるんだ。あたしに回ってくるのは相当先になるかもね。もしかしたら、あたしが生きているうちに回ってこないかもしれない」
そう語る紫苑の目は虚ろだった。紫苑は角膜移植できる日が来るのを心のどこかで諦めているのだろう。
僕は紫苑になんて声を掛ければいいのかわからなかった。僕がナルコレプシーの病気にかかったとわかったとき、今の紫苑の気持ちと同じだった。そのとき紫苑は、何も言わずにただ傍にいてくれた。僕もそうするべきだろう。
「…ところで紫苑。那流は来た?」
「なる兄?ううん、来てない。あの日以来会ってもいない」
「そっか…」
「なる兄がどうかしたの?…なんで今日一緒じゃないの?」
しまった、この話題は避けるべきだった。今この話をして、紫苑を不安にさせてどうする。しかしそう思った時にはもう遅かった。
「…なる兄、何かあったの?」
僕ははあっと息を吐いて、覚悟を決めた。今隠してもどうせ後でバレることになる。
「…那流と連絡が取れないんだ。訪ねて行ってもアパートには居ないし、大学もバイトも辞めたみたいなんだ。行方不明かもしれない」
紫苑の顔がどんどん青ざめていく。白い顔が更に白く見える。
「…警察には届けたの?」
「ん…まだ。那流の親と連絡がついたらにしようかなって思ってて」
「いつからなの?那流が失踪したのは」
「んーと、紫苑が事故に遭った日くらいから…」
「…そう、なんだ」
紫苑は無事である右目に涙を浮かべた。震えた声で言った。
「なる兄が本当に行方不明になっちゃったらどうしよう。もう二度と会えないかもしれない。そんなの、そんなの絶対に嫌だ…!」
僕は紫苑の手を取り、自分に言い聞かせるように力強く言った。
「那流は絶対僕が見つけてみせる。那流も紫苑も、僕が守る」




