14
あたしは二人を病室に残して、屋上に出た。沢山の白いシーツが風にはためいている。柵に寄りかかり、溜め息を吐く。
「…青ちゃんのこと、あたし全然知らなかったな」
あたしの方が青ちゃんといる時間は長いのに、あたしは青ちゃんのことを全然知らない。青ちゃんのあの優しい微笑みが何を意味するのか、なる兄は知っていた。前に青ちゃんと話した時にもあの微笑を見た。あの時は何を我慢してたのだろう。考えてみても全然わからない。
「…馬鹿だなあ」
青ちゃんのことを何でも知っていると慢心して、結果この様だ。そもそも、あたしが青ちゃんをもっと気に掛けて、危ない橋を渡ろうとしなければよかったんだ。
強風に煽られて、一枚のシーツが空へ飛んだ。風が止むとひらひらと踊りながら地面に落ちた。あたしはそれを視界の端に捉えながら、二人の幼馴染と出会った時のことを思い出していた。
なる兄と初めて会ったのは4歳の頃。遠い親戚の葬式に行った時に出会った。従兄妹同士ではあるが、顔を合わせるのはそれが初めてだった。
「紫苑、従兄弟って知ってるか?」
「いとこ?」
七つ離れている兄に連れられて、葬式後の退屈な食事会を抜け出した。慣れない黒いスカートの裾を右手で握り、左手は兄と手を繋いだ。あたしたちは目的もなくただフラフラと歩いていた。
「いとこって何?」
「従兄弟っつーのは、お母さんとかお父さんの兄弟姉妹の子供のことだよ。例えば、将来オレと紫苑が大人になって子供ができたとするだろ?その、オレの子供と紫苑の子供同士が従兄弟になるってわけだ」
「ふーん…」
「わかったか?」
「…うん」
本当はよくわかっていなかったが、兄を満足させるために嘘をついた。その頃から兄は勉強熱心で、覚えたことをすぐあたしに教えたがった。あたしはその対応の仕方も幼いうちに覚えて、満足気に語る兄を適当にあしらっていた。
「で、オレ達にも従兄弟っつーのがいるわけなんだけど…。多分今日も来てるはずなんだけどな。どこにいるんだろ」
「会ったことあるの?」
「一回だけ会ったことあるよ。確か紫苑よりみっつ上で、男だった」
「そう…」
「今までずっと外国で暮らしてたんだけど、この前こっちに引っ越して来たんだって」
「……………」
窓の外に誰かいるのが見えた。兄の話に適当に相槌を打ちながら窓の外をじいっと見つめた。
あたしたちと同じ子供くらいの子供が、ひっそりと静まり返った夕方の庭にポツンと突っ立っていた。後ろ姿しか見えなかったからよくわからなかったが、今思えば真っ赤に染まった夕焼け空を見ていたのだろう。遠目から見てもわかるサラサラとした黒髪が風に揺れていた。寒くないのかなあ。もうすぐ12月になるというのに、防寒具の類は一つも身につけていない。
「ねえ、外に誰かいるよ」
兄の手を引き、右手で窓の外を指差した。
「ん?」
「あたしたちと同じくらいだよね」
「あぁ、あれは…」
目を凝らしていた兄は思い出したように声を上げた。そして急に走り出した。
「ちょっと、なに!?」
「来いよ!あいつがさっき話してた従兄弟だよ」
長い廊下をドタドタと走り、玄関へ向かった。途中酔った大人たちに叱られたが無視した。玄関へ出て履きなれない黒いローファーを引っ掛けて、つんのめるようにして外へ出た。
「紫苑、早く!」
「待ってよ、お兄ちゃん」
さっきあの子が居た場所まで走る。息を切らしながら辿り着いたとき、彼は後ろで手を組み、空を見上げていた。きちんとプレスされた黒い膝丈のズボンをサスペンダーで吊り、白いワイシャツを着ていた。黒いローファーと白いソックス。おまけに髪も真っ黒なので、彼の周りだけモノクロームの世界かと思った。兄が呼び掛けた。
「なあ、お前さ、那流だよな?」
那流と呼ばれた彼は長めに切り揃えられた黒髪を揺らしてゆっくりと振り返った。子供にしては切れ長の、鋭い目が印象的だった。
「………誰?」
「オレだよ。桐也だよ。一度会ったことあるだろ?」
「…ああ、桐也さんだったか。こんばんは」
「お、覚えててくれてたんだな」
「はい、従兄ですからね」
あたしはそんな二人のやりとりを、兄の背後に隠れながら聞いていた。
「やっぱ暇だよなあ、オレ達来る必要なかったよな」
「うん、まあ、そうだね」
変な言葉を喋る人だな、と思った。丁寧な言葉遣いになったり、そうじゃなかったりしてる。今まで海外にいたって聞いたから、そのせいかもしれない。二人は暫くこの食事会についてぼやいていたが、不意に彼があたしに気付いた。
「あれ、君は?」
「あぁ、オレの妹。紫苑っていうんだ。今4歳だから、お前よりみっつ下だ」
「へえ、妹さん」
彼は少し前屈みになって、あたしと視線を合わせた。あたしと目が合うと、嬉しそうに笑った。
「はじめまして、紫苑ちゃん」
あたしは幼いながらも、この笑みに心奪われた。あたしはこの時なる兄のことを好きになったのだ。
「……………………いい?」
「え?」
「お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「うん、いいよ」
お兄ちゃんはにっこりと笑った。あたしはその笑顔に安心し、兄の背後に隠れるのをやめた。そろそろとお兄ちゃんに歩み寄る。
「…紫苑がひとみしりしないの珍しいな」
「へえ、そうなんだ」
お兄ちゃんのワイシャツの裾を掴み、じっと見上げた。切れ長の双眸の中で輝く黒い瞳がとても美しかったのを覚えている。
「お前どこに住んでんの?」
「んーとね、うーん、言葉で説明するの難しいですね。今度うちにおいでよ」
「ならオレはしばらく行けそうにないな」
「どうして?」
「来年オレ受験だから。土日は塾行かなきゃなんだ」
「へえ、それは残念です。がんばってね」
兄があたしに目を向けた。あたしはビクリとして兄を見上げる。
「紫苑行ってこいよ。オレの代わりにさ」
「あ、あたし…?」
「うん、いいよー。紫苑ちゃんだけでもおいでよ」
「いいの?」
「もちろん!」
あたしはそれをきっかけに、頻繁になる兄の家に遊びに行った。暇さえあればなる兄の家へ遊びに行って、川で遊んだり、なる兄に英語を教えてもらったりした。なる兄もすっかり日本語が上手くなっていた。青ちゃんと会ったのは、なる兄の家に通い始めてから数回目のときだ。
その日はなる兄と川へ遊びに行く約束をしていた。インターホンは一応鳴らしたが、あたしは返事を待たずになる兄の家へ上がった。
「お兄ちゃーん、いる?」
なる兄を探してリビングのドアを開けた。案の定なる兄はいたが、そこにはもう一人知らない子がいた。柔らかそうな茶色が少し混じった黒髪で、利発そうな大きな瞳を持っていた。なる兄とその子は二人で一つの皿から、仲良さそうに焼きそばを食べていた。お兄ちゃんに弟なんかいたっけ?そう思っていると、その子が声を上げた。
「那流、誰?あの子」
「……お兄ちゃん、誰?その子」
お兄ちゃんは彼とあたしを交互に見て、まずあたしに彼を紹介した。
「いらっしゃい、紫苑。この子は柳青葉。俺の家の隣に住んでる子だよ」
次に青葉いう彼にあたしを紹介した。
「あの子は緒方紫苑ちゃん。俺の従妹だよ」
「ふうん…」
青葉はあたしをしげしげと見詰めた後、手を招いた。
「こっちおいでよ、紫苑」
言われるがまま、あたしは青葉とお兄ちゃんの近くに腰を下ろした。
「そういえば、二人は同い年じゃないか?4歳だよね」
お兄ちゃんに言われて、青葉を見詰める。
「ひなた?」
急に問われてドキッとした。ひなたというのはあたしが通っている幼稚園の名前だ。ぎこちなく頷く。彼もひなたなのだろうか。
「僕ゆり組」
「あ、あたしたんぽぽ…」
「ふーん、じゃあどっかで会ったことあるかもね。よろしく、紫苑」
「うん…こちらこそ…えっと…」
なんと呼べばいいのだろう。彼は既にあたしを呼び捨てにしているが、急に呼び捨てというのも、なんだか気が引ける。
「…なんて呼べばいいかな」
「なんでもいいよ!」
なんでもいいというのが一番困る。それを見兼ねたお兄ちゃんが助け舟を出してくれた。
「じゃあ青ちゃん、なんてどうかな?渾名のほうがなんとなくだけど呼びやすくていいんじゃないか?」
「青ちゃん…いい?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、よろしくね、青ちゃん」
それが青ちゃんとの出会いだ。青ちゃんとも仲良くなったあたしは、なる兄と三人でよく一緒に遊んだ。あたしと青ちゃんが小学校に入学してもずっと、三人一緒に過ごした。
別れが訪れたのは、なる兄が中学一年生、あたしと青ちゃんが小学四年生になる時だ。今から6年前。なる兄がアメリカのペンシルベニアに引っ越すことになった。なる兄の父親の転勤の都合だとは聞いていたけれど、あたしはなる兄と離れるのがとても嫌だった。しかし、あたし以上になる兄の引っ越しを嫌がったのは青ちゃんだった。小4にもなるのに、青ちゃんはなる兄の腕を掴んで離さなかった。瞳に涙をいっぱい浮かべて、必死に訴えていた。
「嫌だ、嫌だよ、那流。行かないでよ!」
「ごめんな、青葉」
なる兄は青ちゃんに何か耳打ちをした。あたしからは遠くて何を言っていたかわからなかったが、それを聞いた青ちゃんは、がっしり掴んでいた腕をあっさり解いた。
「…いってらっしゃい。ずっと待ってるから!」




