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「紫苑、雨降ってるよ」
先に外へ出て行った青ちゃんが言った。ホームルームが終わり、下校しようとしていたときだ。急いで靴を履いて外を見ると、しとしと雨が降っていた。
「傘持ってきてないや…」
「朝天気予報で言ってたじゃない。あたしはちゃんと持ってきたわよ」
そう言って傘立てから引き抜いた。買ってからまだ一度も使っていない新品の傘だ。自転車と同じ、淡い紫色。
「これ使っていいよ」
「なんで?紫苑のなんだから、紫苑が使いなよ」
「傘さすほど降ってないからあたしはいいわよ」
「何言ってんの。風邪引くよ?」
「大丈夫よ、あたし滅多に風邪引かないから」
延々と押し問答を続ける。しかしこうなると大体勝つのはあたしで、早々に青ちゃんが折れた。溜息をひとつ吐いて、小さく笑った。
「…わかったよ。じゃあ有難く使わせてもらうよ」
玄関を出て、小雨が降る空を仰ぎ見る。確かに雨は降っているが、歩く分には支障はない。青ちゃんにはなるべく健康でいてもらいたい。
「…ねえ、紫苑。一緒に傘入ろ?」
「…は!?」
「2人で傘使えば良くない?」
「いやいや、良くないでしょ!あ、相合傘なんて…」
「濡れて風邪引くより良いと思わない?僕と一緒は嫌かもしれないけど、そこは我慢してほしい。風邪引かないなんて言ってるけど、人ってそんなに強くないよ。誰だって風邪を引く可能性はある」
「な、なによ、急に」
「健康な内はそれを維持した方が良いよ。紫苑なら、それが出来るでしょ?」
青ちゃんは虚ろな目であたしを見た。そして、何故か笑った。泣き顔のような笑顔だった。
「…青ちゃん、どうかした?」
訝しんで訊くと、ハッとしたように顔を上げた。
「あ、ううん、ごめんね。なんでもない、忘れて」
青ちゃんはさっきの変な笑顔じゃないいつもの笑みをあたしに向けた。その笑顔にあたしは安堵した。
「傘、入りなよ」
「うん…あ、ありがと…」
半ば強引に傘に入れられる。1つの傘を男の子と2人で使うなんていつ振りだろう。多分、小学校低学年とかそれくらい幼い頃だろう。思ったよりも青ちゃんとの距離が近くて緊張する。
「…青ちゃん、身長伸びた?」
長い沈黙に耐えかねて、あたしは尋ねた。
「うん、ちょっとね」
「なる兄に追いつけそう?」
「がんばるよ」
そう言ったきり青ちゃんは黙ってしまった。今日はいつもと違うような気がする。いつもより、少し暗いような…?なにか悩み事でもあるのだろうか?
「…青ちゃん、悩み事でもあるの?」
「どうしてそう思うの?」
「いつもよりちょっと暗いかなーって…」
「そっか。…うん、ごめんね」
「なんで謝るのよ?悩み事あるなら、あたし聞くわよ。具体的には力になれないかもしれないけど、人に話すことで少し気持ちがスッキリするって聞いたからさ」
「うん、ありがとう紫苑。そうだね…」
青ちゃんは小さな声で呟いた。青ちゃんの声って、こんなに綺麗だったっけ?こんな透き通るような澄んだ声だったっけ?
「ね、紫苑は那流のこと好きでしょ?」
「…は?悩み事を聞くって言ったんだけど!?っていうか、な、なんであたしが、なる兄のこと好きなわけあるのよ」
「あれ、まだ隠せてるって思ってた?紫苑ってばすぐ顔に出るからねぇ…少なくとも僕にはバレバレだよ」
もう諦めてしまおう。青ちゃんは昔から妙に鋭いところがあった。隠しても無駄だろう。
「…なる兄は気付いてると思う?」
「んー、これっぽっちも気づいてないと思うな。なんで気づいてないのか不思議に思うくらい」
「そう…」
「でさ、那流に告白するつもりあるの?」
顔がボッと熱くなった。告白しようと考えたことはある。実際に告白しようとしたこともある。でも、恥ずかしくっていつも失敗していた。
「…いつか、ね…」
青ちゃんは横目でチラリとあたしを一瞥して、ひとつ溜め息を吐いた。
「告白するなら早いほうがいいと思うな。那流は大学生でしょ?彼女や彼氏の1人、すぐに出来ちゃうよ。那流は優しいし格好いいから、きっとモテモテなんだろうね」
あたしは想像してみた。なる兄が突然、あたしの知らない大学生の彼女を紹介するところを。あたしより美人で綺麗で頭が良くて文句無しの彼女。
「…そうね。うん、嫌だわそんなの。そんな知らない女になる兄とられるなんて、たまったもんじゃないわよ!あたしより美人で綺麗でかわいい理想の彼女なんて許さないわ‼︎」
勢い込んで言い放った。あたしのほうがずっとなる兄のこと好きなんだから。新参者の女に負けるわけないんだから。
「…早くしないと僕がとっちゃうよ」
「うん?なんか言った?」
「…んーん、なにも。がんばってね、紫苑」
「うん!ありがとね青ちゃん」
青ちゃんは優しく微笑んだ。初めて見るその微笑みはあたしの胸をざわつかせた。
「…青ちゃん?」
「なに?」
見上げると目が合った。しかしその笑みはさっきと違った。よく見る曇りのない笑顔。気のせいだったかな。
「ん、ごめん。なんでもない」
「そう?…応援してるよ、紫苑」
そう言った青ちゃんの声はとても綺麗だった。傘に当たる雨粒に混ざって聞こえる青ちゃんの綺麗な声。あたしは直感的にこの声を守りたいと思った。なぜだろう。今までは何とも思わなかったのに。
「あ、雨上がったよ」
言われて空を仰ぎ見る。雲の切れ目から光が差し込み、とても幻想的な空だった。
「じゃーね、紫苑。また明日。傘ありがとね」
「ああ、うん。ばいばい」
気付くと青ちゃんと別れる曲がり角まで来ていた。青ちゃんの綺麗な声をもっと聞いていたいと思ったけど、直接それを言うのは恥ずかしい。胸に残る思いを断ち切って、青ちゃんと別れた。
「なる兄に告白かー…、まだ勇気が出ないなぁ」
あたしは走り出した。顔の火照りを冷まそうと思った。
「ごめんね、紫苑。でも、これだけは譲れないんだ」




