3話
深呼吸をして、私は携帯の発信ボタンを押した。何度目かのコール音の後、聞きなれた低めの声で、なつ、と呼ばれた。それだけで、体温が1度上昇して、鼓動が速くなる。
「今、大丈夫かな?」
『大丈夫じゃなかったら、電話に出ない』
彼らしい返答に思わず苦笑する。それで、と用件を促された。
「あの、今から会えないかな」
電話の向こうで、言葉を詰まらせ、驚いているのを感じる。彼が驚くと言うのも珍しい。それだけ、私の会えないか、という誘いは珍しいものなのだ。たぶん、私が会おうとしない理由を彼は知っている。だから余計に驚くのだろう。
「忙しい?」
『いや、行ける。何処?』
「私の家の近くの公園。広場のベンチに座っている。……会わせたい、人がいるの」
『……わかった。すぐに行く』
通話を終了し、隣に座る悠葵の方を向く。
「来てくれるって。たぶん、すぐに来ると思う」
「うん。小松、驚くだろうな~」
「悠葵を見て驚かない人はいないと思う」
わくわくしている悠葵に呆れたように言えば、手厳しいね、と笑った。彼との再会を心待ちにしている悠葵の表情にちくり、と胸が痛む。
「小松くんに伝えたいことって何?」
痛みを誤魔化すようにわざと明るい声を出す。けれど、選んだ話題を間違えたようだ。悠葵はん~、と明らかに返答に困っていた。そのことに、また胸が痛む。
「託したいの。小松は特別な友達だから」
特別な友達。それは、私が悠葵に抱いていたもの。きっと悠葵もそうだと思っていた。悠葵にとっての特別な友達も私だと思っていた。わかっている。私の勝手な思い込みだったこと。でも、裏切られたように感じた。
「悠葵にとって私は、特別じゃなかったんだね」
零れた小さな呟きは悠葵の耳に届くことはなく、再び俯く私の名前を悠葵が不思議そうに呼ぶ。私は思いの丈を引き出そうと顔を上げた。
「なつ」
久しぶりに聞く機械越しではない声に私は喉元まで出かかった言葉を飲み込む。呼ばれた方に顔を向ければ、やっぱり久しぶりに見る彼がいた。直接会って話したのはもう半年ぐらい前ではないだろうか。反射的に立ち上がり、手を振る。
「遥くん!」
久しぶりに彼の姿を見れたことが嬉しくて、思わず、今の呼び方で彼を呼んでしまった。呼んでしまってから我に返り、慌てて悠葵を振り仰げば、彼女は一瞬驚いた顔をした後、少し寂しげに微笑んだ。その笑みに胸が詰まる。
その間にも歩み寄っていた遥くんがなつ、と再び私の名を呼ぶ。そして、未だベンチに座っている人物を見て、目を見開いた。
「水嶋?」
「久しぶり、小松!より男前になったね~」
表情の乏しい遥くんにしては珍しく、驚きを表情一杯に表している。理解の範疇を超えている出来事に遥くんはえっ、と悠葵を指差しながら私の方を向く。当然の反応だと思う。
「会わせたかった人だよ。」
「……本物?」
「本物だよ!夏帆といい、反応が酷くない?」
「だから、普通の反応だって」
こちらの反応にけちをつけてくる悠葵に呆れたため息を吐きながら、その頭を小突く。
「どういうこと?」
「小松。私の話を聞いてくれる?」
未だ混乱している遥くんを悠葵が真剣味を帯びた声で呼ぶ。それだけで、彼は自身の混乱を鎮め、真剣な眼差しで悠葵を見る。そしてこくり、と頷いた。それを見て、悠葵の視線が私に向く。
「夏帆。悪いんだけど、席を外してくれる?」
真剣な声色にもう用済みだと言われたような気がした。その鋭さに、身体中を切り刻まれた気がした。
わかっている。悠葵が伝えたい言葉を、教えてもらえない私が聞いていいはずがない。わかっているのに、悔しい。
身勝手な思いだとわかっているのに、どうしようもない感情が心で荒れ狂う。
「遥くんを呼びだしたら用済みってわけね」
「夏帆、何言ってるの?」
「悠葵にとって私は、何でも話せる親友ではなかったんだね」
眼頭が熱い。瞳が潤んで、視界が滲む。泣いてしまわないように、私は拳を強く握った。悠葵はそんな私に困惑の表情を浮かべ、少し俯くと口を開いた。
「そう、ね」
音を立てて、何かが崩れたような気がした。自分で言っておきながら、肯定されて傷つくなんて、なんて愚かなのだろう。
私は2人に背を向けると駆け出した。なつ、と遥くんが私を呼んだ気がしたけれど、振り返ることなく走り続けた。そのままアパートまで走り続け、ドアを開けて中に入る。瞬間、足から力が抜け、玄関に座りこんだ。涙が、溢れだして止まらない。見っとも無く、嗚咽が零れる。けれどそれを抑える余裕はなかった。悲しみが心を覆い尽くす。悠葵にとっての親友ではなかったことが悲しくて、苦しい。
それがどれくらいの間泣いていたのだろう。頬を伝う涙が乾きだす程度には時間が経った。それでも、私は玄関にしゃがみ込み、力なく壁にもたれかかっていた。
締め切った部屋にいるせいでじっとり汗をかいている。きっと走ってきたから髪も汗で張り付いて、顔は涙でぐしゃぐしゃで、みっともない姿だろう、と思う。どうにかしなくてはと思うのに、動き出すことが出来ずにいた。
コンコン。
玄関のドアを叩かれ、私はびくり、と肩を跳ねさせる。
「なつ。いるんだろう」
遥くんの声だった。どうして彼がここにいるのだろう。悠葵はどうしたのだろうか。
私は返事をすることも出来ず、ドアを凝視していた。返事が返って来ないことに焦れてか、ドアノブが回された。鍵をかけ忘れていたことに気づき、私は慌ててドアノブを掴もうとした。しかしその前に、遥くんによって開けられてしまった。
「不用心」
ドアを開けて入ってきた遥くんは渋い顔で一言。
「酷い顔」
私の目の前にしゃがみ込んでまた一言。それが傷心の人間にいう言葉だろうか、と眉根を寄せる。
「不法侵入だよ」
「返事しないのが悪い」
そう言われてしまったは言い返せなくて、私は黙る。そんな私にひとつため息を零し、優しく私の涙の跡の残る頬に触れる。
「なつ。水嶋の話を聞いてあげて」
「何、それ。悠葵は、遥くんと話したかったんだよ」
「違うよ」
はっきりと遥くんは私の言葉を否定した。訳がわからなくて、私が言葉を紡ぐことが出来ない。
「水嶋が最後に会いたかったのは俺じゃない。なつだよ」
「何言って……。現に、遥くんを呼んだじゃない。それに……」
「なつ」
言い募ろうとする私の言葉を遥くんが遮る。真剣な眼差しで、両頬を手で挟み、無理矢理視線を合わせる。
「時間がないんだ」
「え?」
「本当に最後なんだ。日が暮れたら、水嶋は消えてしまう」
消える。遥くんの言葉にさっと血の気が引いた。
どうして悠葵がいることを当たり前だと思っていたんだろう。彼女は、死んでいるのに。いつまでも此処にいられるわけがないのに……!!
私はアパートを飛び出した。走って、走って、再びあの公園へ戻る。
公園へ向かう今も、刻一刻と日が沈んでいく。
どうか、間に合って。もう一度、悠葵に会わせて……!!