響と夏の終わり
それは青空を見つめていた。
大地に身体を投げ出して、感情の読み取れない瞳が天を仰ぐ。
声も上げず、身じろぎ一つしない。魂が抜けてしまったかのように動かない。
仰向けになったそのそれの横を、しかし人々は気にすることもなく通り過ぎていく。
それは人々の往来に何一つ感じる事もない。死者は語らないという事なのだろうか。
ふと、それに影が落ちた。足を止めて動かないそれを少女がじっと見下ろしていた。
少女はそれに手を伸ばす。その屍に指が触れようとその刹那。
ジジジジジッ!
屍だと思われていたそれは声をあげ、慌てふためくように蒼穹へと吸い込まれていった。
「ちぃっ! 蝉ファイナルかよ!」
残り少ないであろう命の灯を燃やして空に逃げていったアブラゼミを恨めしそうに見送る黒髪の少女が一人。彼女の名は宮辺響という。
怪異渦巻く堅洲町で学生生活を送る見習い魔術師の彼女。父親の遺した膨大な借金を返すべく、怪異絡みのアルバイトに精をだす苦学生である響が今何をしているのかというと、街路樹の立ち並ぶ鯖江道の大通りにて寿命を迎えた蝉の死骸を集めているのであった。
無論遊びなどではない。これも立派なアルバイトである。
事の始まりは夏の初め。学生寮の御桜館で共に生活を送っている同級生、加藤環がとあるアルバイトを持ち込んできたのだ。
「セミさんのヌケガラをいっぱいあつめると、おこづかいがもらえるよ!」
容姿も振る舞いも小学生低学年の幼女にしか見えない環がいうには、オカルティストの巣窟である鯖江道で暮らすとある魔女が、蝉の抜け殻を高く買い取ってくれるとの事だった。
相手は魔女。魔術の媒体にでも使うのだろうと考えていた響であったが、実際に彼女に出会ってみると何ともディープな昆虫マニア。研究とコレクションの為に抜け殻を集めているらしく、希少な蝉の抜け殻には小遣いでは済まされない程の額を付けて引き取ってくれた。
そんな彼女から環に新たに連絡が来たのは夏の終わりも近いある日のこと。
今度は生を終えてそこらに転がる蝉の亡骸を集めて欲しいとの事だった。
抜け殻集めが副収入としてはそこそこの収入になった響は、今回も環のアルバイトに便乗したのである。
「みっけみっけ! ナムナム~!」
環は合掌してから蝉の亡骸を優しく掬い上げ、魔女から支給されていた小さなタッパーに収める。衝撃を和らげるために詰められたティッシュペーパーの白が亡骸を死装束の如く彩った。
「失礼しますね。貴方のお体、大切に扱わせていただきますわ」
環に倣って仰向けの蝉に合掌を送るのは、まるで女神のような美貌の少女であった。陽光を反射して煌めく黄金の髪。透き通るような白い肌とが未成年とは思えぬほど豊満な肢体。合掌を終えて見開かれた瞳は、今日の快晴にも負けず劣らずの青さである。
滋野妃。僅か一代で世界有数の大財閥へと成長した滋野財閥の総帥、滋野清玄の孫娘である。
フランス人の血を引く彼女の容姿はこの日本の片田舎では酷く目立つ……かと思いきや。魔王の魔力で満たされたパワースポットであるこの堅洲町ではさほど珍しくもない扱いであった。何せ第二次世界大戦後、魔力に満ち溢れるこの地の事を知った海外の魔術師達がこぞって鯖江道に移り住んできたのだ。日本に帰化した外国人は勿論のこと、彼らが現地でもうけた子供達も多く住む堅洲町において、金髪青眼はさほど珍しい特徴ではないのである。
さて、このお嬢様。実家の金が有り余っているのになぜこのようなアルバイトに精を出しているのかというと、本人曰く社会勉強と修行のため、とのことだ。彼女はかつて冒険家であった祖父に憧れ、自身もまた世界の不思議を解き明かす立派な冒険家になるという夢を抱いている。裸一貫で富を成した祖父と同じく家の力に頼らず現地で活動資金を稼げるよう、様々な仕事に積極的に触れようとしているのだ。現に、彼女は実家が支払う学費以外の自由にできる資金は自前で稼ぐようにしており、持ち前の未知への好奇心も相まって、魔術に無関係な身でありながらも環達のアルバイトに同行する事が多かった。
「あら?」
「キサキちゃんどーしたの?」
「緑色の蝉さんですね」
「ミンミンゼミだ! ミ~ンミ~ン!」
「まあ、この方が?」
「町中だとアブラゼミばかりでミンミンゼミはあんまり見かけないでござるからな。境の森だとよく見かけるでござるが」
「潮風がにがてなのかなあ?」
「かもしれないでござるなあ」
妃の見つけたミンミンゼミを環と共に覗き込むのはまるで凶暴な鮫を思わせる長身痩躯の強面の男。獰猛そうな声からしかし、気の抜けるような話し方をする彼は摩周秋水。ダゴン秘密教団日本支部長老の孫であり、環の幼馴染であった。実家の繫がりから怪異絡みのアルバイトに詳しく、度々環を誘って小遣い稼ぎを行っていた。そんな美味しい話を借金少女の響が見逃すはずもなく、彼は今では堅洲高校の中で最も付き合いの深い男子学生となっていた。
「ひゃあ!」
突如挙げられた気の抜ける悲鳴。響達がその方向を向くと、尻もちをつく少女が一人。二つにくくられた頭髪は妃と同じ金の色。しかし、金糸を思わせる艶やかな妃の髪とは違い、彼女の金は日に焼けてくすんだような色をしていた。びっくりして見開かれた瞳の色は落ち着いた緑色。どことなく垢抜けない印象を受ける彼女は来栖遼。秋水を除くと響達同様、御桜館で共に暮らす級友の一人だ。
故障した電化製品等の修復を趣味とする彼女にとっても、環や秋水が持ち込んでくる変わり種のアルバイトは魅力的に映るらしい。入学後の一学期初頭は怪異に怯えていたにもかかわらず、環に振り回されている内にすっかりオカルトに慣れてしまった様子であった。
「ハル、お前も蝉ファイナル食らったか」
「うん……びっくりしたよ」
ズボンの土埃を払いながら遼は立ち上がる。
生きている蝉に用はない。響達が求めるのは、力尽きた蝉の亡骸のみだ。依頼主曰く、此度のアルバイトは趣味の抜け殻集めとは違い、明確に魔術に関わる事柄らしい。恐らく使い魔にでもするのだろう。死した亡骸に再び生を与え、自身の手足となって働く魔族として新生させるファミリアの作成には、できる限り自然死した個体が望ましい。自ら殺害した個体を使い魔にした場合、蘇生したファミリアから恨みを買う可能性が高いのだ。故に、昆虫標本を作る際のように毒瓶を用いる訳にはいかなかった。
「お、あそこにも標的発見」
響の視線の先には、倒れ伏したアブラゼミ。近付こうとすると、環に止められる。
「あのセミさん、まだ息があるよ?」
「……分かるのか?」
「絶対という訳ではござらんがな。足を閉じているのが蝉の亡骸でござる。ほら、そやつは足を開いているでござろう?」
秋水がとんと茶褐色の腹を指でつつくと、アブラゼミは最後の抵抗とばかりに声をあげて暴れ出す。しまいには秋水の顔面に突撃し、彼の顔に止まって喧しく鳴きだした。
「見ての通りでござる」
「お前らなあ……そういった大切な事は初めに教えとけよな……」
知識は武器だ。地面に散乱する仰向けの蝉。見分け方さえ知ってしまえば、もはや最後の反撃を受ける事もなく。大量に持ち込んだタッパーが全て蝉で埋まったのを確認し、響達は死せる昆虫採集を切り上げるのだった。
鬱蒼と繁茂する雑草。地面から延びる蔦が絡み合いながら壁に沿って天を目指す。荒れ果てた印象を受けるこの洋館は、事故物件が大半を占める堅洲の建物に相応しい。
一見して放置された廃墟にしか見えないこの館。しかし、よくよく見ると人の気配がちらほらと見て取れる。雑草の先端が同じ高さで綺麗に切りそろえられていた。目立たぬ小さな花がしかと見えるよう、日光が葉に良く当るよう、この庭の主はわざわざ雑草を手入れしているのだ。
理由は明白だ。雑草のジャングルの中をちょこまかと動き回る、名も知れぬ無数の虫たち。その観察を行うべく、自然に生えた彼らの食草を大いに活用しているのである。
環が呼び鈴を鳴らすと、年季の入った重々しい扉が開く。中から顔を覗かせたのは、陰鬱な魔女の家を思わせる屋敷には似つかわしくない快活そうな女性であった。終わり行く夏の名残を感じさせる、小麦色の健康的な肌。白いシャツと短パン姿で長い黒髪を雑に一纏めにし、屈託のない笑みを浮かべる彼女からは、夏の日差しをものともせずにアウトドアを謳歌する男子小学生のようなエネルギッシュさを感じられた。
「ブレナちゃ~ん! セミさんいっぱい取ってきたよ!」
「ありがと~タマちゃん! さあさ皆も上がって上がって! 暑かったでしょ」
「おジャマするでござるよ~」
通された客間は正直な話、とても来客をもてなすのには不釣り合いな有様であった。
そこかしこに置かれている虫の飼育容器。当然中身が入っている。
マツムシ、コオロギ、キリギリス……鳴く虫は風情があるといえなくもない。カブトムシやクワガタといった甲虫類もまあ、飼うのは珍しくはないだろう。しかし、流石に蠅はどうなのか。肉食昆虫の餌として繁殖させるというやり方を聞いた事がある響であったが、丸々太って飛ぶのも難儀してそうな巨体を見るに、どう見てもブレナは蠅そのものを飼育するのを目的としているようだ。
「流石にこういうのは別の部屋で育てた方がいいんじゃないか?」
一応忠告してみる響だったが、ブレナはニヘラと照れ臭そうに笑って首を横に振る。
「今ね、特殊な使い魔を育ててるんだ。その子がそうなんだけど……」
「この蠅がか?」
「マゴットセラピーって知ってるかな?」
「確か身体の壊死した部分を蠅の幼虫に食べさせる治療法……でしたわね」
「お、キサキちゃん詳しいねえ」
「冒険小説で知りましたの。では、その蠅さんは医療用なのでしょうか?」
「それがちょいと違うんだなあ。この子の幼虫達はね、壊死した体組織ではなく呪詛を食するのさ。だから、上手く品種改良していけば、解呪と同時に強力な呪詛を身に宿した使い魔も得られるってわけ。まさしく一挙両得のスピリチュアル・マゴット・セラピーさ! 当然、腐肉にたかる訳じゃないから、この子達は汚くなんてないよ!」
「へえ……で、今の所どれくらい効果があるんだ?」
「そうだねえ……生きた人間の恨み辛み程度ならぺろりと平らげてくれるけど、流石に怨霊の類となると厳しいかな? 主に胃袋の容量の問題だけど。今はもっと大きな体の蛆が育つようにあれやこれや試してるところなんだ」
「……と、話がそれたな。まあ、そいつが清潔だってのは理解したが、だからって客をもてなす場で蠅はないだろ? 研究結果が気になるのは理解できるが、やっぱりそいつは別の部屋で育てた方がいいぞ?」
「う~ん……丸々しててこんなにかわいいのになあ……」
響の意見を組んだブレナは渋々ではあるが、蠅の飼育容器を手に客間を後にする。
昆虫好きと昆虫嫌いの間には埋めがたい溝があるのを、ブレナはなかなか理解できていないようだった。
現に今も、客である響達の対応を使い魔に任せっきり。台所から飲み物とお茶菓子を運んできた使い魔達が一抱え程もあるシデムシ達ともあれば、昆虫嫌いが卒倒してもおかしくはないだろう。そのシデムシ達のジェスチャーを解しながら和やかに交流している一同が異常といえば異常である。
もっとも、響は魔術師の家系。頻繁に使うものではないとはいえ、カエルやイモリの黒焼きだのグロテスクな素材を魔術の媒体として使用することがある手前、昆虫程度に怯えているようでは話にならない。
ブレナの依頼を喜んでこなすような男子小学生マインド満載の環と秋水にとって、昆虫は小学生の頃から夏休みの間の遊び相手だったらしく忌避感が微塵もないのは明らか。
妃に関しても、未知なる世界に挑む冒険家を目指す手前、虫が苦手では話にならないだろう。むしろ、虫に対しては新種発見や珍種遭遇に対する好奇心の方が勝るようであり、なんとも豪胆なお嬢様であった。
響にとって意外だったのは遼であった。気の弱い彼女のことだから虫に恐怖感を持っていると響は思い込んでいたのだが、意外や意外、彼女は昆虫が好きらしい。蚊を参考にした痛みの少ない注射針や、蛾を参考にした反射防止フィルムなど、科学的に応用が可能な昆虫の体のメカニズムは遼にとってはとても魅力的に映るとのことだった。今も、明らかに知性を宿しているであろうブレナのシデムシ達のちょこちょこした動きを楽し気に眺めている。
やがて戻ってきたブレナと共に一同はお茶を楽しんだ後、さて、今回の成果を確認しようと蝉達を納めた半透明の棺を取り出し机の上に並べている最中のことであった。呼び鈴が聞こえてきた。はて、来客か。響達は顔を見合わせる。ブレナの忠実な使い魔達もまた、蝉の亡骸を運ぶ手を止めて玄関を見つめるのだった。
「奇妙な昆虫標本?」
好奇心の高ぶりがブレナの瞳を輝かせる。身を乗り出した彼女を気にする様子もなく、来訪者は首肯した。
抜き身の刃物を連想させる鋭さを持った、金髪の白人青年。魔術結社JICの代表者である魔術師、ギルバート・ストーンは巨大シデムシが入れた紅茶を口にしながら、威圧的な容姿に似合わない申し訳なさそうな表情で溜息をつく。
JICは魔術儀式などに用いられる呪具などのアーティファクトの回収と保管を目的として立ち上げられた組織である。世界中からオカルティストが集まる鯖江道では、魔術儀式の失敗や怪異との遭遇などで「いなくなった」魔術師が厄介なアーティファクトを遺すケースがままあった。それらが意図せず暴走しないように、そしていざという時に怪異に対抗する切り札とするために、所有者のいなくなった呪具を研究するのがJICの仕事であった。
基本的には協力関係にある如月市警怪異担当科こと怪担の面々から秘密裏に事件現場のアーティファクトを譲り受けているのだが、その他にも怪異に巻き込まれた一般市民が扱いに困った呪物を持ち込むこともままある。此度の昆虫標本とやらもそうやって堅洲町の外部から持ち込まれたものらしい。
「怪異が関わっているらしきことは分かっているのですが、中々調査が捗らないのですよ。危険度は低そうですので後回しにしても良かったのですが、団員の皆さんが気味悪がっていましてね。本来なら自分達で解決すべき問題なのですが、現在少々厄介な呪具に全力で当たらなければならなくて。ロビンさんに相談したところ、ブレナさんは車輪党随一の昆虫のスペシャリストだとか」
「いや~ロビンちゃんったら照れるな~」
ニヘラと笑って気をよくするブレナ。
「ストーンさんストーンさん、どんなヒョーホンなの?」
環に促されるように、ギルバートは小さな包みを取り出した。慎重に包みを解くと、そこには色鮮やかな青いカミキリムシの樹脂標本が姿を現す。
それを見たブレナの鼻息が興奮で荒くなった。
「何これ何これ何これ! どうやってこんな標本作ったのさ!」
「お、おい。どうしたそんなに舞い上がって」
「だってこの標本アレだよ! ルリボシカマキリだよ!」
「いや分からん。綺麗っちゃ綺麗な虫だけどさ、そんなに珍しいのかコイツ?」
「そうではないのですよ、ヒビキさん。このルリボシカミキリという虫は、死後急速に色あせて青さを失ってしまうのです」
「ああ、なるほど」
「ほんと、まるで生きてるみたいな青さ……まさか生きたまま標本にしたとかないよね?」
「樹脂で窒息してるだろ、普通に考えて」
「ええ。その標本から生命反応は感じられませんでした」
上から下から、透明な樹脂に閉じ込められた瑠璃色の虫をキラキラした瞳で嘗め回すブレナに、響は呆れ顔を向ける。
「してストーン氏。死してなお青い……奇妙な点はそれだけではないでござるよな? その程度のことであればわざわざこの標本がJICに持ち込まれることはないでござろう?」
肝心の家主が舞い上がって戻ってこないため、ギルバートとは祖父を通じての知り合いであった秋水が肝心の話を促した。
「その通りです。この標本の持主には、共通の怪異が襲っているらしいのですよ……いえ、正確には持主周辺の女性に、ですか」
「女性限定でござるか?」
「それも決まったタイプの女性が怪異に襲われるのです」
「どのような?」
「髪を長く伸ばしている女性です。この標本の持主の母親や妻や姉妹、友人や恋人が被害にあっていまして」
「どんな怪異でござるか? まさかカミキリムシだけに髪が切られたなんてオチではないでござろうが……」
「そのまさかなのですよ、秋水君」
何でも、この標本の持主の周辺にいる髪の長い女性は、知らず知らずの内に髪を切られて持ち去られてしまうのだそうだ。気味が悪いといえばその通りだが、さりとて被害はそれだけで命にかかわるような事例には至っておらず。結果として、警察などの動きも鈍いまま。
「直近の持主の方が一番悲惨といえば悲惨でしたね。随分と美人な恋人がいたらしいのですが、彼女が魂を込めて手入れをしていた自慢の長髪を台無しにされたらしく。慰めるためだったのでしょうが、『髪の短い君も素敵だよ』と声を掛けたらそれが逆鱗に触れたようで、婚約までしていた彼女と別れる羽目になったと。それで、これはたまらないと考えてこの希少な標本を手放しにJICを訪れたという訳でして」
「何というか……ご愁傷さまでござるな」
「まあ、あんたらが何でこいつの解析に手間取っているかは大体わかったよ。重要な案件を抱えてるってんなら、今こいつに入れ込むのは確かに危険だな」
樹脂標本をしげしげと眺めていた響が合点がいったと頷いた。
髪には魔力が宿る。そのような信仰は世界各地に存在する。サムソンの力の源、梳る度に炎が散るという吉兆の証、感染呪術に用いられる媒体等々。
事実、毛髪というものは魔力を溜めやすい性質があった。取り込める魔力を少しでも増やすべく、髪を伸ばす魔術師は性別にかかわらず珍しくない。JICの女性スタッフもまた、少しでも呪具の力に対抗する魔力を備えるべく髪を長く保っているものが多かった。例え怪異相手では『足しになる』程度の微量な魔力であれ、時として危険な呪具に向き合わねばならないJICのスタッフ達にとっては、その僅かな魔力の有り無しが生死を分けかねない。重要な案件とやらに取り掛かっている今現在なら、尚のこと髪を失う訳にはいかないだろう。
「ではブレナ殿、お願いします。もしこの呪いを解けたならば、その標本は貴女の自由にしてもらって構いません。無論、報酬とは別件です」
「やた! こんなお宝ゲットできるなんてラッキー! 期待しててねストーンさん! 私が問題をパパっと解決しちゃうから!」
「……なあストーンさん」
「ブレナさんを手伝うから報酬が欲しい、ですね。お願いします、ヒビキさん。怪異に対応できる人物は、この町ではいくらいても足りませんから」
ギルバートが去ったあと。一同は客間の机の上に置かれた瑠璃色の遺骸を納める透明な棺を囲んでいた。
冷たさを感じさせるような透明な樹脂の上に、でっぷりと太った白い巨躯が覆い被さっている。
それは蛆だった。先程響が説明を受けた、呪詛を食らって成長するブレナの使い魔候補である。ブレナ曰く「今うちで一番おっきい子」とのことである。
蛆は一度二度と標本を頭で突っつき、困ったといわんばかりに頭を揺らす。標本から降りてその周りをしばらくにょこにょこと動き回りっていたが、やがてブレナに向けた頭を横に振った。
「う~ん……呪いって聞いてたんだけどなあ」
こめかみに指を当てて悩むブレナ。単純な呪いであるならば、これだけで片が付くはずだったのだが。
巨大蛆のリアクションから、響達にも容易に問題が理解できた。
「こいつが捕食できないって事は、原因は呪いじゃないのか?」
「多分ね」
そういって、ブレナは立ち上がると白い巨体を机の上から優しく持ち上げた。
「ごめん皆。この子を戻すついでに他の子達にご飯あげてくるから、ちょっと席を外すね」
「りょ~か~い」
「でござる」
ブレナの後姿を見送ると、環と秋水は再び標本に視線を戻した。
妃も遼も、真剣な眼差しで標本を見つめている。
不思議だった。響は大して昆虫には興味がない。だというのに、この標本はいくら見ていても飽きないのだ。
一同は命亡き瑠璃色の甲虫を見つめ続ける。声一つ上げず、まるで魅入られたかのように。
「はっ!」
「あ! ヒビキちゃんやっと気が付いた!」
体を揺らす小さな手の感触に誘われて、知らず知らずの内に沈み込んでいた響の意識が覚醒する。
起床後特有のやや気だるげな感覚は、目の前の様子を見て一瞬で吹き飛んだ。
おそらく客間で間違いないだろう。部屋の形も置物の場所も気が遠くなる前のものと変わらないのでそう判断したに過ぎないがしかし、確証は持てなかった。部屋一面を埋め尽くすのは黒、黒、黒……床から足の裏に伝わる感触、机の上に突っ伏していた頬に残るぞわぞわした感覚。人のものと思わしき頭髪が部屋を、廊下を天地問わず壁問わず、びっしりと埋め尽くしていたのである。
「なんだこれ?」
「ん~、夢の中みたい。なんだかまぶたに蓋をされているみたいで目をさますことができないんだよ~」
「それって結構ヤバい奴じゃないか……?」
思ってもいなかった響は緩んでいた展開に気を引き締める。魔女は夢の世界の住人たるリリスの末裔だ。生まれながらの魔女であるリリムには魔力が及ばないとはいえ、彼女達と「血の杯」を交して人間から魔女になったラミアたる環相手に夢の中でマウントを取れるような存在は、流石に油断ができる相手ではない。
「わっ! なんなのこれ!」
「まあまあまあ! 私は何時の間にこんな場所へ?」
「タマキチ殿が率先して起こしてくれたということは、おそらく夢の中でござろうが……なんというか、むずがゆくなりそうな場所でござるな」
机に突っ伏していた三人を響と環が起こすと、素直に気味悪がる遼、目の前に広がる不可思議空間に好奇心を輝かせる妃、この程度の怪異など珍しくないといわんばかりに冷静な秋水と三者三様の反応を見せる。
「一応、ブレナさんの家……なんだよね?」
「間違いないみたいだ、ハル」
黒糸によって覆われた箱型の物体。絡み合う毛髪を取り除けると、そこには昆虫の飼育容器が姿を現す。覚醒の世界で見たままだったが、僅かな変化が見受けられた。
「……いない?」
立派な登り木だけがぽつねんと、容器の中に佇んでいた。この飼育容器には住人がいたはずだ。立派な三本角を持ったコーカサスオオカブト。日本でも比較的安価で手に入る外国産カブトムシ。そんな甲虫がここの住人だったのだが。
「ヒビキちゃん、こっちの子もいないよ~?」
「この容器には珍しいヘラクレス様がいたはずですわよね?」
遼がおっかなびっくりで飼育容器に張り付く髪と格闘する中、躊躇の文字などあるものかとばかりに素手で黒い戒めを解いた環が妃と共に家主不在の飼育容器を覗き込んでいる。
「こっちの子もいない……」
なんとか飼育容器を解放した遼もまた、困惑の表情。この容器は日本では滅多にお目にかかれないケンタウルスオオカブトということもあり、遼もよく覚えていたのだ。
「どこにいったのでござろう? ここにいた虫達は全てブレナ殿の使い魔故、勝手に抜け出したりはしないと思うのでござるが……」
「ん~……それほど不思議な事でもないと思うがな」
「といいますと?」
「ここは夢の中なんだろ? 私達は催眠らしきもので意識この世界に閉じ込められた訳だ」
「ああなるほど、そうでござったな。ブレナ殿の使い魔達はそもそも意識を失ってはいないからここにはいないと……して、我々はどうするでござるか響殿?」
「夢の中から抜け出すにしろ、ストーンさんの依頼をこなすにしろ、やる事は一つだけだ。まずはこの怪異の元凶を探し出さんとな」
元凶は分かり切っていた。響達は机の上に視線を移す。意識を失う前には確かにそこに有ったはずの、件の昆虫標本が跡形もなく消え去っていた。
毛髪で覆いつくされた廊下に出る。どこもかしこも黒い空間が続く中、唯一髪に浸食されていないものがあった。
玄関の扉。そこだけが意図的に避けられたかのように、黒い浸食から逃れている。
元より行く当てもない響達は、とにかく外の様子を調べてみようと玄関へと近づいた。
そんな時だった。
奇怪な物音が一同の耳に飛び込んでくる。
音が聞こえてきたのは黒い壁。僅かに確認できる突起物はドアノブだろう。確かに、ここには部屋があったはずだった。
中々に強靭な人の毛髪を一々手でかきわける困難さ。それは客間で嫌というほど味わっていた響は、精神を集中して己が内の魔力を練り上げる。紡がれる言の葉。異界の法則に身を委ねたことにより身体が悲鳴をあげそうになる。
呪文を唱え終わると同時に、不可視の剃刀によって部屋への入り口を封鎖していた黒髪が切り裂かれて床に落ちる。
部屋の中を確認した響達は目を丸くした。天井から床までの一面が髪で覆われているのは予測がついていたのだが、部屋の中には響達が見慣れぬ奇怪な物が存在した。
それは髪で形作られた人形だった。等身大の女性を模ったそれは、まるで首つり自殺者のように天井から黒い縄によってぶら下がっている。
よくよく見てみると、毛髪で編まれた縄は首に巻き付いているのではなく、頭頂部から人形と繋がっているらしい。
環が興味本位に近付いて人形に触れてみると。
「うわっきもっ!」
響は思わず声をあげた。
環の小さな手が触れるや否や、人形は身を捩って暴れ出したのだ。
どうやら音の正体はこれらしい。
「ねえ、響ちゃん……もしかしてこれ、ブレナさんじゃない?」
遼の言葉に一同顔を合わせる。これは大変だ。早いところ解放してやらなければ。
響が再び呪文を唱える。天井と人形を繋ぐ毛髪の縄を切り裂くと、落ちてきた黒い塊を秋水が両手で受け止め床に下ろした。
「あっ、おいブレナ暴れんな! 動きを止めないと怪我するだろうが!」
床の上にてビッタンビッタンと元気に跳ね回る人形に制止するよう響が声をかけるが、パニック状態に陥っているのかまったく話を聞き入れてくれない。
「仕方ない、少々面倒だが素手で髪を解いてやるしかないか。秋水、悪いがブレナがこれ以上暴れんように押さえつけて……」
「私がどーかした?」
ひょっこりと。入口の外からこちらを覗き込むのはブレナだった。健康的な小麦色の腕には、雪の如く白い巨大な蠕虫を抱えている。
ならば。今、床をのたうち回っている人形はいったい何なのか。
秋水が押さえつけた人形の髪を恐る恐るかきわける。どこまでいっても黒い髪。中身など端から詰まっていない……否。
「何だコイツ?」
髪の黒さに紛れるツヤツヤ光沢ボディ。頑丈そうな顎を持った、見知らぬ昆虫達が人形の中から這い出てきた。
感情を読み取れない複眼が響の瞳と交差する。昆虫達は響達の姿をしばししげしげと見つめると、納得がいったといわんばかりに頷き合って人形の中へと潜り込む。次の瞬間、床をのたうち回るだけだった髪人形がその両足で雄々しく大地を踏みしめ立ち上がった。恐らく人形の中では昆虫達が動き回って人間の動きをこの黒い案山子に反映しているらしい。
昆虫達は時折人形の頭から這い出してきては、響達の姿を、動きを観察してくる。
環は敵愾心は持っていないと悟るや否や、人体の動かし方を教えるべく様々なポーズを人形相手に見せだした。
「いや、ほんとに何だコイツ?」
「この方々もブレナ様の使い魔なのですか?」
妃の言葉にブレナは首を横に振る。
「違うよ。っていうか、こんな虫今まで見た事ないよ」
ビシッ! バシッ!
そんな音が聞こえてきそうなまでにキレキレのポージングを環と共にとっている髪人形に、ブレナは興味津々だ。
「……まあ、あの子も気になるけど。今はどうにかこの夢の世界から抜け出さないとね。原因はやっぱりあの標本なのかな?」
「多分な。他の物品は残っていたのにあれだけは机の上から消えていたから、あれ以外が原因とは思い難い」
「う~ん。困ったなあ……一度夢から出れたらいいんだけれど。いくら私が魔女でも、私自身はそんなに強くないからね。使い魔がいないと本領を発揮できないというか」
「その子は?」
遼の疑問に、ブレナは抱いていた白い蠕虫の頭をなでつつ応える。
「この子、ご飯をあげようとしたらおねむでさ。そのせいで標本の魔力に意識を引っ張られたみたい」
「戦力としてはどうなんだ?」
「そこそこ強いけどね。魔女を夢の中に監禁できるような相手ともなると、一匹だけじゃ心もとないかなあ」
「まあ、環もいるし何とかなるだろ。とりあえず、外の様子を確かめようと思っていたが、お前はどうだ?」
「私も行くよ。家の中は探しつくしたから、もう外にしかこの夢の主の居所はないと思う」
「話はまとまったでござるな。では諸君、いざいざ外へ!」
「かちこみだ~!」
環と秋水の能天気な声に導かれるまま一同は玄関へと足を向ける。そんな中。
「……何かついてくる」
「ですわね」
さも「昔から仲間でしたが?」といわんばかりの態度で、未知の虫の操り人形が響達の後に続くのだった。
玄関を抜けると、そこには見知らぬ風景が広がっていた。
響はてっきり庭の雑草が髪にでも変わっているかもしれないと思っていたのだが、そんなことはなかった。
それどころか、庭すらなくなっていた。古代の遺跡を思わせる石造りの通路。規則正しく並んだ石柱の数々。
それに混ざって、日本の近代的な住宅がちらほらと建っていることに響は違和感を覚えた。幾何学的な石造建築によって支配された空間には全く似つかわしくない。これならば廃墟じみたブレナの住居の方がよっぽど雰囲気に会っているだろうと屋敷を見返してみると、黒髪がぞわぞわと蠢きながら洋館を覆いつくしていた。
「……家の中だけじゃなかったか」
「あら?」
「どうした妃?」
「響さん、よく見て下さい。この髪、館に吸い込まれていませんか?」
妃の言う通りだった。屋敷を覆う黒髪の壁が、少しずつではあるが薄くなっている。びっしりと髪で覆いつくされていた屋敷の中と違って、僅かにではあるが洋館の壁が顔をのぞかせていた。
「まるで生き物みたいだな」
その言葉にうんうんと頷く髪人形、その数三体。
「……何で増えてんだ、お前?」
「おそとの様子をみんなで眺めてた時にブレナちゃん家から出てきたんだよ」
「ね~」と語りかける環に、人形達は頷いて返す。
とかく、ここで手をこまねいていても仕方なし。響達は石路に足を踏み出す。
目指すは一点、石柱の中央部。僅かに光を放つその場所が、一同の目的地であった。
中央への道すがら。無人の遺跡に靴音が響く。そう、無人。無人といえば無人。時折通り過ぎるのは、髪で編まれた件の人形達だ。どいつもこいつも敵意はないが、かといって響達に興味がない訳ではないらしく、立ち止まっては奇妙な闖入者をよく見ようと黒い依代の中から未知なる虫達が顔を出す。
そんな遺跡の住人達に、環は元気よく挨拶を送っていた。殆ど町内の人間に元気よく声をあげる小学生だ。案山子達も響達に敵意がないと分かるや否や、身構えるような様子を見せなくなる。挨拶の力は偉大だった。
「やっほ~!」
気の抜けるような声で、環が腕を振り始める。彼女の視線の先には、コンクリート造りの大きなマンションがそそり立っていた。そのベランダに、興味深そうにこちらを眺める髪人形達がチラホラと。幾人かの人形達が手を振り返すさまを見つつ、響は首を傾げていた。
「……ここまで、私らの世界で見られるような建物以外にコイツ等が住めそうな場所、あったか?」
「なかったでござる。もしや、この建物はあの標本の犠牲者の棲家を模したものではござらぬか?」
「ブレナん家みたいに髪で覆われてはいないみたいだが?」
「かつては覆われていた、と考えるべきでござろう。ほら、後ろを見るでござる」
秋水に促されて響は後方を確認する。大分離れた位置にある、真っ黒な塊……ブレナの屋敷。そこから、黒い人形達がぞろぞろと外に這いだしてくる。人の形をした存在がとるにはグロテスクな動きであったが、しかと二足歩行している人形達を見るや否や、すぐさま依代の動かし方を学んで立ち上がる。
「……あの髪の毛が虫共の身体の材料になっているって訳か」
「その辺の建物は、材料切れということでござろうな」
「まあ、髪の毛がコイツ等の仮初の肉体になっているってのは分かったが……コイツ等自体はどこからきやがったんだ?」
屋敷内に蔓延る毛髪の壁は動きらしきものを見せていない。踏みしめた黒い床も、硬い何かを踏み潰したような感触は伝えてこなかった。本当に突然。この人形の中に虫が湧き出たとしか思えない有様であった。
「ね~ね~虫さん虫さん! あなた達はどこからきたの~?」
「あ、私も知りたい知りたい! ブレナさんにも教えて欲しいな~!」
ブレナの手の中に納まっていた白い幼虫と楽し気にボディランゲージを取っていた七体の髪人形は、環の言葉に一様に首を傾げる。この虫達がこちらの言葉をしかと解せる高い知能を有していることは最早疑う余地もなかったが、如何に知能が高くても知らないものは知らないらしい。
「何ていうか、お前らここに住み着いている割には知らないことが多すぎないか?」
「もしかして、この方達も意図せずしてこの空間に取り込まれたのではないでしょうか?」
妃の言葉に、人形達が肯定の意を表す。自分達が何者かも知らず、どうしてこの空間に閉じ込められているのかも知らない……この虫達もまた、標本の犠牲者だった。響達にくっついて行動しているのも、その疑問を解決したいという意思が少なからずあるかららしい。
詠唱が聞こえてくる。同じ声の重なる二重奏。石柱による環状列石の中心。ヒキガエルともコウモリともナマケモノともとれる奇妙な石像がそこに鎮座する。
奇妙な輝きを放つ石像の前に、異形の存在が滞空していた。鳩ほどの大きさの奇妙な昆虫。ルリボシカマキリに似てはいるものの、決してそれではない奇怪な甲虫だ。
響はそれに見覚えがあった。かつて霧の館で手に入れたアラン・ホプキンスなる男の日記。彼の一族が人生をかけて根絶しようと追い求めている、空から飛来したという有害な妖虫についてのスケッチ。目の前のカミキリムシもどきは、要所要所それに酷似した特徴が見受けられた。
『ふむ。随分と早いお着きだな』
妖虫が響達に向き直る。三つの口の内、二つが忙しなく動いていた。
「中々に便利そうだな、その身体。同時に三つも呪文が唱えられるのか」
『さりとて、日がな一日中詠唱を続けるのはさすがに疲れるんだがね』
残った一つの口が、響の軽口に言葉を返す。
「それで、だ。お前が私達をここに閉じ込めた元凶か、ショートカットマニア?」
『悪いが人間の髪型に関してはそれ程こだわりがなくてね。しかし迂闊だったよ。君達が夢の中で眠っている間にことを済ませる手はずだったんだがね。私としたことがリリスの末裔に手を出してしまうとは。流石は夢の住人だ。私の聞きかじり程度の催眠では快眠してくれないらしい』
「やっぱり私らの髪が目的か。で、お前はナニモンだ?」
『ふむ。困った質問だな。私が何者か……何のために生み出されたのか……それを知りたいのは私自身でね。番号で呼ばれていた気もするが、自分の名前すら分からん始末さ。案外、名前なんてないのかもしれない。私が人格のある昆虫として生み出されたのは理解しているが、私を作り上げたあの人間は物心つく頃にはすでに狂ってしまっていた。生まれながらに知恵を与えられていたのは幸いだったよ。私を生み出したあの男は何らかの生物……私の半身を構成する奇怪な虫に取りつかれていたようでな。日記には男と憑りついた虫、二つの人格の記述が混在していた。どうにも私の虫の親は発狂する前に何らかの神を崇めていたらしい。その神を降臨させるための鍵として私を作り上げたのだ』
「……じゃあ、お前が髪を集めているのはその神を降臨させるためか?」
『本当なら人身御供を捧げた方がよっぽど簡単かつ手早く儀式を遂行できるのだがね。人類が支配する今の文明の下でそれをやるにはあまりにもリスクが高すぎる。その点、魔力の籠った人間の毛髪を集めるのは遠回りだがリスクは少ない。亀の歩みではあるが、急がば回れと人間の言葉にもあるだろう?』
確かに、と響は肯定した。実際に、人死にを出さずに髪だけを集めるこの方法は人の関心を引きこそすれ、大きな話題になる事はなかった。国民の命がかかっていないのであれば、如何なる事件であろうと警察の動きは鈍くなりがちだ。それが怪異絡みであるのなら、なおさらである。
「はいは~い! ブナちゃん、しつもんしつもん!」
『ブナ? もしかして私のことかな?』
「うん! さっきスマホでしらべたら、ルリボシカミキリってブナの木を食べるんでしょ? だからブナちゃん!」
勝手に命名して得意顔の環に妖虫は苦笑するような声をあげる。
『してリトルガール、質問とは何かな?』
「どんなかみさまを呼ぼうとしてるの?」
『見た方が早いだろう……というより、君達のすぐそばにいるのだが?』
「ふえ?」
環はキョロキョロと辺りを見回す。周囲にいるのは、響と妃、遼と秋水、そしてブレナ。後は。
「えっ? お前ら神なのか?」
良く分からんとばかりに十三体の黒い案山子は首を傾げる。
「……何か自分でも神かどうかわからないらしいんだが?」
響の困惑に、妖虫はさもありなんといわんばかりの様子を見せた。
『正確にいえば神の一部、だね。創造主が呼び出そうとした神は個体でもあり群体でもあるらしい。その依代で呼び出せるのは神格の一割にも満たない規模の小さな力の断片……自らが神とであると思い出すにはまだまだ魔力不足だ』
「で、お前は神を呼び出して何がしたい? 世界征服でもするつもりか? それともチートパワーでも授かるつもりか?」
『別にしたいことはない。正確にいえば、神を降臨させること自体が私の目的だ』
「何だそりゃ?」
『どんな経緯であれ、この世に生を受けた以上は生きるための目標が欲しいのだよ。創造主は志半ばで荼毘に付したわけだが、私が神を呼び出すために作られたのは間違いない。ならば、その志を少しは受け継いでやろうという、いわば手向けだな』
「なるほどな。で、私達はお前の個人的な欲求のためにここに呼び出されたと」
『そうなるな。して、私に髪を譲り渡してくれないか? 生えている分を刈り上げるだけだから危害は加えない。抵抗はしないでもらいたいところなのだが』
「仕方ないな……ってちょっと待て! 刈り上げるってなんだ刈り上げるって! 精々ショートカットにする程度じゃないのか!」
『普段ならばな。だが、君は魔術師だろう。そこの二人はリリスの末裔たる魔女だ。こんな獲物は滅多にない。出来る限り魔力を確保したいのだよ、私は! 大丈夫大丈夫、髪はまた生えてくる!』
「ふざけんな! うら若き乙女をつるっぱげにしようってのかお前は! 却下だ却下!」
「だんこはんたーい!」
普段はオシャレなどに気を遣わず、髪も寝ぐせでボサボサの響。だからといって、流石に丸坊主はごめんこうむるらしい。見た目以外にも問題が大アリだ。ただでさえ怪異関連のアルバイトをしている響なのだ。JICのスタッフ同様、多少なりとも魔力をストックするために、髪の毛全てを持っていかれる訳には断じていかなかった。
ショートカットまでならばまだ許せていたであろう環達も抗議の声をあげる。これでもうら若き女学生。禿げ頭で登校するような事態は何としても避けたい。
『ふむ……やむをえんな。ならば少々、強引な手で行かせてもらおうか』
先程まで唱えられていた詠唱の一つに変化が生じる。遺跡都市に朗々と響き渡る妖虫の声。それと同時に、石造りのヒキガエルが激しく明滅を始めた。
『今、私が行使している魔術は二つ。一つは君達をこの夢の中に閉じ込めるためのもの。そしてもう一つは、神の依代たる材料を操るもの……さあ、刮目して見たまえ!』
五対ある脚部。その内の一つが指し示す方向に響達は見た。ブレナの館から黒い塊が立ち上がり、巨大な人型を形作っていく。髪の巨人は顕現するや否や、滑るような足取りで響達の下へと歩を進め始める。
広場に到着し、睥睨する巨体。慌てふためく黒い案山子達を尻目に機敏な動きで響達に手を伸ばす。
「のわあああ! お助けえええ!」
一人逃げ遅れた男が一人。秋水が毛髪で編まれた手の中でもがくが、しっかりと拘束されているらしく抜け出せない。
「しゅーくん!」
幼馴染が捕えられたことに動揺したのか、魔力で編まれた爆裂球で抵抗していた環の腕が止まった。チャンスとばかりにもう片方の手を伸ばす巨人。
「タマちゃんあぶな~い!」
巨人の腕が捕えたのは、割って入ったブレナであった。
両手に人質。これでは迂闊に反撃できない。そんなピンチに対して、不適な笑いが周囲に響く。
「ふっふっふ……勝負あったよ、ブナ!」
『むっ? 捕らえられてなおその余裕とは……何か秘策でもあるのかね、小麦色の魔女殿?』
怪訝そうな声をあげる妖虫に、巨人の腕に絡め捕られたブレナが勝ち誇った笑みを見せた。
「油断したね、ブナ! 君も巨人も隙だらけさ!」
『両腕を封じた程度で勝ち誇っているのかな? だが、それは甘い!』
詠唱が変化するや否や、巨人の背中から新たに髪で作られた二対の腕が生えてくる。
『これで全員捕らえられる。私に隙などありはしないよ』
「いいや、隙だらけさ! 後ろを見なよ、チェックメイトだ!」
『なっ? いつのまに!』
妖虫が振り返った先。輝くヒキガエルの神像に、真っ白な虫がしがみついている。先程までブレナの腕の中に納まっていた蠕虫であった。
「このでっかいのがこっちに来るまでの間に私達が何もしていないと思った? 皆でこっそりと打ち合わせをしていたのさ。その子をヒキガエルさくんに送り届けられるように皆で囮になるってさ! ストーンサークルの真ん中に設置していることといい、さっきから見られる魔力を伴った発光といい、そのヒキガエルくんは何やらとても重要な物みたいじゃないか! 台無しにされたくなければイッツサレンダーさ!」
『くっ! だが、そんな私ほどの大きさのワーム一体で何ができる?』
ブレナの指摘は図星であったらしい。強がりながらも、妖虫の声色に紛れもない動揺が混ざっていた。
そんな妖虫の問いに答えたのは響だった。
「石蟲……ストーンワームっていうらしいぜ、そいつは。普段は石の中に住み着き、内部から食い荒らす習性を持つんだと。加えてそいつは野生の個体ではなくブレナが育てた使い魔だ。如何に強力な魔力を秘めた石像であろうと、ぺろりと平らげちまうんだとよ」
響の説明を肯定するかのように、白いワームはがぶりと石像を人噛みして咀嚼する。次の瞬間、遺跡都市を軽い地震が襲った。
『分かった! 負けを認めるから止めてくれ! その神像は柱なんだ! 壊れてしまえばこの世界は崩壊してしまう!』
「言質とったよ! じゃあブナ、どうすればいいか分かるよね?」
落胆と共に吐き出される三つの溜息。詠唱が止み、それと同時に巨人は崩れて元の毛髪へと戻る。それと同時に、響達の目の前から世界が掠れて消えていくのであった。
「ヒビキちゃん、おはよ~!」
「おう、おはよう……って今何時だ?」
「まんまるお月様がでてるよ!」
「おはようじゃねえよ夜中じゃねえか!」
目が覚めると、すっかり深夜。電灯に照らされた部屋の中、カーテンを開け放って月を見る環。
意識を失う前と同様の客間の姿。響が辺りを見渡すと、黒い侵略者は存在せず、飼育容器には使い魔達の姿が見て取れた。どうやら戻ってこれたらしい。
響は自身の頭をポンポンと叩く。しかと感じるボサボサした感触。どうやら丸刈りは避けられたようだ。
体を起こすと、肩から毛布が床に落ちた。どうやら忠実なるブレナのシデムシ達が眠りに落ちた響達を気遣ってかけてくれたらしい。
妃と遼、秋水が目をさまし、客間の外からは石蟲を抱えたブレナがやってくる。
「ありゃ?」
机の上を見たブレナの顔が困惑に染まる。
どうかしたのかと彼女の視線を追うと、そこには件の昆虫標本が残されていた……のだが。
棺の中の住人の色鮮やかだった青は失われ、古びた色合いの赤褐色へと変化していた。わずかに感じられていた魔力も今は霧散している。曰く付きの標本は、今や無害な品物へとなり果てていた。
「ストーン様の依頼は無事こなせたようですが……残念でしたわね、ブレナ様」
「きれーな青色だったのにねえ」
「ん~……ちょっと残念だけど、これはこれで赴きある色合いじゃない?」
「お前がそういうんなら構わねえけどな」
夢の中での不思議な出来事で盛り上がる一同をよそに、響はJICに仕事完了のメールを送る。
ブレナのシデムシ達が用意してくれていた軽食で空き腹を満たした後、響達は秋の始まりの夜風に身を委ねながら洋館を後にしたのであった。
「で、何でお前がここにいるんだ?」
数日後。ブレナが副業でやっている鈴虫の販売の手伝いに再び洋館を訪れた響達。彼女達の目の前には、分厚い参考書に目を通しているルリボシカミキリもどきの妖虫が。
『神像を傷つけられて流石に懲りたってことさ。ワーム君のあの一噛みのおかげで我らの聖域に人間を誘い込む事ができなくなったからね。人間の世界で法に触れぬ方法で髪を手にれることにしたんだよ。理容師免許を取るための勉強に、人間に化けるための魔術の会得、店舗経営のノウハウ……覚えることは山ほどある』
書籍と格闘する妖虫の側では、依代から抜け出してきたらしき神の分体がブレナのシデムシ達と楽しげに交流を深めていた。
どうにも標本は魔力を完全に失った訳ではなかったらしい。




