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君の祈りを僕だけのものに

作者: まねきねこ
掲載日:2026/06/01

聖女は、誰も愛してはいけない。


 正確には、すべての人を等しく愛さなければならない。


 老いた漁師も、病に伏せる子どもも、罪を犯した者も、聖女の名を罵る者でさえも。聖女は微笑み、祈り、許し、救わなければならない。そこに好き嫌いはなく、選別もなく、個人的な感情もない。


 聖女の愛は、海のようであるべきだと教典にはある。


 誰のものにもならず、誰か一人に偏ることもなく、ただ街全体を包むもの。


 だから僕は、昔から思っていた。


 それは愛ではなく、制度ではないか、と。


 孤島都市ルーヴェンは、灰色の海に囲まれている。


 断崖の上に築かれた白い街。石造りの家々は坂道に沿って重なり、尖塔のある大聖堂が街の中心に立っている。朝になると鐘が鳴り、昼には祈りの歌が響き、夜には海から黒い霧が這い上がってくる。


 霧の中には、災厄がいる。


 人々はそう信じている。


 百年前、ルーヴェンは一度滅びかけた。海から現れた黒い獣たちが街へ押し寄せ、人々を喰い、家を焼き、神殿の扉まで爪を立てた。その時、ひとりの少女が大聖堂の頂上で祈り、街全体を光の結界で包んだ。


 それが初代聖女。


 以来、ルーヴェンでは百年に一度、聖女を選ぶ。


 聖女は街を守る存在だ。


 誰からも愛され、誰をも愛し、神の声を聞き、祈りによって災厄を遠ざける少女。


 少なくとも、人々はそう信じている。


 けれど実際の聖女候補たちは、神に選ばれた少女というより、神に選ばれるために作られた少女だった。


 幼いころから礼儀作法を叩き込まれ、言葉づかいを矯正され、笑い方まで決められる。歩幅、視線、祈りの手の角度、民衆へ向ける微笑みの深さ。そのすべてに正解がある。


 聖女は、聖女らしくなくてはならない。


 だから僕の仕事がある。


 僕の名は、レオン・クラウス。


 神官ではない。聖職者でもない。神を信じていない、と言えば処罰されるので口にはしないが、少なくとも神の声を聞いたことは一度もない。


 僕は演出家だ。


 王都の劇場で役者を育て、貴族の式典で振る舞いを整え、時には政治家の演説まで手直ししてきた。人がどう立てば美しく見えるか。どう笑えば信じられるか。どう沈黙すれば相手を支配できるか。


 僕は、それを知っている。


 そして今年、聖女選定を控えたルーヴェン大聖堂から依頼を受けた。


 聖女候補たちに、聖女としての振る舞いを教えてほしい、と。


 初めて大聖堂に入った朝のことを、僕はよく覚えている。


 天井は高く、白い石柱が森のように並んでいた。壁には初代聖女の物語を描いたステンドグラスがはめ込まれ、青、赤、金の光が床に落ちている。香の匂いが薄く漂い、遠くで聖歌隊の練習する声が響いていた。


 その中央に、少女たちが立っていた。


 白い衣をまとった聖女候補たち。


 全部で七人。


 年齢は十五から十八ほど。誰もが美しく、清らかで、よく訓練されていた。指先を胸の前で重ね、背筋を伸ばし、こちらを見ても過剰に反応しない。


 よくできた人形たちだと思った。


 その中で、一人だけ、完成度が違う少女がいた。


 イリス・ヴェルネ。


 最有力の聖女候補。


 淡い金色の髪は肩の下でゆるく波打ち、肌は雪のように白い。瞳は湖を思わせる青で、そこに誰かを責める色も、求める色もない。ただ静かに澄んでいた。


 彼女は微笑んでいた。


 民衆が見れば、涙を流して跪くだろう。


 神官が見れば、神に選ばれたと確信するだろう。


 それほど完璧な微笑みだった。


 けれど僕には、その微笑みがあまりにも退屈に見えた。


「レオン・クラウス殿」


 大神官オルドが僕を迎えた。


 白い髭を胸まで伸ばした老人だ。声は穏やかだが、目は濁っていない。長く権力のそばにいた人間の目だった。


「遠路、よく来てくださいました。聖女選定まで、残された時間は多くありません。候補者たちには十分な教育を施してきましたが、最後に必要なのは、人々の心を動かす力です」


「心を動かす力、ですか」


「はい。祈りは形だけでは届きません。民衆がこの少女こそ聖女だと信じること。それもまた、結界を強める一部なのです」


 僕は笑わなかった。


 正直な老人だと思った。


 彼は神秘を語っているようで、実際には演出の話をしている。


 人々に信じさせること。


 美しい少女が祈り、民衆が涙を流し、その場に生まれた感情が街をひとつにまとめる。奇跡とは、よくできた舞台と似ている。


「承知しました」


 僕は候補者たちの方へ歩いた。


 少女たちは一斉に頭を下げる。


 その動作も、きれいに揃っていた。


「今日から君たちの仕上げを担当する、レオン・クラウスです。僕は神の声を聞かせることはできません。奇跡も起こせない。けれど、君たちが奇跡に見えるようにはできる」


 何人かの候補者が小さく顔を上げた。


 不安。


 緊張。


 警戒。


 それぞれの瞳に、わずかな色が浮かぶ。


 だがイリスだけは違った。


 彼女は静かに微笑んだままだった。


 まるで、その言葉すら聖女らしく受け止めることが最初から決まっていたかのように。


「では、まず祈りを見せてもらおう」


 大神官がうなずくと、候補者たちは祭壇の前に並んだ。


 ひとりずつ祈りを披露する。


 ミラという少女は、声が少し震えていた。黒髪の小柄な少女で、努力家だが自信がないのが一目で分かる。手の角度は正しい。言葉も間違えていない。だが、どこか必死すぎる。見ている者に「失敗しないで」と思わせてしまう。


 他の候補者たちも、それぞれ欠点があった。


 微笑みが硬い者。


 声が軽い者。


 神を信じているというより、神官を気にしている者。


 そして最後に、イリスが進み出た。


 彼女が祭壇の前に立った瞬間、空気が変わった。


 白い衣の裾が床を滑る。彼女はゆっくりと膝をつき、胸の前で指を重ねた。まぶたを伏せる角度、息を吸う間、祈り始めるまでの沈黙。


 すべてが正しかった。


「海の底に眠るものよ」


 イリスの声は澄んでいた。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず、今日もこの街に朝をお与えください」


 聖堂の光が彼女の髪に落ちる。


 祈りの言葉は続く。


 聞く者の胸に、自然と静けさを生む声だった。慰められているようで、許されているようで、自分の中の汚れた部分まで洗われるような声。


 候補者たちは息を呑み、大神官は満足げに目を細めた。


 完璧だった。


 あまりにも完璧だった。


 だから僕は、つまらないと思った。


 祈りが終わると、聖堂に沈黙が落ちた。


 イリスはゆっくり立ち上がり、こちらへ向き直る。


「いかがでしたか、レオン先生」


 彼女はそう言った。


 先生。


 その呼び方さえ、すでに正しい距離を保っている。


 僕は拍手をした。


 一度。


 二度。


 三度。


 乾いた音が聖堂に響く。


「完璧だ」


 イリスの微笑みが少し深くなった。


 他の候補者たちの表情が曇る。大神官は当然だと言いたげにうなずく。


 僕は続けた。


「君は本当に、君自身以外のものを演じるのがうまい」


 その瞬間。


 イリスの笑顔が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 まばたきよりも短い。ほとんどの人間なら見逃しただろう。けれど、僕は見逃さなかった。


 彼女の瞳の奥で、何かが揺れた。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 恐怖に近いが、それだけでもない。


 自分でも名前を知らない感情が、そこに生まれかけていた。


「……それは、どういう意味でしょうか」


 イリスはすぐに微笑みを戻した。


 声も乱れていない。


 だが、僕は彼女がこちらを見ていることに気づいた。


 先ほどまで彼女は、僕を見ているようで見ていなかった。聖女候補として、客人へ礼儀正しく視線を向けていただけだ。


 しかし今は違う。


 彼女は、僕を見ていた。


「そのままの意味だよ」


 僕は言った。


「君の祈りは完璧だった。仕草も声も表情も、民衆が聖女に求めるものをすべて満たしている。誰もが君を信じるだろう」


「でしたら」


「でも、君はいなかった」


 イリスの指先が、わずかに動いた。


「祈っていたのは、聖女という役だ。イリス・ヴェルネという人間ではない」


 候補者たちの間に、小さなざわめきが走った。


 大神官オルドの目が鋭くなる。


「クラウス殿」


 低い声が僕を制した。


「候補者への批評は慎重に願います」


「もちろんです、猊下」


 僕は頭を下げた。


「慎重に見た結果です」


 沈黙が落ちた。


 イリスは何も言わなかった。


 ただ、僕を見ていた。


 その瞳はまだ清らかだった。濁っていない。けれど、さっきまでの湖のような静けさとは違う。


 水面に、細いひびが入ったようだった。


 僕はそのひびを見て、胸の奥が静かに高鳴るのを感じた。


 美しい。


 まだ何も始まっていない。


 けれど、僕には分かった。


 この子は、壊れる。


 きっと、とても美しく。


   *


 その日の午後、僕には大聖堂の一室が与えられた。


 窓からは海が見えた。灰色の波が岩壁に砕け、白い泡を散らしている。遠くの水平線には黒い雲が垂れ込め、今にも雨が降りそうだった。


 机の上には、候補者たちの記録が置かれている。


 年齢、家柄、祈力の測定値、性格、訓練成績。


 僕はまず、イリスの記録を開いた。


 イリス・ヴェルネ。


 十七歳。


 五歳の時、聖女候補として大聖堂に引き取られる。


 祈力、歴代候補者中最高値。


 礼法、聖歌、教典理解、民衆対応、すべて最上位。


 性格、温厚。慈悲深い。自己主張が少なく、規律を重んじる。


 模範的。


 その言葉が何度も出てきた。


 模範的な少女。


 模範的な候補者。


 模範的な祈り手。


 模範的な聖女。


 僕は記録を閉じた。


「つまらないな」


 思わず声に出た。


 完璧な人間などいない。


 完璧に見える人間がいるだけだ。


 そして完璧に見える人間ほど、その内側には必ず何かを押し殺している。


 人は役を演じ続けると、いつかその役に自分を奪われる。


 優しい娘を演じ続けた者は、怒り方を忘れる。


 強い兵士を演じ続けた者は、泣き方を失う。


 清らかな聖女を演じ続けた少女は、自分が本当は何を欲しがっているのか分からなくなる。


 だから、僕はそれを教えてやればいい。


 君は本当は、誰を見ているのか。


 誰に見られたいのか。


 誰のために祈りたいのか。


 日が落ちるころ、部屋の扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、イリスだった。


 白い衣ではなく、候補者用の簡素な薄青の服を着ていた。髪もほどかれていて、昼間より少しだけ幼く見える。


「お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「もちろん」


 僕は椅子を勧めた。


 イリスは静かに座る。


 その所作も美しい。


「昼間のお言葉について、お聞きしたいのです」


「君自身がいなかった、という話?」


「はい」


 イリスはまっすぐに僕を見た。


「私は、聖女候補として正しく祈ったつもりです」


「その通りだ」


「では、なぜあのようにおっしゃったのですか」


「正しかったからだよ」


 イリスの眉が、ほんの少し寄った。


「正しい祈りは、教えられた祈りだ。教えられた言葉を、教えられた声で、教えられた表情で届ける。そこに間違いはない」


「それでは、足りないのですか」


「足りているよ。聖女になるだけなら」


 僕は彼女を見た。


「でも、人間としては空っぽだ」


 イリスの顔から、微笑みが消えた。


 初めてだった。


 彼女が聖女らしい表情を忘れたのは。


「……ひどいことを、おっしゃるのですね」


「よく言われる」


「私は、空っぽではありません」


「そうだね」


「では、なぜ」


「空っぽではないのに、自分の中身を誰にも見せないから」


 イリスは黙った。


 窓の外で、波の音がした。


「君は怒れる?」


 僕は尋ねた。


「怒る、ですか」


「そう。今、僕に空っぽだと言われた。怒っていい場面だと思うけど」


「私は……」


 イリスは言葉を探した。


「怒るべきではありません」


「なぜ?」


「聖女候補ですから」


「つまり、君は怒っていないんじゃなくて、怒ることを許されていない」


 彼女の指先が膝の上で強く重なった。


「悲しむことは?」


「……必要であれば」


「誰かを嫌うことは?」


「してはいけません」


「誰か一人だけを特別に思うことは?」


 イリスは答えなかった。


 その沈黙こそ、答えだった。


 僕は少しだけ身を乗り出した。


「君は、誰かに見られたいと思ったことがある?」


 イリスの瞳が揺れた。


「私は毎日、多くの人に見られています」


「そうじゃない」


 僕は静かに言った。


「聖女候補としてではなく、イリスとして」


 部屋の空気が重くなる。


 彼女は目を伏せた。


 長い沈黙。


 やがて、消えそうな声で言った。


「分かりません」


 その声は、昼間の祈りよりずっと美しかった。


 完璧ではない。


 整っていない。


 けれど、そこに彼女がいた。


「そう」


 僕は微笑んだ。


「なら、そこから始めよう」


「何を、ですか」


「君の祈りを」


 イリスは顔を上げた。


「聖女の祈りではなく、君自身の祈りを」


 彼女は困惑していた。


 当然だ。


 そんなものを教えられたことはないのだから。


「先生は」


 イリスは言った。


「私を、聖女にするために来られたのではないのですか」


「そうだよ」


「では、なぜ聖女ではない私を探すのですか」


 僕は答える前に、少しだけ考えた。


 本当のことを言えば、彼女はどうするだろう。


 僕は君を救いたいわけではない。


 君の自由を取り戻したいわけでもない。


 僕が見たいのは、聖女という役を着せられた少女が、その役を破って自分だけの欲望に堕ちる瞬間だ。


 そう言えば、彼女は逃げるだろうか。


 あるいは、もっと早く壊れるだろうか。


 僕は言わなかった。


 まだ早い。


「聖女は、人々の心を動かさなければならない」


 僕は言った。


「でも、人の心は人形には動かせない。心を動かすのは、心だけだ」


 イリスはじっと僕を見ていた。


「君の中にあるものを知らなければ、本当の意味で誰かに祈ることはできない」


「私の中にあるもの……」


「そう」


 僕は優しく言った。


「たとえそれが、聖女にふさわしくないものでも」


 イリスは息を呑んだ。


 その反応を、僕は美しいと思った。


 初めて禁じられた扉の前に立たされた少女の顔だった。


 怖い。


 でも、知りたい。


 そういう顔。


「今日はここまでにしよう」


 僕が言うと、イリスは少し慌てたように立ち上がった。


「あの、先生」


「何?」


「私は……変なのでしょうか」


 僕は彼女を見上げた。


「どうして?」


「先生と話していると、胸が苦しくなります」


 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「祈りの前とも、試験の前とも違います。怖いのに、また聞きたいと思ってしまいます」


 僕は笑みを隠した。


 早い。


 思ったよりもずっと。


 完璧に封じ込められた感情は、小さな亀裂から一気に漏れ出す。


「変ではないよ」


 僕は言った。


「それは、君が君自身に近づいている証拠だ」


 イリスはその言葉を、まるで祝福のように受け取った。


「……ありがとうございます」


 彼女は深く頭を下げた。


 部屋を出ていく直前、イリスは一度だけ振り返った。


「先生」


「うん」


「明日も、教えてくださいますか」


 何を、と彼女は言わなかった。


 僕も聞かなかった。


「もちろん」


 扉が閉まる。


 僕はしばらく、その扉を見ていた。


 そして机の上の記録に、羽ペンで一行だけ書き加えた。


 ――イリス・ヴェルネ。


 自己の不在。


 承認への飢え。


 特別視への適性、高。


翌朝、候補者たちの訓練は「微笑み」から始まった。


 聖女の微笑みには、種類がある。


 病人に向ける微笑み。


 子どもに向ける微笑み。


 罪人に向ける微笑み。


 神官に向ける微笑み。


 民衆全体に向ける微笑み。


 それぞれに深さが違う。目元の緩め方も、唇の開き方も、首の角度も違う。聖女はただ笑えばいいわけではない。相手が自分を許されたと感じるように、しかし自分と同じ高さに立ったと錯覚しないように笑わなければならない。


 慈悲とは、上から差し出されるから慈悲なのだ。


 それを誰よりも理解していたのは、イリスだった。


「イリス」


 僕が名を呼ぶと、彼女は一歩前に出た。


「はい、先生」


 昨日よりも、少しだけ声が柔らかい。


 それに気づいたのは、おそらく僕だけだった。


「病で死にかけた子どもに向ける微笑みを」


 イリスはすぐに表情を変えた。


 痛みを包み込むような、静かな微笑み。


 完璧だった。


「次に、罪を犯し、許しを求める男へ」


 彼女の微笑みが深くなる。


 責めず、しかし罪を軽く見ない。許しへ導く表情。


「次に、君を憎む民衆へ」


 微笑みはさらに穏やかになった。


 敵意すら受け入れる聖女の顔。


 候補者たちが息を呑む。


 ミラが悔しそうに唇を噛んだ。


 僕はうなずいた。


「見事だ」


 イリスの瞳に、わずかな安堵が浮かんだ。


 だから僕は、続けた。


「では次に、君自身に向ける微笑みを」


 イリスは止まった。


「……私自身、ですか」


「そう」


「それは、どのような場面でしょうか」


「場面はない」


「では、誰のための微笑みですか」


「君のためだよ」


 イリスは困ったように僕を見た。


 他の候補者たちもざわついた。


 無理もない。


 彼女たちは、常に誰かのために表情を作るよう教えられている。


 神のため。


 民衆のため。


 病人のため。


 罪人のため。


 だが、自分のために微笑むことを教えられた者はいない。


「やってごらん」


 僕が言うと、イリスは少しだけ唇を上げた。


 それは、ひどく不自然な表情だった。


 昼間の祈りの時のような神々しさはない。民衆を包む慈悲もない。どこに力を入れればいいか分からないまま、ただ形だけ笑おうとしている。


 初めて見る、下手なイリスだった。


 候補者の一人が小さく息を漏らす。


 ミラが目を見開いた。


 イリスは自分の失敗に気づいたのか、すぐに表情を消した。


「申し訳ありません。もう一度」


「いや」


 僕は言った。


「今のが一番よかった」


 イリスがこちらを見る。


「え……?」


「初めて、君が下手だった」


 僕は彼女の前まで歩いた。


「美しかったよ」


 その言葉に、イリスの頬がかすかに赤くなった。


 聖女候補として褒められた時には一度も見せなかった反応だった。


「下手なのに、美しいのですか」


「そうだよ」


「なぜ」


「君がいたから」


 イリスは黙った。


 その沈黙の中で、彼女の呼吸だけが少し乱れている。


 僕は候補者たち全員に向き直った。


「覚えておきなさい。人は完璧なものだけに心を動かされるわけではない。むしろ、完全に整った表情は時に遠すぎる。少しの揺らぎ、迷い、不器用さ。そこに人は本物を感じる」


 候補者たちは真剣に聞いていた。


 だが僕の言葉は、本当は全員に向けたものではなかった。


 イリスにだけ届けばよかった。


「聖女とは、神ではない。人であることを忘れてはならない」


 大神官がいれば眉をひそめただろう。


 だがその場にオルドはいなかった。


 僕は続けた。


「今日は、それぞれ自分に向ける微笑みを練習する」


 候補者たちに戸惑いが広がった。


 それは、昨日までの訓練ではありえない課題だった。


 聖女候補が自分を見つめる。


 たったそれだけのことが、この場所では小さな反逆になる。


   *


 午前の訓練が終わった後、ミラが僕のもとへ来た。


 黒髪をきつく結んだ、小柄な少女だ。目つきは鋭いが、内側には不安が多い。こういう少女は、努力で自分を支えている。努力を否定されると簡単に崩れるが、努力を認められればいくらでも燃える。


「レオン先生」


「何かな」


「イリスばかり見ているように思います」


 あまりにもまっすぐな言葉だったので、少し面白かった。


「そう見えた?」


「見えました」


「妬いているのかな」


 ミラの顔が赤くなった。


「違います」


「なら?」


「不公平だと思っただけです。私たちも聖女候補です。イリスが一番優れていることは分かっています。でも、先生は彼女の欠点まで特別なもののように扱う」


 よく見ている。


 ミラは落ちこぼれではない。


 ただ、イリスが近くにいるせいで、光が当たらないだけだ。


「君はイリスが嫌い?」


 僕が尋ねると、ミラは言葉に詰まった。


「……嫌いではありません」


「では、好き?」


「それも違います」


「なら、何?」


 ミラは拳を握った。


「悔しいんです」


 いい答えだった。


 僕は少しだけ笑った。


「それは清らかではないね」


 ミラの顔が強ばる。


「分かっています」


「でも、悪くない」


「え?」


「悔しさは力になる。少なくとも、誰にでも同じ微笑みを向けるよりはずっと人間らしい」


 ミラは驚いたように僕を見た。


「君はイリスになりたい?」


「……なれません」


「そうだね。なれない」


 ミラの表情が傷つく。


 けれど、僕は続けた。


「だから、君はイリスになろうとしなくていい」


「では、私はどうすれば」


「君は、君の醜さを隠しすぎている」


 ミラが息を呑んだ。


「醜さ……」


「嫉妬、悔しさ、負けたくない気持ち。そういうものを全部押し込めて、清らかな候補者の顔をしようとしている。だから薄くなる」


「聖女候補は、清らかでなければ」


「清らかに見えるだけなら、誰でもできる」


 僕はイリスの方を見た。


 彼女は離れた場所で、他の候補者に微笑みの角度を教えていた。


 完璧に優しく。


 完璧に穏やかに。


 そして、それを見ているミラの横顔には、苦い感情がにじんでいた。


「ミラ」


「はい」


「君はイリスに勝ちたい?」


 ミラは黙った。


 聖女候補としては、口にしてはいけない願いだ。


 聖女選定は競争ではない、という建前がある。神が選ぶのだから、人間が勝ち負けを考えるものではない。


 だが候補者たちは全員知っている。


 選ばれるのは一人だけだ。


 他の者は、選ばれなかった少女になる。


「……勝ちたいです」


 ミラは言った。


 小さな声だった。


 だが、確かに言った。


「いいね」


 僕はうなずいた。


「その顔を覚えておくといい。君が今まで見せた中で、一番きれいだ」


 ミラは泣きそうな顔をした。


 褒められたことに慣れていないのだろう。


 その時、視線を感じた。


 振り返ると、イリスがこちらを見ていた。


 遠くから。


 静かに。


 表情は微笑みのままだ。


 けれど、その瞳には昨日までなかったものがある。


 不安。


 いや、もっと淡い。


 なぜ先生は、私以外にもあのような言葉をかけるのか。


 まだ言葉にはなっていない。


 けれど、芽は出た。


 僕はわざとミラにもう一言かけた。


「午後の訓練では、君の祈りを見よう。君の悔しさがどんな形になるか、興味がある」


 ミラは深く頭を下げた。


「はい」


 イリスはまだこちらを見ていた。


 僕が視線を返すと、彼女はすぐに微笑んだ。


 聖女らしく。


 何も感じていないように。


 でも遅い。


 僕はもう見ていた。


 彼女の中に、小さな棘が刺さった瞬間を。


   *


 午後の訓練は、祈りの声だった。


 聖女の祈りには、聴く者の状態によって声色を変える必要がある。


 悲しむ者には低く、包むように。


 怒る者には乱されず、静かに。


 不安な民衆には、少しだけ明るく。


 声は言葉より先に届く。


 人は内容よりも、まず音で相手を信じる。


 僕は候補者たちを一人ずつ呼び、同じ祈りの一節を読ませた。


 ミラの番になると、彼女は緊張した顔で前に出た。


「では、ミラ。君を蔑んだ民衆のために祈って」


 ミラの肩が揺れた。


 他の候補者たちも少しざわつく。


 イリスが小さく眉を寄せた。


「蔑んだ、民衆……」


「そう。君を落ちこぼれだと笑い、イリスの影だと囁き、それでも災厄が来れば君に救いを求める人々だ」


 ミラの唇が震えた。


「その人たちを、許せる?」


「許さなければなりません」


「違う」


 僕は首を振った。


「許せるかと聞いている」


 ミラは黙った。


 答えは明らかだった。


 許せるはずがない。


 それでいい。


「そのまま祈って」


「でも」


「清らかでなくていい」


 ミラは目を伏せた。


 そして祈り始めた。


「海の底に眠るものよ」


 声は震えていた。


 美しくはない。


 だが、そこには感情があった。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず……」


 言葉の奥に、悔しさが滲む。


 なぜ私が祈らなければならないのか。


 なぜ私を笑った者まで救わなければならないのか。


 それでも、救いたい。


 いや、救える自分になりたい。


 その矛盾が声の中で揺れていた。


 祈りが終わった時、候補者たちは黙っていた。


 決して完璧ではない。


 けれど、目を逸らせない祈りだった。


「よかった」


 僕は言った。


 ミラは信じられないように顔を上げた。


「本当ですか」


「本当だ。君の祈りには、傷がある。傷のない祈りより、ずっと深く届くことがある」


 ミラの瞳が潤む。


 その瞬間、また視線を感じた。


 イリスだ。


 彼女は今度こそ、微笑んでいなかった。


 ほんのわずかに唇を引き結び、こちらを見ていた。


 僕は彼女の名を呼んだ。


「イリス」


「はい」


 彼女はすぐに表情を整え、前に出る。


「同じ祈りを」


「はい」


「ただし条件を変える」


 僕は言った。


「君を見ていない人々のために祈って」


 イリスが瞬きをした。


「私を、見ていない……?」


「そう。君がどれだけ正しく振る舞っても、どれだけ美しく祈っても、誰も君自身を見ていない。人々が見ているのは聖女候補であって、イリスではない」


 イリスの顔色が、わずかに変わった。


「その人々のために、祈れる?」


「……祈ります」


「許せる?」


 昨日、ミラに向けた問いと同じだった。


 だが、イリスへの刃はもっと深い。


 イリスは答えなかった。


 僕は優しく言った。


「祈って」


 イリスは胸の前で指を重ねた。


 姿勢は完璧。


 声も澄んでいる。


「海の底に眠るものよ」


 美しい声だった。


 だが、昨日とは違う。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず……」


 一節ごとに、何かが揺れている。


 なぜ誰も私を見ないのか。


 私はここにいるのに。


 私はずっと、ここにいたのに。


 祈りの途中、イリスの声がほんの少しだけ掠れた。


 候補者たちが気づく。


 ミラも気づく。


 イリス自身も気づいた。


 彼女はすぐに立て直そうとした。いつもの完璧な声に戻そうとする。


 だが僕は言った。


「戻さなくていい」


 イリスの声が止まる。


「そのまま」


 彼女は僕を見た。


 祈りの最中に目を開けるなど、本来なら許されない。


 けれど、彼女は見た。


 民衆ではなく。


 神でもなく。


 僕を。


 そして続けた。


「今日もこの街に、朝をお与えください」


 その声は、昨日よりもずっと弱かった。


 けれど、ずっと深かった。


 祈り終えた後、聖堂は静まり返っていた。


 イリスは顔を伏せたまま動かない。


 僕は彼女に歩み寄った。


「今の祈りを覚えておくといい」


「……失敗です」


「違う」


「声が乱れました」


「だからいい」


 僕は彼女のすぐ前で立ち止まった。


「初めて、君の声がした」


 イリスは顔を上げた。


 瞳が揺れている。


「私の、声……」


「そう」


 僕は言った。


「今の君は、聖女ではなかった」


 イリスの表情に、痛みが走った。


 けれど同時に、喜びもあった。


 聖女ではない。


 本来なら、候補者にとって最も恐ろしい言葉のはずだ。


 だがイリスは、その言葉に救われたような顔をした。


「私は」


 彼女は小さく言った。


「聖女ではない私でも、祈れるのですか」


「祈れるよ」


「誰に」


「君が選んだ相手に」


 イリスの視線が、僕から離れなかった。


 僕はその視線を受け止めた。


 まだだ。


 まだ早い。


 でも、確実に彼女は近づいている。


 誰にでも向ける祈りから。


 たった一人へ向かう祈りへ。


   *


 その夜、イリスは再び僕の部屋を訪れた。


 昨日と同じように、控えめなノック。


 だが扉を開けた時の彼女は、昨日とは少し違っていた。


 迷いがあった。


 来るべきではないと分かっている。


 しかし来てしまった。


 そういう顔だった。


「眠れないの?」


 僕が尋ねると、イリスは少し驚いたように目を伏せた。


「はい」


「今日の祈りのせい?」


「分かりません」


「分からないことが増えたね」


「……はい」


 イリスは部屋に入った。


 僕は椅子を勧めたが、彼女は座らなかった。


 窓辺に立ち、夜の海を見ている。


「先生は」


 彼女は背を向けたまま言った。


「どうして私に、あのようなことを教えるのですか」


「君に必要だから」


「聖女になるために?」


「君が君になるために」


 イリスは小さく息を吸った。


「それは、悪いことではありませんか」


「なぜ?」


「私は聖女候補です。私自身になることより、聖女になることを考えるべきです」


「本当に?」


 彼女は振り返った。


「違うのですか」


「君はどう思う?」


「私は……」


 言葉が出ない。


 その顔を見るのが好きだった。


 答えを持たないイリス。


 教典にも、神官にも、訓練にも用意されていない問いを前にして、迷っているイリス。


 完璧な聖女候補の中から、少女が顔を出す瞬間。


「先生と話していると」


 彼女は言った。


「私は悪くなっていく気がします」


「悪く?」


「はい」


「たとえば?」


「今日、ミラに嫉妬しました」


 告解のような声だった。


「先生がミラを褒めた時、嫌だと思いました。ミラの祈りを見てほしくないと思いました。先生に、私だけを見てほしいと思いました」


 言ってから、イリスは自分の口を押さえた。


 まるで言葉そのものが罪であるかのように。


「申し訳ありません」


「誰に謝っているの?」


「神に。ミラに。先生に」


「僕には謝らなくていい」


「でも」


「嬉しいよ」


 イリスの動きが止まった。


「嬉しい……?」


「君が初めて、誰か一人を選んだから」


「選んだ?」


「そう。ミラではなく、神でもなく、民衆でもなく、君は僕を見ていた」


 イリスの頬が赤くなる。


「それは、いけないことです」


「どうして?」


「聖女はすべての人を等しく愛さなければなりません」


「では、誰か一人を特別に思うことは罪?」


「……はい」


「なら、君は今、罪を知ったんだね」


 イリスは震えた。


 恐怖ではない。


 いや、恐怖もある。


 だがそれ以上に、彼女はその言葉に惹かれていた。


 罪。


 禁じられたもの。


 自分の中にあってはならないもの。


 けれど、確かに自分の中に生まれたもの。


「私は、どうすればいいのでしょう」


「捨てたい?」


「え?」


「その嫉妬を。僕だけを見てほしいと思った気持ちを。なかったことにしたい?」


 イリスは答えなかった。


 答えられないのではない。


 答えたくないのだ。


 僕は近づいた。


「イリス」


 彼女の名前を呼ぶ。


 聖女候補ではなく。


 ただ、名前だけを。


 彼女は顔を上げた。


「君は、それを美しいと思っている」


 イリスの瞳が大きく開かれた。


「違います」


「本当に?」


「違う、はずです」


「はず?」


「私は……」


 彼女の声が震えた。


「私は、先生に見られた時だけ、自分がここにいる気がするのです」


 部屋の中が静まり返った。


 外では、波が岩を叩いている。


 僕はその言葉を、ゆっくり味わった。


 美しい。


 まだ依存ではない。


 まだ執着でもない。


 けれど、根は伸び始めている。


 彼女は自分の存在を、僕の視線に預けようとしている。


「なら、僕を見て祈ればいい」


 僕は言った。


 イリスは息を止めた。


「そんなことは」


「誰にも言わなければいい」


「神は見ています」


「神ではなく、君は誰に見てほしいの?」


 イリスは何も言わなかった。


 目だけが僕を見ている。


「明日の朝、祭壇で祈る時」


 僕は静かに続けた。


「民衆のためでも、神のためでも、街のためでもなく、一度だけ僕のために祈ってごらん」


「先生のために……」


「そう」


「それは、聖女の祈りではありません」


「だから知りたいんだ」


「何を」


「イリスの祈りを」


 彼女は泣きそうな顔をした。


 だが、涙は落ちなかった。


 イリスはまだ泣くことが下手だった。


「先生は、残酷です」


「そうかもしれない」


「私がそれを望んでしまうと、分かっていておっしゃっている」


「うん」


 僕は否定しなかった。


 イリスは少しだけ笑った。


 それは、聖女の微笑みではなかった。


 弱くて、困っていて、どこか嬉しそうな笑み。


「それでも私は、明日、祈ってしまうと思います」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は確信した。


 ひびはもう、表面だけではない。


 彼女の奥まで届き始めている。


 僕は静かにうなずいた。


「楽しみにしているよ」


 イリスはその言葉を胸に抱くように、目を伏せた。


 そして部屋を出ていった。


 扉が閉まる直前、彼女は小さく言った。


「先生」


「何?」


「明日、私を見ていてください」


 僕は答えた。


「もちろん」


 扉が閉まった。


 僕はしばらく動かなかった。


 窓の外、黒い海の上に月が浮かんでいる。


 その光は冷たく、白く、どこか聖女の衣に似ていた。


 僕は机に向かい、記録に新しい一行を書き加えた。


 ――対象、特定視線への依存傾向。


 ――嫉妬反応、初期発現。


 ――次段階、一対一の祈り。


 ペン先を置いた時、少しだけ手が震えていることに気づいた。


 興奮していた。


 僕はそれを認めた。


 人が壊れる瞬間は、いつも美しい。


 だが、イリスは特別だった。


 彼女はただ壊れるのではない。


 聖女として完成に近づくほど、人間として崩れていく。


 その矛盾が、たまらなく美しい。


 明日、彼女は初めて僕のために祈る。


 その祈りがどんな音を持つのか。


 どんな罪の色をしているのか。


 僕は早く見たかった。


翌朝、大聖堂には雨の匂いが満ちていた。


 夜のうちに降った雨が石畳を濡らし、聖堂の高窓から差し込む光はいつもより鈍かった。ステンドグラスの色も沈み、床に落ちる赤や青は、水に溶けた絵具のようにぼやけている。


 候補者たちは祭壇の前に並んでいた。


 白い衣。


 重ねられた指。


 伏せられたまぶた。


 聖女になるために整えられた少女たち。


 その中で、イリスだけがわずかに違って見えた。


 姿勢も表情も、昨日までと変わらない。背筋はまっすぐで、髪は清らかに結われ、微笑みは静かだった。


 けれど、僕には分かった。


 彼女は僕を探している。


 目は伏せられている。こちらを見てはいない。だが意識だけが、細い糸のようにこちらへ伸びていた。


 僕が聖堂の壁際に立つと、イリスの指先がかすかに動いた。


 それだけだった。


 けれど、それだけで十分だった。


「本日は、朝の祈りから始めます」


 補佐神官が告げた。


 大神官オルドはまだ来ていない。選定が近づき、街の評議会との会合に追われているのだろう。


 僕にとっては都合がよかった。


「昨日と同じ順番で」


 補佐神官の声に従い、候補者たちが一人ずつ祭壇へ進む。


 最初の少女は、丁寧に祈った。


 次の少女は、少し緊張していた。


 ミラは、昨日よりも声が強くなっていた。相変わらず完璧ではない。だが、自分の内側から出てくるものを隠しきれなくなっている。


 悪くない。


 けれど、僕の視線は長く留まらなかった。


 最後に、イリスが進み出た。


 彼女が祭壇の前に膝をつく。


 聖堂が静かになる。


 雨上がりの空気の中で、彼女は白く浮かび上がって見えた。


 手を胸の前で重ね、まぶたを伏せる。


 昨日までなら、ここで彼女は「聖女」になった。


 誰からも愛される顔。


 誰をも愛す声。


 自分自身をどこかに置き去りにして、街全体へ祈りを広げる少女。


 けれど今朝、彼女は違った。


 祈りの前の沈黙が、ほんの少しだけ長い。


 その沈黙の中で、イリスは僕を探していた。


 僕は壁際から彼女を見ていた。


 視線は交わらない。


 だが、彼女は分かっていたはずだ。


 僕が見ていることを。


「海の底に眠るものよ」


 イリスの声が聖堂に落ちた。


 澄んでいた。


 けれど、昨日までのように広くはなかった。


 その声は、街全体へ広がるためのものではない。祭壇から聖堂へ、聖堂から空へ、空から神へ向かうものでもない。


 細く、まっすぐに、ただ一人へ向かっていた。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず」


 補佐神官たちは気づいていない。


 候補者たちも、おそらく完全には分かっていない。


 祈りの形式は正しい。


 言葉も間違っていない。


 表情も穏やかだ。


 だが、その祈りには偏りがあった。


 愛が、片側へ傾いている。


「今日もこの街に、朝をお与えください」


 イリスの声がわずかに震えた。


 彼女はそこで初めて目を開けた。


 祈りの途中で目を開けることは、正しくない。


 だが彼女は開けた。


 そして、僕を見た。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 けれどその瞬間、彼女の祈りは完全に僕のものになった。


 僕は息を忘れた。


 美しい、と思った。


 彼女はすべてを壊したわけではない。まだ誰も気づかない程度の小さな逸脱だ。聖女候補としての形は守っている。だが、その内側だけが決定的に変わっていた。


 万人のための祈り。


 その皮を被った、たった一人への祈り。


 イリスは静かに祈りを終えた。


 聖堂に沈黙が落ちる。


 補佐神官は感心したようにうなずいた。


「見事です、イリス様」


 他の候補者たちも、緊張を解く。


 ミラだけが、少し怪訝そうにイリスを見ていた。


 イリスはいつものように微笑み、頭を下げた。


 だが、その微笑みの下で、彼女は震えていた。


 罪を犯した者の震えではない。


 初めて自分の欲望に触れた者の震えだった。


   *


 訓練が終わった後、僕は中庭にいた。


 雨に濡れた薔薇の葉から、雫が落ちている。


 大聖堂の中庭は、外の街と切り離されたように静かだった。白い回廊に囲まれ、中央には小さな噴水がある。聖女候補たちはよくここで黙想をする。人目があるようで、人目が少ない場所。


 僕は噴水のそばに立ち、朝の祈りを思い返していた。


 イリスの声。


 開かれた瞳。


 僕だけに向けられた祈り。


 彼女は想像以上に早く変わっている。


 危うい。


 だからこそ、美しい。


「先生」


 背後から声がした。


 振り返ると、イリスがいた。


 白い訓練衣の上に薄い外套を羽織っている。濡れた中庭の光の中で、彼女はひどく静かに見えた。


「今朝の祈り」


 彼女は言った。


「先生は、聞いてくださいましたか」


「聞いたよ」


 イリスの唇が少しだけ緩んだ。


「どうでしたか」


「危うかった」


 彼女は目を伏せた。


「やはり、よくありませんでしたか」


「そうじゃない」


 僕は噴水の縁に手を置いた。


「危ういものは、美しい」


 イリスは顔を上げた。


 その瞳に、恐れと期待が同時に浮かんでいる。


「私は、祈っている途中で先生を見てしまいました」


「知っている」


「本当は、目を開けてはいけません」


「そうだね」


「それでも、見てしまいました」


「なぜ?」


 イリスは唇を閉ざした。


 雨上がりの風が彼女の髪を揺らす。


「先生が見ているか、知りたかったのです」


「見ていたよ」


「はい」


 彼女は胸元に手を当てた。


「分かりました」


「分かった?」


「目を閉じていても、先生が見ていると分かりました。けれど、それだけでは足りませんでした」


 彼女の声は小さかった。


「本当に見ているのか、確かめたくなったのです」


 それは、祈りの話ではなかった。


 存在の話だった。


 彼女は、自分が見られているか確かめずにはいられなくなっている。


「イリス」


 僕は彼女の名前を呼んだ。


 彼女はわずかに肩を震わせた。


 名前を呼ばれるたび、彼女の奥で何かが反応する。


 聖女候補としての称号ではなく、ただの名前。


 それが彼女には、毒のように効く。


「今朝の祈りは、誰のためだった?」


 イリスは答えなかった。


 答えは明らかだった。


 それでも、僕は彼女自身の口から聞きたかった。


「街のため?」


「……いいえ」


「神のため?」


「いいえ」


「民衆のため?」


「いいえ」


「では、誰のため?」


 イリスはゆっくり僕を見た。


 青い瞳が濡れているように見えた。


「先生のためです」


 その言葉は、祈りよりも静かだった。


 けれど僕の胸に、深く届いた。


 イリスは続けた。


「先生に聞いてほしくて、祈りました。先生が私を見ていると思うと、声が出ました。神に届くかどうかより、先生に届いているかが気になりました」


 彼女は一度言葉を切った。


「これは、罪ですか」


「君は罪だと思う?」


「思います」


「なら、なぜやめない?」


 イリスは苦しそうに微笑んだ。


「やめたいと、思えないのです」


 僕は目を細めた。


 その答えが聞きたかった。


 罪だと理解している。


 正しくないと分かっている。


 それでもやめられない。


 それはもう、ただの好奇心ではない。


 欲望だ。


「先生」


 イリスは言った。


「私は、聖女になれるのでしょうか」


「なれるよ」


「こんな私でも?」


「むしろ、今の君の方が強く祈れる」


「でも、私は街全体を見ていません」


「誰か一人に向けた祈りが、時に世界を動かすこともある」


 イリスは僕の言葉を飲み込むように黙った。


 僕の言葉は救いではない。


 許しでもない。


 ただ、彼女が堕ちるための階段だ。


 彼女はそのことに気づいているのかもしれない。


 気づいていながら、足を止められないのかもしれない。


「もう一度、祈ってみる?」


 僕が言うと、イリスは驚いた顔をした。


「ここで、ですか」


「ここで」


「誰のために」


「僕のために」


 イリスは周囲を見た。


 中庭には誰もいない。


 回廊の奥に神官が通る気配もない。


 それでも、大聖堂の中であることに変わりはなかった。


 神の庭。


 聖女候補の黙想の場所。


 そこで、街でも神でもなく、一人の男のために祈る。


 イリスは震える息を吐いた。


「……はい」


 彼女は噴水の前に膝をついた。


 白い衣の裾が濡れた石畳に触れる。


 胸の前で指を重ねる。


 まぶたを伏せる。


 だが、今度の彼女は聖女ではなかった。


 祈る前から、すでに祈りの向かう先が決まっている。


「海の底に眠るものよ」


 彼女の声が中庭に響いた。


 聖堂の中で聞いた時よりも近い。


 僕だけのための距離で響く。


「この方の罪を数えず」


 僕は動かなかった。


 イリスは祈りの言葉を変えた。


 教典の定型句ではない。


 街でも我らでもなく、この方。


 つまり、僕。


「この方の弱さを責めず」


 彼女の声が少し震える。


「この方の孤独を、どうか」


 そこで言葉が止まった。


 イリスは何かに気づいたように目を開けた。


「先生は、孤独なのですか」


 唐突な問いだった。


 僕は少しだけ笑った。


「祈りの途中だよ」


「すみません。でも、今、そう思いました」


 イリスは膝をついたまま僕を見上げている。


 その姿勢は、聖女というより信徒のようだった。


 いや、違う。


 信徒は神を見る。


 彼女は僕を見ている。


「先生は、私たちをよく見ています。私が何を隠しているのか、ミラが何を怖がっているのか、すぐに分かってしまう。でも先生自身は、誰にも見られていないように見えます」


 僕は黙った。


「私は、先生のことを何も知りません」


「知る必要はないよ」


「私は知りたいです」


 その声は、昨日までのイリスにはなかったものだった。


 求める声。


 与えられるのを待つのではなく、こちらへ手を伸ばす声。


「なぜ?」


 僕は尋ねた。


「先生のために祈るなら、先生のことを知らなければ祈れません」


 正しい理屈だった。


 そして、危険な理屈でもあった。


 彼女は僕のために祈るために、僕を知りたがっている。


 知ることは、近づくことだ。


 近づくことは、境界を越えることだ。


 僕は、ほんの少しだけ判断を迷った。


 自分のことを語るつもりはなかった。


 僕は観察する側であり、舞台を作る側であり、役者に光を当てる側だ。自分が舞台に上がる必要はない。


 だが、イリスの目は真剣だった。


 ここで拒めば、彼女は傷つくだろう。


 傷つくこと自体は悪くない。


 だが、今はまだ突き放す時ではない。


 今は、与える時だ。


「僕はね」


 僕は静かに言った。


「人が何かを演じている姿が好きなんだ」


 イリスは黙って聞いている。


「優しいふり。強いふり。清らかなふり。平気なふり。人はみんな、何かを演じている。でも長く演じていると、その役が本当の自分のようになっていく」


「それは、悪いことですか」


「悪いとは限らない。ただ、苦しい」


 僕は噴水の水面を見た。


 そこには曇った空と、僕の顔が揺れて映っていた。


「役が心に食い込むと、人は自分が何を望んでいたのか忘れる。笑っているのに楽しくない。祈っているのに救われない。愛していると言いながら、誰も選べない」


 イリスはかすかに目を見開いた。


 自分のことを言われていると分かったのだろう。


「だから僕は、見たいんだ」


「何を」


「役が破れる瞬間を」


 イリスの喉が小さく動いた。


「それは、人が壊れる瞬間ではありませんか」


「そうかもしれない」


「先生は、それを見たいのですか」


 彼女の問いは鋭かった。


 昨日までの彼女なら、決して踏み込まなかったはずの問いだ。


 僕は彼女を見た。


 ここで嘘をつくことは簡単だった。


 君を助けたい。


 本当の君を見つけたい。


 聖女として成長してほしい。


 どれも美しく聞こえる。


 けれど、彼女にはもう届かないだろう。


 イリスは、僕の言葉の裏側を見ようとし始めている。


 ならば、少しだけ本当のことを与えた方がいい。


「見たいよ」


 僕は言った。


 イリスの表情が止まった。


「どうして」


「美しいから」


 沈黙。


 中庭の噴水の音だけが響く。


 イリスはゆっくり立ち上がった。


 膝のあたりが濡れていたが、彼女は気にしていないようだった。


「先生は、私が壊れるところも見たいのですか」


 彼女は静かに尋ねた。


「君が壊れるとは言っていない」


「でも、思っているでしょう」


 僕は答えなかった。


 イリスは一歩近づいた。


「初めて会った日、先生は私を見ていました。私の祈りではなく、私のどこかが壊れるところを探していた」


 よく見ている。


 想定よりもずっと早い。


「怖い?」


 僕は尋ねた。


 イリスは首を横に振らなかった。


 縦にも振らなかった。


 ただ、言った。


「怖いです」


 正直な声だった。


「でも」


 彼女は続けた。


「先生が見てくださるなら、壊れることにも意味があるように思えてしまいます」


 それは、僕が与えた言葉の結果だった。


 君が下手だったから美しい。


 君が乱れたから、君がいた。


 聖女ではない君が祈れる。


 僕は彼女の欠落を肯定し、揺らぎを美しいと言い、罪に名前を与えた。


 その結果、彼女は壊れることすら、僕に見られるための行為だと思い始めている。


 美しい。


 同時に、少しだけ危険だった。


「イリス」


「はい」


「壊れることが目的になってはいけない」


 自分で言って、奇妙な言葉だと思った。


 僕がそれを言うのか。


 だが、彼女は真剣に聞いていた。


「では、何が目的なのですか」


「君が、君の祈りを見つけること」


「それは、先生のための祈りではいけませんか」


 返答が早かった。


 迷いがなかった。


 僕は彼女を見た。


 イリスは微笑んでいなかった。


 まっすぐな顔だった。


「私は、先生のために祈った時、初めて自分の声が聞こえた気がしました」


 彼女は胸元に手を置いた。


「街のために祈る時、私は正しい言葉を選びます。神のために祈る時、教えられた姿勢を守ります。民衆のために祈る時、誰もが安心する顔をします」


 そこで彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。


 悲しげな笑みだった。


「でも先生のために祈る時、私は先生が聞いてくださるかだけを考えます。先生に届くように、先生が私を見失わないように、先生の中に私の声が残るように」


 それはもう祈りではなく、願望だった。


「だから、私は」


 イリスは言った。


「先生のために祈りたいです」


 中庭の空気が冷たくなる。


 僕は、彼女の言葉を慎重に受け止めた。


 ここで肯定すれば、彼女はさらに深く踏み込む。


 否定すれば、彼女はもっと強く求めるかもしれない。


 どちらでもいい。


 いや、どちらでもよくはない。


 僕は初めて、少しだけ迷っていた。


 迷いは不快だった。


 今まで、人の心の扱いで迷うことなどほとんどなかった。相手が何を求め、何を恐れ、何を与えればこちらへ傾くか。たいていは分かった。


 だがイリスは、僕が思っていたよりも純粋に堕ちている。


 純粋なものは、時に計算を追い越す。


「いいよ」


 僕は結局、そう言った。


 イリスの顔に光が差したようだった。


「本当ですか」


「ただし、誰にも知られてはいけない」


「はい」


「君は聖女候補だ。表では街のために祈る。神のために微笑む。民衆のために清らかでいる」


「はい」


「そして、その裏で」


 僕は静かに言った。


「僕のために祈ればいい」


 イリスは目を閉じた。


 その表情は、まるで祝福を受けているようだった。


「ありがとうございます」


 彼女は言った。


「私は、きっと上手に隠します」


 その言葉に、僕は少しだけ胸騒ぎを覚えた。


 上手に隠す。


 聖女の顔の下に、僕への祈りを隠す。


 それは、僕が望んだことだった。


 だが彼女の声には、奇妙な熱があった。


 隠し持つことの喜び。


 誰にも知られない秘密を、僕と共有する喜び。


 秘密は依存を深くする。


 共有された罪は、二人だけの世界を作る。


 僕はそれを知っていた。


 知っていて、彼女に与えた。


   *


 それから数日、イリスの祈りは変化し続けた。


 表面上は、以前よりも聖女らしくなった。


 声は深くなり、微笑みには揺らぎが加わり、民衆に向ける視線には確かな温度が宿った。候補者たちの中で、彼女はますます抜きん出ていった。


 補佐神官たちは喜んだ。


「イリス様の祈りには、以前にも増して心があります」


「まるで本当に初代聖女の再来のようだ」


「レオン先生の指導のおかげです」


 彼らは何も知らない。


 イリスの祈りが深くなった理由を。


 彼女が街を愛し始めたからではない。


 神の声を聞いたからでもない。


 彼女は、僕に届く声を探しているだけだった。


 聖堂で祈る時、彼女は民衆全体へ言葉を向ける。


 だが、声の芯はいつも僕に向いている。


 まるで花が太陽を探すように。


 彼女は僕の視線を探し、その視線に触れるたび、祈りを強くした。


 一方で、ミラもまた変わり始めていた。


 彼女は自分の嫉妬を隠さなくなった。


 イリスへの悔しさを祈りに込めることで、以前よりも存在感を増している。


 候補者たちの間には、少しずつ緊張が生まれていた。


 特にミラとイリス。


 この二人の間には、見えない刃のようなものが張られていた。


 ある午後、聖歌の訓練中にそれは表面化した。


 大聖堂の小礼拝堂で、候補者たちは聖歌を練習していた。


 聖女選定の儀式では、最終候補者が祭壇の上で祈りの歌を捧げる。歌は祈力を増幅させるため、非常に重要だ。


 イリスの歌声は、相変わらず完璧だった。


 白い鳥が空へ昇っていくような声。


 誰もが聞き惚れる。


 ミラはその後に歌った。


 声量は足りない。音程も少し不安定だ。だが、胸の奥に刺さるような切実さがあった。


 僕はミラに言った。


「よくなったね」


 ミラの顔が明るくなる。


「本当ですか」


「君の歌には、痛みがある。それを消さない方がいい」


 ミラは深くうなずいた。


「はい」


 その時、イリスが静かに言った。


「先生は、痛みのあるものがお好きなのですね」


 小礼拝堂の空気が止まった。


 声は穏やかだった。


 だが、その奥に何かがあった。


 ミラがイリスを見る。


 候補者たちも顔を上げる。


 僕はイリスを見た。


「そうだね」


 僕は答えた。


「痛みは、人を本物に近づけることがある」


「では」


 イリスは微笑んだ。


「私は、まだ痛みが足りませんか」


 それは、自分を傷つけようとする者の声ではなかった。


 もっと静かで、もっと危うい。


 僕に好かれるために、痛みすら欲しがる声だった。


「イリス」


 僕は少し強めに名を呼んだ。


 彼女はすぐに頭を下げた。


「申し訳ありません。変なことを言いました」


 表情は整っている。


 だが、彼女の目はミラの方へ一瞬だけ向いた。


 その視線を、ミラは見逃さなかった。


 訓練後、ミラは小礼拝堂に残ったイリスに近づいた。


 僕は少し離れた場所で、二人を見ていた。


 止めるつもりはなかった。


「あなた、変わったわ」


 ミラが言った。


 イリスは聖歌の楽譜を閉じた。


「そうでしょうか」


「ええ。前よりずっと聖女らしくなった。でも、前よりずっと気味が悪い」


 候補者の一人が息を呑んだ。


 イリスは怒らなかった。


 ただ、静かにミラを見た。


「気味が悪い、ですか」


「先生を見る目が変よ」


 その言葉に、イリスの指が楽譜の端を強く押さえた。


「私は、先生を尊敬しています」


「嘘」


 ミラは即座に言った。


「それは尊敬じゃない。もっと別のものよ」


「あなたに何が分かるのですか」


 イリスの声はまだ穏やかだった。


 だが、その穏やかさが逆に怖かった。


 ミラは怯まなかった。


「分かるわ。私も先生に見てほしいもの」


 その瞬間、イリスの表情が消えた。


 完全に。


 聖女の微笑みも、候補者としての礼儀も、何もない。


 ただ一人の少女が、そこに立っていた。


「先生に?」


 イリスが尋ねた。


「ええ」


 ミラは挑むように言った。


「先生は私の醜さを認めてくれた。私の悔しさをきれいだと言ってくれた。だから私は、もっと見てほしい」


 イリスは黙っていた。


 長い沈黙。


 やがて彼女は、ゆっくり微笑んだ。


 それは、聖女の微笑みだった。


 完璧で、清らかで、優しい。


 だからこそ、恐ろしかった。


「ミラ」


「何」


「あなたの祈りは、確かに以前よりよくなりました」


 イリスは穏やかに言った。


「けれど、先生が本当に聞いてくださっていると思いますか」


 ミラの顔色が変わった。


「どういう意味」


「先生は優しい方です。あなたの傷を見つけ、言葉を与えてくださった。けれど、それはあなたを選んだという意味ではありません」


 ミラの唇が震える。


「あなたに、そんなこと」


「分かります」


 イリスは言った。


「だって先生は、私を見てくださっていますから」


 静かな宣言だった。


 ミラが一歩後ずさる。


「あなた……」


「私だけとは言いません。先生は多くの人をご覧になります。あなたのことも、他の候補者のことも。でも」


 イリスは目を細めた。


「先生の視線が、最後に戻ってくる場所は私です」


 その言葉を聞いた時、僕は背筋に冷たいものを感じた。


 傲慢ではない。


 勝利宣言でもない。


 イリスは本気でそう信じている。


 いや、信じたがっている。


 僕の視線が戻る場所。


 自分こそが、僕の観察の中心であるという確信。


 それは、僕が与えた特別扱いの結果だった。


 ミラの目に涙が浮かんだ。


「最低」


 彼女は言った。


「あなた、もう聖女なんかじゃない」


 イリスの微笑みが少しだけ深くなった。


「そうかもしれません」


 否定しなかった。


 ミラは言葉を失った。


 イリスは続けた。


「でも、私は初めて、聖女ではない私を惜しいと思えたのです」


 小礼拝堂に沈黙が落ちた。


 僕は二人の間へ歩いた。


「そこまで」


 ミラは僕を見るなり、悔しそうに顔を伏せた。


「先生」


 イリスはいつものように頭を下げた。


 だが、僕には分かった。


 彼女は勝ったと思っている。


 ミラよりも優れているからではない。


 聖女に近いからでもない。


 僕に近いと思っているから。


「今日の訓練は終わりにしよう」


 候補者たちは一礼し、次々に小礼拝堂を出ていった。


 ミラも最後に出ていく。


 すれ違う時、彼女は僕を見なかった。


 残ったのは、僕とイリスだけだった。


「今の言葉」


 僕は言った。


「聖女候補としては、よくなかった」


「はい」


 イリスは素直に認めた。


「分かっています」


「なら、なぜ言った」


「ミラが、先生に見てほしいと言ったからです」


「それだけ?」


「それだけです」


 彼女の声は静かだった。


 僕は彼女の前に立った。


「誰かが僕に見られることが、そんなに嫌?」


 イリスは目を伏せた。


「嫌です」


 あまりにも正直な答えだった。


「先生が誰を見るかは、先生の自由です。私はそれを止める権利がありません。分かっています。分かっているのに、嫌なのです」


 彼女は両手を胸の前で握りしめた。


「先生がミラを褒めた時、胸の奥が冷たくなりました。私の知らない先生が、ミラの前にいるような気がしました」


「僕は同じ僕だよ」


「違います」


 イリスは即座に言った。


「私を見る時の先生と、ミラを見る時の先生は違います」


 僕は黙った。


「先生は、私を壊れるものとして見ています」


 彼女は言った。


「ミラを、傷のあるものとして見ています。きっと他の候補者も、それぞれ違うものとして見ているのでしょう」


「そうだね」


「それが嫌です」


 イリスは顔を上げた。


「先生の中に、私以外の場所があることが嫌です」


 静かな告白だった。


 嫉妬。


 独占欲。


 恐れ。


 それらがまだ整えられていない言葉のまま、彼女の中から出てきている。


「イリス」


 僕は言った。


「それは聖女の感情ではない」


「はい」


「清らかでもない」


「はい」


「醜いかもしれない」


「はい」


「それでも、捨てたくない?」


 イリスは迷わなかった。


「捨てたくありません」


 僕は彼女を見つめた。


 彼女はもう、引き返せないところまで来ている。


 いや、正確には、引き返す道はある。


 だが彼女自身がそれを選ばない。


「なぜ?」


 僕は尋ねた。


「それが、私のものだからです」


 その答えに、僕は何も言えなかった。


 彼女は続けた。


「私が誰かを妬むことも、先生に見てほしいと思うことも、先生が私以外を見るのを嫌だと思うことも。全部、私の中から出てきたものです」


 彼女の声は震えていた。


「私は今まで、神にふさわしい感情だけを持つように教えられました。優しさ、慈悲、許し、祈り。でも先生は、私の中にあるそれ以外のものを見つけました」


 イリスは僕を見た。


「だから、捨てられません」


 その瞳はもう湖ではなかった。


 深く、暗く、底が見えない。


 僕はゆっくり息を吐いた。


「君は強いね」


 イリスは少し悲しそうに笑った。


「先生がそう言うなら、そうなのでしょう」


「僕の言葉を信じすぎるのは危険だよ」


「それでも、先生の言葉でなければ、私は私を信じられません」


 その瞬間、僕の胸の奥で何かがわずかに軋んだ。


 美しい。


 だが、重い。


 彼女は僕の視線だけではなく、僕の言葉に自分の存在を預け始めている。


 それは、僕が望んだ形に近い。


 近すぎる。


「今日はもう休みなさい」


 僕は言った。


 イリスは少しだけ不満そうに見えた。


「先生は、怒っていますか」


「怒っていない」


「では、失望しましたか」


「していない」


「本当に?」


「本当だよ」


 イリスはじっと僕を見た。


 確かめるように。


 嘘を探すように。


「では、明日も私を見てくださいますか」


「見るよ」


「ミラよりも?」


 問いは鋭かった。


 僕は答えなかった。


 答えないことで、彼女がどう反応するか見たかった。


 イリスの表情に、かすかな痛みが走る。


 だがすぐに彼女は微笑んだ。


「すみません。困らせることを聞きました」


「イリス」


「はい」


「嫉妬を覚えるのは悪くない。でも、それに飲まれると祈りが濁る」


「濁ってはいけませんか」


「濁り方による」


 イリスは少しだけ首を傾けた。


「先生は本当に、清らかなものだけがお好きではないのですね」


「清らかなだけのものは退屈だから」


「では、私は」


 彼女は一歩近づいた。


「退屈ではありませんか」


 その問いの中には、幼い不安と、女の独占欲が混じっていた。


 僕は答えた。


「退屈ではないよ」


 イリスは目を伏せた。


 ほっとしたように。


 満たされたように。


 そして、かすかに歪んだように。


「よかった」


 彼女はそう言った。


 ただそれだけなのに、祈りよりも深く響いた。


   *


 その夜、大神官オルドに呼び出された。


 大聖堂の奥、執務室。


 壁一面に教典と記録が並び、机の上には聖女選定に関する書類が積まれていた。窓の外には夜の海が見える。黒い霧が、断崖の下からゆっくり這い上がっていた。


「クラウス殿」


 オルドは椅子に座ったまま僕を迎えた。


「候補者たちの成長は目覚ましい。特にイリスの祈りは、以前よりも深みを増した」


「それは何よりです」


「しかし」


 老人の目が細くなる。


「何かが変わった」


 僕は黙っていた。


「祈力の測定値が上昇している。声に宿る力も強い。民衆の前に出せば、間違いなく支持を得るだろう。だが、質が違う」


「質?」


「以前のイリスの祈りは、広かった。街全体を包むようだった。だが今は、深すぎる。まるで一点に穴を掘るような祈りだ」


 やはり、この老人は気づく。


 神官たちは鈍くても、大神官は違う。


 長年、祈りを見てきた人間の感覚だろう。


「それは悪いことでしょうか」


 僕は尋ねた。


「祈力が高まっているなら、選定には有利なはずです」


「聖女の祈りは、誰か一人に向けるものではない」


 オルドの声は静かだった。


「それが誰であれな」


 僕は目を伏せた。


「私が何かしたと?」


「したのだろう」


 老人は即答した。


「君は人を動かす術を知っている。だから呼んだ。だが、動かし方を誤れば、聖女候補の心は壊れる」


「心が動かなければ、祈りも動きません」


「心を動かすことと、乱すことは違う」


「時には乱れの中にこそ、本当の祈りがある」


 オルドはしばらく僕を見ていた。


 その目には怒りよりも、警戒があった。


「君は危ういことを言う」


「よく言われます」


「冗談ではない」


「冗談のつもりもありません」


 沈黙。


 黒い霧が窓の向こうで揺れている。


 オルドは深く息を吐いた。


「聖女とは、個人であってはならない」


「人間なのに?」


「そうだ」


 老人は言った。


「人間であることを捨てるから、聖女になれる」


 僕はその言葉を、心の中で味わった。


 ひどい言葉だ。


 けれど、正直な言葉でもある。


「街を守るためには、そうするしかない」


 オルドは続けた。


「ルーヴェンは美しい街だ。だが、この街は聖女の祈りなしには生きられない。結界が弱まれば、海の霧が上がる。霧の中にいるものが戻ってくる」


「災厄、ですか」


「君は信じていない顔をしているな」


「見たことがありませんので」


「見ない方がいい」


 老人の声には、重みがあった。


 それは演技ではない。


 この男は何かを見ている。


 過去に。


 あるいは、記録の中で。


「聖女が乱れれば、街が危うくなる」


「イリスは強くなっています」


「一点に強いだけでは、結界にはならない」


 オルドは机の上の書類を一枚手に取った。


「選定まで残り十日。これ以上、候補者たちに余計な揺さぶりをかけることは控えてもらいたい」


「承知しました」


 僕はそう答えた。


 だがオルドは、僕の返事を信じていないようだった。


「クラウス殿」


「はい」


「君はイリスをどうしたい」


 真正面からの問いだった。


 僕は少し考えた。


 聖女にしたい。


 完成させたい。


 壊したい。


 見たい。


 どれも正しく、どれも足りない。


「彼女の祈りを完成させたい」


 僕は言った。


「それが聖女の祈りでなくても?」


 オルドの目が鋭くなった。


 僕は微笑んだ。


「聖女にふさわしい形へ整えます」


「そうしてくれ」


 老人は疲れたように言った。


「君の芸術のために、この街を賭けるわけにはいかない」


 その言葉に、僕は初めて少しだけ笑いそうになった。


 芸術。


 やはり、彼は分かっている。


「肝に銘じます」


 僕は頭を下げ、執務室を出た。


 廊下は暗かった。


 燭台の火が揺れている。


 その先に、白い影が立っていた。


 イリスだった。


「先生」


 彼女は静かに言った。


「大神官様と、何を話していたのですか」


 僕は足を止めた。


「盗み聞き?」


「いいえ」


 彼女は首を横に振った。


「先生が呼ばれたと聞いて、待っていました」


「なぜ?」


「不安だったからです」


「何が?」


「先生が、私から離されるのではないかと」


 廊下の燭火が、彼女の横顔を照らしていた。


 白く、清らかで、どこか病的に美しい。


「イリス」


 僕は言った。


「夜に一人でここへ来るのはよくない」


「はい」


「候補者としても、噂になる」


「はい」


「分かっていて来た?」


「はい」


 返事には迷いがなかった。


 僕は彼女を見た。


「大神官は、君の祈りの変化に気づいている」


 イリスの瞳が揺れた。


「私が悪いのですね」


「そうは言っていない」


「では、先生が責められたのですか」


「少しね」


 イリスの表情が変わった。


 怒りだった。


 初めて見る、はっきりとした怒り。


「なぜ」


「彼は街を守る立場だ」


「先生は、私に祈りを教えてくださっているだけです」


「その祈りが、彼らの望む形と違う」


「では、私が戻ればいいのですか」


 イリスは言った。


「以前のように、誰にでも同じ微笑みを向けて、誰にも届かない声で祈ればいいのですか」


 声が震えている。


「そうすれば、先生は責められませんか」


「イリス」


「できません」


 彼女は首を横に振った。


「もう、できません。私は先生に見られる祈りを知ってしまいました。先生のために祈ることを知ってしまいました。今さら、何も知らなかった頃の私には戻れません」


 その言葉は、暗い廊下に静かに響いた。


「戻れと言ったら?」


 僕は尋ねた。


 彼女は僕を見た。


 長い沈黙の後、言った。


「先生がそう望むなら、戻るふりをします」


「ふり?」


「はい」


 イリスは微笑んだ。


 それは、ぞっとするほど美しい聖女の微笑みだった。


「皆の前では、以前の私に戻ります。でも心の中では、先生のために祈ります」


 彼女は一歩近づいた。


「誰にも分からないように。神にも、大神官様にも、ミラにも」


「神には分かるかもしれない」


「それでも構いません」


 イリスは言った。


「もし神が先生への祈りを罪だと言うなら、私は罪のまま祈ります」


 僕は彼女を見つめた。


 さっきまで、僕は彼女を制御できていると思っていた。


 いや、今でもできているのかもしれない。


 彼女は僕の言葉を求め、僕の視線に反応し、僕の望む形に自分を変えようとしている。


 だが、何かが違う。


 彼女は僕の与えた方向へ進んでいる。


 しかし速度を決めているのは、もう彼女自身だ。


「先生」


 イリスは言った。


「私を見捨てないでください」


「見捨てないよ」


「本当に?」


「本当だ」


「では、私が聖女でなくなっても?」


「見ている」


「私が罪を犯しても?」


「見ている」


「私が、先生の望まないものになっても?」


 その問いに、僕は一瞬だけ答えを遅らせた。


 イリスはそれを見逃さなかった。


 彼女の瞳に、影が落ちる。


「先生にも、望まない私があるのですね」


「誰にでもある」


「私が先生を困らせるようになったら、先生は私を見なくなりますか」


「ならない」


「嘘ではありませんか」


「嘘ではない」


 彼女はじっと僕を見ていた。


 確かめるように。


 縋るように。


 責めるように。


「約束してください」


 イリスは言った。


「何を」


「最後まで、私を見ると」


 廊下の空気が冷えた。


 最後まで。


 その言葉には、選定の日までという意味以上のものが含まれていた。


 彼女自身も、それを分かっていたのだろう。


 僕は答えた。


「約束する」


 イリスは目を閉じた。


 ひどく安堵したように。


 そして、静かに笑った。


「よかった」


 また、その言葉。


 だが今夜の「よかった」は、以前より深かった。


 底が見えなかった。


「これで私は、安心して壊れられます」


 彼女はそう言った。


 僕はその言葉を聞いて、初めてはっきりと寒気を覚えた。


これで私は、安心して壊れられます。


 イリスのその言葉は、翌日になっても僕の中に残っていた。


 朝の鐘が鳴り、候補者たちが祈りの訓練を始めても。昼の聖歌が大聖堂に響き、神官たちが選定儀式の準備に追われても。夜の海から霧が上がり、街の灯がひとつずつ淡く滲んでも。


 あの言葉だけが、消えなかった。


 安心して壊れられる。


 人は、普通そんな言い方をしない。


 壊れることは恐れるものだ。避けるものだ。少なくとも、自分から望むものではない。


 けれどイリスは違った。


 彼女にとって壊れることは、もはや破滅ではなく、僕に見届けられるための行為になっていた。


 僕は彼女に、そう教えてしまった。


 歪んだ感情も美しいと。


 罪の中にこそ本当の声があると。


 聖女ではない君を見ていると。


 その結果、彼女は聖女でなくなることを恐れなくなった。


 むしろ、それを僕への証明にしようとしている。


 君が見たがったものを、私は見せてあげる。


 そう言われている気がした。


   *


 聖女選定まで、残り三日。


 ルーヴェンの街は祭りの前のようにざわついていた。


 坂道には白い旗が並び、家々の窓には聖女の紋章が飾られた。市場では祈りの蝋燭が売られ、子どもたちは候補者たちの名前を口にしては、誰が聖女になるかを楽しげに言い合っている。


 人々は知らない。


 自分たちが希望として見上げている少女の内側で、何が起きているのかを。


 大聖堂では、最後の公開祈祷が行われることになっていた。


 選定前に、候補者たちが民衆の前で祈る最後の機会だ。


 広場には多くの人が集まっていた。


 病人を抱えた母親。


 海で家族を失った老人。


 商人。


 漁師。


 兵士。


 子ども。


 彼らは聖女候補たちに救いを求めていた。


 誰かが選ばれ、百年前のように街を守ってくれることを信じていた。


 候補者たちは、大聖堂の階段上に並んだ。


 イリスは中央にいた。


 白い衣に銀の帯。


 髪には小さな真珠が編み込まれ、額には聖女候補の印である薄い金の輪をつけている。


 美しかった。


 誰もが彼女を見る。


 彼女を見て、ああ、この方こそ聖女だと思う。


 その視線が、広場中から彼女に集まっていた。


 だがイリスは、民衆を見ていなかった。


 少なくとも、心では。


 彼女の目は広場をゆっくりなぞる。


 病人にも、子どもにも、老人にも、平等に慈悲を向ける。


 だが、その奥にある意識は、僕を探していた。


 僕は階段の脇、神官たちの後ろに立っていた。


 イリスの視線が一瞬、僕に触れる。


 その瞬間、彼女の微笑みがほんのわずかに深くなった。


 誰にも分からない。


 僕だけが分かる。


 それは、聖女の微笑みではない。


 僕に見つけてもらった少女の微笑みだった。


「候補者イリス・ヴェルネ」


 大神官オルドの声が広場に響いた。


「祈りを」


 イリスは一歩前に出た。


 民衆のざわめきが静まる。


 風が吹き、白い衣の裾が揺れた。


 彼女は両手を胸の前で重ねた。


 そして祈り始めた。


「海の底に眠るものよ」


 その声は、広場の隅々まで届いた。


 澄みきっていて、深くて、痛いほど美しかった。


 人々の顔から不安が薄れていく。


 泣き出す者もいた。


 跪く者もいた。


 祈りには、確かに力があった。


 イリスは強くなっていた。


 以前よりもずっと。


 ただし、その力は清らかさから生まれたものではなかった。


 隠された罪。


 共有された秘密。


 誰にも見せない執着。


 それらが彼女の声に深みを与えていた。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず」


 広場の空気が震えた。


 大聖堂の鐘が、鳴っていないのに微かに揺れた。


 オルドが表情を変える。


 祈力が反応している。


 強すぎるほどに。


 民衆はそれを奇跡だと思った。


 だが僕は、違うものを見ていた。


 祈りの中心。


 そこにある小さな歪み。


 イリスの声は街全体を包んでいるように聞こえる。


 けれど、その根は僕に絡みついている。


 彼女は僕を起点にして、世界へ祈っている。


 僕がいなければ、この祈りは立ち上がらない。


 そう感じた瞬間、胸の奥に奇妙な重さが生まれた。


 誇らしさではない。


 恐怖に近かった。


 祈りが終わる。


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、広場に歓声が広がった。


「聖女だ」


 誰かが叫んだ。


「イリス様こそ聖女だ」


 その声は波のように広がった。


 民衆はイリスの名を呼んだ。


 イリス。


 イリス。


 イリス。


 彼女は微笑み、静かに頭を下げる。


 完璧な姿だった。


 だが僕だけが見ていた。


 頭を下げる直前、彼女が僕を見たことを。


 民衆に讃えられながら、彼女は僕だけに問うていた。


 今の私は、美しかったですか。


 その目は、そう言っていた。


   *


 公開祈祷の後、イリスはほぼ聖女に決まったも同然だった。


 神官たちの間では、すでに彼女を選ぶ空気が固まっていた。


 ミラは、明らかに候補から遠ざけられていた。


 彼女の祈りは強くなったが、イリスには届かなかった。


 いや、届かないようにされた。


 聖女に求められるのは、傷そのものではない。


 傷を包み隠し、清らかに見せる力だ。


 その点で、イリスは圧倒的だった。


 ミラはある夜、僕の部屋に来た。


 彼女は泣いてはいなかった。


 だが、目の奥が赤かった。


「先生」


「どうしたの」


「私は選ばれませんね」


 あまりにも直接的な言葉だった。


 僕は否定しなかった。


「可能性は低い」


 ミラは小さく笑った。


「先生は優しい嘘をつかないんですね」


「時と場合によるよ」


「私には、つかないんですか」


「君は嘘を嫌いそうだから」


 ミラは黙った。


 しばらくして、静かに言った。


「イリスは、おかしいです」


「そう見える?」


「見えます。神官たちは気づいていない。民衆も気づいていない。でも、私は分かります」


 彼女は拳を握った。


「イリスは街のために祈っていません」


 僕は何も言わなかった。


「先生のために祈っています」


 ミラの声は震えていた。


 悔しさ。


 嫉妬。


 恐怖。


 そして、少しの哀れみ。


「先生も、分かっているんでしょう」


「分かっているよ」


「なら、止めないんですか」


「なぜ止める必要がある?」


 ミラは僕を睨んだ。


「本気で言っているんですか」


「本気だよ」


「あの子は聖女になるんですよ。この街のために祈らなければいけない人なんです。それなのに、あの子の祈りは先生一人に向いている」


「それでも祈力は強い」


「そういう問題ではありません」


 ミラは初めて声を荒げた。


「先生はイリスを壊しています」


「壊れるものを無理に止めることが、救いとは限らない」


「違います」


 ミラは首を振った。


「先生は救おうとしていない。見ているだけです。あの子が壊れていくのを、美しいと思いながら」


 その言葉は、正しかった。


 あまりにも正しかった。


 だから僕は、少しだけ黙った。


「ミラ」


「はい」


「君はイリスを憎んでいる?」


 ミラは答えようとして、できなかった。


 やがて、首を横に振った。


「憎んでいたと思います。ずっと。あの子ばかりが選ばれて、あの子ばかりが見られて、私は影のように扱われたから」


 彼女は唇を噛んだ。


「でも今は、怖いです」


「イリスが?」


「いいえ」


 ミラは僕を見た。


「先生が」


 部屋の空気が静かになった。


「先生は、誰かが自分のために壊れることを望んでいる。なのに、壊れた後のことを考えていない」


 ミラは言った。


「イリスはたぶん、先生が思っているよりずっと遠くまで行きます」


「遠く?」


「あの子はもう、聖女になりたいんじゃありません」


 ミラの声が低くなった。


「先生に見られるものになりたいんです」


 僕は黙っていた。


「それが聖女なら、聖女になる。罪人なら、罪人になる。怪物なら、怪物になる」


 ミラの言葉は、僕の中に深く刺さった。


 僕はずっと、イリスを観察しているつもりだった。


 けれどミラもまた、イリスを見ていた。


 嫉妬の位置から。


 敗者の位置から。


 だからこそ、僕とは違うものが見えていた。


「先生」


 ミラは言った。


「まだ間に合うなら、止めてください」


「君はそれを望むの?」


「はい」


「イリスが聖女にならなければ、君に機会が戻るかもしれない」


 ミラは苦しそうに笑った。


「そう考えられたら、まだ楽でした」


「違う?」


「私は、あの子に負けたままでいいです」


 その言葉に、僕は少し驚いた。


 ミラは続けた。


「でも、あの子が先生のためだけに全部を捨てるのは、嫌です」


「なぜ」


「私たちは、ずっと何かになるために育てられてきました。聖女候補。神に仕える者。街の希望。そういう役を押しつけられてきた」


 彼女の目に涙が浮かぶ。


「イリスはやっと、そこから逃げ出そうとしているのかもしれない。でも逃げた先が先生の中なら、同じです。あの子はまた、誰かのための人形になるだけです」


 僕は何も言えなかった。


 ミラは深く頭を下げた。


「失礼しました」


 彼女は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 その音が、妙に大きく響いた。


 僕はしばらく立ったままだった。


 イリスを止める。


 その考えが、初めて現実のものとして僕の前に立った。


 僕は、見たいと思っていた。


 聖女が、たった一人を選んで壊れる姿を。


 万人を愛するように作られた少女が、僕だけに祈る姿を。


 そのために、言葉を与えた。


 秘密を与えた。


 罪を肯定した。


 しかし、ミラの言葉は正しかった。


 僕は壊れた後のことを考えていなかった。


 美しい崩壊。


 その先に何があるのか。


 僕は見ようとしていなかった。


   *


 選定前夜。


 ルーヴェンは霧に沈んでいた。


 海から上がった黒い霧が坂道を這い、広場の石像の足元まで覆っている。街の灯はぼんやり霞み、大聖堂の尖塔だけが霧の上に白く浮かんでいた。


 その夜、イリスは来なかった。


 いつもなら訓練後、あるいは夜の祈りの後に、何かしら理由をつけて僕の前に現れる。祈りについて聞きたい。微笑みの確認をしたい。明日の段取りを知りたい。


 本当は、僕に見てほしいだけなのだと分かっていた。


 だが、その夜は来なかった。


 僕は部屋で待っていたわけではない。


 待っていないつもりだった。


 それでも、扉の外で足音がするたび、意識が向いた。


 来ない。


 そのことに、なぜか落ち着かなかった。


 深夜近くになって、僕は部屋を出た。


 廊下は静かだった。


 大聖堂の奥へ進むと、かすかな歌声が聞こえた。


 聖歌ではない。


 もっと低く、細く、祈りに近い声。


 声のする方へ歩く。


 たどり着いたのは、古い礼拝堂だった。


 今は使われていない、小さな祈りの部屋。壁の絵は剥がれ、祭壇の蝋燭は半分溶けている。窓の外には黒い霧が貼りつき、月も星も見えなかった。


 その中央に、イリスがいた。


 白い選定衣を身にまとっている。


 明日の儀式で着るはずの衣。


 まだ誰にも見せてはいけないものだ。


「イリス」


 僕が呼ぶと、彼女は振り返った。


 その顔を見た瞬間、僕は言葉を失った。


 彼女は泣いていた。


 けれど、泣き方が分からない子どものように、涙だけが静かに頬を伝っていた。


「先生」


 彼女は微笑んだ。


 涙を流しながら、完璧に微笑んだ。


「来てくださったのですね」


「何をしている」


「明日の練習です」


「こんな時間に?」


「はい」


 イリスは祭壇の前に立った。


「明日、私は聖女になります」


「まだ決まったわけではない」


「決まっています」


 彼女は静かに言った。


「神官たちは私を選ぶでしょう。民衆も私を望んでいます。ミラも、もう分かっています」


「それで?」


「だから、今夜のうちに決めておきたかったのです」


「何を」


「私は明日、誰のために祈るのか」


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


「街のためだ」


 僕は言った。


 イリスは微笑んだまま、首を傾けた。


「先生が、それをおっしゃるのですか」


「そうだ」


「私に、誰にでも届く祈りは退屈だと教えた先生が?」


「退屈でも、必要なものはある」


「必要」


 イリスはその言葉を繰り返した。


「私はずっと、必要なものになるために生きてきました」


 彼女は祭壇に手を置いた。


「街に必要な聖女。神官に必要な候補者。民衆に必要な希望。誰かに必要とされる形だけを与えられて、その形からはみ出さないように育てられました」


 彼女の声は静かだった。


 静かすぎて、怖かった。


「先生だけが、私に別の形をくれました」


「イリス」


「先生は、私を見てくださいました。聖女ではない私を。嫉妬する私を。醜い私を。先生だけを見たい私を」


「それは」


「先生が作ったのです」


 彼女は僕を見た。


「違いますか」


 僕は答えられなかった。


 違わない。


 僕が作った。


 少なくとも、僕が掘り起こした。


 彼女の中に眠っていたものに名をつけ、光を当て、美しいと言った。


 すると彼女は、それを自分の宝物のように抱きしめてしまった。


「私は、明日、街のために祈るべきなのでしょう」


 イリスは言った。


「神官たちはそれを望みます。民衆もそれを望みます。神も、きっと」


「そうだ」


「でも、私はもう知っています」


 彼女は一歩、僕に近づいた。


「先生のために祈る時の方が、私の声は強くなる」


 僕は否定できなかった。


「先生を見ている時の方が、私は私でいられる」


「それは錯覚だ」


 ようやく僕は言った。


「君は僕を通して自分を見ているだけだ」


「それでもいいです」


「よくない」


「なぜですか」


「僕が消えたら、君も消えることになる」


 イリスは少しだけ笑った。


「では、消えないでください」


 単純な答え。


 そして、逃げ道のない答え。


「先生が私を見ていてくだされば、私は消えません」


「それは依存だ」


「はい」


 彼女は認めた。


 迷いなく。


「私は先生に依存しています」


「それが危険だと分かっている?」


「分かっています」


「なら、離れなさい」


 言った瞬間、イリスの顔から表情が消えた。


 礼拝堂の空気が凍る。


「離れる」


 彼女は小さく繰り返した。


「先生から?」


「そうだ」


「なぜ」


「君が聖女になるために」


「私は、先生のために祈る聖女になります」


「それは聖女ではない」


「では、何ですか」


「ただの、一人の少女だ」


 イリスは息を呑んだ。


 僕の言葉は、彼女を傷つけるはずだった。


 聖女ではない。


 ただの少女。


 だが彼女は、傷ついた顔の奥で、確かに喜んでいた。


「ただの少女」


 彼女は微笑んだ。


「先生は、私をそう見てくださるのですね」


「違う。そういう意味では」


「嬉しいです」


 僕は言葉を失った。


 彼女は僕の言葉を、すべて自分への証に変えてしまう。


 否定も、拒絶も、警告も。


 すべて、彼女の中では「先生が私を見ている」に変わる。


 僕は遅すぎた。


 もう、言葉で止められる段階ではなかった。


「先生」


 イリスは言った。


「明日、私を見ていてください」


「やめろ」


「最後まで」


「イリス」


「瞬きしないでください」


 彼女の声は甘く、静かだった。


「先生が望んだものを、私は見せます」


 僕の背筋が冷えた。


「僕が望んだもの?」


「はい」


 イリスは祭壇の前に戻った。


 選定衣の白が、暗い礼拝堂の中でぼんやり光っている。


「聖女が、たった一人を選ぶところ」


 彼女は微笑んだ。


「先生は、それを見たかったのでしょう?」


 何も言えなかった。


 それは僕が、心の奥で一度も口にしなかった願望だった。


 だがイリスは、見抜いていた。


 いや、違う。


 僕が何度も、彼女に教えていたのだ。


 言葉の端で。


 視線で。


 沈黙で。


 君が壊れるところを見たい、と。


「明日、私は選びます」


 イリスは言った。


「神でも、街でも、民衆でもなく」


 彼女は僕を見た。


「先生を」


 外で、遠く鐘が鳴った。


 深夜を告げる鐘。


 選定の日が来た。


選定の日、空は晴れていた。


 それがかえって不吉に思えた。


 前夜まで街を覆っていた霧は嘘のように消え、海は冷たい青を広げている。大聖堂の白い壁は朝日を受けて眩しく、広場には夜明け前から人々が集まっていた。


 百年に一度の聖女選定。


 ルーヴェンのすべてが、その瞬間を待っていた。


 大聖堂の前には、白い布で覆われた祭壇が設けられていた。中央には初代聖女の杖が置かれている。古い銀の杖。先端には青い石が嵌め込まれ、結界を継ぐ象徴とされている。


 候補者たちは、大聖堂の奥で待機していた。


 僕は控え室へ向かった。


 神官たちは慌ただしく動いていたが、誰も僕を止めなかった。僕は候補者たちの教育係だ。最後の確認をすることは自然だった。


 控え室に入ると、七人の候補者がいた。


 緊張している者。


 祈る者。


 泣きそうな者。


 ミラは窓際に立っていた。


 黒い髪を結い上げ、白い衣をまとっている。


 彼女は僕を見たが、何も言わなかった。


 その目には、もう嫉妬だけではないものがあった。


 諦め。


 怒り。


 そして、覚悟。


 イリスは中央にいた。


 選定衣をまとった彼女は、まさに聖女だった。


 白い布は光を含み、銀の刺繍は波のように揺れている。髪は高く結われ、真珠と細い銀糸が編み込まれていた。額には候補者の輪ではなく、選定の儀でのみ許される白銀の冠が置かれている。


 完璧だった。


 人々が百年待ち望んだ存在。


 そのものだった。


「先生」


 イリスは僕を見て微笑んだ。


 穏やかだった。


 昨夜の狂気が嘘のように消えている。


「最後の確認に来てくださったのですね」


「イリス」


 僕は彼女の前に立った。


 周囲に候補者たちがいる。


 神官もいる。


 ここで言えることは限られていた。


 だが、それでも言わなければならなかった。


「今日の祈りは、街へ向けなさい」


 イリスは微笑んだままだった。


「はい」


「神と、民衆と、この街へ」


「はい」


「僕を見る必要はない」


 その瞬間、彼女の微笑みがほんの少しだけ固まった。


 周囲の者には気づかれない程度に。


「先生は、私を見ないのですか」


「見る」


「では、私も先生を見ます」


「違う」


「何が違うのですか」


 声は穏やかだった。


 だがその奥は、もう僕にしか向いていない。


「君は聖女になる」


「はい」


「なら、全員を救うんだ」


「全員」


「そうだ」


「先生も、その中に入っていますか」


 僕は言葉に詰まった。


 イリスは少しだけ首を傾けた。


「先生も救うべき全員の中にいるなら、私は先生のためにも祈れます」


「そういうことじゃない」


「では、先生だけを除けばいいのですか」


「イリス」


「先生は難しいことをおっしゃいます」


 彼女はやわらかく笑った。


「私に先生を見つけたのは、先生なのに。私に先生のための祈りを教えたのも、先生なのに。今になって、見ないでほしいとおっしゃるのですか」


 控え室の空気が少し変わった。


 ミラがこちらを見ている。


 僕は声を低くした。


「昨日のことは忘れろ」


「忘れません」


「忘れなさい」


「できません」


 彼女は即答した。


「先生とのことだけが、私のものです」


 その言葉に、近くの候補者が息を呑んだ。


 神官が怪訝そうにこちらを見る。


 僕はそれ以上、何も言えなかった。


 言えば言うほど、彼女は深みに沈む。


 いや、もう沈んでいる。


「候補者の皆様」


 扉の外から声がした。


「お時間です」


 候補者たちが立ち上がる。


 イリスは最後に僕を見た。


「先生」


「何」


「約束、覚えていますか」


 最後まで見る。


 あの約束。


 僕は答えなかった。


 イリスは微笑んだ。


「私は覚えています」


 そして、彼女は広場へ向かって歩き出した。


   *


 儀式は荘厳に始まった。


 大聖堂の鐘が七度鳴り、聖歌隊の声が空へ昇る。


 広場を埋めた民衆は、誰もが息を潜めていた。


 候補者たちは祭壇の下に並び、大神官オルドが中央に立つ。


「海に囲まれしルーヴェンの民よ」


 オルドの声が響いた。


「百年の時を越え、我らは再び聖女を選ぶ日を迎えた。初代聖女の祈りにより守られしこの街は、今日、新たな祈りを受け継ぐ」


 民衆が頭を垂れる。


 僕は祭壇の脇に立っていた。


 オルドの目が一瞬こちらを向く。


 警告。


 あるいは確認。


 僕は視線を逸らさなかった。


 儀式は進む。


 候補者たちが一人ずつ祈り、聖歌を捧げる。


 ミラの番が来た。


 彼女は祭壇の前に進み、深く息を吸った。


 その祈りは、今までで一番よかった。


 傷があり、悔しさがあり、それでも誰かを救いたいという願いがあった。


 民衆の一部は涙を流した。


 僕も、素直にそう思った。


 いい祈りだった。


 ミラは祈り終えると、僕を見なかった。


 イリスを見た。


 その目は、こう言っていた。


 私は私の祈りをした。


 あなたは?


 最後に、イリスの名が呼ばれた。


「候補者、イリス・ヴェルネ」


 広場の空気が変わった。


 期待。


 信仰。


 陶酔。


 人々はもう、彼女が選ばれることを知っている。


 イリスは祭壇へ上がった。


 一歩ずつ。


 ゆっくりと。


 白い衣が朝日に光る。


 彼女が祭壇の中央に立つと、広場は完全な静寂に包まれた。


 大神官オルドが初代聖女の杖を手に取る。


「イリス・ヴェルネ」


 彼は言った。


「汝は、己を捨て、街のために祈る覚悟があるか」


 イリスは微笑んだ。


「はい」


 声は澄んでいた。


「汝は、誰をも等しく愛し、誰をも選ばぬ覚悟があるか」


 イリスの瞳が、ほんの一瞬だけ僕を見た。


 それから彼女は答えた。


「はい」


 嘘だった。


 広場の誰も気づかない。


 だが僕には分かった。


 それは、人生で最も美しい嘘だった。


「では、祈りを」


 オルドが杖を差し出した。


 イリスはそれを受け取った。


 杖の青い石が淡く光る。


 民衆がどよめいた。


 祈力が反応している。


 イリスは両手で杖を持ち、目を閉じた。


 そして、祈り始めた。


「海の底に眠るものよ」


 最初の一声で、広場全体が震えた。


 風が止まる。


 鳥の声も、波の音も消えた。


 イリスの声だけが、世界に残る。


「我らの罪を数えず、我らの弱さを責めず」


 光が生まれた。


 祭壇を中心に、白い光が円を描いて広がっていく。


 民衆が歓声を上げる。


 結界だ。


 百年前の奇跡と同じ光。


 イリスは本当に、聖女としての力を示していた。


 大神官オルドの顔にも、驚きと安堵が浮かんだ。


 だが、すぐにそれは変わった。


 光が、広がりきらなかった。


 街全体を包むはずの結界は、大聖堂の上空で一点にねじれていた。


 光の糸が、まるで何かに引かれるように曲がっている。


 その先にいるのは。


 僕だった。


 イリスの祈りは、街へ広がろうとしていない。


 僕へ集まっていた。


 光が僕の周囲に薄く絡む。


 民衆は奇跡だと思って歓声を上げている。


 だが神官たちは異変に気づいた。


「イリス!」


 オルドが叫んだ。


「祈りを広げなさい! 街へ向けるのだ!」


 イリスは祈りを止めなかった。


 目を閉じたまま、声を重ねる。


「この街に朝を」


 定型句。


 だが次の瞬間、彼女は言葉を変えた。


「この方に、私を」


 広場が静まり返った。


 誰もが意味を理解できなかった。


 オルドの顔が青ざめる。


「やめなさい!」


 イリスは目を開けた。


 そして、僕を見た。


 広場の全員が彼女を見ている。


 だがイリスは、僕だけを見ていた。


「私は」


 彼女の声が広場に響いた。


 祈りではない。


 告白だった。


「私は、この街を愛していません」


 時間が止まったようだった。


 民衆の顔から表情が消える。


 神官たちは動けない。


 オルドだけが、杖を取り戻そうと一歩踏み出した。


 だが、光が彼を弾いた。


 イリスの祈力が、彼女を守っていた。


「私は、神を愛していません」


 イリスは続けた。


 その声は、恐ろしく澄んでいた。


「私は、すべての人を等しく愛することなどできません」


 民衆がざわめき始める。


 悲鳴。


 怒号。


 祈りの声。


 混乱が広がる。


 それでもイリスは動じなかった。


 彼女は祭壇の上で、ただ僕を見ていた。


「私は、あなたに見られるために祈っていました」


 その言葉は、僕に向けられていた。


 だが広場の全員に聞こえた。


「先生」


 彼女は僕を呼んだ。


 初めて、人々の前で。


 聖女が、儀式の最中に、たった一人の男を呼んだ。


「あなたが、私を見つけてくれました」


 光が強くなる。


 空が軋むような音を立てた。


 大聖堂の鐘が勝手に鳴り始める。


「あなたが、私の醜さを美しいと言ってくれました」


「やめろ、イリス」


 僕はようやく声を出した。


 だが、その声は光と民衆の騒ぎに飲まれた。


 イリスには届いた。


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「止めてくださるのですね」


 涙が彼女の頬を伝った。


「今、先生は私だけを見ています」


 その通りだった。


 僕はイリスから目を離せなかった。


 広場も、街も、神官も、民衆も、ミラも、オルドも。


 すべてが遠のいていた。


 僕の世界の中心に、祭壇の上のイリスだけがいた。


 彼女はそれを知っていた。


 知っていて、微笑んでいた。


「見ていてください」


 イリスは言った。


「約束です」


 光が空へ伸びる。


 しかしそれは結界ではなかった。


 街を守る光ではなく、僕とイリスを結ぶ光だった。


 細く、強く、逃れられない鎖のように。


 その瞬間、海の方から悲鳴が上がった。


 黒い霧が上がっていた。


 晴れていたはずの海から、夜のような霧が押し寄せてくる。


 結界が張られなかった。


 いや、張られるべき力が、すべて僕へ向けられている。


 街を守るはずの祈りが、一人の男を縛るために使われている。


「イリス!」


 オルドが叫ぶ。


「街が落ちるぞ!」


 イリスは一度だけ、街を見た。


 霧に怯える民衆。


 泣き叫ぶ子ども。


 逃げ惑う人々。


 神官たち。


 ミラ。


 そのすべてを見た。


 そして、静かに言った。


「ごめんなさい」


 その声に、慈悲はあった。


 だが、選ぶ意志はなかった。


「私は、先生を選びます」


 僕は動こうとした。


 祭壇へ向かおうとした。


 だが、足が動かなかった。


 光が僕の身体に絡んでいる。


 熱くはない。


 痛くもない。


 けれど、動けない。


 イリスの祈りが、僕を留めていた。


 見ていろ。


 瞬きするな。


 逃げるな。


 彼女の祈りが、そう命じていた。


 僕は、初めて理解した。


 これはもう、僕の作品ではない。


 僕が彼女を壊しているのではない。


 彼女が、僕を自分の祈りの中に閉じ込めている。


「先生」


 イリスは微笑んだ。


 聖女の微笑みではなかった。


 少女の微笑みでもなかった。


 愛する者を見つけ、逃がすつもりのない者の笑みだった。


「あなたは、私を最後まで見ると約束しました」


 彼女は杖を掲げる。


 光が広場を満たした。


 黒い霧が大聖堂の階段まで迫っている。


 民衆の悲鳴。


 神官たちの祈り。


 オルドの怒号。


 ミラの声。


 すべてが遠い。


 イリスの声だけが、近かった。


「だから、見ていてください」


 彼女は言った。


「あなたのために、世界を壊します」


   *


 その後のことを、僕は断片でしか覚えていない。


 黒い霧が広場へ流れ込んだ。


 人々は逃げた。


 神官たちは結界を張ろうとしたが、イリスの祈力が強すぎて干渉できなかった。


 ミラが祭壇へ駆け上がろうとして、光に弾かれた。


 オルドは血を吐きながら、古い祈文を唱えていた。


 海から、何かの咆哮が聞こえた。


 百年前の災厄。


 あるいは、人々がそう呼んできたもの。


 だが、そのすべては僕には遠かった。


 僕はただ、イリスを見ていた。


 彼女は祭壇の上に立ち、祈っていた。


 僕のために。


 僕だけのために。


 その祈りは美しかった。


 恐ろしいほどに。


 光は彼女の身体を包み、白い衣を揺らし、髪をほどき、涙を宝石のように照らしていた。


 彼女は壊れていた。


 だが、その壊れ方は醜くなかった。


 僕が望んだ通り、美しかった。


 美しすぎた。


 だから僕は、ようやく後悔した。


 僕は、美しいものの前に立てば、すべてを許せると思っていた。


 人の心が崩れる瞬間を、芸術のように見ていられると思っていた。


 けれど違った。


 美しい崩壊には、重さがあった。


 壊れる人間の人生があった。


 巻き込まれる人間の悲鳴があった。


 そして、選ばれる恐怖があった。


 僕は、選ばれるということを知らなかった。


 誰かの世界の中心にされること。


 誰かの罪の理由にされること。


 誰かの破滅の意味にされること。


 それが、これほど息苦しいものだとは知らなかった。


 光の中で、イリスが僕に手を伸ばす。


 遠いはずなのに、近く感じた。


「先生」


 彼女は優しく呼んだ。


「私は、きれいですか」


 その問いが、僕の胸を裂いた。


 最初の日。


 僕は彼女に言った。


 君自身以外のものを演じるのがうまい。


 下手だったから美しい。


 君の声がした。


 罪を知ったんだね。


 そして彼女は今、最後に僕へ尋ねている。


 私は、きれいですか。


 僕は答えなければならなかった。


 答えなければ、彼女は永遠にその問いの中で祈り続ける気がした。


「イリス」


 僕は、光に縛られながら言った。


 声は震えていた。


 情けないほどに。


「きれいだ」


 イリスの顔が、幸福に歪んだ。


 救われた者の顔だった。


 だが僕は続けた。


「でも、もう祈らなくていい」


 彼女の表情が止まる。


「え……?」


「君はもう、十分だ」


「十分?」


「僕は見た」


 僕は言った。


「君が聖女ではなく、イリスとして祈るところを見た。君が誰か一人を選ぶところを見た。君が、僕の望んだものになるところを見た」


 イリスは僕を見ている。


「だから、もうやめていい」


 彼女は困惑したように首を振った。


「なぜですか」


「僕が間違っていた」


 初めて口にした。


 その言葉は、思ったより重かった。


「君を壊れるものとして見た。君の苦しさを美しいと言った。君の罪を、自分のために育てた」


 僕は息を吸った。


「僕が、間違っていた」


 イリスの瞳が揺れた。


 彼女はその言葉をどう受け取ればいいか分からないようだった。


 僕が否定すること。


 僕が自分の過ちを認めること。


 それは彼女の中の物語に存在しない展開だったのだろう。


「先生は」


 彼女の声が震えた。


「私を、美しいと思わなくなったのですか」


「思っている」


「では、なぜ」


「美しいから、壊れていいわけじゃない」


 自分で言いながら、僕はその言葉の遅さに吐き気がした。


 もっと早く言うべきだった。


 最初の日に。


 彼女が下手に笑った時に。


 僕のために祈りたいと言った時に。


 安心して壊れられると言った時に。


 それでも、今言うしかなかった。


「イリス」


 僕は言った。


「君は僕の作品じゃない」


 彼女の顔が歪んだ。


 痛み。


 怒り。


 悲しみ。


 恐怖。


「違います」


「違わない」


「先生が私を作ったのです」


「そうだ」


 僕は認めた。


「でも、それで君のすべてを持っていい理由にはならない」


「私は、先生のものではないのですか」


「違う」


 イリスは泣いていた。


 光の中で、子どものように。


「では、私は誰のものですか」


「君のものだ」


 イリスは声を失った。


 その言葉は、彼女に届いたのだろうか。


 分からない。


 届いてほしかった。


 だが、僕が言うにはあまりにも遅すぎた。


 彼女は長い間、僕を見ていた。


 そして、かすかに笑った。


「先生は、残酷です」


「そうだね」


「最後にそんなことを言うなんて」


「最後にしたくない」


 僕は光の中で一歩進もうとした。


 足は重い。


 だが、少しだけ動いた。


 イリスの祈りが揺らいでいる。


「イリス。僕を見なくていい」


「嫌です」


「僕のために祈らなくていい」


「嫌です」


「君は、君のために祈れ」


 その言葉に、イリスは目を見開いた。


 世界が一瞬、静かになった気がした。


 黒い霧も、民衆の悲鳴も、鐘の音も、すべて遠のく。


「私のために」


 イリスはつぶやいた。


「祈る」


「そうだ」


「私は、何を願えばいいのですか」


 その問いは、あまりにも幼かった。


 自分のために祈ることを知らない少女。


 すべての人を愛するように作られ、たった一人を選ぶように壊され、最後に自分を選べと言われた少女。


 彼女は本当に、何を願えばいいのか分からなかったのだ。


「生きたいと願えばいい」


 僕は言った。


「聖女でもなく、僕のものでもなく、ただイリスとして」


 イリスの唇が震える。


「そんな願い、許されますか」


「許される」


「神が許さなくても?」


「僕が許す」


 言ってから、違うと思った。


 また僕が許すと言っている。


 彼女の世界を、僕の言葉で決めようとしている。


 だから言い直した。


「いや」


 僕は首を振った。


「君が、君を許せ」


 イリスは泣いた。


 今度は、ちゃんと泣いた。


 顔を歪め、肩を震わせ、聖女の微笑みも、候補者の気品も、すべて崩して。


 ただの少女として泣いた。


 その瞬間、光の向きが変わった。


 僕へ絡みついていた祈りがほどける。


 白い光が上空へ広がり始めた。


 街へ。


 大聖堂へ。


 霧に怯える人々へ。


 それはもう、万人を等しく愛する聖女の祈りではなかった。


 まして、僕だけのための祈りでもなかった。


 ただ、生きたいと願った少女の祈りだった。


 その願いが、街全体を包んだ。


 黒い霧が光に押し返される。


 海の方で、獣のような声が遠ざかる。


 民衆が空を見上げる。


 神官たちが泣きながら祈る。


 ミラが祭壇の下で、立ち尽くしている。


 大神官オルドが、震える声で言った。


「結界が……」


 光は街を包んでいた。


 清らかではない。


 完璧でもない。


 だが、確かに強かった。


 イリスは祭壇の上で膝をついた。


 杖が床に落ち、澄んだ音を立てる。


 僕はようやく動けるようになり、祭壇へ駆け上がった。


 イリスの前に膝をつく。


 彼女は顔を上げた。


 涙で濡れた顔。


 聖女ではない顔。


 僕が一番見たかったはずの顔。


 けれど今は、それを美しいと観察する余裕などなかった。


「イリス」


 彼女は僕を見た。


「先生」


「もう大丈夫だ」


 そう言った自分の声は、ひどく頼りなかった。


 イリスは微笑んだ。


 弱く、幼く、少しだけ寂しそうに。


「先生」


「うん」


「私、今、先生のためではなく祈りました」


「そうだね」


「変な感じがします」


「うん」


「怖いです」


「うん」


「でも」


 彼女は胸元を押さえた。


「少しだけ、息がしやすいです」


 その言葉に、僕は何も返せなかった。


 ただ、うなずいた。


 広場では、人々が奇跡だと叫んでいた。


 新たな聖女の誕生だと。


 イリス様が街を救ったと。


 神官たちは祭壇へ駆け上がり、オルドは震える手でイリスに聖女の冠を授けようとした。


 だがイリスは、それを見て首を横に振った。


「私は、聖女にはなれません」


 広場が静まった。


 オルドが言葉を失う。


「私は街を愛していませんでした。神も、民も、等しく愛せませんでした」


「しかし、あなたは街を救った」


 オルドが言った。


「結果として、です」


 イリスは静かに答えた。


「私はまだ、自分のために祈ることを覚えたばかりです。誰かを救う名を、今の私が背負えば、また私は私でなくなります」


 民衆がざわめく。


 神官たちが困惑する。


 だがミラだけが、少しだけ笑っていた。


 泣きそうな顔で。


 イリスは杖を拾い、オルドに差し出した。


「聖女は、もう一度選んでください」


 オルドは杖を受け取らなかった。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「では、あなたは何になる」


 イリスは答えられなかった。


 だが今度は、その沈黙が怖くなかった。


 答えがないことを、彼女は初めて許されていた。


「これから、考えます」


 イリスは言った。


 それは、聖女の宣言としては弱すぎる言葉だった。


 しかし、一人の少女の言葉としては、十分だった。


   *


 選定儀式は、正式には失敗として記録された。


 新たな聖女は選ばれなかった。


 だが、結界は張られた。


 それも、百年前以来の強さで。


 神官たちは説明に困った。


 民衆も混乱した。


 ある者はイリスを聖女だと叫び続け、ある者は彼女を異端だと罵った。街を救ったのだから聖女だと言う者もいれば、街を捨てようとしたのだから罪人だと言う者もいた。


 大神官オルドは、しばらく沈黙した後、イリスを聖女とは認めず、しかし罪人とも定めなかった。


 彼女は大聖堂の奥で療養することになった。


 候補者としてでも、聖女としてでもなく。


 ただ、イリス・ヴェルネとして。


 ミラは候補者たちの中で、最も強く祈れる者として残った。


 次の選定が行われるのか、それとも制度そのものが変わるのかは分からない。


 少なくとも、ルーヴェンの人々は知ってしまった。


 聖女もまた、人間であることを。


 そして僕は、大聖堂を去ることになった。


 当然だった。


 候補者の心を乱し、選定を崩壊寸前まで追い込んだ演出家など、二度と聖堂に置けるはずがない。


 出立の朝、僕はイリスの部屋を訪れた。


 白い小さな部屋だった。


 窓から海が見える。


 イリスは椅子に座り、膝の上に薄い毛布をかけていた。


 髪はほどかれ、選定衣ではなく普通の淡い服を着ている。


 彼女は僕を見ると、少しだけ微笑んだ。


 もう聖女の微笑みではなかった。


「行かれるのですね」


「うん」


「もう、戻りませんか」


「たぶん」


 イリスは窓の外を見た。


 しばらく何も言わなかった。


 昔の彼女なら、ここで美しい別れの言葉を選んだだろう。


 神の加護を。


 旅の無事を。


 先生に感謝を。


 でも今の彼女は、しばらく迷ってから言った。


「寂しいです」


 その言葉が、何よりも本物だった。


「そう」


 僕は言った。


「僕もだよ」


 イリスは驚いたように僕を見た。


「先生も?」


「うん」


「本当に?」


「本当に」


 彼女は少しだけ嬉しそうにした。


 だが、すぐに寂しそうな顔に戻った。


「私は、まだ先生を見たいです」


「うん」


「先生に見てほしいとも思っています」


「うん」


「でも、それだけで生きるのは、少し怖いと思うようになりました」


 僕はうなずいた。


「それでいい」


「先生は、ずるいですね」


「そうだね」


「壊してから、手放そうとする」


 返す言葉がなかった。


 イリスは僕を責めているようで、責めていないようでもあった。


 ただ事実を言っている。


 それが一番痛かった。


「先生」


「何?」


「私は、先生を許すべきですか」


 僕は少し考えた。


「分からない」


 正直に答えた。


「許さなくてもいいと思う」


「では、恨んでもいいですか」


「いいよ」


「会いたいと思っても?」


「いい」


「忘れたいと思っても?」


「それもいい」


 イリスは目を伏せた。


「私は、私の気持ちを選んでいいのですね」


「そうだよ」


「難しいです」


「うん」


「でも、少しだけ嬉しいです」


 彼女はそう言って笑った。


 下手な笑い方だった。


 最初の訓練で見せた、自分に向ける微笑みとよく似ていた。


 不器用で、弱くて、正解のない笑み。


 僕はその笑みを見て、美しいと思った。


 けれど、今度はその美しさを僕のものにしようとは思わなかった。


「イリス」


「はい」


「君は、きれいだ」


 彼女の瞳が揺れた。


 僕は続けた。


「でも、それは僕が見るからじゃない」


 イリスは黙っていた。


「君が君として生きようとしているからだ」


 彼女は泣きそうな顔をした。


 だが、泣かなかった。


 少しだけ笑った。


「先生は最後まで、言葉が上手ですね」


「そうかな」


「はい」


 彼女は窓の外を見た。


「だから、しばらくは信じないようにします」


 僕は小さく笑った。


「それがいい」


 部屋を出る前、イリスが僕を呼んだ。


「先生」


 振り返る。


 彼女はまっすぐ僕を見ていた。


「私は、まだ先生を好きなのだと思います」


 胸が痛んだ。


「うん」


「でも、それが私の全部ではないと、いつか思えるようになりたいです」


「なれるよ」


「先生の言葉だから、信じません」


「そうだったね」


 イリスは微笑んだ。


「でも、覚えておきます」


 それが、僕たちの最後の会話になった。


   *


 ルーヴェンを出る船の上で、僕は大聖堂を見上げていた。


 白い尖塔が、朝の光の中で遠ざかっていく。


 海は穏やかだった。


 あの黒い霧が嘘のように、波は静かに船体を揺らしている。


 僕は、聖女が壊れるところを見たかった。


 すべての人を愛するように作られた少女が、たった一人だけを選び、世界を捨てる瞬間を。


 それは確かに美しかった。


 息を呑むほどに。


 目を逸らせないほどに。


 けれど、僕は知らなかった。


 選ばれるということが、これほど恐ろしいものだとは。


 誰かの祈りの中心にされること。


 誰かの破滅の理由にされること。


 誰かの世界そのものにされること。


 それは、支配ではなかった。


 むしろ檻だった。


 僕は彼女を壊したつもりだった。


 だが本当は、僕も彼女の祈りの中に閉じ込められていた。


 今もまだ、完全には出られていない。


 イリスの声を思い出す。


 先生。


 見ていてください。


 あなたのために、世界を壊します。


 僕は目を閉じた。


 あの光景は、きっと一生消えない。


 それは罰なのだと思う。


 誰かの心を作品として扱った僕にふさわしい罰。


 船が進む。


 大聖堂が遠ざかる。


 白い街は少しずつ小さくなり、やがて朝靄の中に溶けていった。


 僕は最後まで見ていた。


 瞬きもせずに。


 約束の残骸のように。


ルーヴェンを去ってから、三年が経った。


 僕はもう、舞台演出家とは名乗らなくなっていた。


 王都の劇場からは何度も招きが来た。貴族の式典、王族の婚礼、戦勝記念の大演説。僕が手を加えれば、人々は泣き、笑い、信じ、跪く。そういう仕事はいくらでもあった。


 だが、僕はすべて断った。


 人の心を動かすことが、以前のように美しい遊戯には思えなくなっていた。


 誰かの表情の奥にひびを見つけるたび、イリスを思い出す。


 完璧な祈り。


 揺れた声。


 嫉妬を告げる瞳。


 祭壇の上で、世界ではなく僕を選んだ聖女候補。


 そして最後に、自分のために祈ることを覚えた少女。


 あの街で僕が見たものは、美しい崩壊ではなかった。


 人間だった。


 ただの人間が、誰かに作られた役から抜け出そうとして、血を流すように心を裂いた姿だった。


 それを芸術と呼んでいた自分が、今ではひどく浅ましく思えた。


 僕は海沿いの小さな町で、子どもたちに読み書きを教えて暮らしていた。


 演技も、祈りも、言葉の使い方も教えない。


 ただ文字を教える。


 自分の名前を書けるようにする。


 誰かに与えられた役ではなく、自分の名を自分で書くこと。


 それくらいが、今の僕に許される仕事のような気がしていた。


 そんなある日、一通の手紙が届いた。


 差出人の名を見た瞬間、指先が止まった。


 ミラ・エスト。


 ルーヴェンの、かつての聖女候補。


 封を切ると、懐かしい香の匂いがした。


 大聖堂の匂いだった。


レオン先生


お久しぶりです。

この呼び方を使うべきか迷いましたが、他に呼び方を知りません。


ルーヴェンは、まだ海の上にあります。

それをまず伝えておきます。

あの選定の日から、街は少し変わりました。


聖女制度は廃止されていません。

でも、以前とは違います。

候補者たちは幼いうちから家族と切り離されることはなくなりました。

怒ることも、泣くことも、嫌いと言うことも、訓練の中で禁じられなくなりました。


大神官オルド様は、あの日以降、よくこう言います。

「人間でない者に、人間の街は救えない」と。


少し皮肉ですね。

あの方がそれに気づくまで、どれだけの少女が自分を殺したのかと思うと、私はまだ許せません。

でも、変わったことは確かです。


私は今、候補者たちの祈りを見ています。

先生のようにはしません。

たぶん、できません。

でも、彼女たちが自分の声を失わないように見ています。


そして、イリスのことです。


 僕はそこで一度、読むのを止めた。


 窓の外では、子どもたちが広場で遊んでいる。誰かが転び、泣き、別の子が笑いながら手を貸していた。


 ただそれだけの光景が、ずいぶん遠く感じた。


 僕は手紙に目を戻した。


イリスは生きています。


聖女にはなりませんでした。

神官たちは何度も説得しました。民衆の中にも、彼女を聖女と呼び続ける者がいます。

けれど彼女は、その名を受け取りませんでした。


今は大聖堂の庭で花を育てています。

祈りの訓練には参加しません。

儀式にも出ません。

ただ、朝になると庭に出て、土に触れ、水をやり、時々、候補者たちと話します。


彼女は以前よりよく笑います。

下手な笑い方です。

でも、本物です。


先生のことを、たまに話します。

恨んでいる日もあります。

会いたい日もあるようです。

忘れたい日もあります。

忘れたくない日もあります。


そのどれも、今の彼女のものです。


私は、それでいいと思っています。


 胸の奥が静かに痛んだ。


 許されたわけではない。


 責められたわけでもない。


 ただ、僕のいない場所で、イリスが生きている。


 それだけのことが、救いのようで、罰のようだった。


 手紙はまだ続いていた。


先日、イリスが私に言いました。


「私は、あの人を好きだったのだと思う」


私は聞きました。

「今は?」


イリスは少し考えて、こう答えました。


「今は、好きだった私を、少しずつ抱えているところ」


先生。

私はその答えを聞いて、彼女はもう先生の祈りの中にはいないのだと思いました。


でも、先生が彼女の中から完全に消えたわけではありません。

消えなくていいのだと思います。

傷は、消えることだけが救いではありません。

自分の一部として持てるようになることも、救いなのでしょう。


先生は、まだ自分を許さなくていいです。

私も、たぶん完全には許していません。

イリスも、きっとそうです。


でも、もし先生がまだあの日の祭壇から動けずにいるなら、ひとつだけ伝えます。


イリスは、もう先生を見て祈ってはいません。


今、彼女は花に水をやる時、自分の明日のために祈っています。


それだけです。


ミラ・エスト


 手紙を読み終えた後、僕はしばらく動けなかった。


 風が窓から入ってきて、机の上の紙を揺らす。


 イリスは、もう僕を見て祈っていない。


 その一文が、胸の奥で何度も響いた。


 寂しいと思った。


 そう思った自分に、少しだけ笑った。


 当然だ。


 僕もまた、彼女に選ばれることで、自分の存在を感じていたのかもしれない。


 彼女を祈りの中に閉じ込めていたつもりで、僕自身もまた、彼女の視線に囚われていた。


 イリスが僕を見なくなった時、ようやく僕は本当に置き去りにされたのだ。


 それは痛かった。


 けれど、どこかで安堵もしていた。


 彼女が僕から離れたこと。


 それが、彼女が生きている証拠だった。


   *


 その年の秋、僕は一度だけルーヴェンを訪れた。


 誰にも知らせず、客として。


 船を降りると、街は記憶よりも明るかった。


 白い石の坂道。


 潮の匂い。


 大聖堂の尖塔。


 あの日、黒い霧に飲まれかけた広場では、市が開かれていた。果物を売る声、子どもの笑い声、漁師たちの怒鳴り声。


 世界は壊れなかった。


 イリスが壊そうとした世界は、今も続いている。


 けれど、何も変わらなかったわけではない。


 大聖堂の前には、新しい石碑が立っていた。


 初代聖女の言葉ではない。


 神官の戒めでもない。


 そこには、短い文が刻まれていた。


祈る者もまた、人である。


 僕はその前でしばらく立ち止まった。


 皮肉な碑文だと思った。


 美しいとも思った。


 それから、大聖堂の庭へ向かった。


 庭は以前よりずっと賑やかだった。


 花壇には白い花だけでなく、赤や紫や黄色の花も植えられている。聖女の庭にしては、統一感がない。だが、そこがよかった。


 庭の奥に、ひとりの女性がいた。


 淡い青の服を着て、土のついた手で花を植えている。


 金色の髪は短く切られていた。


 背筋は昔ほどまっすぐではない。


 動きも、聖女候補だった頃ほど完璧ではない。


 けれど、彼女はそこにいた。


 イリスだった。


 僕は声をかけなかった。


 彼女は気づいていない。


 いや、一度だけこちらを見たような気もした。


 だが、すぐに花へ視線を戻した。


 その横顔を見て、僕は理解した。


 彼女はもう、僕に見られるためにそこにいるのではない。


 僕を見つけるために庭にいるのでもない。


 ただ、花を植えている。


 明日咲くかもしれない花のために。


 それが、ひどく尊いものに見えた。


 昔の僕なら、その不完全な横顔を美しいと言っただろう。


 そして、その美しさを自分の言葉で縛ろうとしただろう。


 だが今は、何も言わなかった。


 言葉を与えないこと。


 見ていると告げないこと。


 意味をつけないこと。


 それが、僕にできる唯一の謝罪だった。


 その時、イリスのそばにいた小さな候補者が何かを言った。


 イリスは驚いた顔をして、それから笑った。


 下手な笑い方だった。


 少し口元がぎこちなく、目元も不器用で、聖女としてはまるで正しくない。


 けれど、彼女は笑っていた。


 自分のために。


 目の前の誰かのために。


 僕ではない誰かの前で。


 僕は静かに背を向けた。


 もう十分だった。


 見届けることと、見続けることは違う。


 約束は、終わったのだ。


   *


 ルーヴェンを出る船の上で、僕はもう一度だけ大聖堂を見た。


 白い尖塔は夕暮れに染まり、海は赤く揺れていた。


 僕は聖女が壊れるところを見たかった。


 万人を愛するように作られた少女が、たった一人だけを選び、世界を捨てる瞬間を。


 そして確かに、それを見た。


 それは美しかった。


 けれど、美しさは免罪符ではなかった。


 人の痛みを美しいと呼んだ瞬間、その痛みが消えるわけではない。

 誰かの崩壊に意味を与えたところで、その人の苦しさを引き受けたことにはならない。


 僕はそれを、イリスに教えられた。


 いや、違う。


 イリスが自分を取り戻していく姿を見て、ようやく知った。


 祈りは、誰かを縛るためのものではない。


 誰かに見られるためだけのものでもない。


 自分が明日を生きるために、胸の中で小さく灯すものだ。


 船が進む。


 ルーヴェンの街が遠ざかる。


 かつての僕なら、最後まで見ていただろう。


 瞬きもせずに。


 あの日の約束に縛られたまま。


 けれど今、僕は目を閉じた。


 海風が頬を撫でる。


 遠くで鐘が鳴った。


 イリスはもう、僕を見て祈っていない。


 そのことが、少し寂しくて、少し嬉しかった。


 僕はようやく、彼女の祈りから出ていくことができたのだと思う。


 そしてたぶん、彼女も。


 目を開けると、白い街はもう小さな点になっていた。


 僕はそれ以上、振り返らなかった。


 祈りの残り香だけが、潮風の中にかすかに残っていた。

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