34 進む時
幾重にも重なる白いレースの向こうにいるその人が、王の名を呼ぶ。
それまでの呼び声とは違う、苦しげな声で…。
「シオン!?」
急いでその人のもとに向かうと尋常とは言えない汗が噴き出している。苦しそうに眉間に皺がよって胸を掻き抱くような格好。
「シオン…シオン」
呼びかけても応えてくれるはずはないその人の名前を呼び続けることしかできない。王がいなくて良かったというべきか…。
予定ではもう起きている時なのに、一向に起きる気配のなかったところに、だ。
「シルバが邪魔してるのか?それとも…アクロディーテ様?」
シオンの額に少年は手を置き、集中してシオンの意識を探る。濁流のようにシオンの記憶は流れ出して止まることがない。最初、王の言った記憶などとうに飛び越していることが分かる。
シオンがカルスを王としてではなくカルスとして見ていたときまで。それが王の望みだったというのに。
「ここまで来たら…無理に思い出させなくても、その時が来たら思い出しますね」
今までの少年らしい態度から変わりいささか慇懃な口調に変わり、そこから発せられる気も変わる。
「シオン、もう起きてもいいよ。過去を覗くのも…飽きたでしょう?今に戻ってきてくれるかな」
ビクッとシオンの身体がひとつ揺れる。久方ぶりにその瞳がじょじょに開かれていく。
「シオン様、わかりますか?」
ぼうっと真上を見続けているシオンの黒い瞳の前で手をヒラヒラと動かすと、シオンの瞳が腕の伸びている方に向く。
何事かを言っているようだがうまく声が出せていない、口だけ動いてまったく音が出ていない。
「大丈夫ですよ、この部屋には今僕しかいません」
そういうと息をひとつ吐いてシオンが声を発する。
「ルーク…だったんだ。会ったのに、忘れててごめんね」
「いいんです。元をただせば僕のせいですから」
サリューからの報告で、シオンの心が揺れていることが分かって、秘密のあの場所に侵入者がいて入ったらシオンだった。会っても記憶のないシオンには誰だか分らなかったみたいだけど。
「それでも、一緒にいてくれた人なのに」
「王が来る前に聞きたいことがありますがよろしいですか?」
王という言葉に反応したのか、シオンの瞳が揺れるのがわかる。
「どこまで、思い出した?」
「…」
「僕はもう迷わないことにしたんだ。僕の絶対の支配者はあの王じゃないからね。記憶を無理やりとったりは、もうしない。」
そこまで思い出しているかはわからない。きっと本能という場所で覚えていることもある。後悔したって遅いけど、それでももう間違いたくない。
「二回目の戦争…ルークやサリューがいてくれて、でも終わろうとしてカル…王様が帰ってきてサリューを、」
思ったよりも記憶が戻ってるスピードが速い。
「そこまで思い出したんだね?」
「うん…そこで、声が聞こえて…どうなったんだろう」
「シオン様、ひとつ守っていただきたいことがあります」
そこで、記憶が止まっているということは、まだあの場面は見ていないということだから、王にとっての最悪の事態は免れたといっていいのだろうか。
ただ、シオンにとってこれからのことは…。シオンはどう思うんだろうか。
「王のことは、初めのころのようにカルスとお呼びください。そして、アスカ様とのご対面は…思い出していないふりをお願いします」
そうしなければ、シオンはサリューや他の者に会うどころかきっとこの部屋からさえ出してもらえなくなる。
「今の僕に言えることはそれぐらいですが、守っていただけるのならば…僕は今度こそ最後まで貴方を守ります。いえ、違いますね…守らせていただけませんか?」
守ると言ったのに、その約定を違えた。巫女という存在ではなく現王に加担して、記憶まで奪っておきながら、都合のいいことを…。
「ルーク長官。私は最後まで記憶がないんです。どうなったかは…わかりません。ですから、あの約束は私にとってまだ履行されたままなのです」
「それっ…は」
「守るといってくださったでしょう?」
少し、顔は強張っているものの懸命に笑ってくださるその姿は無理をしている時のもの。それでも、信じてくれようと?
「今度こそ間違えません、シオン様。」
「覚えてないから、ね?」
「シオン様…今はない記憶もすぐに戻ると思います。ですが、時が来る時までは…知らないふりをお願いします。」
「うん」
「王は、今貴方に執着しています。できる限りでいいので…以前のようにふるまって差し上げてください」
「…」
「信じられないというのも無理はないのですが」
「そう、だね」
最初で止まらなかったのなら、いくら取り繕ってもしょうがない。既に奪った記憶の砂はすべてシオンの中に戻ったのだから。
「これからを決めるのは王ではなく、シオン様です。私は王のもとに行きますので…よろしくお願いしますね」
「わかった」
中途半端に戻った記憶でより一層不安定になっていなければいんだけど…。
そう思いつつ振り返ることなく部屋からでて、まっすぐに王のもとへ向かう。魔法で転移でもすればいいのだけど、使うのもめんどくさい。
あんまり高度な魔法を仕えるとなると突っつかれることが、余計に増えるからね。
「王、シオン様がお目ざめになりました」
王の執務室。
その声が響くとすぐに立ち上がり、部屋を出ようと扉に向かう王。
「長官?」
行く手を阻むようにして立ったルークに対して王はいぶかしむように名前を呼ぶ
「シオン様は…今お疲れですので、短めにお願いします。それと、部屋の環境も最悪ですので…早めに変えてくださいね」
「ああ、わかってる!」
踊らされることを止めたとしても、今は王の部下という立場。利用できるものは最大限利用しないといけない。
戦場では優秀な軍師だとしても…政治向きじゃ、無い王。
「いってらっしゃい」
宰相からの視線が痛いのは、もう気にしない。
この件が終わったらすべて終わるのだから。




