16 昔日の
この景色を私は知っている。
いつだって私の瞳には強固な要塞に見えた場所だ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつものように出迎えてくるのは母ではなく家政婦の女性だ。物心つく前からこの女性は紫音の世話をしてくれている。
両親には手に負えない。私は、バケモノ。そんな存在はしっかりと管理しなくてはならない。
そう、自分は母に厭われているのではない。ただ危険だからあまり私の側に彼の人が来てくださらないだけ。きっと私は普通に生まれてくれば、弟の様に大切にされたはず。
「今日は少しお帰りが遅いようですが」
「日直の仕事で担任の先生に用事を頼まれていたんです」
「そうですか」
家政婦の仕事は紫音の身の回りの世話から起床した時間、その他にも様々なことを私の両親に報告する義務があるのだそうだ。
報告のために遅くなった理由を問うただけで、家政婦は紫音自身を心配しているわけではないのだ。
「奥様から、後ほどお話があるとのことです」
「…おかあさま?」
「はい。紫音様の進路のことに対してのお話だそうです」
「やっぱり、あの進路は駄目なのかな」
そう聞いて家政婦から何か情報を得られないかと顔を見てみるが家政婦の表情は面白いぐらい変わらない。
いつだってそう、彼女はどこかに感情を落として来たのかと思うほどの能面の様な表情でしか私に接してこようとはしない。
私の世話を終え、母屋に帰っていく家政婦の顔はいつだって晴れやかに微笑んでいた。その微笑みを私にも向けてくれないかと思い小さな頃は色々と苦心したものだ。
だが、紫音にはその微笑みが与えられたことは一度もない。そんな家政婦にいつしか冷めた感情が芽生えたのはいつだったか。
「奥様がこちらにいらっしゃいます。準備をいたしましょう」
「今からいらっしゃるの?」
「はい」
「わかりました。場所はいつものところでいいの?」
紫音の部屋は母屋から離されている。通路というものもなく本当に屋敷の敷地内の片隅に作られた紫音だけの家。
紫音はバケモノだから、母屋に入ってはいけない。
そう言われて同じ敷地内にいるはずなのに全く違った建物で生活している。滅多に会えない両親。小さいうちは両親に隠れて遊んでいた弟も最近はめっきりこの家に訪れなくなっていた。
「はい。紫音様、お待ちになっていてください」
「ええ」
家政婦が言うのは一人だけの家に似つかわしくない大きいだけの机がある部屋。さながら中世の貴族の食卓の机。母は紫音に会うのを極端に恐れるのだ。
そのために、紫音と近くで会わなくていいためにとられた策だ。
部屋の一番奥まで行き一脚だけ置かれている椅子に腰かける。本当だったら母がこの席に座るべきなのだろうけれど、母はすぐに出ていけるように扉の近くが良いらしい。
正面を向けば何時もはない椅子が二脚増えている。母だけではなかったのか。
長机の上にはシミ一つないだろう白いテーブルクロス。
少しの時間を置いて急に家の中が騒がしくなる。きっと母が家に入ったのだ。
喧騒。といってもほとんど同じ人物の声だ。
「紫音!」
家政婦が扉を開くよりも、ノックをするよりも早く現れたのは…私の母。その斜め後ろにいるのは最近顔を見なくなっていた弟。
父に似てとても綺麗な顔をしていたが、会わない間にその綺麗な顔に随分と磨きがかかっているようだ。
来年の春に高等部に上がるまだ中学生のはずなのに、とても大人びて見える。
母は、少し痩せただろうか。それでも服から覗く美しい肢体は変わらず――。
「紫音、貴方のことはこちらですべて決めてあるの!」
母の口から甲高い声で家に響き渡るのではないかというような大声が飛びだす。気丈に振舞っていてもそこに滲む感情まで隠し切れていないようで、声が少し震えている。
後ろから物言わず着いて来たであろう弟が後ろから「母様」とさいなめる様に彼女を呼ぶ。
「勝手な真似はやめて頂戴。貴方は村雨の家に泥を塗りたいのですか」
「母様、今日はゆっくりとお話をするために来たのでしょう。座ってください」
弟がそう言うと、部屋に入り損ねたのだろう家政婦が出てきて母の世話をかいがいしくやく。
母は目の前に出された水を一口含み喉を潤す。
それを見届けると弟は用意されていたもう一脚の椅子に座る。
「紫音。そろそろ貴方にも話しておかなくてはならないことがあります」
その母の態度はいつも自分に向けられているものではない。毅然と自分に向かって来ている。いつもは半狂乱になって、なにを話しているかすらわからない。
なのに今日は、母の瞳の中に紫音という存在がしっかりと認知されている。
「貴方、わかっていたでしょ?私に嫌われていること」
母は口角をスッと上に持ち上げる。
「でも、あの人はもう…私が一番だと言ってくださった。もう紫音という存在に私が脅かされることはなくなったのよ!」
「……え?」
勝ち誇ったように、見下す母のその瞳。
「あなたに母などと言われる屈辱に耐えなくていいのよ」
そう言いつのる母はとてもうれしそうに笑っていた。