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9 役者ということを問われたゲストたち、困惑する

 専門家たちの質問と、光石の静かな回答。

 そのたびにスタジオの空気は少しずつ深いところへ沈んでいく。

 吾川は、それを進行役として真正面から受け止めながらも、胸の内で冷たい汗が流れていくのを感じていた。

(まずい、これは犬の血統や家族のことには絶対に踏み込めない)

 プロフィールに触れるな。

 血統・飼い主は質問禁止、番組開始前に神崎と丸川から念を押された言葉が脳裏に蘇る。 

 あれは、ただの注意ではない、「越えるな」という圧だ。

 三国や葛城が投げた質問、光石の一言一言から、この犬の背景は普通ではないということが明白になっている。

 吾川は喉をひとつ鳴らし、

 話題を強引に別方向へ切り替えた。

 「この映画について、お聞きしたいのですが」

 その瞬間、神崎と光石の口元が同時に緩んだ。

 緊張の糸を少しだけ緩めるような笑み。

 だがそこには、どこか計算された安心が漂っていた。


 吾川は続ける。

 「この映画、子役が一人も出演していません。この点については、どうお考えなのでしょうか?」

 犬から映画へ、安全圏に見える質問。

 しかし、その内容は“何かが欠けている映画という違和感を孕んでいる。

 丸川が、サングラスの縁に軽く指をかけた。

 その仕草は、笑いではない、呆れの奥にある冷徹な現実を受け止めるようなものだ。

 「まともに喋れない、演技できない子供の面倒を、スタッフや役者がみるのか。そんな暇はないぞ」

 その言葉は、ただの愚痴や現場批判とは違った。

 事実を淡々と述べているだけなのに、

 切り捨ての冷徹さが、スタジオ全体に突き刺さった。

 「おい、言い過ぎだ」

 隣の神崎が口を挟んだ、その声に怒りはない。

 ただ、呆れと、わずかな苦さが滲んでいた。

 神崎はゆっくりと吾川に向き直る。

 そこに笑みはなく、プロの顔だけがあった。

 「公式を見て貰えば分かると思うが、この映画、監督が四人なんだ」

 その数字が重く感じられる。

 「撮影方法、趣旨、ジャンル、全部が、手法も日本とは勝手が違う、撮り方も、現場の進行も、演技の要求も……全部別物なんだ」

 淡々と語っているのに、その内容は恐ろしく現実的だ。

  「子役が応えることができると思うかい」

 神崎の問いは、どこか静かな諦めを孕んでいた。

 重く沈むようなその言葉に、吾川は思わず返事を失った。

 反論はできない、だが、擁護する材料もない。

 口を閉じるしかなかった。

 数秒の沈黙。

 その空白を埋めるように、隣に立つ光石が口を開いた。

 「いいかな、少し補足しても」

 神崎が軽く頷く。光石は、スタジオ全体に聞かせるようにゆっくりと話し始めた。

 「監督の中にはね、撮影が進むにつれて、言葉を使わなくなる人がいるんだ」

 「それは、どういう意味ですか?」

 吾川が思わず問い返す。

 その声には困惑と、わずかに恐れのようなものが混じっていた。

 ゲスト席でも、相馬 恒一朗と野口エマが身を乗り出していた。

 目を見開いたまま、じっと光石の言葉を待っている。

 「集中しすぎるんだよ」

 光石はそう言って、一瞬言葉を切った。

 「思考が、構図が、映像が――

 全部、頭の中にクリアになって、言語というプロセスが、逆にノイズになる。だから、指先の動き、目線、呼吸のリズム、それで、伝えようとするようになるんだ」

 沈黙が降りた、その光景が脳裏に浮かんだとき、空気が冷たくさえ感じられた。

 「それは困るんじゃないですか」

 相馬 恒一朗の声は、どこかで自分自身に確認するような、弱々しい響きを帯びていた。

 スタジオの照明が、彼の動揺を際立たせたようにも感じられる。

 だが、光石の反応はそれとは対照的だった。

 穏やかだが、その静けさが冷たく感じられるほどに、ブレがない。

 「困る、確かに。だが」

 光石の声音には怒りも苛立ちもない。ただ、揺るぎない現実だけがあった。

 「監督に言わせれば、君は役者だろう、それが全てだ」

 相馬の表情が固まる、野口も息を飲んだまま、喉がかすかに動いた。

 二人の視線から色が抜けていく。

 それほど、その言葉は重かった。

 逃げ場も、甘えも、言い訳も、一切許さない。

 光石はさらに続ける、語り口は穏やかだが、内容は鋭い。

 「役者と名乗る以上、できないなんて言葉は使えない。時間も、カメラも、共演者も待ってはくれない」

 淡々としたその説明は、叱咤ではなく、宣告だった。

 相馬は息を詰め、拳を握った。

 自分が役者としてやっていくという意思を口にしていたことが、今、目の前で試されていると理解したからだ。

 野口は唇を固く閉じた。

 胸の奥に生まれた重たいものを、外へ漏らさないための無意識の反応だった。

 自分が軽く仕事をこなしてきたとは思っていない。

 アイドル時代から、舞台でも映像でも、求められたことは全力で応えてきたつもりだった。

 努力してきたという自負だってある。

 だが、光石の放った一言。

 「役者だろう」

 その言葉がいまだ耳に刺さったままだ。

 隣を見る、相馬 恒一朗が視界の端に映る。

 彼の表情を見た瞬間、野口は息を止めた。

 相馬の顔にも自分と同じものが見えた気がした。

 怯えと覚悟、戸惑い、決して冷静ではない。

 彼の目も、自分と同じように揺れている。

 自分だけじゃないんだ、そう思った瞬間、野口の胸の奥に、強烈なしこりが生まれた。

 もしかして、自分は今までずっと、

 生ぬるい水の中で、足の届く浅瀬だけを泳いでいたんじゃないか。

 その実感が、身体を内側から冷たく締めつけた。

 役者という言葉を使えば名乗れると思っていた。

 台本があって、演出と指示がある、その枠組みの中で努力してきた。

 だが、光石の語った世界は、まったく違う。

 誰も助けてくれない。

 待ってもくれない。

 そこで立っている自分が“役者であるかどうか”だけが試される。

 野口の胸に、苦いものが広がった。

 (私は、本当に、役者なの?)

 隣の相馬も、同じ問いを抱えているのだろう。

 その沈黙は二人だけのものではなく、

 相馬と野口の顔に走った動揺。

 だが、空気の変化に、一番最初に気づいたのは茨道だ。

 役者という職業が甘くないことくらい、芸人である自分にも理解できる。

 舞台に立つ者なら、誰だって知っている。

 観客は待ってくれない、滑れば終わり、迷えば沈む。

 光石の言葉は優しい声だった。

 それが逆に、胸に深く刺さった。

 厳しい叱声よりも痛く、重かった。

 (今、ここで言わなくてもいいんじゃないか)

 そう思う反面、

(いや、これは“本物の現場”の言葉なんだ)

 と理解している自分もいた。

 その葛藤が、表情に出ていたのだろう。

 「何か言いたそうだね」

 光石が茨道の方へ視線を向けた。

 その声は穏やかだが、こちらの動揺を見抜くような鋭さがあった。

 茨道は慌てて背筋を伸ばし、言葉を選びながら口を開く。

 「あ、あの、役者の世界が厳しいのは、わかります。演じるって、大変なんだろうって」

 茨道は唾を飲み込み、

 「監督は外国人ばかりでしょう。指示も、感覚も……日本の現場と全然違うんじゃ」

 言語が、文化が違う、言葉を発しない監督もいる。

 そんな現場で、犬の雪が、何故、演じられるのか。

 口から漏れるように言葉が出た。

 「監督は外国人ばかりでしょう」

 自分でも、今の質問が怖さの根源を突いていると分かっていた。

 「わかるぞ」

 突然、短い、場の空気を切り裂くような重い声。

 素っ気なく吐き捨てるような、顔を上げると、丸川がサングラス越しに茨道を見ていた。

 「茨道君、彼女はね――」

 不意に神崎が声をかけてきた。

  その表情はにこやかだ、いつもの役者としての余裕すら漂わせている。

 「体だけじゃないんだよ」

 その一言で、茨道の呼吸が止まる。

 神崎はゆっくりと言葉を選びながら、しかし迷いなく続けた。

 「言葉がおぼつかない相手とも、ずっと付き合ってきたんだ。相手が何をしてほしいか、何を望んでいるか、感じ取って、動いてきた」

 当たり前のように神崎の言葉は常識の外側にあった。

 言葉がおぼつかない相手。

 意思疎通が難しい人間。

 言語が曖昧で、感情だけが先走る者たち。

 「家族だよ」

 神崎は淡々と告げた。

 「高齢になれば誰でも体が思い通りに動かなくなる。怪我人もいる。まあ、細かい仔細は省こう」

 その言葉は軽く聞こえるのに、内容は重い。

 「三国さん」

 光石がゆっくりと、しかし確信を込めて声をかけた。

 三国は即座に顔を上げた。

 光石の目は、優しさと鋭さが奇妙に同居している。

 何もかも見通しているような視線だった。

 「僕たちがスタジオに現れたとき、専門家である、あなた方は、こちらを凝視していましたね」

 突きつけられるような、しかし柔らかい指摘。

 三国の胸が静かにざわつく。

  「もしかして、僕が彼女の飼い主だと思ったんじゃないですか?」

 その言葉に、葛城が小さく息を呑んだ。

 歩調、視線、距離、自然な関係性に見えた。

 葛城は唾を飲み込み、光石を見つめたまま、

 逃げ場のない問いに正直に答えた。

 「は、はい、そう、思いました」

 声が震えていた。

 専門家としての観察眼に自信があったはずなのに、

 それが“誤りだった”という事実よりも、

 その観察すら見透かされていたことのほうが怖い。

 「スタジオに入る前に、彼女は言われたんです」

 光石の言葉に、三国の心臓がわずかに跳ねた。

 「……言われた、とは?」

 三国の問いに答えるように、光石は静かに雪へ視線を落とした。

 「僕と一緒にスタジオ入りするとき、こう言われたんですよ」

 ゆっくりとフランス語を口にした。

 「Fais attention, je compte sur toi.」

 柔らかな響きなのに、言葉の奥に確かな強さがあった。

 光石はそのまま、穏やかに訳を添える。

 「気をつけてね。頼んだからね』という意味です」

 その説明を聞いた瞬間、

 三国の表情が一気に強張った。

 それは命令ではない、しつけとも違う。

 “信頼を預ける者”に向ける言葉だ。

 光石は続ける。

 「だから彼女は、僕と歩調を合わせていた、離れないように、ちゃんと気を配って歩いていた」

 言葉の通りに振る舞っていた雪を思い返し、

 三国は思わず視線を彼女へ移す。

 ただ人の隣を歩くのではない、指示に従うのでもない。

 光石は微笑んだ。

 「家族から頼まれたんです」

 その一言が、三国の胸に深く沈んだ。

 家族、その存在を知りたい。

 だが、これ以上は踏み込めないだろう。

 三国はそう思った、葛城も同じだ。


 「そろそろ、時間じゃないか」

 沈黙を破ったのは丸川だった。

 ぼそりとした声なのに、空気を一瞬で現実に引き戻す力があった。

 神崎もゆっくり頷いた。

 「だな。収録、そろそろ本番だ」

 光石が二人を振り返り、さらりと言った。

 「二人は非常口から出てくれ」

 丸川が、えっと声を漏らした。

 「非常口?」

 神崎が思わず聞き返す。

 光石は淡々と続けた。

 「記者がいるんだよ、正面にも非常口にも」

 「聞いてないぞ」

 丸川がぼやく。

 「彼女がいれば、大丈夫だよ」

 そう言って、光石はそっと雪の耳元へ身を寄せた。

 何を囁いたのかは誰にも聞こえなかった。

 だが、雪の耳がぴくりと動き、尾を軽く一度だけ振った。

 静かに、まっすぐ光石を見上げる。

 その視線は、命令を待つものではなかった。

 深い意思の通じ合いだった。

 三国が息を呑んだ。

 葛城もまた、無意識に体を前のめりにしていた。

 ゲスト席の相馬、野口、茨道の三人も、その一連の動きに言葉を失っていた。

 「おい、今の……何を言った?」

 丸川が声を張る。

 けれど光石は、あっさりと肩をすくめて、

 「内緒さ」と軽く笑った。

 「じゃあお前はどうする」

 神崎が一歩、光石に詰め寄る。

 「大丈夫。僕には最高のガードがつく」

 光石は一歩も引かず、ニッコリと笑った。

 そして、視線をゆっくりスタジオの入り口へ向ける。

 「ああ、来た」

 その瞬間、スタジオの照明が微かに揺れ、扉が音もなく開いた。


 「ミ、ミサキさんっ!」

 丸川の声がスタジオに響いた。

 その瞬間、空気が波紋のように揺れ、ざわつきが広がる。

 驚いたのは専門家である三国と葛城だ。

 黒いパーカーを深くかぶった女性の横に、静かに寄り添う巨大な影。

 三国は息を呑んだ。

 (紀州? いや違う。秋田の風格もある、純血種ではない。この体格、この毛並み、どこか北方の大型犬の血が濃く入っているのか)

 肩幅も胸の厚みも、明らかに規格外だ。

 全身の被毛には、白と黒がシャギー状に混ざり合い、日本犬の持つ均一な毛並みとは異なる個性があった。

 「……洋犬の血が混じっているのか」

 三国は思わず口にした。

 感情ではなく、専門家としての本能的な分析が声になったのだ。

 葛城も同じ衝撃を受けていた。

 (家庭犬じゃない、目つき、この体格、この存在感……

 これは“訓練”だけで説明できる犬じゃない)

 そのとき、神崎がため息のような笑いを漏らした。

 「吹雪か。参ったな」

 そして、スタジオ全体に向けて軽く肩をすくめる。

 「母親だよ。彼女の、育ての親だ」

 空気が静まり返った。

 葛城が、隣の三国を驚愕と困惑の入り混じった目で見た。

 「雌って、大きくないですか……?」

 声は震えていた。

 無理もない、目の前の犬は、雄でも引けを取らない堂々とした体格だった。

 三国はゆっくりと首を振った。

 「日本犬で、この骨格は、あり得ない」

 葛城は息を呑んだ。

 三国は胸の奥がざわついた。

 雪のあの落ち着きは訓練ではないと光石が言った。

 では、彼女がそれを学んだ母親とは、この犬のことか。

 スタジオの空気は、吹雪という名の犬が一歩入り込んだ瞬間から、目に見えて変わっていた。


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