8 記者の意地、本番前の変更とゲストの困惑
タイトルを見た瞬間、酒井は一度、目を疑った。
指でなぞるように文字を追い、日付と時間を確認する。見間違いではない。
テレビに、出るのか、胸の奥で、鈍い音がした。
数週間前。
酒井は雑誌記者として正式なルートで取材を申し込んだ。
犬の来歴、飼育環境、関係者。
どれも曖昧で、だからこそ取材価値がある案件だった。
返ってきた答えは、簡潔で冷たいものだった。
「一切の切の取材をお断りします」
理由は語られなかった。
代わりに前に出てきたのは、海外の弁護士だった。
守秘義務、契約、法的リスク。
言葉を重ねるほどに、情報は遠ざかっていった。
これは無理だなと判断して、酒井は一度、手を引いた。
無茶はしない。それがベテランの流儀だ。
だが、だからこそ。
「どういうことだ」
低く、誰に向けるでもなく呟く。
自分の取材は断る、雑誌は締め出す。
それなのに、テレビには出る。
公共性を盾にした露出。
都合のいい場所だけを選んだ情報公開じゃないか、これは、 正直、納得できるはずがなかった。
なら、終わった後だ。
番組が終わり、スタジオを出た瞬間。
カメラが切れ、台本が効力を失ったその場所で。
突撃だ。
逃げ場のない距離で、名前と立場を名乗り、問いを投げる。
答えが返ってこなくてもいい。
拒絶されても構わない、聞こうとした事実だけは、残る。
それが、記者の仕事だ。
酒井は番組の開始時刻を確認し、静かにスマートフォンを伏せた。
表情に迷いはない。
これはスクープの話じゃない、意地だ。
自分が、何を見逃さない人間なのかを確かめる為の。
本番まで、あとわずか。
控室の蛍光灯はやけに白く、静けさが逆に落ち着きを奪っていく。
ショーコはスマホの画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
通知の内容は、彼女が薄々感じていた予感を裏付けるものだった。
「光石さん、予感、当たりました」
光石は眉ひとつ動かさず、しかし視線だけをショーコに向ける。
「ミサキさんからかい?」
「非常口に数人、カメラを持った人たちが待機してるそうです」
光石は小さく鼻を鳴らした。驚き半分、諦め半分。
「さっき、野々原さんからも連絡があったよ。入口にも数人いるそうだ。さて、どうするかね」
ショーコは再びスマホを確認し、今度はわずかに笑った。
状況を受け入れた人間の、腹を括った微笑だ。
「行きは大丈夫です。問題は帰り、だから、ボディガードが来ます。祖父の入れ知恵ですね。こういうのは、派手にしないと駄目だってオーナーに言ったんですよ」
光石は、その言葉に、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「派手に?おもしろそうだな。聞かない方が良さそうだが」
ショーコは肩をすくめる程度の仕草で笑みを返す。
そして隣に座る雪に視線を落とした。
「どっきりだよ。雪、落ち着いてね」
犬の頭にそっと手を置く。
撫でるというより、確かめるように、静かに指先を置く。
雪は言葉の意味こそ理解していない。
だが、小さく喉を鳴らした。
ショーコの脳裏に、いつも家族が言っていた言葉がよぎった。
“Analysez l'ambiance et agissez en conséquence.”
――場の空気を読んで、状況に応じて行動しなさい。
それは命令ではない。
だが、この場でその教えの意味が痛いほどわかる。
記者が待つ、出演者が揺れる、番組が何かを隠し、何かを演出しようとしている。
「吾川さん、よろしいでしょうか……少し、変更がありまして」
スタッフの声が、わずかに硬い。
直前になっての変更、吾川は心の奥でため息をつく。だが表情は崩さない。
進行役としての矜持が、それを許さなかった。
「変更? あとすこ皮脂で本番だぞ」
言葉こそ穏やかだが、声の温度は低い。
スタッフは一瞬だけ視線を落とし、覚悟を決めたように口を開いた。
「出演予定だった役者の二人と犬、という構成だったのですが、光石さんも出演します。ただし、彼は役者としてではなく、通訳として出ていただく、と」
一瞬、空気が固まった。
吾川の眉がゆっくりと上がる。
通訳? 光石が?意味が分からない。
丸川も神崎も日本人、彼らに通訳が必要な理由などどこにもない。
混乱、理解不能に対する冷たい拒否反応だった。
誰のための通訳なのか。
何を翻訳するつもりだ、何故、それを今、知らせるのか。
疑問は連鎖し、答えはどれも霧の奥に沈んでいた。
スタッフは喉を鳴らしながら言う。
「犬についてということでしか、詳しいことは」
わからない、その言葉ほど、信頼を崩すものはない。
吾川は舌打ちしたかった。
代わりにスタジオの時計を見た、本番まで、少しだ。
理由を尋ねても、どうせ答えは返ってこないだろう。
そして、答えを知らされない自分たちがどう扱われているかも、嫌というほど理解できた。
胸の奥が、じわりと熱くなる。怒りとも不安ともつかない感情が広がる。
「わかった。対応する。段取りだけ確認させてくれ」
それはプロとしての声だった。
本番開始のライトが落ち着きを失わせる中、スタジオの扉が静かに開いた。
入ってきたのは、丸川と神崎。
だが、視界に飛び込んできた二人は、吾川が事前資料で見てきた彼らとは、まるで別人だった。
丸川は、全身黒のスーツ。
漆黒の生地がスタジオの光を吸い込み、無駄のないラインが異様な存在感をまとわせる。
サングラスは舞台照明を返してわずかに光り、表情は読み取れない。
神崎は対照的に、白と黒のツートンカラーのスーツ。
斜めに走る色の切り替えが強烈な輪郭を描き、首にはゆったりと巻かれたスカーフ。
帽子の影が目元に落ち、洒落ているというより異国の匂いさえ漂わせていた。
二人は、日本の脇役俳優として知られていた。
台詞のない通行人。
主役の背景でしかなかった者たち、資料の写真でも、飾り気のない、どこにでもいる中年男性だった。
(誰だ? 本当にあの丸川と神崎なのか?)
資料に載っていた姿など、跡形もない。
衣装の質、纏う空気、視線の強さ。
どれも日本のブランドでは作れない品と迫力だった。
視界の端で、相馬 恒一朗が固まっている。
「え……あの人たち、こんな格好する人だった?」
そう言葉にならない声が顔に出ていた。
野口エマも同じだった。
「あれ、どこのブランド、日本じゃないよね?」
唇がかすかに震えている。
華やかなステージに慣れたはずの彼女でさえ、言葉を失っていた。
理由は明白だ、脇役が持つはずのない気配が二人にはあった。
そのとき、スタジオの入口から、硬質な音が連続して響いた。
乾いたリズム。床を叩く鋭いタッチ。
阿川は反射的に理解した、犬の爪音だ。
音に引き寄せられるように、全員の視線が入口へ向く。
姿を現したのは白地に黒の斑の犬だ。
巨体が一歩進むたび、スタジオの空気が震える。
誰もが事前資料で雌のグレートデン”と理解していた。
だが、今目の前に立つその犬は、それを遥かに上回る。
(……大きい。)
阿川だけでなく、スタッフ全員が同じ感想を飲み込んだ。
次いで、犬の横に白髪混じりの男性が現れた。
メガネをかけ、落ち着いた色合いのスーツ。
背筋はまっすぐ、歩き方に無駄がなく、まるで大学の大講堂からそのまま抜け出してきた教授か、研究機関の主席研究員のような佇まい。
静けさの中で、ゲスト席の二人が同時に異変に気づいた。
三国の目が鋭く細くなる、葛城の口元が緊張で固まる。
「リード、つけてない」
葛城の声は驚いている、無理もない。
「大型犬でしょう、危険では」
犬は、男の隣をまるで影のように歩いていた。
一定の速度、一定の間隔、一定の呼吸。
その均一性が逆に異質だった。
三国は目を細め、スタジオの隅から隅まで視線を走らせた。
大型犬を扱う現場なら、必ずいるはずの存在を探すためだ。
――飼い主。
――ハンドラー。
――トレーナー。
しかし、どこにもいない、犬の動きに合わせて緊張するスタッフもいなければ、制御のために構えている人間もいない。
葛城が息を殺したまま呟いた。
「あの男性が、飼い主なんでしょうか?」
問いは自然、しかし、その不安は明確だった。
三国はすぐに返さない。
答えられないわけではない。
判断材料が、妙に少なすぎた。
視線を横へ移す。
犬の並びを歩く光石。
淡々とした足取り。緊張を見せない肩の動き。
だが、その歩き方に犬を導いている者の特徴はなかった。
三国は犬の横を歩いている光石に視線を向けた。
男の歩幅は一定で、ためらいがない。
犬はその速度に合わせるように、自然に隣を歩いている。
引かれているわけでも、指示されているわけでもない。
合わせているように感じられた。
光石は役者二人の前で足を止め、犬の方を見て微笑んだ。
「C'est toi la star ce soir, ma belle.」
スタジオに、意味のわからない言葉が落ちる。
だが、その調子だけで十分だった。
今夜の主役は君だ――お嬢さん。
犬は軽く尻尾を振った、そして迷いなく神崎の隣へ移動し、
ゆっくりと腰を下ろし、伏せの姿勢になる。
神崎は、それを見て口元を歪める。
「君の贈り物を、彼女はとても気に入ったようでね。」
その言葉に、三国と葛城の視線が犬に向けられた。
「折角のTV出演だからね」
神崎の一言は軽い調子だ、司会席とゲスト席を見渡し、口角を上げた。
「ビジョンブラッドの一点ものだよ」
その名を聞いた瞬間、吾川の思考が一拍遅れた。
ビジョンブラッド――世界でも限られた富裕層しか手にできない最高峰の宝飾ブランド。
一点ものを犬に?
演出としては、いや、やりすぎどころの話ではない。
返答を探していた吾川の思考を断ち切るように、神崎がさらに一言。
「イミテーションじゃない。本物だ。」
笑顔は柔らかい。
だが、その事実だけが異様に重く落ちてくる。
近くにいた三国と葛城にも、確実に届いた。
「嘘でしょう……」
葛城が小さく息を呑んだ。
その反応はゲスト席にも即座に波及した。
相馬 恒一朗は「ちょ、ちょっと待って……」と、顔の表情が完全に固まる。
隣の野口エマは、顎に手を当てながら宝石を凝視し、「あれ……絶対日本のブランドじゃない……海外の……本物……?」と小声で混乱していた。
そして、静まり返るスタジオの中で、一番声を張ったのが茨道だった。
「えっっ、あの宝石、本物ってことですか!? 犬に!? それ首輪って?」
その叫びは緊張を裂きつつも、妙にリアルでスタジオ全体の温度をわずかに戻した。
だが、誰の顔にも笑いはない。
吾川は視線を首輪に戻す。
銀の鎖は太く、装飾というより“儀礼品”のような存在感。
赤い宝石はライトを受けて強く光り、本物が持つ“深さ”だけが静かに証明されていた。
三国の表情が険しくなる。
葛城はただ宝石を見つめ、喉を鳴らした。
「おい」
丸川の低い声が、スタジオの空気を一気に重くした。
普段は控えめな男が見せる、不機嫌さを含んだ声音。
神崎も、ゲストも、スタッフも、その声に自然と注意を取られた。
「選んだのは店長。しかも寄贈だ。お前の手柄みたいな言い方じゃないか」
淡々とした言い方だが、誤魔化しの余地はない。
神崎は肩をすくめ、「おい、そこは言わないでほしかったよ」と苦笑いをした。
その瞬間、スタジオが静かになった。
二つの言葉が、場を刺すように落ちていった。
吾川は一瞬、呼吸のタイミングを失った。
(寄贈? あの一点ものを? 犬に?)
宝飾店が一点物を“寄贈”など、通常あり得ない。
顧客ではなく、犬へ。
テレビ演出ではなく、個人の企画ではなく、寄贈。
そこに商業的な意図ではない“何か”が存在する。
ゲスト席でも、顔色が一斉に変わった。
相馬 恒一朗は半ば呆然としたまま、神崎と犬、そして宝石の首輪を見比べている。
「寄贈って、え、それ本当に……?」
声がかすれる。理解が追いついていない。
野口エマも眉を寄せ、頬がわずかに強張った。
「一点物を……お店が、犬に……?」
彼女の言葉はかすれ、最後は空気に溶けていった。
茨道さえ、さっきの軽口が完全に消えている。
「寄贈って……普通、ありえないですよね……? 芸人にだって来ねぇのに……犬に……?」
三国は黙ったまま首輪を見つめていた。
その沈黙は、肯定でも否定でもない。
ただ“事実を受け止めている”専門家の重さを含んでいた。
葛城が一歩、前に出た。
声を張ることはしない。だが、質問する覚悟ははっきりと見えた。
「質問、よろしいですか」
光石が視線を向ける。
葛城は犬から目を離さず、静かに言葉を選んだ。
「大型犬なのに、とても落ち着いています。周囲に過剰な反応も見せない。これは、躾が相当行き届いている、という理解でいいのでしょうか」
専門家として、ごく正当な問いだった。
光石は、即座には答えなかった。
ほんの一拍、間を置いてから、ゆっくりと首を振る。
「大人しいと躾は同等ではないんだがね」
光石のその言葉は、穏やかでありながら、どこか深入りするなという空気を含んでいた。
彼は続ける。
「母犬、家族、それらを見て、学んだんだ。最初からうまくはいかない。失敗もある。だが、時間と愛情、理解があれば身につく。環境も大きく関係しているだろうね」
葛城の眉がピクリと動いた。
動物保護を専門とする彼女にとって、“環境”という言葉は重い意味を持つ。
「つまり……」
葛城は慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「この落ち着きは、訓練というより、育った場所、そのものの影響が強い、ということですか?」
三国は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に鋭いものが刺さるような感覚を覚えた。
(犬自身だけじゃない。取り巻く環境が、特異だったということか)
「母犬を見て学んだことも大きいだろうね」
光石は何気なく言った。
その一言が、葛城と三国の神経を同時に刺激した。
「あ、あの……母犬というのは……どういう……?」
光石は静かに首を振った。
「出産と同時に亡くなったよ」
光石は淡々と続ける。
事実をただ差し出すように。
「だから、彼女のような存在は、もう産まれてくることはないだろう」
三国の中で母犬から学んだという言葉が、急に形を変えていく。
(実母じゃない、育てた“別の母犬”がいた?)
それは予想しない答えだ。
光石は続ける、声は優しく、しかし確固としていた。
「だから、オーナー、飼い主、家族は彼女をとても大切にしている。家族だからね」
光石はにっこりと笑った。




