6 役者たち、対策をする
その日、監督の佐川と原作者の水川、そして四人の役者と雪が初めて顔を合わせた。
控室の扉が開いた瞬間、空気がわずかに変わる。
「確かに、大きいわね」
最初に声を上げたのは野々原だった。
雪を見た光石と神崎も、思わず息をのむ。
ただの大型犬とは違う――落ち着きがある。
人の気配を読むような静けさがあった。
歩行の難しい家族の介助をしていたと聞いていたが、なるほど、と誰もが納得した。
「実は、聞いてほしいことがあるの」
野々原が言った。
声の調子が少しだけ硬い。
彼女はスマホを取り出し、画面を軽く見せた。
「最近ね、雑誌だけじゃなくて、テレビ局からも取材の連絡が来てるの」
「君もか?」
驚いたように光石が顔を上げた。
神崎も小さくうなずく。
「俺のところにも来たよ。制作の問い合わせ窓口は海外にあるって言ってるのに、通じないみたいで。今度は役者を直接狙ってきたんだろう」
一瞬、場の空気が静まる。
佐川と水川は同時に顔をしかめた。
どちらも言葉を選ぶように黙り込む。
「……ここまで来たか」
水川がぽつりとつぶやく。
「まだ撮影も始まっていないのに」
佐川は腕を組んだまま、雪のほうに視線をやる。
雪は何も知らないように、ただ静かに座っている。
「「テレビ出演、してみようか」
ショーコが口元をゆるめ、にやりと笑った。
「一度だけって、公式に出してさ」
唐突な提案に一瞬場が静まる。だが、その静けさはこれまでの重苦しさとは違っていた。
光石が腕を組み、しばらく考え込んでから小さく頷く。
「万全の準備をして、そのほうがいいかもしれない」
彼の声に空気がわずかに動く。
神崎が眉を上げ、野々原が目を細めた。
「司会やゲストもいるだろう。対策を練って、内容を映画の話に絞れば問題ない。インタビューは作品のことだけ、釘をさしておけばいい」
光石の言葉に、佐川と水川が同時に顔を上げた。
その目に、ほんの少しの希望が灯る。
案外、そのほうがうまくいくかもしれない。
その日の夕方、公式にメッセージがUPされた。
「映画の撮影に入ったら忙しくなると思います。雪は家庭犬です。制作サイドとして、今回、一度きりのTV出演を考えています。」
数分後。
公式サイトが更新された。
通知を見たファンたちは、一斉に画面を開く。
白地に黒文字。飾り気のない文章。
けれど、それだけで十分だった。
SNSのタイムラインが、嵐のように動き出す。
《雪が……出る?》
《ついに“動く雪”が見られる!?》
《一度きりって、どういう意味!?》
誰もが驚き、喜び、そしてざわめいた。
数分のうちに雪の名前がトレンドの頂点に躍り出る。
報道局・会議室。
最初に声を上げたのは、若いディレクターだった。
「BBCとCNNが、“日本映画『雪』の特集を検討中”って。ネットで記事が回ってます」
数人が顔を上げた。
編成部長が眉をひそめる。
「本当に? あれ、ただの噂じゃなかったのか?」
「最初はそう思ったんですが……」
ディレクターは資料を開く。
「海外の公式ドメインから日本の映画広報に問い合わせが入っていたようです。」
ざわめきが走る。
「……動いてるのは海外か」
広報担当が低く呟いた。
「こっちがモタついてる間に、向こうに先を越される」
「ちょっと待て」
情報番組のチーフプロデューサーが手を挙げた。
「国内の出演はどうなってる?」
ディレクターは言葉を濁す。
詳細が出てこないのだ。
出演の連絡を受けたとき、吾川は思わず聞き返した。
報道畑で二十年以上、政治家から企業経営者まで、
数え切れないほどの話しづらい相手と対峙してきた。
会社の社長、世間で言う成功者、作家、政治家、色々だ。
だが今回の話は、どう考えても自分の仕事ではないと思ったのだ。
「他局が取り合っているんです」
プロデューサーが真顔で言った。
「そんなに噂になっているのか」
吾川は思わず苦笑した。
犬が出る映画、それも、まだ公開前だ。
世の中にはニュースが山ほどある。
たかが犬の映画で、他局が取り合うなど考えもしなかった。
「役者も個性的と言うか、今まで主役をやった有名な人はいないんです」
スタッフの説明に、吾川は眉をひそめた。
「それで大丈夫なのか?」
「皆、実力者なんです。海外の舞台、一人芝居、そういう人たちです」
その言葉に、吾川は一瞬、言葉を失った。
報道の世界では、話題性と実績がすべてだ。
視聴者が知らない名前の役者で番組が成り立つとは思えない、大丈夫なのかと思った。
だがスタッフの目には迷いがなかった。
番組前の前日ね打ち合わせに来たのは丸川と神崎という役者の二人だ。
控室に入った瞬間、阿川は違和感を覚えていた。
「監督と原作者は?」
何気なく尋ねたつもりだった。
返ってきた答えは、想定の外側にあった。
「来ない。本番にもだ。」
丸川の淡々とした言い方は、むしろ重さを増幅させた。
阿川は驚いた。
映画のプロモーションに監督と原作者が姿を見せない。
理由を聞くべきか?
だが、丸川の顔には踏み込むなという気配があった。
モヤが残ったまま、次の言葉が投げられた。
「吾川さん、大事なことだ。」
丸川が一歩、身を乗り出す。
その眼差しは、さきほどよりも鋭い。
「犬のプロフィール、飼い主、どこに住んでいるか、そういう話題には触れないでくれ。」
まただ。
また説明のないルールだ。
阿川は思わず眉を寄せた。
「家庭犬ですよね? 宣伝的にも紹介できる部分は多いはずですが。」
神崎が口を挟むように言った。
「撮影が終われば家族の元に戻る。だから今日も連れて来なかった。」
言い方が、何かを隠している人間のそれに近い。
事実だけを並べているようでいて、肝心な部分だけ抜け落ちている。
阿川は頷いた。
キャスターとしての習性で表情は保つ。
だが内心では、納得などできていない。
監督も来ない。原作者も来ない。
そして犬の話題だけが、異常なまでに封じられる。
ついに阿川は口を開いた。
「理由を聞いてもいいですか。」
沈黙のあと、丸川が短く答えた。
「オーナーの意向だ。」
初めて出てきた単語、だが、それが雪の飼い主を意味しているわけではないと、声の質で分かる。
聞き返すと、丸川はさらに淡々と告げた。
「母犬の飼い主だ。」
母犬の飼い主が決めている?
阿川の胸に、はっきりとした混乱が生まれる。
ピースは増えるのに、絵柄はむしろぼやけていく。
――雪の飼い主は別にいるのか?
――家族の元に戻ると言ったはずだ。
――なぜ母犬の飼い主がオーナーと呼ばれるほどの権限を持つ?
分からない。
説明が辻褄を結ばない。
そして監督も原作者も、この場にいない。
彼らが欠席している事実が、逆にすべてを重くする。
阿川は、表情を崩さぬよう静かに息を吸った。
神崎が、不意に柔らかい笑みを浮かべた。
その笑顔は、表面だけを器用に整えたような、不自然な温度を帯びていた。
「それと大事なことだが、犬の専門家、保護団体の人間もゲストには来るんだろう。」
軽い調子に聞こえるが、声の奥には妙な張りがある。
神崎は続けた。
「言い含めておいてくれないか。お互いにトラブルは避けたいだろう。」
トラブルという言葉が放たれた瞬間、空気の色が変わったように感じた。
神崎の笑顔とは裏腹に、部屋の温度がわずかに下がる。
阿川は口を開こうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
トラブルとは何を指すのか?
犬のプロフィールに触れた程度で、どんな問題が起きるというのか?
なぜ、ゲストにまで警戒を広げる必要がある?
疑問は次々に浮かんだ。
だが、言葉にできない。
丸川も神崎も、笑ってはいる。
不用意に触れれば崩れる均衡のようなもの。
阿川は、喉元に詰まった疑問を押し込むようにして、ただ静かにうなずいた。
理解したわけではない。
諦めたわけでもない。
この場では、真実への扉が固く閉ざされていると思った。
丸川と神崎の言葉――
「犬のプロフィールには触れないで欲しい」
その不自然な制限は、阿川の中でずっと重く沈んでいた。
理由も告げられないまま質問を封じられる。
そんな経験はほとんどない。
不満は言葉にはならないが、確かに胸の奥で燻っていた。
だからこそ、ゲストとして参加する二人――
経験豊富な三国慎一郎、そして若く熱量のある葛城遥に相談することにした。
控室の一角。
落ち着いた空気が、逆に緊張を際立たせる。
三国が静かに口を開いた。
「家庭犬なんですよね。公式にも詳しい事は出ていない。」
阿川はわずかに躊躇し、それでも頷いた。
「詳しい情報は公開されていません。オーナーの意向らしいんです。」
その瞬間、葛城の表情が変わった。
わずかな陰が走る。
納得していないのが一目でわかる。
「オーナーって……誰です?」
抑えた声だったが、刺すような鋭さがあった。
「母犬の飼い主だそうです。」
黙り込む葛城。
表情の奥で、疑問と苛立ちが入り混じっている。
三国は小さく息を吸い、軽く頷いた。
「そうですか。」
「血統を隠しているんじゃないんですか。」
三国の言葉は、乾いた音もなく落ちた。
空気が揺れた気がした。
阿川は、呼吸を忘れた。
その言い方は、確信めいた重さを帯びていた。
「おかしくないですか。」
葛城が食い気味に反応した。
声には不満が滲み、表情には戸惑いと怒りが混ざる。
三国の言葉が、彼女の信じる犬の扱いの正しさを揺さぶったのが一目で分かる。
三国は、葛城の反応にも動じずに続けた。
「もし、母犬と父犬が亡くなっていたらどうです。写真だけで、かなり大きな犬だったと噂になっている。」
阿川は凍りついた。
だが、三国が軽々しく言うはずがないという確信が同時に胸に刺さる。
葛城は首を振り、否定しようとしたが、言葉が追いつかなかった。
彼女の信じる“犬は守られるべき存在”という世界に、現実の影が落ちていく。
三国は表情を引き締めた。
眼差しが鋭く、重くなる。
「この犬がTVに出た、素晴らしい犬だと評価されたとしましょう。」
声は淡々としていた。
だからこそ、残酷なほど現実味を帯びていた。
「同じ犬が欲しいと思った人間が現れる。そういうことは、過去に何度もあった。彼らはまず、血統を調べるはずです。」
三国は一呼吸置き、二人の反応を確認した。
阿川も葛城も、まだ言葉が返せない。
次の瞬間、三国はわずかに語気を強めた。
「母犬も父犬もいない。亡くなっているとしたら、どうします?」
阿川の胸が強く掴まれたように痛んだ。
葛城も、目を見開いたまま固まっていた。
三国は二人の沈黙を確認して、静かに続けた。
「答えを求めて、血統を遡るでしょう。親兄弟、親戚筋……探し回る人間が必ず出ます。」
一語一語が、刃のように冷たかった。
阿川は、喉の奥がじんと痛むのを感じた。
葛城は拳を握ったまま震えている。
三国は最後に、低く言った。
「そんな探りの過程で、何か事件が起きたらどうします。」
答えられない。
二人とも、沈黙しか返せなかった。
「ここは日本です、そんなこと」
葛城の声は怒りと困惑が混ざっていた。
「ないと言えますか、葛城さん。」
三国の声は静かだった。
だが、その静けさが葛城の叫びを否定し、現実に引き戻す力を持っていた。
葛城は何かを言い返そうと口を開く。
しかし、声が出ない。
怒りはある。反発もある。
だが、それを支える根拠が言葉にならない。
葛城の視線が揺れる。
三国は、彼女を責めるでも慰めるでもなく、ただ冷静に受け止めた。
そしてゆっくりと、今度は阿川へ視線を移す。
「制作側はオーナーの意向を守っている。だから過度な露出を避けている、そう思えませんか。」
説明ではない、理解を促すための問いかもしれない。
だが、阿川にとっては問いというよりも、逃げ場のない現実の提示のように感じられた。
言い過ぎた、三国は、自分の言葉が二人に与えた重さをようやく自覚したようだった。
わずかに視線を落とし、口調を和らげる。
「勿論、これが正解ではないかもしれません。映画のPRのため、単に宣伝上の演出として情報を抑えているだけ、そういう可能性も十分にあります。」
その言い方は慎重で、さっきまでの鋭さを和らげる、逃げ道のようだった。
三国は、一度葛城の安堵した表情を確認すると、今度はゆっくりと阿川へ視線を戻した。
その眼差しは、先ほどのような鋭さとは違う。
もっと深く、底の見えない静けさを湛えていた。
「母犬のオーナーの意向と言いましたね、吾川さん。」
阿川は反射的にうなずく。
「はい。それが制作側の説明でした。」
三国は短く息を吸い、言葉を慎重に置く。
「飼い主ではないことが気になります。」
その一言が、胸の奥に沈んでいた不安を確実に揺り動かした。
表情には出さないよう努めたが、心拍だけがわずかに跳ねる。
「オーナーのことも出ていませんよね。」
(三国さん……なぜ、そんなところまで気にする?)
阿川は自分の脳内に浮かんだ問いを、言葉にできなかった。




