5 ポスター、広告、ファンの驚き
その日の撮影は、ようやく一区切りついたところだった。
若手アイドルは衣装の胸元をゆるめ、子役はスタッフに肩を叩かれながら笑っている。
現場には、終わり特有の気の緩みと安堵が漂っていた。
光石は、今日の役――
名前もない“通行人A”のまま、静かに控え室へ戻ろうとしていた。
そのとき。
スタジオの扉が、まるで空気を裂くように開いた。
長身の外国人女性が姿を現した。
紺色のシックな装い。
動きの一つひとつに品があり、
彼女の存在だけで周囲の光が変わるようだった。
「……誰?」
若手アイドルが息を呑む。
「関係者……じゃないな……」
メイクスタッフの手が止まる。
女性は、視線をスタジオ全体に滑らせた。
探すものを確かめるように、静かで冷静な目だった。
そして、迷わず光石の前に歩み寄った。
女性は深々と頭を下げる。
「Je suis prêt à tourner, si vous le souhaitez.」
――撮影の準備が整いました。
「N'était-ce pas prévu pour demain ? Non, nous sommes prêts.」
――明日の予定ではなかったか? いや、こちらは準備ができている。
そのやりとりの “意味” は誰もわからない。
子役が、不安げに隣のマネージャーの袖を握った。
「ねぇ……何て言ってるの……? 英語じゃないよね……」
若手アイドルは顔を曇らせた。
「フランス語……だと思う。光石さん……普通に話してる……どういうこと……?」
二人の会話が続くたび、
スタジオの空気が圧に押されるように沈む。
女性は光石の返答に満足したようにふっと微笑んだ。
スタッフが最初に異変に気づいたのは、
スタジオ入口の影に立つ長身の男性だ。
無駄が一切ないその姿は、映画の世界から切り抜かれてきたようだった。
誰も言葉を出さない、あまりにも場違いで、説明のつかない存在だったからだ。
女性は光石へ小さく頷いた。
“こちらへ”と促す、ごく自然で、しかし抗いようのない仕草。
光石は迷いなく立ち上がり、
その合図に従う。
黒服の男が一歩前に出る。
動きは静かで、しかし鋭く、
スタジオ内部へ侵入してくるどんな視線からも二人を遮るような配置だった。
三人が動き出した瞬間、
若手アイドルは口を半開きにしたまま固まり、
子役は椅子の縁を両手で握りしめて震え、
スタッフたちは、光石の背をただ目で追うことしかできなかった。
佐川と水川が立ち上げた公式サイト。
沈黙を破って公開されたキャスト欄を見た瞬間、ファンのスレッドはざわつきではなく、
静かな困惑”で満ちた。
丸川、神崎、野々原、光石。
誰一人、テレビで主役を張るような有名俳優ではない。
検索しても、ドラマ出演履歴は少ない。
脇役、通行人、名前すら出ない役ばかり。
さらに異様なのは――
監督名が四つ、すべて外国人、佐川の肩書は“まとめ役”。
公式サイトのそのページを見たファンは、
ほぼ同時にフリーズした。
「え? 監督四人?」
「全部外国人ってどういうことだよ」
「まとめ役……って何?」
そのとき、一つのスレッドが立てられた。
『舞台好きですが、このキャスト、普通にヤバいです』
そんな不安の漂うスレッドに、ひとつの投稿が落ちた。
「舞台好きなんですが、このキャスト、ガチですよ。」
その言葉で状況は一変する。
投稿主は淡々と書き込んだ。
「野々原さんは海外では有名、オーディションで老人に化けて審査員を騙しました。女優ではなく役者と呼ばれたいって言ってました。」
スレッド全体が凍りついた。
『老人に化けた?』
『審査員を騙した?』
『役者って呼ばれたいって』
一気に遠い異世界の話に変わってしまう。
さらに、別の書き込みが追い打ちをかけた。
「俺、偶然ロンドンで光石の芝居を観た。一人芝居で三時間。もう50近いのに、海外のプロデューサーが“ぜひ来てくれ”って招いたらしい。」
スレッドに落ちたのは沈黙だ。
『……三時間……一人で……?』
『そんな人、日本ではただの脇役?』
喜びよりも先に、不安が広がった。
知らなかった。
そんな怪物が、日本のテレビの隅で“通行人A”をしていたなんて。
公式サイトが更新された。
画面上部に浮かび上がる、それを開いた瞬間、ファンの息が止まった。
写っていたのは、四人の俳優と一匹の犬。
それだけの構図だった。
だが、画面越しにも圧倒的な「何か」があった。
神崎は全身白。
帽子とスカーフが柔らかな光を反射し、まるで存在そのものが輪郭を曖昧にしている。
純白であるはずなのに、そこには「冷たさ」と「孤独」が滲んでいた。
対して丸川は黒のスーツ、サングラス。
隣に立つだけで、空気が重く沈む。
彼の立ち姿は静かだが、視線の奥に暴力のような緊張を孕んでいた。
野々原は黒のドレス。
帽子の影が目元を覆い、表情がまったく見えない。
だが、その見えなさがかえって妖しい存在感を放っていた。
黒い布地の下に、人間とは違う何かが潜んでいるような気配、まるで“秘密”そのものが、そこに立っているかのようだった。
そして中央に、光石。
椅子に腰掛け、ノートパソコンを開いている。
白髪混じりの髪、細い眼鏡の奥の思慮深い眼差し。
指先の動きまで計算されたように繊細で、
「通行人役」だったはずの俳優が、
まるでこの物語全体の“司令塔”のように見えた。
だが――視線は、自然とその隣に落ちた。
白地に黒の斑を持つ、巨大なグレートデン。
構図の中で、四人の人間と対等に――いや、むしろ中心にいる。
「……犬、でかくないか」
「雌なんですよね? なのにこの体格……」
「てか、この一枚、犬が“主役”に見えるんだけど」
掲示板がざわめき出す。
それぞれが違う方向を見ているのに、
ひとつの絵の中で完璧な均衡を保っていた。
映画のポスターにも、雑誌のグラビアにも見えない。
コメント欄は静かに、しかし熱を帯びて動き始める。
「今まで主役を演じていないって、本当か?」
「どの人も顔を知ってる気がするのに、思い出せない。
でも雰囲気が……尋常じゃない。」
「脇役ばかりって聞いてたけど、これ、主役の佇まいじゃん。」
役者たち、一人ひとりの写真の写真もUPされた。
神崎。
白いスーツ、白のシャツ、ノータイ。
無駄のない装いなのに、どこか貴族的な艶があった。
だが、視線を奪ったのは彼の両隣に立つ二人の女性だった。
片方は金髪、もう片方はシルバーグレイ。
長身で、黒いドレスを纏い、彫刻のように整った顔立ち。
照明が柔らかく当たっているのに、冷たく美しい。
神崎は二人の間に立ち、口元に笑みを浮かべていた。
挑発的でもあり、同時に完全な余裕の象徴でもあった。
「……え? 両脇の女性、誰?」
「海外の女優だ。金髪の人、映画祭で見たことある。」
「もう一人もたぶんモデル出身。海外勢と並んで違和感ゼロって?」
「普通、日本の俳優が外国人の美女に挟まれたら“映え負け”するのに。」
丸川。
黒いスーツに黒いシャツ、ネクタイはない。
鋭い輪郭の頬、無精髭、サングラス。
その立ち姿は影の気配があった。
周囲を囲むのは、数人の外国人男性たち。
全員が黒のスーツにサングラス。
腕には刺青、ネクタイもしていない。
「映画じゃなくて実写の裏社会みたいだ。」
「外国人のエキストラにしては異様にリアル。
「写真なのに、殺気みたいなのが漂ってる。」
「でも丸川が負けてない。むしろ彼が真ん中に立つだけで、全員の立ち姿が整って見える。」
「丸川、サングラスの奥で笑ってる。自分がどんな世界に立ってるか、完全にわかってる顔だよ、これは。」
野々原。
黒のドレス、深いVライン。
肌を露出しているのに、寒々しい夜気の中ではまるで影の一部のように見えた。
帽子のつばが深く下り、表情は完全に隠れている。
街灯の下、背後には雑踏がかすかに滲んでいた。
彼女のすぐそば――舗道に、ひとりの浮浪者らしき人物が座っている。
顔は、写真の構図の中でも完全に闇に沈んでいた。
膝を抱え、何かを差し出すような仕草。
野々原はそれに、ゆっくりと視線を向けている。
「……この構図、怖くない?」
「まるで、何かの取引の瞬間みたいだ。」
「事件の関係者じゃないか」
光石。
場所は、どこかのキャンパスのようだ。
昼下がりの穏やかな光の中、外国人の男女が数人、彼の周りに集まっている。
笑っている者、真剣に耳を傾けている者。
光石は落ち着いたグレーのスーツに淡いブルーのシャツ。
手には本を一冊。
まるで、大学教授、そうとしか見えなかった。
ファンの間で、共通の感情が芽生え始めていた。
「今まで本当に脇役だったのか? 信じられない。」
「この四人、全員、主役の顔をしてる。」
「映画の中で、誰が主役とか脇役とか、関係ないよ。」
ベテラン記者、酒井は、取材帰りの編集部で湯気の立つコーヒーを手に、無意識にマウスを動かしていた。
仕事の惰性で覗いたネットニュース――しかし、その中に奇妙な静けさを放つサイトがあった。
「映画『警察をやめた男と愛犬の物語』公式サイト」
開いた瞬間、彼は眉をひそめた。
何かがおかしい。
文字情報が圧倒的に少ない。
派手なバナーも、企業ロゴもない。
公開日すら、どこにも記されていなかった。
それなのに、アクセス数のグラフだけが異常な伸びを見せている。
「……なんだ、これは」
思わず独り言が漏れた。
普通なら、新作映画のサイトなどスポンサーとタイアップで埋め尽くされる。
主演俳優のコメント、主題歌のタイアップ、雑誌掲載情報、 プレゼント企画――
どれも広告代理店が仕掛ける“定型”の宣伝。
だが、これは違った。
写真だけ。
文字は最小限。
情報は意図的に絞り込まれている。
まるで“語る”ことを拒むサイトだった。
ふと、ページ下部のコメント欄に目が止まる。
ファンたちの声が流れていた。
「日本のスポンサー、完全に関わってないって本当?」
「強気だな。普通ならあり得ないだろ」
「雪の写真、もっと見たい」
酒井は唇の端を僅かに吊り上げた。
世の中、何をやるかじゃない。
何を隠すかで、人は惹きつけられる。
画面を閉じる直前、彼はもう一度、公開された四人の俳優の写真を見直した。
神崎、丸川、野々原、光石。
誰もが、これまで“脇”の役者。
それが今、写真一枚で世界を掌握している。
酒井の中で、長年の“記者の勘”がざわついた。
プロモーションの形式を完全に捨てている。
芸能界の構造、広告の常識、マスメディアのルール――
そのどれにも従っていない。
――何かを隠している。
だが、それは悪意の隠蔽ではない。
酒井の胸に久々に記者としての血が騒いだ。
情報が少なすぎる。
しかし、少なすぎるということ自体が最大の情報だ。
取材を申し込もう、断られてもいい。
酒井の指が、無意識にキーボードを叩いた。
文面は短く、そして慎重だった。
「水川・佐川両氏へ。
新作映画に関し、取材を希望します。」
送信ボタンを押すと、酒井は深く息をついた。
胸の奥に、長年忘れていた感覚が蘇っていた。
――真実を嗅ぎ分ける快感。
酒井はパソコンの画面に表示されたメールをじっと見つめた。
数日後、返事は来た、だが、何語だこれ?
スクロールしても、日本語のひとかけらもない。
見慣れない綴りに記号がついている。
「……これはちょっと無理だな」
翻訳サイトを立ち上げようとしたが、ふと隣の席の若い後輩に声をかけた。
「スマン、これ、わかるか」
後輩はモニターを覗き込み、瞬時に顔をしかめた。
「これ、フランス語っぽいですね」
「フランス語?」
酒井は思わず声を漏らした。
「相手、たぶん弁護士ですよ。弁護士か、法務の担当です」
後輩、藤野の言葉に、酒井の中で何かが凍った。
ただの映画の取材だ。
公開前の情報を軽く取るだけ。
まさか、弁護士が出てくるような話じゃない。
「そんな大ごとじゃないはずだろ」
自分でも気の抜けた声だと思った。
だが藤野は笑わなかった。
真剣な目で、まっすぐこちらを見ていた。
「変な案件じゃないですよね」
短い沈黙。
「いや、映画の取材だよ。監督と出演者の話を――」
説明しかけて、言葉が途切れる。
自分でも、声が弱々しいのがわかった。
酒井は一瞬、息を呑んだ。
その反応を見て、藤野の表情がさらに硬くなる。
「映画の取材ですよね?」
酒井は思わず笑ってごまかそうとしたが、声が乾いていた。
「もちろんだよ。ただの映画だ。」
自分で言いながら、妙な違和感が残った。
藤野はしばらく黙っていた。
その沈黙が重く、編集部の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げ、酒井をまっすぐ見た。
「僕、海外の映画祭とかの取材サポートやったことがあります。 でも、弁護士が直接、返事してくるなんて一度もなかったです。普通は広報か、制作事務所の担当者が出てきますよ。」
声は落ち着いていた。
酒井は頷くことも、否定することもできなかった。
藤野の視線が痛い。
ただの確認のようでいて、そこには微妙な距離――
言葉を探した。
だが、見つからなかった。
口を開けば弁解になる気がした、だが、閉じれば認めたように思われる。
どちらに転んでも正解がない。
ベテランのつもりだった。
だが今、自分の机の前で、酒井は居心地の悪さを覚えていた。




