4 役者たち、動き始める
丸川、神崎、野々原、光石の四人は、狭い会議室に肩を寄せ合うように座っていた。
オーディション合格の知らせを受けたばかり――本来なら、祝杯を上げてもいい。
だが誰の顔にも笑みはない。
胸の奥で膨らむのは期待ではなく、これから踏み入れる未知の現場に対する緊張だった。
そんな四人の前で、原作者の水川と映像クリエイターの佐川が深く頭を下げた。
「僕も水川さんも若い。皆さんから見れば、経験も常識もまだ足りません。それでも、この企画は必ず成功させます」
佐川の声は落ち着いているようで、わずかに震えを帯びていた。
覚悟と不安が混ざり合う音だ。
続けて彼は、真剣な眼差しのまま言葉を選んだ。
「最初はネット配信のドラマにするつもりでした。でもスポンサーが、映画として動かします」
一瞬、空気が張りつめた。
四人は小さく息をのむ。
今まで手を伸ばしても届かなかった場所へ、突然引き上げられたような感覚が走る。
沈黙を破ったのは水川だった。
「物語は、警察を引退した男が“ある事件”に違和感を抱くところから始まります。気にし続けるうち、再び事件が起きる。犯人は死んだはずの人物。独りでは追えない。そこで協力者として動く四人――皆さんが演じる役目です」
光石が手を上げた。
「主人公は出て来ないのか」
佐川は静かに頷く。
その決断には迷いがなかった。
野々原が、緊張の中でわずかな笑みを見せる。
挑むような、覚悟を固める笑みだった。
そこへ佐川が、ひと呼吸置いて言葉を落とす。
「男が飼っていた愛犬が登場します。物語の鍵を握る存在です。ある意味、主役と言ってもいい」
部屋の空気が、さらに深く沈んだ。
「最初はドラマのつもりだったんでしょう。スタッフや機材は大丈夫なのかしら」
野々原が静かに問いかけた。
声音の奥底に潜む警戒は、場にいる全員が察した。
舞台公演の理不尽も、予算の重みも知る彼女にとって、 映画化はただのステップアップではない。
現実的なリスクが桁違いだった。
佐川は予期していたかのようにゆっくり頷いた。
だが目の奥に、一瞬、判断をためらった影が走る。
「実は雪の育ての母犬、吹雪の飼い主である修二さんの知人の方から、スタッフと機材の全面提供を申し出られました」
淡々とした説明だが、その裏にある異常さは隠せなかった。
私も驚きましたと水川が続ける。
「出資の条件として名前を出さないことが絶対です。それから、雪のプロフィール、飼い主の存在も公にはしないことが条件でした」
光石が低くつぶやいた。
「おかしくないか」
その問いに佐川が答えた。
「僕たちも確認しました。企業、というよりは会社組織ですが、すべて海外です。規模は大きいのに、輪郭が見えない。」
部屋の温度が一段下がったように感じられた。
水川が静かに頷く。
「野々原さん、光石さん。イタリア語、フランス語、韓国語、ドイツ語は使えますよね」
「海外公演が多かったから」
野々原が軽く笑った。
光石も同じように笑ってみせたが、その目はどこか探りを含んでいた。
何故、そんなとこを聞くんだと言いたげた。
水川は声を落として続ける。
「修二さんが、雪は、日本語を理解していても、無視するそうです。」
その一言で、会議室の空気がわずかに張りつめた。
野々原が小さく眉を寄せ、光石が首をかしげる。
「……無視?」
神崎が思わずその言葉を繰り返した。
水川は小さく頷いた。
「ただし、家族の言葉、孫のショーコさんと、友人のミサキさんが日本語で話しかければ伝わるそうです。」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気がさらに深く沈んだ。
言葉を選ぶように、佐川が静かに口を開く。
「大事なことですが、雪は海外で生まれなんです」
佐川の声が一段低くなった。
「雪は、自発的に行動することがあります。
Évaluer l'ambiance et la situation et agir en conséquence.」
そのフランス語が、静かな空気の中で鮮やかに響いた。
まるで硬質なガラスのように、音だけが残る。
丸川と神崎は、顔を見合わせた。
「……何て言った?」
「いまの、どういう意味だ?」
その隣で、野々原が小さく息を呑み、驚きを隠せない表情で呟いた。
「場の空気と状況を読んで行動するように、そういう意味よ。」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
光石が腕を組み、じっと佐川を見据える。
表情には明らかな警戒と、深い興味が混じっていた。
「それを言ったのは、飼い主か?」
佐川は静かに頷いた。
「亡くなった母犬の飼い主、フランス人の女性です。実は、家族の中に、歩行の困難な高齢のご婦人がいたんです」
水川の声は静かだったが、どこか言葉を選んでいるような慎重さがあった。
「彼女は、車椅子に頼りたくなかったそうです。介護されることにも遠慮があった。だから、雪を」
佐川の言葉はどこか説明しづらいという感じだ。
「もしかして、歩行の手伝いをしていた?」
光石が低く問いかける。
その声には戸惑いと、信じがたい思いが混じっていた。
佐川は頷いた。
その場にいた誰もが、映像を思い浮かべていた。
小柄な老婦人、その隣を、堂々たる体躯のグレートデンが一歩も遅れず、一歩も先走らずに静かに寄り添う。
野々原が息を飲む、表情が変わった。
「人間の命令を待っていたら、対応できないわね」
光石も頷いた。
「そうだな。足がもつれて、倒れかけたり、その瞬間に考えるより先に、動けなきゃ意味がない」
まるで役を演じるかのように、その情景を全員が頭の中で再生していた。
だが、それはフィクションではない。
誰かの脚本でも演出でもない。
実際に存在した「関係」であり、「信頼」であり、「家族」の形だった。
静けさの中に、感情が流れていた。
「映画は一本きりです。続編も、スピンオフもありません。撮影が終わったら、雪は家族のもとへ戻ります。」
短く静寂が流れた。
誰もがその言葉の意味を受け止めようとしていた。
佐川が深く息を吸い、言葉を区切るように続けた。
「――この映画に子役は出ません。必要ありません」
丸川と神崎は同時に顔を上げる。
日本のドラマ制作で何度も見てきた“お約束”が、脳裏をかすめた。
数字が取れるから、画が柔らかくなるから。
ただそれだけの理由で、唐突にねじ込まれる子役。
本筋の空気を壊し、物語の重さを軽くしてしまう存在。
「日本語は無視でしょう」
野々原が、乾いた笑いを落とした。
その笑いは皮肉ではあるが、同意でもあった。
光石が、腕を組み直して低く頷く。
「「Évaluer l'ambiance et la situation et agir en conséquence.場の空気と状況を読んで行動するんだ、子役は必要ない、いや邪魔だ。」
光石の声は無駄を嫌い、作品の芯を最優先する者の声だ。
「撮影が始まって、雪の姿を見たら……注目するのは役者だけじゃない。子役の親たちも、でしょう」
水川の言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに動いた。
野々原が頷きながら、短く言葉を継ぐ。
「動物、それも犬が出るなら、子供が一緒に出てもおかしくないわね」
神崎が呆れたように息を吐いた。
「どうせ、“うちの子は演技できます”って売り込みが始まるだろうな」
その言葉に、場の空気が一瞬ざらついた。
野々原がわずかに顔をしかめ、光石が腕を組んだまま考え込む。
次の瞬間、光石の目が鋭く動いた。
「――そうか」
短い言葉だったが、確信のある声だった。
全員の視線が彼に向かう。
光石はゆっくりと顔を上げた。
「だからだ。スタッフも、制作も、キャスティングのラインも、すべて海外で固められている」
水川が静かに頷いた。
「オーナーの知り合い、スポンサーに名乗りをあげた方々が動いたんです。」
日本の制作慣習を避けるための“異常なまでの構成”には、確かな意図があったのだ。
佐川が、ゆっくりと説明を足す。
「オーナーはフランスから出たことがなく、日本の芸能界のことは知らないようです、修二さんもです」
静寂が落ちた。
数秒の間、誰も言葉を発しなかった。
その沈黙の中に、“納得”と“敬意”が混ざっていた。
丸川が小さく息を吐いた。
「守るための構成だったわけか」
「実は、スポンサーからいくつか提案が出ています」
佐川がそう言ったとき、場の空気が一瞬揺れた。
彼の声は穏やかだったが、その奥には何かを隠しているような響きがあった。
「近日中に、あちらのスタッフが来る予定です」
「おい……何を始めるつもりだ?」
神崎が眉をひそめた。
その問いに、佐川はふっと笑みを浮かべた。
どこか意味ありげな笑いだった。
「実は、僕も詳しいことはまだ知らされていません」
そこで一拍、言葉を止めた。
わざと間を空けるように、ゆっくりと全員の顔を見渡す。
「皆さんの衣裳と小道具を……作るそうです」
「作る?」
野々原が目を丸くした。
「用意する、じゃなくて?」
「ええ、作る、です」
佐川の声には確信があった。
「宣伝に日本企業の手助けを借りたら――」
佐川の声が低く響く。
「雪に目をつけてくると思うんです。利用価値があると見れば。色々と言ってくるはずです」
その言葉に、室内の空気が一瞬で冷えた。
丸川は目を伏せ、神崎は唇を引き結ぶ。
野々原も光石も、水川も、同じことを考えていた。
「だから、です」
短く、はっきりと。
その一言が、まるで劇の幕を開ける合図のように響いた。
佐川は椅子に背を預け、ゆっくりと全員を見渡す。
一人ひとりの視線が、自然と彼に吸い寄せられた。
「皆さんが直接やるんです」
ざわり、と空気が動いた。
「PRも、ポスター、企業には頼らない。代理店も通さない。映画を届ける顔は、あなたたち自身です」
誰もすぐには反応できなかった。
言葉の意味が、静かに胸に沈んでいく。
水川が息を飲む。
神崎が腕を組み直す。
光石の眉がぴくりと動き、丸川は深く息を吐いた。
野々原だけが、静かに微笑んだ――その目には火が宿っていた。
その日。
何の前触れもなく、水川の公式サイトにひとつのメッセージがアップされた。
「拙作の小説が、映画化されます。映像クリエイター・佐川氏と共に。」
たった数行。
それでも、ファンの間に走った衝撃は、大きな地鳴りのように広がっていった。
最初に反応したのは、いつも水川の更新を追っている古参の読者だった。
「おい……いきなり映画って、話がデカくないか」
戸惑いとも驚きともつかない声が、SNSに投げ込まれる。
すぐに他のファンが追いかけた。
「……デマじゃないのよね?」
「嘘でしょ? 本人が書いたの?」
公式サイトのURLが貼られる。
誰もが半信半疑でページを開いた。
そして、そこに確かに記されていた名前――“佐川”。
「……映像クリエイターの佐川だ。間違いない」
ショートドラマ化されたことも、朗読劇になったこともあった。
それでさえ、ファンにとっては夢、驚きだったのだ。




