3 佐川の行動、水川の驚き
夜遅く、スマホが震えた瞬間、水川の胸に冷たい釘が落ちた。
この時間の着信は、ただ事じゃない。
画面に浮かぶ名前を見た途端、息が詰まる。佐川。
通話ボタンを押すより早く、向こうの声が飛び込んできた。
「今、いいですか。大事な話があるんです。小説の件、できますよ。作れます」
言葉が上ずっている。いつもの沈着さは欠片もない。
水川は思わず眉を寄せた。
何が彼をここまで追い立てているのか。
「どうしたんです、佐川さん」
息を弾ませた声が続いた。
「見つけたんです。あの犬。カフェで見た、名前は雪って言うんです」
その名を聞いた瞬間、水川の脳裏に浮かんだのは数日前の出来事だ。
三日前、偶然目にしただけの犬。
それを、見つけた?
どうやって。どこから手をつけて。
疑問が一気に喉元まで押し寄せたが、声にはならなかった。
「修二さんというご老人に会いました。話を聞いてくれたんです。ドラマを作りたいって」
水川は手に、じわりと汗が滲むのを感じた。
「了承してくれた?」
自分の声が、自分のものとは思えないほど小さく揺れていた。
「はい。明日の夕方、ミサキさんという女性にも会います。予定、大丈夫ですか」
あまりに一方的で、あまりに迷いがない。
その瞬間、水川は悟った。佐川はもう動き出している。
誰にも止められない速度で。
「佐川さん、詳しい、説明を」
声が震えた。だが佐川は、ようやく落ち着きを取り戻したように、低く息を整えて話し始めた。
「飼い主に直談判するつもりだったんです。で、直接話をしたのは老人なんです。自宅らしき場所を見つけて、尋ねました」
大変でしたと佐川は言葉を続けた。
「僕がグレートデンをドラマに使いたいって話をすると、老人は興味を示したんですよ。だったらショーコとミサキに話を通してくれ、と」
ショーコ? 一瞬、誰の名前か理解が追いつかなかった。
「老人の孫らしいです。今は釣りで沖縄を回っているとか」
沖縄。今ここからはるか遠い海の上。
そんな人物に話が通じるわけがない――水川は思わず息を呑む。
「ミサキに話を通すから、と老人は言いました」
事態が速すぎる。つい数時間前まで、ただの一匹の犬の話だったはずなのに。
「ええっとですね。カフェにいた女性です。ミサキさんはショーコさんの友人で、老人はミサキに連絡しておくと」
その日、夕方の喫茶店。
張りつめた空気の中で、ミサキはふと柔らかい声を落とした。
「実は、大事なお話のようですし、男の人がいたほうがいいんじゃないかと思ったんです」
確かに、と佐川も水川も思った。
何がどう転がっているのか分からない状況だ。盾になる存在がいるなら心強い。
「ショーコちゃんの兄、光太郎さんを呼ぼうと思ったんですけど、足を怪我していて来れなかったんです。すみません」
光太郎、初めて出てきた名前だ。
だが佐川はその“怪我”の一言に反応した。
「怪我は、ひどいんですか?」
ミサキは少し困ったように笑い、しかし包み隠さず告げた。
「雪と喧嘩して。怒って部屋を出ようとして、階段を踏み外したみたいで」
一瞬、空気が止まる。
雪と喧嘩?
犬と?
その後で怒りながら階段を降りようとして。
佐川の頭の中に間抜けな光景が浮かんだ。
シリアスな場面であるはずなのに、想像してしまった光太郎の姿がじわじわと可笑しい。
いや、笑うところじゃない。
水川も横で、コーヒーを持つ手がわずかに震えていた。
驚愕と混乱の連続だった今日の中で、ここだけ妙に人間らしい失敗が差し込まれ、緊迫感が変な方向へずらされる。
佐川は心の中でそっと突っ込んだ。
それはただの不注意では……?
だが言葉にはしなかった。
この場の空気はまだ張りつめている。
それでも、ふたりの胸にほんの少しだけ、緊張をほぐす微かな笑いが灯った。
水川はずっと胸に引っかかっていた疑念を、ようやく言葉にした。
「雪は大きいですよね。本気で怒って喧嘩になったら、成人男性でも怪我ではすまないんじゃ……」
ミサキは察したように穏やかに笑った。
安心させようとする気配が、そのまま言葉に乗る。
「飛びかかったり、吠えたりはしたら、男の人でも骨折です、噛んだりしたら本当に大変ですから」
その瞬間、空気がわずかに重く沈んだ。
水川の内側に、ひやりとした感覚が広がった。
そうだ――犬の殺傷事件。
ニュースで見た、痛ましい事故。
飼い主の不注意や、運が悪いだけでは済まされなかった結末。
処分される犬、泣き崩れる飼い主、残酷な現実。
もし雪が本気を出したら、兄の光太郎は、ただの打撲じゃ済まなかったかもしれない。
そう考えた途端、ぞくりと背筋が冷えた。
佐川も同じ感触を覚えたのだろう。
表情こそ変えないが、眉の奥に固い驚きと緊張が滲んでいた。
そんな水川佐川の様子にミサキは気づいたのかもしれない。
「雪は、怒ったら前足で地面を叩くんです」
その一言で、空気がピンと張り詰めた。
前足で床を叩く。
怒りを、吠えるでも噛むでもなく、叩くという行為で示すというのが理解できなかった。
一瞬、二人の頭が理解を拒んだほどだ。
ミサキは淡々と説明を続けた。
「伏せの状態で前足で床を叩くんです。怒りが大きいと音が大きくなって。それを見た光太郎さんが偉そうだって怒っちゃって」
偉そう。
その言葉だけが妙に人間くさく、
普通じゃないと思った。
佐川もだ、内心は同じ衝撃に揺れていた。
しかしミサキは、そんな恐れを軽く撫でるように微笑みながら言った。
伝え方が雪は独特なんですと続けた。
「家族に耳の遠い人、いえ、見えない人もいました。かなり高齢で、亡くなりました。あと、無口な人とか。そういう人は手振りとか視線で雪に伝えるんです」
佐川も水川も、息をのみ、動けなくなる。
見えない人。
耳の遠い人。
無口な人。
それらはどれも、人間同士でさえ意思の疎通が難しい条件だ。
まして犬にとっては、なおさら届きにくいはずのサインばかりだ。
それなのに伝わっていたというのか。
手振りと視線だけで。
雪は、怒り方すら環境に合わせて変えていた。
吠えない。
飛びかからない。
代わりに前足で床を叩く。
静かだが、確実な示威行動。
「分かるんですか」
佐川は驚くほど低く、慎重な声で問いかけた。
常識の枠を踏み越えるような不安が、喉の奥をつかんで離さない。
ミサキは、何でもないことのようにふっと微笑んだ。
「家族だから。一緒に暮らしていく中で、試行錯誤というか、段々と分かるんですね」
その笑顔の優しさが、むしろ二人をさらに圧迫した。
映画のこと、私あんまり詳しくないんです。役者さんは決まっているんですよね?」
佐川は頷き、淡々と答えた。
「修司さんが言ってました。スポンサーとか資金とか色々な決まり事もあるんじゃないですか?」
当たり前の言葉なのに、重く響いた。
資金、スポンサー。
本来なら自分たちが苦労して掴みにいくはずの言葉が、なぜ他人の口から、こんなに気軽に出てくるのか。
「そうですね……」
佐川の返答は、自分の声なのに少し遠く感じられる。
「修司さんから、連絡が行くと思いますよ」
その瞬間、佐川の背にぞくりとしたものが走った。
連絡を? 何の? どんな内容を?
老人の行動範囲と裁量の広さが、またひとつ実感として迫ってくる。
ミサキは、少しだけ声を落とした。
「修司さんの知り合いに、詳しい人がいるそうです」
漠然としているのに、不気味なほど具体的な重みを持つ言葉だった。
自分の犬が出るのが嬉しいだけでは説明がつかない広がりだった。
そのときミサキの視線が、心配そうに二人を見つめた。
「外国人なんです。大丈夫ですか?」
空気が一段冷えた。
佐川は反射的に呟いた。
「え、英語なら……」
ミサキは首を傾げ、さらりと続けた。
「フランス語、イタリア語はどうです?」
その瞬間、佐川も水川も言葉を失った。
予想外というレベルではない。
自分たちが立っている場所と、話のスケールの乖離があまりに大きい。
「大丈夫ですよ。それと佐川さん、水川さん――」
ミサキは、何でもないことのように言う。
「修司さんが、大事な話があるから一度電話をかけるって。時差があるから、そのつもりで」
喉の奥がひりついた。
時差。
それはつまり――
「修司さん、今どちらに?」
佐川の声はかすれていた。
ミサキはいつもの笑顔で答えた。
「フランスですよ」
佐川と水川は、修司からの電話をただ黙って待った。
興奮か緊張か分からないまま、眠気など微塵も感じなかった。
胸の奥がざわつき続けていた。
そして、スマホが突然震えた。
「来た」
佐川が画面を見つめたまま呟く。
緊張で喉が鳴る、通話ボタンを押した。
「悪い、待ったか」
修司の声は、落ち着いていて、重みがあった。
佐川は慌てて応じた。
「い、いえ。こちらに原作者の水川さんもいます」
一瞬の間を置いて、老人は続けた。
「そうか。話というのはな、雪のことだ。君は俺が飼い主だと思ってるんだろう」
その瞬間、佐川の呼吸が止まった。
思考が一瞬、真っ白になる。
予想もしていなかった言葉が、電話越しに落とされた気がした。
修司は淡々と続ける。
「雪は家族の言うことしかきかん。ショーコがいないときはミサキだ」
再び、二人は固まった。
雪が従う相手は家族?
ショーコとミサキ?
「えっ、でもミサキさんはショーコさんの友人だと」
「あと日本語は無視する。分かっていても、だ」
その一言で、佐川と水川はあのオープンカフェでの光景を思い出した。
ミサキが話していたのは英語ではない。
あの黒人女性は確かにイタリア語で話していた。
「芸なんか、させないでくれよ」
唐突な言葉に、佐川は意味がつかめなかった。
水川も同じだ。一瞬だけ、空気が止まったように感じた。
修二は笑っているようだ。
「お手、お座りとか。テレビでやってるだろ。ボール投げて、持って来いとか」
二人は言葉を失った。
ユーモアにすらならない。そこにあるのは、ただの違和感と、冷たい現実だった。
「芸は必要ない。大事なことは、吹雪を見て覚えたんだ」
その言葉に、佐川はかすかな疑問を抑えきれず尋ねた。
「吹雪って、誰ですか」
「育ての親だよ。雪を産んだ母犬は出産で亡くなった」
静かな声、事実だけを淡々と述べるその口調が、むしろ残酷さを際立たせた。
産んだ母犬は亡くなった。
育ての母犬を見て覚えたという言い方に、佐川も水川も説明しきれない違和感を覚えた。
「ショーコとミサキも同じだ。大事なことは、吹雪を見て覚えた。だから雪は、二人の言葉には従う」
犬と人間の繋がりが、普通ではないような感じられた。
「芸が必要ないと言ったのは、亡くなった母犬のオーナーだ」
その言葉に、佐川だけではなく水川も驚いた。
「大事なことは生活の中で学ぶ、覚えていくものだ、そういう考え方でな。」
修二の穏やかな声が、受話器の向こうから静かに届いた。
だが、その言葉の奥にある思想の深さを理解した瞬間、佐川と水川は目を見合わせ、言葉を失った。
日本で大型犬といえば、まず思い浮かぶのは訓練所やしつけ教室。
専門家に預け、社会性を身につけさせる、それが常識であり、安全策でもある。
生活の中で学ぶ。
人と同じ空間で、日々の呼吸の中で覚えていく。
それは効率でも理屈でもなく、共に生きるという覚悟に近い。
そういう環境で育ったなら、雪のあの眼差しにも納得がいく、と二人は思った。
しばし沈黙が続いた後、佐川が慎重に口を開いた。
「母犬のオーナーというのは、フランス人ですか?」
修二は今、フランスにいる。
ならば、と思った疑問をそのまま言葉にした。
間を置かず、返事が返ってきた。
「そうだ。」
「吹雪という母犬は、今は……」
佐川は一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから口を開いた。
その声には、無意識のうちに慎重さが滲んでいた。
修二は説明を挟まず、静かに、そして短く答えた。
「俺の隣にいる。見たいのか」
その言葉を聞いた瞬間、佐川も水川も、反射的に声を上げていた。
「はい」
即答だった。どちらも、自分の反応に気づくより先に、返事が口をついていた。
「じゃあ、後で写真を送る」
修二の声は淡々としていた。
だが、その向こうにある何か――長く共に生きてきた者だけが持つ信頼と誇りのようなものが、微かに滲んでいた。
通話を切った直後、メッセージの通知音が鳴った。
送られてきた写真を開いた瞬間、佐川と水川は同時に息を呑んだ。
言葉が出なかった。目の前に写っているその犬の姿に、思考が追いつかない。
グレートデンではなかった。
写っていたのは、日本犬だ。
全身灰色黒い毛も混じっている。
「大きくないですか。雌、ですよね」
水川が喉を鳴らすように言葉を発した。
佐川は黙って頷いた、言葉にせずとも、同じ感覚を抱いていた。
ペットではない。
少なくとも、自分たちの知る飼い犬ではなかった。
写真からすら伝わってくる緊張感と存在感――それは、訓練や躾では到底辿り着けない何かだ。
この犬が吹雪なのだとすれば、雪がただの犬ではない理由も、少しだけ理解できた気がした。




