表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

3 佐川の行動、水川の驚き

  夜遅く、スマホが震えた瞬間、水川の胸に冷たい釘が落ちた。

 この時間の着信は、ただ事じゃない。

 画面に浮かぶ名前を見た途端、息が詰まる。佐川。

 通話ボタンを押すより早く、向こうの声が飛び込んできた。

 「今、いいですか。大事な話があるんです。小説の件、できますよ。作れます」

 言葉が上ずっている。いつもの沈着さは欠片もない。

 水川は思わず眉を寄せた。

 何が彼をここまで追い立てているのか。

 「どうしたんです、佐川さん」

 息を弾ませた声が続いた。

 「見つけたんです。あの犬。カフェで見た、名前は雪って言うんです」

 その名を聞いた瞬間、水川の脳裏に浮かんだのは数日前の出来事だ。

 三日前、偶然目にしただけの犬。

 それを、見つけた?

 どうやって。どこから手をつけて。

 疑問が一気に喉元まで押し寄せたが、声にはならなかった。

 「修二さんというご老人に会いました。話を聞いてくれたんです。ドラマを作りたいって」

 水川は手に、じわりと汗が滲むのを感じた。

 「了承してくれた?」

 自分の声が、自分のものとは思えないほど小さく揺れていた。

 「はい。明日の夕方、ミサキさんという女性にも会います。予定、大丈夫ですか」

 あまりに一方的で、あまりに迷いがない。

 その瞬間、水川は悟った。佐川はもう動き出している。

 誰にも止められない速度で。

 「佐川さん、詳しい、説明を」

 声が震えた。だが佐川は、ようやく落ち着きを取り戻したように、低く息を整えて話し始めた。

 「飼い主に直談判するつもりだったんです。で、直接話をしたのは老人なんです。自宅らしき場所を見つけて、尋ねました」

 大変でしたと佐川は言葉を続けた。

 「僕がグレートデンをドラマに使いたいって話をすると、老人は興味を示したんですよ。だったらショーコとミサキに話を通してくれ、と」

 ショーコ? 一瞬、誰の名前か理解が追いつかなかった。

 「老人の孫らしいです。今は釣りで沖縄を回っているとか」

 沖縄。今ここからはるか遠い海の上。

 そんな人物に話が通じるわけがない――水川は思わず息を呑む。

 「ミサキに話を通すから、と老人は言いました」

 事態が速すぎる。つい数時間前まで、ただの一匹の犬の話だったはずなのに。

 「ええっとですね。カフェにいた女性です。ミサキさんはショーコさんの友人で、老人はミサキに連絡しておくと」

 

 その日、夕方の喫茶店。

 張りつめた空気の中で、ミサキはふと柔らかい声を落とした。

 「実は、大事なお話のようですし、男の人がいたほうがいいんじゃないかと思ったんです」

 確かに、と佐川も水川も思った。

 何がどう転がっているのか分からない状況だ。盾になる存在がいるなら心強い。

 「ショーコちゃんの兄、光太郎さんを呼ぼうと思ったんですけど、足を怪我していて来れなかったんです。すみません」

 光太郎、初めて出てきた名前だ。

 だが佐川はその“怪我”の一言に反応した。

 「怪我は、ひどいんですか?」

 ミサキは少し困ったように笑い、しかし包み隠さず告げた。

 「雪と喧嘩して。怒って部屋を出ようとして、階段を踏み外したみたいで」

 一瞬、空気が止まる。

 雪と喧嘩?

 犬と?

 その後で怒りながら階段を降りようとして。

  佐川の頭の中に間抜けな光景が浮かんだ。

 シリアスな場面であるはずなのに、想像してしまった光太郎の姿がじわじわと可笑しい。

 いや、笑うところじゃない。

 水川も横で、コーヒーを持つ手がわずかに震えていた。

 驚愕と混乱の連続だった今日の中で、ここだけ妙に人間らしい失敗が差し込まれ、緊迫感が変な方向へずらされる。

 佐川は心の中でそっと突っ込んだ。

 それはただの不注意では……?

 だが言葉にはしなかった。

 この場の空気はまだ張りつめている。

 それでも、ふたりの胸にほんの少しだけ、緊張をほぐす微かな笑いが灯った。


 水川はずっと胸に引っかかっていた疑念を、ようやく言葉にした。

 「雪は大きいですよね。本気で怒って喧嘩になったら、成人男性でも怪我ではすまないんじゃ……」

 ミサキは察したように穏やかに笑った。

 安心させようとする気配が、そのまま言葉に乗る。

 「飛びかかったり、吠えたりはしたら、男の人でも骨折です、噛んだりしたら本当に大変ですから」

 その瞬間、空気がわずかに重く沈んだ。


 水川の内側に、ひやりとした感覚が広がった。

 そうだ――犬の殺傷事件。

 ニュースで見た、痛ましい事故。

 飼い主の不注意や、運が悪いだけでは済まされなかった結末。

 処分される犬、泣き崩れる飼い主、残酷な現実。

 もし雪が本気を出したら、兄の光太郎は、ただの打撲じゃ済まなかったかもしれない。

 そう考えた途端、ぞくりと背筋が冷えた。

 佐川も同じ感触を覚えたのだろう。

 表情こそ変えないが、眉の奥に固い驚きと緊張が滲んでいた。

 そんな水川佐川の様子にミサキは気づいたのかもしれない。

 「雪は、怒ったら前足で地面を叩くんです」

 その一言で、空気がピンと張り詰めた。

 前足で床を叩く。

 怒りを、吠えるでも噛むでもなく、叩くという行為で示すというのが理解できなかった。

 一瞬、二人の頭が理解を拒んだほどだ。

 ミサキは淡々と説明を続けた。

 「伏せの状態で前足で床を叩くんです。怒りが大きいと音が大きくなって。それを見た光太郎さんが偉そうだって怒っちゃって」

 偉そう。

 その言葉だけが妙に人間くさく、

 普通じゃないと思った。

 佐川もだ、内心は同じ衝撃に揺れていた。

 しかしミサキは、そんな恐れを軽く撫でるように微笑みながら言った。

 伝え方が雪は独特なんですと続けた。

 「家族に耳の遠い人、いえ、見えない人もいました。かなり高齢で、亡くなりました。あと、無口な人とか。そういう人は手振りとか視線で雪に伝えるんです」

 佐川も水川も、息をのみ、動けなくなる。


 見えない人。

 耳の遠い人。

 無口な人。


 それらはどれも、人間同士でさえ意思の疎通が難しい条件だ。

 まして犬にとっては、なおさら届きにくいはずのサインばかりだ。

 それなのに伝わっていたというのか。

 手振りと視線だけで。

 雪は、怒り方すら環境に合わせて変えていた。

 吠えない。

 飛びかからない。

 代わりに前足で床を叩く。

 静かだが、確実な示威行動。

 「分かるんですか」

 佐川は驚くほど低く、慎重な声で問いかけた。

 常識の枠を踏み越えるような不安が、喉の奥をつかんで離さない。

 ミサキは、何でもないことのようにふっと微笑んだ。

 「家族だから。一緒に暮らしていく中で、試行錯誤というか、段々と分かるんですね」

 その笑顔の優しさが、むしろ二人をさらに圧迫した。

 映画のこと、私あんまり詳しくないんです。役者さんは決まっているんですよね?」

 佐川は頷き、淡々と答えた。

 「修司さんが言ってました。スポンサーとか資金とか色々な決まり事もあるんじゃないですか?」

 当たり前の言葉なのに、重く響いた。

 資金、スポンサー。

 本来なら自分たちが苦労して掴みにいくはずの言葉が、なぜ他人の口から、こんなに気軽に出てくるのか。

 「そうですね……」

 佐川の返答は、自分の声なのに少し遠く感じられる。

 「修司さんから、連絡が行くと思いますよ」

 その瞬間、佐川の背にぞくりとしたものが走った。

 連絡を? 何の? どんな内容を?

 老人の行動範囲と裁量の広さが、またひとつ実感として迫ってくる。

 ミサキは、少しだけ声を落とした。

 「修司さんの知り合いに、詳しい人がいるそうです」

 漠然としているのに、不気味なほど具体的な重みを持つ言葉だった。

 自分の犬が出るのが嬉しいだけでは説明がつかない広がりだった。

 そのときミサキの視線が、心配そうに二人を見つめた。

 「外国人なんです。大丈夫ですか?」

 空気が一段冷えた。

 佐川は反射的に呟いた。

 「え、英語なら……」

 ミサキは首を傾げ、さらりと続けた。

 「フランス語、イタリア語はどうです?」

 その瞬間、佐川も水川も言葉を失った。

 予想外というレベルではない。

 自分たちが立っている場所と、話のスケールの乖離があまりに大きい。

 「大丈夫ですよ。それと佐川さん、水川さん――」

 ミサキは、何でもないことのように言う。

 「修司さんが、大事な話があるから一度電話をかけるって。時差があるから、そのつもりで」

 喉の奥がひりついた。

 時差。

 それはつまり――

 「修司さん、今どちらに?」

 佐川の声はかすれていた。

 ミサキはいつもの笑顔で答えた。

 「フランスですよ」



 佐川と水川は、修司からの電話をただ黙って待った。

 興奮か緊張か分からないまま、眠気など微塵も感じなかった。

 胸の奥がざわつき続けていた。

 そして、スマホが突然震えた。

 「来た」

 佐川が画面を見つめたまま呟く。

 緊張で喉が鳴る、通話ボタンを押した。


 「悪い、待ったか」

 修司の声は、落ち着いていて、重みがあった。

 佐川は慌てて応じた。

 「い、いえ。こちらに原作者の水川さんもいます」

 一瞬の間を置いて、老人は続けた。

 「そうか。話というのはな、雪のことだ。君は俺が飼い主だと思ってるんだろう」

 その瞬間、佐川の呼吸が止まった。

 思考が一瞬、真っ白になる。

 予想もしていなかった言葉が、電話越しに落とされた気がした。

 修司は淡々と続ける。

 「雪は家族の言うことしかきかん。ショーコがいないときはミサキだ」

 再び、二人は固まった。

 雪が従う相手は家族?

 ショーコとミサキ?

 「えっ、でもミサキさんはショーコさんの友人だと」

 「あと日本語は無視する。分かっていても、だ」

 その一言で、佐川と水川はあのオープンカフェでの光景を思い出した。

 ミサキが話していたのは英語ではない。

 あの黒人女性は確かにイタリア語で話していた。

 「芸なんか、させないでくれよ」

 唐突な言葉に、佐川は意味がつかめなかった。

 水川も同じだ。一瞬だけ、空気が止まったように感じた。

 修二は笑っているようだ。

 「お手、お座りとか。テレビでやってるだろ。ボール投げて、持って来いとか」

 二人は言葉を失った。

 ユーモアにすらならない。そこにあるのは、ただの違和感と、冷たい現実だった。

 「芸は必要ない。大事なことは、吹雪を見て覚えたんだ」

 その言葉に、佐川はかすかな疑問を抑えきれず尋ねた。

 「吹雪って、誰ですか」

 「育ての親だよ。雪を産んだ母犬は出産で亡くなった」

 静かな声、事実だけを淡々と述べるその口調が、むしろ残酷さを際立たせた。

 産んだ母犬は亡くなった。

 育ての母犬を見て覚えたという言い方に、佐川も水川も説明しきれない違和感を覚えた。

 「ショーコとミサキも同じだ。大事なことは、吹雪を見て覚えた。だから雪は、二人の言葉には従う」

 犬と人間の繋がりが、普通ではないような感じられた。

 「芸が必要ないと言ったのは、亡くなった母犬のオーナーだ」

 その言葉に、佐川だけではなく水川も驚いた。

 「大事なことは生活の中で学ぶ、覚えていくものだ、そういう考え方でな。」

 修二の穏やかな声が、受話器の向こうから静かに届いた。

 だが、その言葉の奥にある思想の深さを理解した瞬間、佐川と水川は目を見合わせ、言葉を失った。

 日本で大型犬といえば、まず思い浮かぶのは訓練所やしつけ教室。

 専門家に預け、社会性を身につけさせる、それが常識であり、安全策でもある。

 生活の中で学ぶ。

 人と同じ空間で、日々の呼吸の中で覚えていく。

 それは効率でも理屈でもなく、共に生きるという覚悟に近い。

 そういう環境で育ったなら、雪のあの眼差しにも納得がいく、と二人は思った。

 しばし沈黙が続いた後、佐川が慎重に口を開いた。

 「母犬のオーナーというのは、フランス人ですか?」

 修二は今、フランスにいる。

 ならば、と思った疑問をそのまま言葉にした。

 間を置かず、返事が返ってきた。

 「そうだ。」

 「吹雪という母犬は、今は……」

 佐川は一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから口を開いた。

 その声には、無意識のうちに慎重さが滲んでいた。

 修二は説明を挟まず、静かに、そして短く答えた。

 「俺の隣にいる。見たいのか」

 その言葉を聞いた瞬間、佐川も水川も、反射的に声を上げていた。

 「はい」

 即答だった。どちらも、自分の反応に気づくより先に、返事が口をついていた。

 「じゃあ、後で写真を送る」

 修二の声は淡々としていた。

 だが、その向こうにある何か――長く共に生きてきた者だけが持つ信頼と誇りのようなものが、微かに滲んでいた。

 

 通話を切った直後、メッセージの通知音が鳴った。

 送られてきた写真を開いた瞬間、佐川と水川は同時に息を呑んだ。

 言葉が出なかった。目の前に写っているその犬の姿に、思考が追いつかない。

 グレートデンではなかった。

 写っていたのは、日本犬だ。

 全身灰色黒い毛も混じっている。

 「大きくないですか。雌、ですよね」

 水川が喉を鳴らすように言葉を発した。

 佐川は黙って頷いた、言葉にせずとも、同じ感覚を抱いていた。

 ペットではない。

 少なくとも、自分たちの知る飼い犬ではなかった。

 写真からすら伝わってくる緊張感と存在感――それは、訓練や躾では到底辿り着けない何かだ。

 この犬が吹雪なのだとすれば、雪がただの犬ではない理由も、少しだけ理解できた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ