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2 オープンカフェでの出来事

 一人の男が、静かに最後の台詞を読み終えた。

 その声にはわずかな哀しみと、歳月の深みが滲んでいた。

 誰もが「良い演技だった」と思いながら、拍手をしようともせず、ただ息を詰めて見送った。

 彼は一礼し、無言のまま会場を出ようとした。

 その瞬間だった。

 「ま、待ってください!」

 水川の声が響いた。

 唐突すぎる呼び止めに、会場の空気がざらりと波打つ。

 男が振り返る。

 その動作はゆっくりとしていて、まるで時間ごと演出しているようだった。

 「すみません、あなた」

 水川の声には、迷いが混じっていた。

 視線を交わすと、何かを確かめるように息をのんだ。

 佐川は隣で、ただ呆然と見ていた。

 (どうしたんだ、水川さん……?)

 戸惑いが全身を走る。

 「もしかして……女性ですか?」

 佐川は呼吸が止まりそうになった。

 


 男がふっと笑った。

 「よく見てるわね。」

 その声が、まるで幕を引くように変わった。

 別人が同じ身体の中で入れ替わったような、不自然なほど完璧な変化だった。

 手を口元に当て、静かに何かを外した。

 小さな音、金属が机に当たるような乾いた響き。

 「騙せたと思ったんだけど、気が緩んだかな。」

 そう言って口から取り出したのは、

 声色を変えるための小さな発声補助器だった。

 ゆっくりと両手を上げ、頭にかけていた黒いカツラを外した。

 その下から現れたのは長い前髪を束ねた女性の顔だ。

 なのに、さっきまでの男の存在感がまだ残っている。

 声、所作、息づかい、その全てが「男」だったのに。

 今、目の前には一人の女性が立っている。

 まるで、別の人間を丸ごと生き替えていたかのように。

 水川の唇が、かすかに震えた、いや佐川もだ。

 驚きで言葉を失った。

 女は微笑んだ。

 その笑みには、誇りと少しの疲れが滲んでいた。


 

 「二郎さん、あそこ撮影しているみたいですね」

 ミサキの言葉に二郎は通りの向こうに目を向けた、カメラと大勢の人間が屯している。

 子供もいる。

 こんなところでドラマの撮影家とドラマの撮影かと二郎は思った。


 白河はスタッフの報告を聞いた瞬間、胸の奥がズキッとした。

 撮影スケジュールはパンパン、子役との勝負シーンは今日しか撮れないのだ。

 犬が来ない?そんなと頭の中で思わず悪態が漏れる。

 声には出さなかったが、白河の指先がわずかに震えた。

 焦りをごまかすように台本を握り直す。現場の空気が一瞬ぴりっと張りつめる。

 自分が動揺したら現場が崩れる、でも心は波打って仕方がない。

段取りが一気に狂う。

 子役の集中力ももつかどうか。最悪、今日の撮影は丸ごと飛ぶ。そんな最悪のシミュレーションが脳内で爆速スクロールする。

 そこへ別のスタッフが駆け寄ってきた。

 「あそこ、ドッグカフェです、監督。もしかして……」

 白河は反射的に顔を上げた。

 通りの向こう、ガラス越しに犬たちの姿が見える。その光景を見た瞬間、わずかに張りつめていた心がぐらついた。

 撮影に耐えられる犬なんてそうそう転がってない。

でも、時間はない、選択肢もない。

 「……ダメ元、か」

 白河の声は、かすかに震えていた。


 「水川さん、珈琲でも飲みません、近くににオープンカフェがあるんです」

 オーディションが終わり、佐川は声をかけた。

 役者はだいたい決まった、だが肝心の相棒がと思った。

 「そうですね気分転換ですね」

 水川は笑った。

 近くのオープンカフェ、確かドッグカフェではなかったか。

 会場を出て、カフェに向かう。

 中に入ったときだ。

 

 「ねえっ、あれ大きすぎない」

 「大型犬だから普通だろ」

 女性と男性の声が耳に入った。

 「あたし、最初、荷物かと思ったの」

 男が視線の先を見たようだ。

 「大きいな、確かに」

 その声は驚くというより僅かに警戒しているような空気を漂わせていた。

 水川はハッとして視線を追いかけた、オープン席だ。

 「佐川さん、テラス席に行きませんか」

 あえて犬がいるとは水川は言わなかった。

 テラス席に座った水川の視線が、近くのテーブルの下に落ちた。

 黒い塊を見つけた。

 女性の「荷物かと思った」という声を思い出す。

 誇張ではない、まったくその通りだ。

 ゴールデンでも、シェパードでもない。

 「大きいですね」

 佐川が低く呟いた。

 その声に導かれるように、水川は周囲に目を向けた。

 小型犬が足元をちょろちょろと走り回り、飼い主にじゃれ、中型犬が店員の動きに反応して耳をぴくつかせている。

 だが、あの黒い塊は、まるで時間から切り離されていた。

 呼吸の音もしない、しっぽも揺れない。

 動かないことが自然であるかのように、そこに沈んでいた。

 (大人しすぎる……違う、静かすぎる)

 ふと、水川と佐川の視線が重なった。

 互いに、言葉にはしないまま、同じ疑念が胸にあった。


 オープン席に入った白河は、まず空気の柔らかさに安堵した。

 犬たちの鳴き声と人々の笑い声が混ざる。

 どこにでもある穏やかなカフェの風景――そう思った瞬間だった。

 ふと視線の先にゴールデンが見えた。

 大きく、金色の毛並みが光を受けて揺れている。

 飼い主の足元にまとわりつき、はしゃぐように跳ねる。

 (ああ、犬というのは落ち着かないものだ)

 白河は小さく微笑んだ。

 「監督っ、あれ……犬じゃないですか」

 若いスタッフの囁きが耳を掠めた。

 「テーブルの下です」

 白河は言われるまま、そちらを見た。

 視界の端、テーブルの脚の影に黒い塊を見つけた。

 一瞬、荷物かと思った。

 誰かの大きなバッグか、丸めたコートかと。

 犬、なのか?

 周りの犬たちが、飼い主にじゃれ、尾を振り、音を立てて動き回っている。

 沈黙が、ひどく不自然に感じられた。



 「あの、ちょっといいですか」

 白河はできるだけ柔らかく声をかけた。

 女性なら話しやすいと白河は思ったのだ。

 表情は穏やかで、話しかけやすい印象だ。

 「実は今、ドラマの撮影をしているんですが、予定していた犬が来れなくなってしまって」

 言葉を選びながら話す間にも、白河の視線は自然とテーブルの下へ落ちた。

 黒い塊は、動かない。

 「予定していた犬は大型犬なんです」

 少し期待を込めて言ったその瞬間、彼女が口を開いた。

 「友人の犬なんです」

 一瞬、時間が止まった、思考考が追いつかない。

 飼い主ではないという、その一点が、頭の中で不自然なほど反響した。

 「……友人の?」

 自分の声が、わずかに掠れた。

 白河の目線が、再びテーブルの下へと落ちた。

 その一瞬を、丸川二郎は見逃さなかった。

 やはり、そういうことか。

 言葉にしなくてもわかる。

 その目は、選んでいる目だった。

 まるで目の前に置かれた小道具の一つを吟味するように、

 黒い塊を見ていた。

 ミサキは、はっきり断った。

 「友人の犬なんです」と。

 それで話は終わるはずだった。

 普通なら、立ち去る。

 だが白河は違う。

 「大人しい」「使える」――

 そんな考えが、顔に出ていた。

 二郎の胸の奥に、重たい熱がじわりと広がった。


 撮影だって言葉を出せば、誰でも喜ぶと思ってるのか?)

 業界特有の、上から目線の軽さ。

 言葉を飾らずとも、その態度がすべてを物語っていた。

 「使える」と思った瞬間、相手の事情も、心も、すべて消える。

 残るのは、“自分の段取りがうまくいくかどうか”だけ。

 二郎は奥歯を噛みしめた。

 拳に力が入る。

 声を出せば、感情が爆発してしまう気がした。


  そのときだった。

 「監督、犬が来れないって本当ですか?」

 透子供の声だ。

 白河が振り返ると少年と子供が近づいてきた。

 「ああ、ハルキ君」

 白河の声に母親らしき女性は困った顔だ。

 「撮影は無理なんですか?」

 少年の問いに、母親がすぐ言葉を継ぐ。

 彼女の声には焦りとも熱意ともつかない響きがあった。

 そして、ふと目線がテーブルの下の黒い塊――雪に留まった。

 一瞬、彼女の瞳がわずかに輝いた。

 「ねえっ、あなた、自分の犬がドラマに出られるのよ。凄いと思わない?」

 口調は軽く、明るい。

 だが、その明るさの裏に、浅く熱を帯びた欲の影があった。

 映るということ。

 それが、どれほど特別な意味を持つかを、彼女は知っている。

 テレビに顔を出す、それだけで人は羨ましがる。

 近所で、学校で、「見た」と言われる。

 承認が、彼女の中では勝ちだった。

 ハルキは黙って母親を見上げた。

 純粋な瞳。だが、目には学習した笑顔が浮かんでいた。

 こういう時は、嬉しそうにしていればいい。

 母が望む絵を、彼は理解しているのだ。

 だが、ミサキの表情は変わらなかった。

 その目は、まるで問いかけているようだった。

 ドラマに出ることが、そんなに凄いの?

 言葉にはしていない。

 それなのに、彼女の沈黙が確かにそう語っていた。

 ハルキは戸惑った。

 ただ見られているだけなのに、胸の奥がざわつく。

 彼女の目には、好奇心も称賛もない。

 そんな視線を向けられたことがなかった。

 自分が出るドラマはいつも高視聴率で、

 SNSには名前が並び、街を歩けば必ず誰かが振り返った。

 「ハルキ君、見てるよ」「サインください」

 それが日常だった。

 有名になること、注目されること。

 それが正しいと信じていた。

 努力はすべてそのためだった。

 眠い夜も、厳しい稽古も、すべて“見られるため”。

 見られることで、自分の価値を確かめてきた。

 それなのに。


ミサキは、わずかに困ったような顔をした。

 白河と子役、そしてその母親を一瞥すると、視線をそっとテーブルの下に落とす。

 次の瞬間、彼女の唇が静かに動く。

 「C'est bon, laisse-le comme ça.」

 低く、落ち着いた声、意味は分からない。

 白河は思わず眉をひそめた。

 聞き慣れない響き。

 英語かと思ったが違う。

  

 離れた席にいた水川と佐川にも、その声は届いていた。

 水川は一瞬、呼吸を止めた。

 「今の、英語じゃないですよね……」

 佐川が小声で呟く。

 だが、水川は答えられなかった。

 その代わりに、胸の内で確信する。

 ――あの言葉はテーブルの下に向けられたものだ。


 突然、背後から明るい声が響いた。

 「こんばんわ!」

 カフェに流れていた穏やかな音楽と会話のざわめきが、一瞬にして途切れた。

 その声は、まるで光の反射のように強く、空気を跳ね返した。

 白河は驚いて振り返る。

(……今、昼だろう)

 心の中で呟いた。

 視線の先、近づいてくるのは黒人女性だった。

 陽の光を受けてきらめく民族衣装。

 赤、青、黄金が交じり合い、まるで絵画の中から抜け出してきたような鮮やかさだった。

 だが、その派手さよりも、彼女の存在そのものが異質だった。

 この穏やかな日本のカフェには、あまりにも場違いな光。

 白河だけではない。

 周囲の客たちも思わず目を向けていた。

 カップを持つ手が止まり、会話が中断され、誰もが小さく息を呑む。

  彼女の一歩一歩が、空気を揺らすように感じられた。

 ミサキはふっと笑った。

 「サーラさん、今は昼間ですから、こんにちは、ですよ」

 女性は、明るく肩を竦める。

 「日本語、難しいよ」


 黒人女性は肩を大袈裟にすくめた後、テーブルの下を覗き込むようにして声をかけた。

 「Shokuji no yōi ga dekitanode mukae ni kimashita yo」

――食事の用意ができたので迎えにきましたよ。

 その言葉の直後だった。

 テーブルの下に沈んでいた黒い塊が、ゆっくりと起き上がった。

 黒人女性、。サーラが、その巨体に手を添え、着せられていたフードを外す。

 現れたのは、白地に黒の斑を持つ、あまりにも巨大な生き物だった。

 白河の視線が、完全に奪われた。

 まるで映画のワンシーンを見ているようなのに、現実の重さだけは確かだった。

 「……大きすぎる、でしょ……」

 母親の声は掠れていた。

 大型犬と言われて想像した普通の大きさが、いとも簡単に否定された。

 ハルキは視線を外せなかった。

 大きいからではない、怖いからでもない。

 目を逸らした瞬間、自分のほうが見透かされる気がしたからだ。

 白河は無言のまま立ち尽くす。

 プロの演出家として多くの見せ場を作ってきたが、

 目の前で起きているものは、そのすべてを軽々と超えていた。

 周囲の席でも、スプーンを持つ手が止まり、誰もが隠すように息を呑んでいた。

 衝撃は静かに、しかし圧倒的に広がっていく。

 昼下がりの穏やかなカフェだったはずの場所が、

 一瞬にして何かの始まりの場に変わってしまったかのように。


 「あっ、迎えまで来てくれたんですか」

 ミサキの声が、少し弾んだ。

 驚きと同時に、どこか嬉しそうでもある。

 サーラは軽く手を上げ、太陽を背に受けながら微笑んだ。

 「車で来たね。道、混んでた。」

 片言の日本語が、妙に場違いな明るさを帯びて響く。

 彼女の背後に二人の男が立っていた。

 黒いスーツ。

 整いすぎた体躯。

 金髪が風を受けて光る。

 サングラスの奥の目が見えない。

 だが、二人の男が放つ圧力が、周囲の誰にも笑いを許さなかった。 黒いスーツ、金髪、サングラス。

 長身の外国人二人は、何も言わず、無駄な動きもなく、存在していた。

 その存在が、場の空気を容赦なく塗り替えていた。


 現実だと理解しているのに、水川と佐川は目が離せなかった。

 しかし、どの言葉にも聞き覚えがない。

 佐川が水川に尋ねた。

 「……今の、何語ですか?」

 だが水川もわからないと首を振った。

 そのとき、すぐ後ろから老婦人の声がした。

 「イタリア語ね、彼女。」

 水川は反射的に振り返った。

 声の主は、すぐそばのテーブルに座る上品な老婦人だった。

 淡いラベンダー色のカーディガン、控えめなアクセサリー、凛とした背筋。その佇まいからは、この騒然とした空気とは異質な、静謐な気配が漂っていた。

 何気ないように聞こえたが、心は乱れていた。

 老婦人は穏やかに頷いた。

 「あの黒人女性よ。珍しくはないわ。移民として育ったり、国際的な環境で暮らしていれば、色々な言葉を覚えるものよ。」

 その言葉に、水川は言いようのない戸惑いを覚えた。

 理屈ではそうだと理解できる。

 「でも、日本語は難しいみたいね。」

 老婦人は冗談めかして笑った。

 隣にいた佐川もまた、言葉を失っていた。


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