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11  芸人と役者、ゲストの変化

 あの日から、10日あまりが過ぎていた。

 三国は、あの日のスタジオの空気を思い出していた。

 雪と吹雪が去ってからば日常に戻った。

 そう思っていたのだ。

 だが違った、変わったのは、犬ではない、人間だ。


 街中で、偶然、茨道を見かけた、体を張る芸で知られる、あの芸人だ。

 彼は慎重な足取りで、ひとりの女性の手を引いていた。

 横断歩道だ、信号が変わる、茨道は周囲を何度も確認し、歩調を相手に合わせ、確実に渡りきる。

 渡り終えた瞬間、女性は立ち止まり深く、深く頭を下げた。

 礼だけを残し、静かにその場を去っていく。

 知り合いではないと直感した、思わず声をかけた。


 「今の女性は?」

 茨道は振り返り、少し間を置いてから答えた。

 「眼科の検診帰りみたいで。ほら、眼底検査あるでしょう」

 三国は、言葉を失った。

 「最初、あれって思ったんです」

 茨道は言葉を続けた。

 「歩き方、周りを見ているような、視線が定まってないと思ったんです、あっっ、もしかして、ちゃんと見えてないなって」

 芸人の顔なのに、笑いはなかった。

 舞台の上で“転ぶ役”を生業にしてきた男が、人の異変に、正確に気づいていた。

 あの日、スタジオで起きたことが、確実に何かを変えている。

 三国は、その事実を否定できなかった。

 「実は俺、手話をはじめたんです」

 茨道の口から出た言葉に三国は驚いた、予想もしない言葉だ、何故と思ってしまう。

 一瞬、理解が追いつかなかった。

 「簡単なものですけどね。動画サイトでも出てるやつです」

 茨道はそう言いながら指を動かした。

 慣れてはいない動きだ。

 だが、形をなぞる意志ははっきりしていた。

 「言葉だけでは、限界があるなって思ったんです」

 照れも誇張もない言葉だ。

 三国は尋ねた、変えのは。

 「あのテレビ出演が、きっかけですか」

 一瞬の沈黙、茨道は視線を外し、いつもの調子で笑った。

 「らしくないですよね」

 場を和ませるための、彼の得意な逃げ道。

 だが、三国は笑えなかった。

 あの日、スタジオで見た光景が脳裏に蘇る。

 命令などなかった、なのに通じ合っていた存在。

 言葉がなくても、理解が成立する世界。

 茨道は知ってしまったのだ。

 芸として転び、笑われる立場の人間が気づいてしまった次の段階。

 三国は思った、善意ではない。流行でもない。

 後戻りできない変化だと、だからこそ、笑えなかった。


 三国は、駅前のカフェの近くまで来た。

 雪、吹雪、二頭の存在、ただの犬ではなかった。

 変わったのは、あの場に居合わせた人間だ。

 茨道が自然に人の異変に気づき、咄嗟に助け舟を出せる人間だったことに驚いた。

 手話を始めたと笑いながら言っていた。

 あの場にいたからこそ、笑いでは届かない場所を知ってしまったのだろう。

 そして相馬、野口は海外へ。

 新しい舞台、新しい空気を求めているのだとしても、役者」になるという言葉に変わっていた事実。

 今のままでは駄目だと思ったのか。

 光石、丸川、神崎、彼らのようになるには、自分を変えるしかないと思ったのか。

 茨道は応えた、相馬も野口も、自分の答えを探しに行った。

 では、自分は、どうだ。

 まだ何も始まっていない気がした。だが、もう元には戻れないとも思っていた。

少し休もう、視線を向けると道の向こうにオープンカフェを見つけた。

 

 三国は、歩みを止めた瞬間に胸の奥がざわついた。

 視界の先――オープンカフェのテラス席。

 そこにいたのは雪だ。

 巨大な体を静かに伏せ、若い女性の足元に寄り添っている。

 その姿だけで、周囲の空気が一段階落ち着いたように見える。

 女性の隣には白髪の外国人男性。

 軍人か学者か、どちらにも通じる厳しさと静けさを感じさせた。

 奇妙だったのは客たちだ。

 数人が同じテーブルで談笑しているのに、誰ひとりとしてスマホを向けようとしない。

 一度だがTVに出ている、周りが気づかないはずがない。

 通常なら通行人ですら写真を撮るだろうだが、視線すら向けない者もいた。

 三国はそこで、もうひとつの異物に気づいた。

 近くの柱の陰。

 長身の外国人女性が立っている。

 サングラス越しでもわかる一般人ではない。

 一般人ではないと思った。

 三国は、ただ立ち尽くしていた。

 視線を外せない。

 胸の奥がざわついているのに、足は一歩も動かなかった。

 そのときだ、紳士がゆっくりと顔をこちらへ向けた。

 そんな気がした、瞬間、三国の背筋が固まる。

 見られた、そう確信できるほどの、冷静で深い眼差しだった。


 「ミスター」

 突然、耳元でかすかに呼ばれ、三国は息をのんだ。

 振り返ると、いつの間にか長身の女性がすぐ横に立っていた。

 「ムッシュウが、お話がしたいそうです」

 流れるような日本語だった。

 外国人の口から出たとは思えないほど違和感がない。

 三国は一瞬、言葉を失った。

 足を運ぶたびに鼓動が強くなるのを感じていた。

 紳士の前に立つ頃には、緊張を隠す余裕はなかった。


 「珈琲でいいかね」

 白髪の紳士が、まるで旧友に話しかけるような自然さで言った。

 その日本語があまりにも滑らかで、三国は思わず目を見開いた。

 続く言葉が、さらに彼を混乱させる。

 「ミスター・三国、娘たちが珍しいかね」

 娘たち?三国の思考が一瞬、空白になる。

 三国は、言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。

 吹雪の娘、雪のことだと思った。

 スタジオでのあの動き、あの静けさ。血縁として語られても不思議ではないと感じたからだ。

 だが、次に紳士が口にした名前が、三国の思考を止めた。

 ミサキ、人間の彼女まで、吹雪の娘と呼ばれる理由がわからない。

 冗談にしてはおかしいだろうと思った。


 「ミスター、吹雪は熊犬だ」

 その言葉に三国の思考が一瞬止まった、ただの大型犬ではない。

 紳士は淡々と続けた。

 「オーナーの自宅、近隣の森にはグリズリーが出る。彼女は危険を避けるために、修二と一緒に助けてくれる」

 グリズリー。

 その単語が、三国の胸に重く落ちた。

 ヒグマと同格の捕食者。

 人間が遭遇したら、逃げ切れる保証などない存在だ。

 三国は息が詰まるような感覚を覚えた。

 あの日、スタジオで見た吹雪の静けさは警戒を必要としない状況だっただけだ。

 グリズリーの出る土地で育った犬なら、人間の喧騒など、ただの雑音にすぎない。


 三国は思考が一瞬、止まった。

 「戦うんですか」

 思わず尋ねてしまった。

 瞬間、紳士の表情が変わった。

 だが、それは怒りではない、だが、深い失望にも似た色が確かにあった。

 「危険な生き物だから殺せと?それは人間の勝手な理屈だと思わないか」

 三国は返事を失った。

 自分としては、当然の質問だと思って口にしたことなのに。

 しかし紳士は、三国とはまるで違う場所で生きている者の声音だった。

 「危険を回避できるなら、それに越したことはないと思わないか」

 言われてみれば当然だ、だが人間は、危険を前にすぐ“排除”という答えを選ぶ。

 三国自身、その常識に縛られていたことに気づく。

 ただ、自分がそれしか知らなかっただけなのだ。

 紳士は視線をミサキへ、そして雪へと向けた。

 「ミサキもショーコも吹雪を見て育った。森で、危険を回避する方法を学んだ」

 学んだ?三国の胸に鋭く刺さった。

 犬の行動を真似たという軽い話ではない。

 紳士は続けた。

 「修二が吹雪の飼い主だが、森に入るときは吹雪か雪、どちらかを連れて行けと言っている」

 そこまで言うと、紳士は穏やかに笑った。

 だがその笑みは、どこか人間側の無知を見透かしているようでもあった。

 「よく見て観察する。二匹の動きを細部まで、そして、従うように、とね」

 森の中では、人間の判断よりも吹雪たちの判断が優先される。

 危険の察知も、回避の仕方も、先に知っているのは犬のほうだ。

 それは支配でも訓練でもない。


 三国は返事を求められているのに、喉がうまく動かなかった。

 「君は二匹にもとても興味を抱いていた。どうだ、満足したかな」

 紳士の静かな声とは対照的に三国の胸はざわついていた。

 満足というのは何に対してなのか。

 自分は何を理解したと言えるのか。

 自分の中で言葉を探したが、形にならなかった。

 雪を初めて見た瞬間の衝撃。

 番組のスタジオに座っていた。

 正直、とても家庭犬とは思えなかった。

 吹雪が姿を現した時の、あの空気が変わる感覚。

 育ての母犬、その言葉の重さ。

 どんな環境で育ち、どんな日常を生きてきたのか。

 答えを知りたくて目を向けたはずなのに、今、自分はその答えの一端を目の前に突きつけられ言葉を失った。

 返せる、いや、返していい言葉がわからない。

 視線を下げると、テーブルの下で雪が静かに横たわっていた。

 落ち着いていて、呼吸は深く、動きにも無駄がない。

 スタジオで見たときと何一つ変わらない。

 あのときも今も、この犬はブレていない。

 揺らいでいるのは、こちら側だけだ。

 三国はゆっくり息を吸った。

 雪ーという犬の存在が示す常識の外側。

 それが少しずつ、形を持ちはじめている。

 それを前に、自分がどう振る舞うべきか、まだ答えを持てていなかった。

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