朝の林檎が恋を育む
カランコロンと軽やかな音が、静かな店内に響き渡りました。お客様がいらっしゃった合図です。
開くドアと共に姿を見せたのは、若い男女の二人組。男の子の方は初めてですが、もう一人はすっかり顔馴染みの女の子でした。
彼女は私の「いらっしゃいませ」より早く、元気な声で挨拶してきました。
「おはようございます、マスター! 今日は友達と一緒に来ました!」
青いジーンズに紺色のコートを着て、ベージュのニット帽を被った彼女は、豊橋紗菜さん。17歳の高校生です。
今から数ヶ月前、夏休み期間中のアルバイトで、ウェイトレスをしていました。それが終わった後も今日のように、お客様として何度も来てくれています。
「中川くん、コートはここで……」
彼女は慣れた様子で、自分の上着を入り口近くのコート掛けに掛けていました。
中川くんと呼ばれた男の子も彼女を真似るようにして、灰色の厚手のジャケットを脱ぐと、同じくコート掛けを使っています。
続いて豊橋さんは、彼を店内左側の隅へと案内しました。彼女がいつも座っている、奥のテーブル席です。
「……私たちは、こっち!」
彼女と向かい合って腰掛ける男の子を見ながら、私はふと「『中川くん』という名前には聞き覚えがあるな……?」と考えていました。
二人は何やら話し合ってから、豊橋さんだけが立ち上がり、こちらへ近づいて来ます。
ちょうどそのタイミングで、中川くんの名前をいつどこで聞いたのか、私も思い出したのですが……。
「マスター、林檎のモーニングプレートを二つ。飲み物は、どっちもブレンドコーヒーでお願いします!」
ああ、やっぱり。
彼女の注文内容こそが、まさにその答え合わせでした。
――――――――――――
それは、まだ暑い真っ盛り。8月下旬の出来事でした。
あまりの暑さに、みんな家から一歩も出たくなかったのでしょうか。
来店してくださるお客様もほとんどおらず、カウンター席に一人だけ。その一人も、アルバイトである豊橋さんの友人でしたから、半ば身内みたいなものです。
そんな閑散とした店内で、退屈そうな顔をした豊橋さんが、私に尋ねてきました。
「マスター……。うちの店のメニューには、アップルパイって無いんですよね?」
私は一瞬、唖然とした表情を見せたかもしれません。
うちの店で豊橋さんがアルバイトを始めてから、既に一ヶ月くらい。昨日や今日バイトし始めた子でもなかろうに、いったい何を言い出したのだろう、と。
うちは喫茶店です。洋菓子店ではありません。
喫茶のための場所であり、店主の私としては、美味しいコーヒーを味わっていただけるお店だと自負しています。
だから、うちではアップルパイなんて扱っていないのですが……。
そういえば、スイーツの類いをアピールポイントにしたり、それこそ「絶品のアップルパイが食べられる!」みたいな謳い文句だったり。そんな喫茶店の存在は、私も聞いたことがありました。
私は少し、頭が固かったのかもしれません。
慌てて笑顔を取り繕うと、なるべく優しい声で応えました。
「ええ、メニューには入れていませんね。作ろうと思えば、作れるでしょうけど……。豊橋さん、アップルパイが好物なのですか?」
「あっ、いや、好物ってほどでもなくて……」
「ふふっ」
豊橋さんの返事に被さるように、カウンター席から笑い声が聞こえてきます。
そちらへ視線を向けると、豊橋さんの友人が頬をニンマリさせていました。
彼女は田町さんといって、豊橋さんと同じクラスだそうです。
おそらくは彼女の親友なのでしょうし、彼女の働きぶりを心配しているのかもしれません。豊橋さんがバイトし始めてから、時々うちに来店するようになっていました。
「アップルパイというより、好物は林檎全般。いや、林檎を使ったスイーツ全般かな? しかも紗菜ちゃんの好物じゃなくて、中川くんが好きなのよねえ……」
「やめてよ、たまっち! 変なこと言うのは!」
「あら、私、ホントのことしか言ってないわよ? それにアップルパイの話、持ち出したのは紗菜ちゃんの方でしょう?」
どうやら豊橋さんは、その中川くんという男の子に、アップルパイを食べさせたいようです。私から作り方を教えてもらえたら手作りで直接、あるいは、メニューにあるならばうちの店に連れてくるというやり方で。
どうやら二人の口ぶりでは、その中川くんは、別に豊橋さんの彼氏ではなさそうです。ならば彼女の片想いでしょうか。
「いずれにせよ、林檎が美味しいのは、今の時期ではないですからね。林檎の旬は秋から冬くらいですし……」
私が言葉を挟むと、二人は軽い言い合いをやめて、揃ってこちらに顔を向けました。
特に豊橋さんは、その目が輝いています。
「……では冬季限定メニューとして、うちでもアップルパイを出してみましょうか」
「是非お願いします、マスター!」
――――――――――――
「お待たせしました。冬季限定、林檎のモーニングプレートです」
豊橋さんと中川くんが座るテーブルに、モーニングセット二人前を運んでいきます。
うちの通常のモーニングは、飲み物とトースト、サラダ、ソーセージとスクランブルエッグというメニュー内容。
この本来のモーニングは今現在もありますが、それに加えて期間限定メニューとして用意したのが「林檎のモーニングプレート」と銘打ったセットです。
トーストをアップルパイに変えただけでなく、サラダの代わりに林檎のグラッセ煮とアップルシナモンが入っています。
数ヶ月前に豊橋さんと約束したのはアップルパイ単独でしたが、いざメニューに組み込もうと考えたり、試作品を作ったりするうちに、少し気が変わったのです。
わざわざ林檎を仕入れる以上、アップルパイだけでは勿体ないのではないか、と。
ちょうど田町さんの「好物はアップルパイというより、林檎を使ったスイーツ全般」という言葉も覚えていたので、ならばアップルパイ以外の林檎スイーツも含めてみよう、という方針になったのでした。
いっそのこと飲み物も林檎関連にして、このセットの場合はアップルティー限定としても良かったのですが……。やはりうちはコーヒーを楽しんでいただく喫茶店という自負があり、そこだけは譲れないため、飲み物は通常のモーニングと同様の選択制にしています。
「あら、美味しい!」
「うん、旨いぞ、これは。林檎のしっとり感とパイ生地のサクサク感、両方が味わえることこそアップルパイの良さでね。豊橋は知らないかもしれないけど、下手な作り方だと、林檎の水分が染みてパイ生地まで湿って、このサクサク感が出なくなるから……」
「思ったほど甘過ぎなくて、いい感じね! 林檎そのものが、甘いってより甘酸っぱいからかな? でも、それだけじゃなさそう……」
「ああ、これはたぶん、バターの使い方が上手なんだよ。バターのコクが活かされて……」
林檎のスイーツが好きなだけあって、おそらく中川くんの方は、これまで様々な場所で色々なアップルパイを食べてきたのでしょう。
作り方にも関わる蘊蓄を披露しながら、豊橋さんと一緒にアップルパイを味わっています。
とりあえず、そんな中川くんから「旨い」と太鼓判をいただけたようで、私も誇らしい気分になりました。
「豊橋、こっちの二つも美味しいぞ。ほら、食べてみろ!」
「二つ……? 焼き林檎のスライスかと思ったけど、確かに二種類あるみたいね。片方は特に湿った感じで……」
「ああ、アップルグラッセとシナモン焼きの二種類だな。豊橋の言う『湿った感じ』は、グラッセの方のレモン汁だろう。シナモン焼きも、ただ火を通してシナモンパウダー振りかけただけじゃなく、これ何だろうな? とにかく隠し味が効いていて……」
どうやら林檎のスイーツ三種類、どれも気に入っていただけた模様です。
この分ならば、彼もうちのリピーターになってくれることでしょう。
少なくとも、林檎のモーニングプレートを出している期間中は。
――――――――――――
中川くんと豊橋さんには好評な期間限定メニューですが、他のお客様たちには、それほどでもありません。
冬季限定という物珍しさから、みんな一度は試してみるけれど、その最初の一度だけです。何度も頼む方々はほとんどおらず、朝の注文は通常のモーニングセットばかり。
「アップルパイも林檎のグラッセ煮もアップルシナモンも、どれも美味しいけど……。でも林檎スイーツばかり三つというのは、ちょっとくどい」
というのが、一般的なお客様からの評判のようです。
ただし私が思った通り、中川くんは豊橋さんと一緒に、よく来店してくれるようになりました。
平日は学校があるから無理ですが、週末や祝日は、ほぼ毎朝というくらいの頻度です。
来店のたびに林檎のモーニングプレートを注文してくれますし、そもそも豊橋さんの要望から始まったメニューです。二人が来てくださる限りは、やめるわけにはいきません。
そんな日々が続いて、いよいよ冬休みが始まると、平日の朝も豊橋さんたち二人が来られるようになり……。
そろそろ年末という、ある日の朝。
「おはようございます、マスター! 今日も林檎のモーニングプレートを二つ、飲み物はブレンドコーヒーでお願いします!」
カランコロンというベルの音に続いて、豊橋さんと中川くんが入ってきました。
いつも通り元気な声で、いつものメニューを注文します。
しかし全てがいつもと同じではなく、違う点もありました。
今朝の二人は、色こそ違うけれど、模様がお揃いの手袋。しかも、その手袋に包まれた手を、二人でギュッと繋いでいたのです!
若い二人の関係は、どうやら着実に進展しているようですね。
これもうちの冬季限定モーニングが育んだ恋……というのは、さすがに少し厚かましい考え方でしょうか。
(「朝の林檎が恋を育む」完)




