9 聖女の懊悩
卒倒してしまった聖女クラリスではあるが、気つけをされるとすぐに自分を取り戻した。気絶している人間を叩くという治癒術士にはシャットンも驚いたのだが、結果的には良かったのもしれない。
「どうしたらいいのかしら。魔塔なんて」
悄然として聖女クラリスが呟く。
ミュデス公子の手を逃れたという一時の安心感が一瞬で消え去ってしまった。
今も窓の外を見やっている。まるで、見えない魔塔を眺めようとしているかのようだ。
シャットンも胸を痛めていた。聖女クラリスが不憫なばかりではなく、自分にとっても恐れていた事態が現実のものとなってしまったからである。
(ドレシア帝国も、さすがに魔塔攻略の面倒までは見きれない。そんな印象を受けたな。まぁ、当然だが)
シャットンは直接話をしていた皇帝シオンやアンス侯爵の様子から、そんな印象を受けていた。
未だに客人という待遇を維持してくれてはいる。護衛としてバーンズという男の部隊も護衛についているし、この客間も貸してくれたままだ。
(心強い部分はあるのだが)
追跡していた10騎を殲滅している男だ。
(一応、フェルテアの正規兵だった。実戦経験は少なくても訓練はしっかりとしていた軍だ)
バーンズという男にしろシェルダンにしろ、油断のならない人物が多いのだった。気を抜いてばかりもいられない。
「魔塔の魔物なんて、私、見たこともない」
更に聖女クラリスが零す。フェルテア公国の国民の大半も同様だろう。
シャットンも中にまでは入ったことがない。魔塔の中から溢れた魔物を見たことがあるだけだ。
(果たして、フェルテア公国に自力で魔塔を攻略するだけの力があるかどうか)
シャットンも危惧するところではあった。
シェルダンという軽装歩兵の隊長も言っていたとおり、長年、平和を享受してきた、平和ボケしてきた国である。
「魔塔というのはどれだけ恐ろしいんですか?」
聖女クラリスが顔を向けてくる。
(そこからか)
シャットンは苦いものを噛みしめる。聖女クラリスのこれまでを思う。
漠然と怖いものだと聞かされてきただけなのだろう。魔塔を生まないために自分たちの役割は大事だ、とフェルテア大公国の神聖教会からも言い聞かされてきたのではないか。真摯に受け止めて、聖女クラリス自身もずっと祈りを捧げ続けてきた。
だが、きちんと抑えてこられたからこそ、本物を目にしたことはない。
「魔塔には出入り口があり、中からは魔物が溢れてきます。それも魔塔がある限り、止まることはありません。魔物による被害がさらに人々を絶望に叩き落とすのです。そして、それが魔塔の力を増し、さらには次の魔塔を生みます。悪循環です」
シャットンは当時のアスロック王国を思い出し、陰鬱な気持ちのまま説明する。自分の祖国は合計4本もの魔塔に押し潰されたのだ。
「そんな」
聖女クラリスが青ざめる。フェルテア公国の未来を心の底から案じているのだ。
(公子一人の横暴とはいえ、自分を糾弾して追い出した国だと言うのに)
シャットンとしては心に汚れがないということで好ましいくらいなのだが。
(聖女とはいえ、この娘に出来ることはあるのか?)
祈るだけの存在であるはずのフェルテア公国の聖女である。実際的な力など何も無いはずだ。
(アスロック王国の聖騎士と違い、戦う力を持つという話も聞いたことがない)
他国出身のシャットンではあるが、一応、選出の経緯だけは聞かされていた。フェルテア公国中央教会の水晶玉に手をかざし、蒼色に輝かせた者が聖女なのだという。
(だが、ただの美しい少女にしか見えない)
聖女クラリスの憂いに沈む横顔をまじまじとシャットンは眺める。
かつて聖騎士セニアについては、騎士団長ハイネルに匹敵する剣技を身に着けていた。身体能力も人間離れしていたものだ。
(それに加えて、神聖術という魔物に特化した術も習得されたらしい)
シャットンは当時を思い返す。何か今の参考になることはないかとも思うのだが。
「どうすればいいの?今、この瞬間にも、魔物に襲われている人がいるかもしれない」
更にクラリスが呟く。
「魔塔を倒すというのは、とても難しい、戦よりも厳しい戦いとなります。軍の力も必要ですし、それだけでは足りない」
旧アスロック王国でも、騎士団長ハイネルと黒風の魔術師ワイルダーが揃って魔塔上層に入り、倒れたことがあった。立ち込める瘴気が人間の進入を阻むのだという。単純な武力だけではなく、知識も必要とされるのだ。
(おそらくそれがあるのはドレシア帝国だけだというのに)
シャットンは唇を噛む。皇帝シオンやアンス侯爵、シェルダン・ビーズリーの一歩引いた態度が思い出される。
「私にも、何か出来る事はないかしら?安全な他国でのうのうと過ごしているなんて」
思い詰めた顔で聖女クラリスが言う。
「心がけはご立派ですが、しかし、現実問題、何も無いでしょう」
シャットンは言い切るしかなかった。
「でも」
聖女クラリスが苦しげに顔を歪める。
追いやられた身で、祖国のために出来ることは決して多くない。元々の立場からして権力も強いものではなかった。フェルテア公国の象徴的な存在に過ぎないのだ。
(だが、魔塔を生ませず、平和を享受出来たのも、彼女のような人が祈り続けてきたからだ)
決して軽視して良いものではないとシャットンは思う。
(この果てしのない善意が、これまではフェルテア公国を守っていたのだろう)
だが、いざ魔塔が生じてしまえば出来ることは無いということでもある。
「クラリス様に出来ることは何もありません。口惜しく、冷たいようですが。フェルテア大公国に戻ってもミュデス公子に処断されるだけでしょう」
重ねてシャットンは告げる。
(もう、良いではないのですか?)
内心で浮かない顔のまま思考に沈むクラリスに問いかける。
他国で平穏に暮らすことの何が悪いというのか。口には出せないながらもシャットンとしては、クラリスに対して労いとともに思うのだった。
(何年も労を惜しまず、フェルテア公国の各地で祈り続けてきたではないですか)
人生のすべてを巡礼に捧げるようなものなのだ。他の年相応の楽しみに時間を費やすことも許されない。そこまでしてなお、不当な扱いを受けて、その報いを向けた国に何をしてやれというのか。
聖女クラリスも返答せず、シャットンもこれ以上、告げるべき言葉が出てこない。
重たい沈黙が流れた。
「私、やっぱり聖山ランゲルに行きます」
顔を上げて、聖女クラリスが言う。
「魔塔を倒せるのは、聖騎士セニア様だけなのでしょう?でも、もう、ドレシア帝国の人だから、なかなか動けない」
自分なりに知恵を絞り出そうとしているのだろう。
「でも、大神官様のお口添えがあれば、御力を貸してくれるかもしれないわ」
宗教的権威に号令を掛けてもらえれば、また状況は確かに変わるかもしれない。
(それでも、上手くいくとは限らない)
シャットンは思う。聖騎士セニアが嫁いでいるのは世俗の君子であるクリフォード・ドレシアなのだ。かなり溺愛しているとのことで、危険な魔塔攻略、まして他国での戦いに向かわせるかは微妙なところだ。
(一方で聖女クラリス様の取れる手段も限られている)
何かを祖国のためにしていないといたたまれない、という気持は良く分かった。
「分かりました、お供します」
故にシャットンは静かに告げるのであった。




