第9話
リネットがそう思っていれば、控えめに部屋の扉がノックされる。
それにリネットが驚いていれば、レックスはきょとんとした表情で扉の方に向かった。
……逃げるならば、今だ。
(なんて、レックス殿下が入り口にいらっしゃる以上、無理なのよねぇ)
一瞬そう思ったが、現実は甘くなかった。
心の中でそう思いつつ、リネットは項垂れる。父は今頃、どうしているだろうか?
レックス曰く、リネットがレックスといることは父に伝えてくれているらしいが……。
(お父様のことだし、娘が王子殿下に見初められたとかよりも、私の心配をしてくださっていると思うけれど……)
しかし、彼も生粋の貴族なのだ。多少なりとも出世欲はある……はず。
そんなことを思っていれば、不意にレックスが大きな声を出した。それに驚いてリネットが肩を跳ねさせれば、レックスは部屋を訪ねてきた従者に声を荒げているようだ。
「俺は今、リネット嬢と大切な話をしているんだ。……引き返してくれ」
「で、ですがっ! 殿下っ!」
従者は所詮従者である。王子であるレックスに逆らうことなど出来やしないし、彼の意向を妨げることも許されない。
けれど、ちらりと見えた従者の表情は大層焦っているようで。……何となく、哀れだった。
「どう、なさいました?」
だからこそ、リネットは控えめにそう声をかける。
そうすれば、従者がほっと胸をなでおろしたのがわかった。……相当、怖かったようだ。
「い、いえ、王妃殿下がレックス殿下をお呼びなのです。……なんでも、大切なお話があるとか、なんとか」
「だから、俺は今リネット嬢と大切な話をしているんだ。母上のことなど、後でいい」
ゆるゆると首を横に振るレックス。そんな彼を見ていると、リネットの中に「もしかして、逃げるチャンスでは……?」という邪な感情が芽生えた。
(そうよ。レックス殿下が王妃殿下の元に向かっている間に、逃亡しちゃえばいいのよ……!)
それがいわば不敬に当たることなど、今のリネットの頭にはない。
「ですが、王妃殿下は何が何でも、引きずってでも連れてこいと……」
「母上の機嫌くらい、キミが取ってくれ。とにかく、俺は今忙し――」
レックスが踵を返そうとしたときを狙った。リネットは、彼の衣装の袖をちょんと握る。
(こ、こんなこと、私がしたところで大した意味はないのだけれど……!)
そう思うけれど、やってみないことには何も始まらない。ミラベルだったら多少なりとも様になるのだろうから。
(そうよ。私だってお姉様の妹。多少の愛らしさはある……ある、わよね?)
最後の方は疑問形だった。
でも、意を決しなければ。リネットがここから逃亡するには、これしかない。
「レックス殿下」
「……どうした」
ほんのちょっぴり上目遣いで、レックスを見つめる。……こんなことをするのは両親以外には初めての経験だ。
だけど、ロマンス小説で読んだのだ。……男性は、こういうことに弱いと。
(ちょんと控えめに袖を握って、上目遣い。目はちょっぴりうるうるとさせ……られるわけがないわよね)
今は必死すぎて、泣くことは出来そうない。だから、そこは止めた。
「……リネット嬢?」
レックスが、ほんの少し戸惑ったようにリネットの名前を呼ぶ。
(羞恥心は捨てるのよ。そう、私はとびきりの美少女。ついでにいえば、幼子よ。平々凡々だということは、この際忘れなさい)
ぐっと息を呑み、リネットはそのきれいな唇を開く。
「どうぞ、向かってくださいませ」
ほんの少し目線を下げて、寂しげな表情も作り上げた。我ながらばっちりだ。百点満点中九十点はあるのではないだろうか。
「だが」
リネットの様子を見て、レックスが少し戸惑ったのがわかった。よし、あと一押しだ。
「もしかすれば、王妃殿下は急用かもしれませんわ。レックス殿下が駆けつけなければ、いけない問題が起こったのかも……」
少なくとも、レックスじゃないとダメな理由などないだろう。この国には王子が三人いる。
だから、リネットの言っていることは設定がゆるゆるなのだ。けれど、レックスはそれに気が付いていないのだろう、少し考え込むようなそぶりを見せた。
「どうぞ、私のことはお気になさらず。王妃殿下の元にお向かいくださいませ」
「……リネット嬢が、言うなら」
先に折れたのはレックスだった。リネットとて、このあざとい行動には羞恥心しか覚えない。つまり、そろそろいい加減限界だったということだ。
「……というわけだ、母上の元に案内してくれ」
「は、はいっ!」
レックスの気が変わったのが嬉しかったのか、従者がぱぁっと笑みを浮かべる。彼はリネットに深々と頭を下げると、歩き出す。レックスは、ほんの少し未練があるらしく、リネットの方をちらちらと見つめてきた。
(こういうときに、寂しそうな表情を)
自分自身に、そう言い聞かせる。……さすがにここで笑顔だったら、先ほどの演技は全部パー、つまり台無しになる。
(演技はしっかりと、最後までやる!)
最後の最後で隙を見せるわけにも、いかないのだ。
ちょっと調子が安定しないので、しばし不定期更新で行きます。できれば毎日更新したいんですけれどねぇ……。はは。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします……!