第2話
一度深々と頭を下げ、リネットは顔を上げる。
執務室の中は特に変わりない。執務机の前の椅子に腰かける父も、いつも通りの表情だ。
「どういう、ご用件ですか?」
出来る限り声を震わせずに、リネットは父にそう問いかける。
そうすれば、父はリネットを手招きした。なので、リネットはゆっくりと歩を進めて父の方に向かう。
「いや、大した用件ではないんだよ。……ちょっとした報告、というか」
父が肩をすくめながらそう言ってくる。……大したことではないのならば、食事の際に話せばよかったのに。
心の中でそう思い、リネットが眉を顰める。すると、父は少し困ったように笑っていた。
だからこそ、リネットは気が付く。これは、リネットを安心させるためのいわば嘘なのだと。
「なにか、ありました?」
震える声を無理やり抑え込み、リネットは冷静を装ってそう問いかける。
そんなリネットの姿を見たからだろう。父も覚悟を決めたらしく、ごほんと一度だけ咳ばらいをした。
「実は、リネットの元にレックス殿下からお手紙が届いていただろう?」
予想だにしていない話の切り出し方に、リネットが目を何度か瞬かせる。その後、頷く。
確かにリネットの元には頻繁にレックスからの手紙が届いている。それだけは、間違いない。
「その中に、僕宛てのものもあってね」
「……まぁ」
「そして、そこに一度我が屋敷に来たいという申し出があったんだ」
「……はぃ?」
あまりにも意外過ぎる言葉に、リネットは自然と素っ頓狂な声を上げてしまった。
目をもう一度ぱちぱちと瞬かせ、父を見つめる。父の真剣な表情は変わっていない。……夢ではない。冗談でもない。
「も、もちろん、お父様はお断りされましたよね……?」
ワンピースの裾を握る手に、力がこもった。力を入れなければ、手が今すぐにでも震えてしまいそうだ。
そう思いつつリネットがそう問いかければ、父は「ははは」と乾いた笑いを零す。……大体、答えが予想出来てしまう。
「まぁ、仕方がないよね。王家からの打診を断る権力など、我が子爵家にはないのだから」
「……それは、そう、ですけれどっ!」
父の言っていることは間違いない。子爵家ごときが王家に逆らうことは許されない。父は当主として、子爵として間違いのない選択をしている。ただ、リネットの気持ちをほんのちょっぴり考えてほしかったということは、思っているが。
「そ、そもそも、どうしてレックス殿下が我が子爵家にいらっしゃるのですか……!?」
そう問いかけたリネットの声は、露骨に上ずっていた。焦りからかそれにも気が付くことが出来ず、リネットは父に詰め寄る。
だが、父は小首をかしげるだけだ。……どうやら、訪問の理由はよくわからないらしい。
「いや、僕たちに挨拶をしたいと書いてあっただけなんだ。……挨拶の内容は、よくわからないんだが……」
「……大体、予想出来ました」
父は挨拶の内容がわかっていないようだったが、リネットにはある程度の予想ができた。
彼はリネットを妻にしたいと、妃にしたいと言っている。それすなわち、その挨拶なのだろう。
(大方、王太子殿下が何かを吹き込まれたんだわ……!)
レックスだけならば、いきなりそんな突拍子もない行動を取るとは思えない。……いや、あの純粋無垢で行動が読めない王子ならば、ある意味あるかもしれない。けれど、圧倒的にセオドリックの差し金という方が可能性は高かった。
「まぁ、というわけなんだ。リネット。レックス殿下のお相手を、頼むよ」
「……えぇっ」
「こんなことを言っては何だが、レックス殿下はリネットのことを気に入っている。リネットがお相手をした方が、喜ばれるだろう」
それはまぁ、間違いないことだとリネットだって思う。……たとえ、そこにリネットの気持ちがちっとも反映されていなかったとしても。理不尽だと思っても。
身分とはこういうものだ。子爵令嬢ごときが、第三王子に歯向かえるとは思えない。というか、許されない。
「しょ、承知いたしました。……ところで、訪問はいつ頃ですの?」
「三日後だね」
「早くないですか!?」
せめて、一週間後とか、二週間後とか。出来たら一ヶ月後とか、三ヶ月後とか。
そういう時期がよかったのに、訪問は三日後だという。……まったく、覚悟を決める余裕がないじゃないか。
「まぁ、非公式での訪問だからね。そんな気を張る必要はないだろう。私的な訪問だと、手紙にも書いてあったし」
「そういう問題じゃないです!」
父は朗らかに笑っているが、リネットからすればそう簡単に割り切れる問題じゃない。
レックスはリネットに気があるのだ。むしろ、惚れこんでいるといっても過言じゃない。
何をされるか、わかったものじゃないのだ。
(まぁ、レックス殿下が何か変なことをされる可能性は低いだろうけれど……)
かといって、こちとら覚悟を決める必要があるのだ。せめて、せめて。百歩譲っても、そこだけは感じ取ってほしかった。
リネットは、心の底からそう思っていた。