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翼ある言葉  作者: かのこ
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  一度パラティウムに戻ったものの、重苦しい高官服を脱ぐなり、腰を落ち着ける間もなく出てきてしまった。

 懐かしいローマ。トガをまとえるローマ人。元老院、神殿、石畳の広場。そしてもちろん我が家。母との再会は嬉しいし、家族とゆっくり話をしたいのはやまやまなのだけど。

「カリナエに参ると、伝えておくれ」

 奴隷に言いつけて、義理の伯母の屋敷へ使者をやる。昔からの親しいつきあいだし、トゥニカのみで、支度に手間がかかるトガは略しても咎められることはないだろう。

 フォルムでの仰々しい式典も、この際迷惑だ。義理の父、アウグストゥスにもそう伝えてあったのに、なんだか面倒なことになっていた。それらを適当にこなして、やっと個人的な時間を作ったところだ。出る時に母に呼び止められたけれど、理由も曖昧にして「出かけます」としか言わなかった。


 仰々しい輿は避け、供も少なくした。子供の頃から通い慣れたオッピウス丘の屋敷に、徒歩で到着する。無意識に急いでいたらしい。気づくとおつきの奴隷たちが息をきらせている。門番に取り次ぎを頼んだ。親族なのだから特に訪問に理由はいらないと思うが、屋敷の主人に面会を申し込んである。

「まあドルスス。お帰りなさい。ご無事でなにより」

 姿を現した大マルケラが驚いている。この家の長女、いや主の妻と言った方がいいのか。

「さっきお使いが来たから、もう少し時間がかかるかと」

「すいません、迷惑でしたか?」

「とんでもない。どうぞ」

 本当に彼女の母、オクタウィアの若い時に似てきたと思う。物腰も笑顔も、幼い時に訪れていた頃の、義理の伯母にそっくりだ。物静かで、大人びていて美しい。

「お母様、ドルススが。凱旋将軍がお見えになりましたよ!」

 大げさな。そんなたいしたことではない。パンノニアには軍事訓練に赴いたという感じだった。軍団の一部を任されただけだし、大した戦闘があったわけでも、武功を立てたわけでもない。

 奥から義理の伯母で、未亡人のオクタウィアが出てきて、やはり無事に生還したことを喜んでくれた。それから別の部屋にいた彼女の娘婿、ユルス・アントニウスも顔を出す。彼がこの家の主人だ。黒髪で目が大きく、愛想の良い人好きのする性格をしている。

「やっと来たかあ!」

 女性二人は「なぜ?」という顔をしたが、ユルスの言いたいことはわかってる。「挨拶はいいから、こっちこい」と手招きされる。話が早いよ、この人。頭を下げながら、二人の前を通り過ぎる。

「部屋にいるから、話して来い」

「ありがとう」

 家族に味方がいるってことは、なんて頼もしいのだろう。


 女の子が大人になるのは、随分と早いと思う。ローマにいた頃さえ、一週間見なかっただけで見違えて、随分ドキドキしたものだ。何ヶ月会ってないだろう。考えるのも嫌だったけど、それだけ彼女に会ってなかったのだ。

 彼女は机に向かい、蝋引きの板を前に考え込んでいた。近寄って行っても一瞬、気づかなかったらしい。振り返ろうとしたところを、目隠しをする。

「だーれだ」

「……」

「うわっ」

 て、鉄筆で突くかよ、普通!

「ドルスス?」

 振り返った小アントニアが、大きな目を見開いて、不思議そうな顔をしている。刺された手の甲を押さえながら、「なにすんだよ!」と怒鳴りかけた言葉を飲み込んだほど、その姿は可憐だった。黒い巻き毛も大きな瞳も長い睫も記憶にある以上で、無言で見惚れてしまった。

「えーと、パンノニアから帰って来ました」

「よくぞご無事で」

 た、立ってくれないかな。感動の再会って風にはならないじゃないか。

「話があるんだけど」

「ちょっと待って。今、ローマにマウレタニアからの使者が来ていて。書ける時に書き上げてしまわないと」

 再び書きもの机に向かい、眉をひそめて考え込んでしまう。パピルスに清書するどころか、蝋引き板の下書きすら埋まっていない。

「……じゃあドルススも帰ってきたんで、よろしくと伝えておいてもらえるかな」

「あ、そうね。ユバさまも心配してらしたの。安心させてあげなくては」

 そして彼女は、再び書き物に没頭してしまった。



 ……アントニア。異母姉夫婦の心配を気にかけてるけど、僕が遠征先で君を心配してたことについては、安心させてくれる気はなかったのか。こちらの三回に一度程度しか返事はくれないし、内容だって母のこととか、伯母上のこととか、どうでもいいことばかりだし(どうでも良くはないけれど、本人たちからだってちゃんと手紙は来るのだ)。

 僕は君のことが知りたかったんだ。元気でいるか、寂しい思いはしてないか。僕に会いたさに、泣いてなんかいないか、とか。……ありえないな。想像つかないもん。

 ヤケだ。机の傍に座り込んで、アントニアの手紙が書き終わるのを待つ。この要領の悪さを考えたら、なかなか手紙が来ないのも納得できる。

「ドルスス」

「なに」

「綴りわかんなくなっちゃったんだけど」

「……Eだよ」

「そうかなあ」

 だったら聞くなよ。

 ふと部屋の入り口を見ると、人影がある。ユルスが呆れた顔をして、首を振りながら行ってしまった。好都合というよりも、見放されたような気がした。


 自慢ではないが、今、このローマで一番、将来性がある人物は誰かと言われたら、自分か兄ティベリウスかだと思う。

 自分はこの若さで既にローマ軍を指揮しているのだ。今はまだ規模は大きなものではないけれど、軍事の基礎と実務を徹底的に叩き込まれている最中だ。年頃の娘なら、将軍ドルススを目の前にして、少しは「なんて立派な」とかいう気分にはなったりしないのか。

 それともアントニアにとって自分は、いつまでたっても道ですっころんで、膝を赤くしてた頃のままなのだろうか。自分は21で、彼女は19になるのに。

 調子がのってきたらしいアントニアは、インクとアシで出来たペンを取り出し、パピルス紙のケバをならしてから、清書にとりかかった。下書きもせずに無造作に書き送ってた自分の書簡は、彼女にはどう受け止められていたのだろう。

 そりゃあアフリカにいる義理の兄や異母姉に出す書簡は大事だろうけど。遠征から帰還した男と、久しぶりに会ってそれはないだろうと思う。

 気づくと膝を抱えて座り込んでいる、自分の姿に情けなくなった。こんなところを、ローマの兵士たちには絶対に見られたくない。子供じみてて、なめられるに決ってる。

 ――だけど。まだ僕だって、子供なんだよな。軍隊の中では無理していかつい顔して、見くびられないように、クラウディウスの名もアウグストゥスの期待も裏切らないように、全身に力を入れて、立ってるけれど。年齢的にはまだまだ半人前なのだ。

 数年前まではこうして、アントニアの部屋でだらだら喋っていたのだ。

 ――野営地で、馬上で、冷たい風雨に打たれながら、ふと訪れる静寂の中に望んでいたのは、こうやって彼女のそばにいること。どんなに情けなくたって、やっぱり彼女がいる現実は、何ものにもまさる。



「できた」

「……そう」

 のろのろと立ち上がる。なんかもう、そういう気分じゃないや。

「ご飯食べていくの?」

「ううん。今日は家族と一緒」

「そう」

 ようやく立ち上がったアントニアを見て、気分を変えた。やっぱりなんて可愛らしいのだろう。

 抱きしめても、抵抗はなかった。それどころか背中に手を回してきた。

「お帰りなさい」

 ぽんぽん、と背中を叩かれて、一瞬混乱した。女性らしくなった身体、甘い香り。

「ドルスス? ちょっと重いわよ」

「アントニア」

 大丈夫。ちょっとだけ。少し、こうしていたいだけだから。

「図体でかくなってるんだから、やめてよ」

 ……図体って。人様のこと、図体って。

「まったくもう」

 アントニアは本当に自分を拒絶して、そっぽを向いてしまった。

 なんか、いちいちムカつくんだけど。だって普通、愛する男のことをそんな言い方しないだろ?

「あのさ。ちょっと聞いていい?」

 もしかしたら、もう何年も自分は、勘違いしているのかも知れない。

「君は、忘れたの?」

「なんのこと?」

「『大きくなったら』――」

「『私、ドルススのお嫁さんになる』? 覚えてるわ。口癖だったもの」

 小アントニアはまだ怒り気味だった。それは今でも有効なのかどうなのか。

「でも私、アントニウスの娘だから」

「……え?」

「クラウディウスとは不釣合いだし」

「そ、そんなことないよ」

 それ言ったら、既にちゃんと嫁いでいる姉のアントニア・マイヨールはどうなるんだ。異母姉のクレオパトラ・セレネなんてあの馬鹿男の娘だけど、マウレタニアの学者王の妃だよ?

「それに私、浮気する人嫌い」

恋愛もの書く気でした。

ユルスでは無理だけど、おっとり王子様風のドルススなら、いける! と思ってたのですが。 初回で既にドルススやさぐれてました。おかしいな。

前19年くらいです。なぜかと言うと、アウグストゥスがローマに帰ってないといけないので。アントニアの年齢考えたら遅いかなあ? とも思いますが。(小アントニアがいつ結婚したのかはわかりません)

ドルススがパンノニアに行ってるのは創作です。

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