このマチで僕は明日と向き合う
天板を忘れたことに気づいたのはタクシーが通りの向こうへ消えた後だった。
残念な気持ちもあったが、嘆くほどの執着はなかった。
別にどうということはないよね。
自分で自分に語りかけている。
明日の朝になれば区の可燃ゴミ回収車が、決められたどこか知らない町の処理場へと運んでいってくれるはずだ。
実際のところ思い出はいつだって時間とともに不確かになっていく。
たとえ記憶がどれほど美化しようと、あるいは反対に忌まわしいものとしようが、
現実はそんなこともあったよねというほどに。
補助天板(それが正式な名前かどうかは知らないが)を失ったテーブルは
今の僕にふさわしい程度の大きさでもあるのだろう。
テーブルを挟んだ向かい側で、僕のだらしなさをなじる人と会うことも多分もうない。
そう思うと2DKの新居に積み上げたダンボールの山なみが、不思議に無用の思い出のかけらにも見えてきた。
「スニーカーってね。こそこそ歩く人って意味があるんだって」彼女が豆知識を口にするときはいつも左手の人差し指が小さくリズムを刻む。
僕がそのクセを指摘すると「そうかな」というふうに首を左にかしげた。そういえば左ばかりだったな。
まぁいい、感傷にひたるのはもうよそう。
つい1時間ほど前から強さを増した西陽に熱せられた部屋と、これから始まる作業を想像すると、
やるべきことは決まっていた。
エアコンを最低温度・強風に設定してこのマチでの初めての買い物。
キンキンに冷えたビールとツマミを探しに行くのだ。
そうだ冷蔵庫の電源も入れとかなくちゃな。
明治通り沿いを流れる水路には一応名前がつけられている‥古川。
「童謡に春の小川ってありますよね。あれこの川のことなんです」。栃木出身の不動産屋はまるでとっておきの豆知識を披露するような表情でそう教えてくれた。
語り口の饒舌さからは、すでに数千回はこのネタを使いまわしていることがうかがえた。
明治通りからその渋谷川(天現寺の交差点あたりから古川と名前が変わるらしい)を越えて一歩入った一帯が白金の1,3,5丁目。
周辺の高級住宅地に住む人々からは俗に坂下と呼ばれている。
シロカネというイメージとは程遠い下町らしさ全開のメインストリートは四の橋商店街と呼ばれている。
だが地元の意に反して、タクシーで行く先を伝えるとかならずこう返ってくる「ヨンノハシですね」。
もっともそんな地元あるあるが身についたのはもう少し先の話だけど。
新居から、細い通りを右方向にまっすぐ歩いたほぼ正面に酒屋があることを確認してから商店街を一巡り。
ちなみにマンションのエントランスを反対の左方向に出た通りにもささやかな商店街がある。
こちらのネーミングも想像通り。そう四の次は五之橋商店街だ。
魚屋に八百屋、肉屋、パン屋が数軒、子供相手の駄菓子屋もあればお決まりのコンビニ、老舗らしき和菓子屋。
んっ金物屋、電気屋、米屋、中華料理にそば屋、小規模な食品スーパーもある。
肉屋の店先で焼き上がったばかりの鳥串と自家製メンチ、自家製ではないだろうロースハムを仕入れて酒屋へ急ぐ。
瓶ビールを3本、足りない分はケースで届けてもらうことにする。
明日からはきっと今までと全く違う日々が始まるはずだ。
冷たいビールと新しい部屋の清潔さで心が軽くなった。
酔いはダンボールを開けようという意欲さえ奪い去ってしまう。
そうだオーブントースターだけは出しておかなくちゃ。
いや違うな、あれはもう僕のものじゃなかったんだ。
引っ越しの初日は面倒なことが多すぎる。