襖
K県某市のアパートにまつわるお話です。
※設定等の一部を除き、実話が元になっています。
※解明されない部分、不可解な部分がありますが、ご容赦下さい。
K県、某市にある、三階建ての古く白いアパートの二階。
当時、私はそこに、二つ下の妹と母親の三人で暮らしていた。
父親は居らず、母親は毎朝、私達が目覚める時には出掛けていて、帰宅は深夜の二時を過ぎる事も多い。
その為、家中の家事は私と妹の仕事であり、二人で当番を組んではいたものの、妹がその役目をする日は滅多になく、いつしかそれは私の役目となった。
玄関を入ると、右手の壁際に台所、左手に風呂場やトイレがあり、真ん中のガラス戸を隔てた奥に、母親が寝起きに使う居間、そして居間の左側、襖を隔てた部屋が、私達姉妹が寝起きする部屋だった。
どの部屋も狭く、私達が寝ている部屋は、タンスがある以外は、二人分の布団を並べるだけで精一杯の広さだ。
妹はとても寝付きがよく、すぐに寝てしまうが、私は昔から寝付きが悪く、そして怖がりな子どもだった。
読書やゲームが好きで、眠れない夜は、母親が帰ってきた時に、外へ光が漏れてバレないように、布団を被ってゲームをしたり、薄暗い中で本を読んだりして気を紛らわせていた。
怖がりな私は、いつも視線や影に怯えていた。
一人で家に居る時、料理をしている時、風呂に入っている時。
一瞬、人影のような姿を見るのだ。
分かっている。
それは私の気のせいだ。
怖い怖いと思えば思うほど、人は錯覚を見る。
強い視線を感じたような気がしてしまう。
私は、いつも視界の隅に映る影を、どこからか感じる強い視線を、何よりその気配に強く怯え、意識し、それと同じくらい、強く“気付かない自分”を意識する事で堪えていた。
気のせいであるならば、気にしてはいけない。
私は、怖がりだ。
だから、見えた気がしてしまうのだから。
いつだったか、真夜中に、妹の寝た後の部屋で、襖の向こうから、急に歓声が聞こえてきた事がある。
玄関を開ける音はしなかった。
よく聞くと、スポーツ番組のようで、実況する声も聞こえてきた。
やはり母親が帰ってきたのかもしれないと思い、襖を開けた。
居間のテレビがついている。
スポーツ番組だ。
部屋は静かで、誰も居なかった。
私は、不思議に思いながらも、テレビを消すと、部屋に戻った。
後日、友人にその事を話すと、別の家のリモコン等が反応してしまう事がある、と聞いた。
もしくは、誰かのいたずらだろうとの事だった。
実際に、そういう事があるらしい。
私は、そういうものだと納得し、その事は忘れる事にした。
やはり、何もかもが、得体の知れない恐ろしいものの仕業などではないのだ。
私は、少しだけ、安心する事が出来た。
それからしばらく、私は相変わらず視線や気配を感じながらも、それが気のせいだという事を、更に、自分に強く言い聞かせるようになった。
そして日が経ち、気のせいだという事を自分に強く言い聞かせ続け、そんな生活にも慣れてきてはいたが、相変わらず私の本質は、怖がりのままだった。
夜、妹が寝てしまった後、暗くしんとした部屋で目を開けると、いつも耐え難い恐怖が襲ってくる。
布団に横になっていると、少しずつ、見えてくる。
気配が、強くなる。
この部屋に寝ている時に感じる場所は、一つだ。
襖の方。
いつもそこからだ。
寝てしまいたい。
眠って、朝になってしまえば良い。
この、一分一秒がとてつもなく長く感じる夜が、終わってくれるなら。
早く、早く。
意識よ途切れろ。
必死で願いながら、タオルケットと毛布、掛け布団を被る。
頭と四肢の下に、布団を入れこむ。
体中、どこにも隙間が出来ないように、髪の毛一本も、外に出さないように。
どんなに暑くても、息が苦しくても構わない。
注意深く、強く、全身で布団を押さえ込む。
そして、また、気配がする。
仰向けに寝た、私の頭の横。
襖の方。
いつもの気配。
それが一番濃くなる、夜。
襖の奥から、天井を、私や顔の上を、這うように気配が広がる。
襖の方の畳が、沈む。
もう一歩。
足音などしない。
沈む感覚だけが、頭の後ろの床越しに伝わってくる。
気付かれては、いけない。
私は、気付いていない。
気付いていない。
見てはいない。
見えない。
頭の上の床が沈む。
立ち止まる。
顔の上、布団越しに気配がする。
顔を覗き込む気配。
布越し、すぐ目の前。
踏みつけたままの布団の端を押さえている体に、力を込める。
絶対に、指一本、入れさせない。
髪の毛が、一本、外に引かれた。
なんの予兆もなく、無いはずの隙間から。
いや、隙間など無い。
布団の端も、髪の毛も、全て中に入っている。
髪の毛が引かれているのは、頭頂部。
そこに隙間は存在しない。
布で覆われているはずのそこから、水平にピンと引かれたまま、微動だにしない髪とその気配に、恐怖に駆られながら、必死で息を殺し続けた。
気付くと、朝になっていた。
眠った記憶はない。
あの後の記憶も無かった。
それでも、助かったのだ、と思った。
そして月日が経った頃、私達家族は、そのアパートを引っ越した。
同じ市内の、二階建ての一軒家のような、小さなアパート。
一階には大家が住んでいて、二階は、階段を上って二部屋があるのみだった。
あの影は見えない。
夜、襖の向こうに、気配を感じた。
心臓が嫌な音を立てる。
畳が沈む。
息が出来ない。
なぜ。
布団の端を強く握る。
どうして。
布越し、顔の間近に、覗き込む気配がする。
なぜ。
なぜ。
髪の毛が、引かれた。