蝉時雨
さっき降り出した雨はいまだに止むことを知らなかった。降り始めは大粒が打ちつけるような雨だったが、今は小雨が厄介に降っていた。
風に吹かれた雨粒が顔に降りかかる。僕は時々顔についた湿り気を手で払わなければいけないほどであった。
その糠雨で体が濡れてしまわぬように、小さな傘に身を寄せて、僕ら二人は歩いていた。僕は久間さんが濡れないように傘を久間さんの方に差していた。久間さんも鞄を胸元で抱えていて、ぎゅっと縮こまっていた。それでも高校生二人が濡れるのを防ぐには折り畳み傘ではあまりにも小さかった。
久間さんはいつものように、顔の中心に部分の集まている小動物的かわいさを伴った顔には不釣り合いな真面目な表情で、まっすぐ前を向いていた。そんな彼女は当然のように内面においても真面目であった。内面が外面に現れるのは当然だった。
しかし、その真面目さが評価される機会が高校生にはあまりにも少なかった。
だから久間さんにはあまり友人がいるという話を聞かなかったし、誰かと親しげに話しているのもみたことがなかった。久間さんがあまり口達者ではないというのも大きな要因の一つだった。内面を推し量れないのは眺める分には魅力だけれど、関わるとなると意思疎通ができていないような気がして、不都合であった。
「ごめんね。委員会の仕事が遅くなっちゃって。」と僕は遅れたことと手伝わせてしまったことの謝罪をした。
「全然。新井くんが謝ることないよ。私も仕事が早い方じゃないから。」と久間さんから出たのは謙遜の言葉だった。
僕らは同じ委員会である。
それも学習委員会というやたらと面倒の多い委員会だった。僕は成り行きでなったのだけれど、久間さんはその真面目さを評価されての推薦だった。損な役回りだった。
そんな学習委員会の活動の時、いつもは作業を分担していて、各々が作業を終えると勝手に帰っていた。だから要領のいい久間さん僕よりもが早めに帰るのだけど、今日は仕事が多かったから久間さんの提案で、二人で作業をした。
で、さて帰ろうというときに雨が降ってきたから久間さんの折りたたみ傘に入れて貰っているのだった。傘を持っていない僕を久間さんが入れてくれたのは新鮮で
、かつ彼女の善意が嬉しくもあった。
「じゃあ、二人の責任ってことでおねがい。」
僕がそういうと久間さんは笑ってくれた。笑うこともあるのだなと思ったけれど、久間さんも人の子であるから当然であると思って何も言わなかった。
細い路地を二人で歩いていく。路上の水を踏みつける足音だけが雨音に交じって聞こえている。
するとセミが鳴きだした。ヂリヂリヂリとセミの鳴き声が狭い路地を反射した。
「雨の日なのに鳴くセミは珍しいね。」と、久間さん。人間らしい感想に僕はまた久間さんを知ることができた。
「確かにそうかも。」
「雨の日は羽が濡れて飛べなくなっちゃうから、どれだけ鳴いてもメスはやってこないのにね。」久間さんの着眼点はどこか不思議で考えなしの僕からしてみると久間さんの目は僕よりどれだけ多くのことを見ているのだろうかと思った。
「よく知ってるね。」
「虫は嫌いだけど、昔から雨の日に鳴くのは不思議だったから。」
そう言われて、初めて自分の頭で考えた。
するといつもはうるさいだけのセミの鳴き声も、なんだか悲しみを帯びているような気がしてきた。どれだけ鳴いても気づかれない、そんな虚しい努力があるのだろうか。僕にはわからなかった。
「きっと葉の下とか雨の当たらない場所にいて、雨が降っていることにも気づいていないんだろうね。鈍感なセミだよ。」と言うのは僕の考えである。我ながらいい感覚であると思った。
「私もそう思うな。身の回りにもいるもん鈍感なセミ。」久間さんの言葉に何かしらの含みがあることは僕にも察知できた。けれど、「鈍感なセミ」が一体何なのかは推察しかねて、それがおそらく誰かを指しているのだろうという事には考えが及んだが、まさか自分を挙げるわけにもいかず、ただ「え?」と聞き返した。
「もし、雨の中、羽の濡れてるメスが飛んで来たとしたら、どうするんだろうね。」
「……さぁ。」
僕にはわからなかった。久間さんの言葉に伏せられた意味を感じ取るには僕の情緒感覚は欠落していた。
傘からこぼれる雨雫は僕らの肩を濡らした。
濡れたあとが羽の模様のようになっている。