僕は天使に嘘はつかない αその1
「ねぇ。君って、けっこうナルシストでしょ」
入学して最初にぐるっとクラスを見まわして、一目惚れした女の子。その子になんと声掛けようと悩むこと悩むこと一晩。
「ちょいと行こうぜ」と粋な言葉に絆されて「ぱおん」と陽気に応えたら、いきなりアルプス一万尺を越えさせられたカルタゴの象の皆さんも格やという男気を振り絞って話しかけようとしたその寸前。前の席から体をのり出しこちらを向いた当の本人から掛けられた最初の言葉がこれだった。
絶望というか、なんていうか、この遣る瀬無さをなんとする。
自慢じゃないがこちとら生まれてこの方12年しか人生やってないぺーぺーでどう答えれば正解かというと、いやさ、あれから幾星霜。世間の荒波という奴に揉まれて酸いも甘いも噛みわけた他人の機微なんてものもちょいと判る御兄ぃさんと、ちったぁ名の知られてる今の僕にしたところで難しい。難しいどころか、お手上げだ。
ところが果たして 12歳というのは恐ろしい。怖いもの知らずというか、天下霧笛の向こう傷。無敵が俺を呼んでいる。
答えた。
ああ、そうだ。
12の僕はこの難問題に解答を示した。果たして何と答えたのか、残念で不思議な事ながら、その答えがぽっかり記憶から抜け落ちているのがなんともはや恨めしく。ただ、その答えは随分と彼女のお気に召したらしい。
くすくすと、嬉しそうに、そしてしてやったりと笑う彼女。
ああ。こんなふうに笑うんだ。
春の大川に、はらはら落ちた桜の花が流れるごとく。
囁くように。
歌うように。
うららかに。
ほがらかに。
栗色がかったふんわりウェーブの肩の下まで伸ばした黒の髪。
楽しいことを一つだって見落とすまいとする大きな瞳。
僕も嬉しそうに笑ったらしい。
その場に居合わせた級友たちに言わせると、彼女と僕はあの言葉そのままだった。
「少年は少女に出会う」
彼女が振り返って、僕に話しかけ、真面目くさった顔つきで答える僕に嬉しそうに彼女が笑う。
その姿は鮮明ではっきり覚えているけれど、何を話しているのか聞こえない。
ただふたりの笑う声だけ漏れてきて、ああ、そうかと納得したと。
「一つだけ約束して」
彼女が囁くように言った。
「君がこれから先、わたしのことをなんて呼んでもかまわないよ。呼び捨てでも、あだ名で呼んでも、うん。そうだね、記号でも、数字でも構わない。あら。NO.6なんてちょっといいかも。だけど」
約束してほしいんだ。
と彼女が言った。
たった一つの約束だよ。
と彼女は言った。
「わたしのことを『おまえ』と呼ぶのだけはやめてね。君から『おまえ』なんて呼ばれるなんて、想像するだけでぞっとするから。もしも一回でも『おまえ』なんて呼んだら、お覚えておいて。一生チクチク言ってやるから。人生の節目々々、君が油断しちゃったここぞという時に。もう君がおじさんになっても、おじいさんになっても言い続けてやるから」
言葉とは裏腹な春の日差しのように彼女は笑って、僕達は最初で最後のたった一つの約束を交わした。
もし、あの約束を破っていたら。
彼女は今でも僕の傍にいてくれたのだろうか。
硝煙弾雨の鉄火場にほんの僅かの静寂が訪れる、その時。
アクセルを踏み込んで時の道の分岐が始まる、その時。
不意に思い出す。
何も知らず、何も気づかなかった12の春のあの日。