少年の決意(下)
拓斗と凛が逃げてこの場には真と男だけが取り残される。
地平線から滲み出る夕陽の光は夜に空の東側に追い込まれ、暗くなっていく。弱くなる夕陽の代わりに燃え上がっている炎が二人を照らしている。
男はコンクリートの上で無様に寝転がっている。それを睨みつけるように真は掌を固く握り締めて構えながら男の方を見ていた。
遠くから消防車や救急車などののサイレンの音が聞こえてくる。真は男は逃げるのかと思ったが、そういう雰囲気も無く男は右手に小石を拾い上げながらゆっくりっ立ち上がった。
「思ってたより動けているね…少し見くびってしまったよ、少年…」
ピリピリとした空気の中、男がふと真に言葉を掛けた。
素早い身動きや丈夫な身体で若いイメージが真の中にあったのだが、男の声を聞いてみるとそんなイメージは微塵もなく、低く芯の声でどこか威圧感を感じられるもので若いというよりかは三、四十代の中年の方が近いような気がした。
「それは、どうも…」
さっきまで無口だった男に声をかけられた事に対し真は少し驚いたが、それを察せられないように真は慎重に返事を返す。
「まあ力をどれだけ持ってようとも 我が主の御思想に背いている反逆者とは変わらないのだがな…」
「我が主?主の御思想?なんなんだよそれ」
「フッ…無能で表ばかり見ているお前にわかるはずがないのだよ…。表には裏がなく、裏の中に表があるようにお前らは我が主の存在など知らなくても我が主はお前らの事を全知しているのだよ…」
男が言う意味不明な事に真は理解が出来なかった。
男が言った事について真はしばらく黙り込んで頭の中で考え始める。だが、考えれば考えるほどその混乱が渦巻きだして飲み込もうとしてくる。
考えていては男の思惑通りになってしまう、と思って真はその言葉達に完全に飲み込まれる前に思考を打ち切ることにした。
真ってさ、頭で考えるより自分で動いたりした方が向いてるよな。
前に拓斗に何気なく言われた事が頭の片隅にふと浮かぶ。その時は彼のその言葉の意図も分からず反射の感覚で返事を返してしまったのだが、今それについて振り返ってみるとそうかも知れないと納得した。
拓斗にお礼を言うためにもあの男に勝ってあの二人の元へ戻ろう。真は心の中で強くそう決心して意識を再び男に戻した。
「⁈」
頭の中から離れて男に目を向けた直した瞬間、大きなマントが視界いっぱい広がり、その中心に大きく拡大されていく男の拳が目に入った。
避ける間もなく真はさっき男がしたみたいに顔を傾けて拳を避ける。完全には避けられず、頬に掠って火傷をしたみたいヒリヒリ痛み出した。
急な出来事で真は思わず後ろにバランスを崩す。そんな些細な事を男は見逃すはずもなく、尽かさずに今度は真の腹部目掛けて二撃目を突き出した。
「がはッ!」
避けたり防いだりする事も出来ずに真は路地から飛ばし出され、道沿いに停めてあった車に背中を打つ。その衝撃で体が崩れそうになったボンネットに手を掛けてなんとか支えた。
「おいおい…もう終わりなのか…?」
不満そうに男が言う。余裕そうにしているところから見てまだ力の半分も出していないようだ。
「奇襲をかけておきながら知らんぷりかよ」
「フッ、気づかなかったお前が悪いんだよ…!」
鼻で笑って男は勢い良く地面を蹴る。さっきと同じくらいの速さだったが今度は動きを捉えることができた。
男は真の近くまで近寄ると前に全身の進む勢いを全て右足に伝え、真の首あたりに向けてハイキックを繰り出す。
流石にこのキックのスピードは速すぎて捉える事も出来ず、一か八かに懸けて真は右側にしゃがみ込むように避ける。幸い男の足は真には当たらず、そのまま車窓に突っ込んでいく。その衝撃でピーピーと作動した防犯ブザーが甲高く響いた。
真は避けた後、車から十数歩離れて男から距離を取る。
「危なかった…エグすぎだろ」
「ホォ…いい判断だったじゃないか。少しは楽しめそうだな…」
足を下ろしながら嬉しそうに男が言う。パラパラと砕けた細かいガラスの破片が足や窓から剥がれるように落ちていっていく。
男の足が当たった所を中心に端に向かって窓全体に綺麗にヒビが広がっている。透明なはずのガラスが真っ白になるほどに砕けていて、今にも崩れそうになっていた。
車窓は割れにくい構造になっているらしく、ひびを入れるにもそれそうの力が必要だとかなんとか、と前に車好きのクラスメイトが自慢げに話していたのを思い出す。
それを一蹴りで半壊のような状態にする男の蹴力。避けずにまともに食らっていたらと思うと自然に汗が掌などから滲み出てきた。
「怖くなったのかい?」
余裕そうに男が尋ねてくる。
「あ、ああ。そうかも知れないかな」
少し芽生えた男に対しての恐怖心を悟られたのか、と真は一瞬焦ったがその焦りまでも勘付かれないように真は慎重に答える。
「そう強がらずに素直に死ねばいいものを…」
「俺だってやり残した事があるんで今死ぬわけにはいかなんだよ」
再び真は構え、構えた腕の間から全ての意識を男に注ぎ込む。
心臓の鼓動は最初よりも強く速くなって、体も小刻みに震え始める。このとてつもない緊張にどこか懐かしさを感じながら真は深呼吸をして調子を整えて眉間にシワを寄せて男を睨んだ。
「フッ…その闘志とやらが保ってくれるといいね…」
真を嘲笑うかのような微笑みを見せて男も真と同様、構え始める。
真っ暗なフードの奥からジワジワと殺気が漏れ出すのを真は感じ取る。今からお前を殺す。そういうメッセージなのだろう。
真は湧き出る汗を掌から逃さまいとぎゅっと拳を強く握りしめ直した。
「そっちが行かないのならこっちから行くぞ!」
そう言ったのと同時に真は強く地面を蹴る。一気にと二人の距離は縮まり、後一メートル弱のところで真は右ストレートを突き出した。
男は避けようともせず真の攻撃から逃げるように一歩後ろへ下がる。しかし真は男をそのまま逃さず、一歩踏み込んで距離を縮めて男の顔に向けて二発目を撃ち出した。
今度は後ろには下がらず男は右手で真のパンチを外に弾き出す。そして無防備な真の体をを強く押した。
前に重心を乗せて不安定になっていた為、思いの外大きく体勢を崩した。真は慌てて体制を元にもどうと足を一歩下げてバランスを取る。
けれども男は真が体制を戻すのを阻止するかのように彼の上半身に向けて右拳を突き出していった。
その時、信じがたい光景が真の目に映り込んだ。
確か突き出している男の右手の中には小石が入っているはずだった。戦っている時もその手を離していないし、何か別のものを拾ったような素振りもない。だから絶対にその手の中には小石しか入っていないのだ。
しかし今、男が右手の中にあるのはその小石ではない。
ここから数十メートルもの遠い所に転がっているはずのあの赤い目の蛇のナイフを男は右手に握っていたのだ。
真はそれに気付いて急いで避けようとしたがそれはもう遅かった。不気味に煌めくその鉄の牙はなんの手加減も無く無防備な彼の腹部に深く噛み付いていった。