放課後(上)
「あいつら、俺をからかってなにが楽しいんだよ…」
ガラガラと教室のドアを閉めながら真は言った。
帰宅途中で寝るなよ〜とか、ヨダレちゃんと拭けよ〜とか、クラスのみんなが真のことをからかう声がドアの隙間から聞こえてきた。
正直、嫌だったりはしないがあの授業でのことは今でもすごく恥ずかしい。散々繭宮先生にからかわれ、授業後もクラスのみんなからもからかわれて、真は恥ずかしさでいっぱいになっている。真は心の中で、これからもう授業中に寝ないと強く誓った。
教室からみんなの笑い声が聞こえる。もうこれ以上からかわれると真の心が耐えられないため、教室のドアを閉めきると逃げるように早足でササッと教室から離れた。
別のクラスの友達に借りたものを返した後、真は帰るために昇降口に向かって歩く。この東高校の校舎は二つあり、真たち生徒の教室などがある生徒棟、職員室や特別教室などがある管理棟である。生徒たちの昇降口は管理棟側にある為、基本的には生徒達は生徒棟と管理棟を繋ぐ渡り廊下を渡る必要があるのだ。
真はいつも三階の渡り廊下を渡っているが、三階の渡り廊下は屋根がないため四階の教室から丸見えである。もちろん、真の教室からも丸見えなのだ。
ここからヨダレ〜、などと呼ばれると周りの人に変な誤解が広まり、今後の学校生活に支障をもたらしてしまう可能性がある。それを避けるべく、真は今日二階の渡り廊下を使うことにした。二階の渡り廊下は窓ガラスに卒業生の手紙などが貼られている為見られる心配はないと思ったからだ。
真は窓ガラスにびっしりと貼られた先輩たちからの手紙を眺めながら渡り廊下を渡り管理棟へ入り、階段を使って下の階へ下りる。階段や廊下ですれ違った何人かの先生に挨拶をしていくうちに気づくとあっという間に昇降口へ到着した。
スリッパを下駄箱に入れ外靴を取り出しながらなんとなくいつもの癖で外の様子を眺める。昇降口の前でアップを行なっている陸上部や、練習試合をしているサッカー部等の部員達の姿がが目に入った。
泥だらけになり、汗を流しながら、必死に練習をする。時には辛くて挫けそうになってしまう。けれどそんな時は仲間が手を差し伸べて助けてくれる。そして、仲間同士で励まし合いながら一緒に立ち向かっていく。そんな彼らの姿を見て真は仲間ということに対しての憧れを抱くのだが、同時に寂しさも生まれてきた。
真は小四の時から空手を習っていた。性に合っていたのか中学では全国大会へ出れるくらいの才能があった。
しかしその反面、彼には共に励む仲間はいなかった。決して友達がいなかったわけではない。ただ一緒に切磋琢磨し合える仲間が存在しなかったのだ。
もともと彼の習っていた空手教室は生徒が少なく、歳月を重ねていくにつれて生徒がいなくなり、最終的に彼一人になっていった。
マンツーマンだったからこそ強いというのもある。けれども仲間と共に励ましあって、強くなっていくという刺激が彼にはなかった。
その為、一人でコツコツと頑張り、たとえどんなに辛くても一人で乗り越えていかなければいけなかった。
最初は一人でもなんとかうまく進んでいけた。けれどもやはり成長していくにつれてだんだんと詰まりはじめ、中二の後半の頃から負けることが多くなる。そして中三の冬、溜まっていた疲労やストレスが一気に放出され、その影響で右膝を壊してしまった。
医師からもうこれからは空手を続けるのは難しいと宣告される。それを聞いて真はこの上ない絶望感に包まれた。
唯一の心の拠り所だった武術ができなくなり心の何処かに大きな穴が開いたような感覚になった。運動をする事で毎日のストレスを発散していたのだがそれも出来なく、雪の様に真の心に降り積もっていく。
幸いにも真は受験生であった為、それらのストレスを無理矢理に勉強にぶつけ、そのお陰でギリギリ第一志望の高校へ滑り込むことができた。感謝してると言ったらおかしいのかもしれないが、もしこの頃より前や後にこうなってしまったのなら、ここに自分は立っていなかったのだろう。
孤独で戦いを続け、挫けて、遠い昔に夢を断念してしまった真から見て、今この瞬間仲間と共に成長していく彼らはとても輝いて眩しく見える。近いようで遠い、ここからどれだけ手を伸ばそうが絶対掴めやしない幻を前に真は微笑み、暖かく見守っていることしかできなかった。
「頑張れよ…」
真はしゃがんで靴を履きながら呟くように言った。
さっさと靴紐を結びゆっくりと立ち上がる。思いっきり背伸びをして少し疲れを抜いた後、真は昇降口から外へ出た。
西の空からオレンジ色の太陽の光がグラウンドを照らしている。夕方の涼しい風が校舎を優しく撫でまわすように吹き、真の伸びてきた長い髪をさらさらとなびかせる。
「そろそろ切らないといけないかな」
髪を指でつまんで指の中で転がす仕草をしながら真は言う。そして真は風を背中で感じながら、校門へ向かって歩き出した。
疲れがたまってしまったのか、それともただ眠たいだけなのかわからないが、真は大きなあくびをした。
目に溜まった涙を拭い、再び背伸びをする。けれども今回は疲れが抜けたような感覚がなかった。授業中に寝たのにと不思議に思った。
「帰ったら風呂入ってそのまま寝よ」
若干重くなってくる瞼をなんとか支えながら、真は校門をまたいだ。
「そういえば、授業中に寝たときに見た夢ってなんだろう」
ふと今日の授業中に寝たときことを思い出した。できれば振り返りたくはなかったが、しょうがないと思いながら頬を少し赤らめながら思い返した。
学校の屋上で黄昏ていた一人の女性。彼女の顔は見えなかった。彼女はビクともせず、ずっとフェンスから何かを眺めていたようだった。
風で綺麗な黒髪がなびいていたのを今でもハッキリと思い出せる。
そして彼女はフェンスの上に立ち上がった。その時に確か彼女は微かに震えていた。泣いていたのだろうか。
そして次の瞬間、彼女はフェンスの上で立ったまま前へ倒れていってしまう。何をしたのか真は考えたくもなかった。
授業中に見た非現実的だがどこか現実味のある不思議な夢について真は帰り道を歩きながら考え続けていた。するとどこかから水音が聞こえてきた。
学校の隣にオレンジに染まった大きな池から鴨の群れが飛び去っていくのが見える。鴨たちは夕陽の方へ方向を変えて飛んでいった。
最初ははっきりと鳥の姿が見えたがだんだんごま粒のように小さくなり、そして夕陽の中に溶け込むように消えていった。
「おーい!真!」
ボーッと池と鳥たちの様子を眺めていると後ろの方から自分を呼ぶ声がした。聞き覚えのある声だと思いながら真は振り向く。すると一人の男子生徒がこちらに向かって走ってきているのが見えた。
生徒は真の所に着いたや否やガードレールに手をついてハアハアと呼吸を整える。汗がと髪の毛を伝ってポトポトと地面に垂れ落ちていた。
髪や顔はまるでさっきシャワーでも浴びたのではというくらいビショビショに濡れている。
「お前帰るの早すぎだって、ハアハア…。帰るときは、ハア、声掛けろよ…」
教室から一生懸命走って追いかけてきてくれたのだろう。とても疲れている様子だった。そんな彼を見て真は少し申し訳ないと思った。
「ほい、タオルどうぞ」
真は彼のカバンから少し飛び出していたタオルを引っ張りだして彼に渡した。彼はお礼を言ってタオルを受け取り、顔などを拭き始めた。
彼は橘拓斗、真がこの高校に来て最初にできた友達だ。
身長が高く、顔が整っていて尚且つ、頭もいいし、運動神経も良い。いわゆるイケメンだ。
「すまんな、拓斗。まあ拭き終わったら一緒に帰ろうぜ。そこのコンビニでアイス奢るからさ」
真は拓斗の肩をポンポンと叩きながら言う。
すると拓斗はアイスという単語に反応し、さっきの疲れ切った表情から一転して目を輝かせて真を見つめる。
「言ったな、真!飛びっきり高いやつにしよっと!」
タオルを頭に被ったまま嬉しそうしながら拓斗は言う。それを見て真はハァと呆れて、ため息をついた。
拓斗は急いで汗を拭き取り、タオルをカバンの中へしまう。アイスを奢って貰えるからだろうか、拓斗はウキウキと浮かれているように見えた。
「真、終わったよ!コンビニ行こうぜ!」
拓斗は嬉しそうにニコニコしながら言った。真に行こうぜとは言ったものの、拓斗は一人で先に突っ走ってしまっている。
「あいつ、小学生かよ」
ウキウキ浮かれている拓斗の様子を見て真はボソッと呟く。
拓斗は先に突っ走ったものの運悪く、信号に引っかかってしまった。
ここの信号は待ち時間が長いため、拓斗が待っている間、真は歩きながら彼との距離を詰める。なんとか信号が変わる前に彼に追いついた。
しばらくして信号が赤から青に変わる。拓斗は青に変わったと同時に走って向こう側に渡った。
そんな彼を見て真は呆れてはぁと小さくため息を吐く。けれども今日合った恥ずかしかったこと、不思議だったこと、寂しかったことが少しどうでもよく思えた。
昨日は昨日、今日は今日、明日は明日。何かあったらその時の自分に任せよう。
「まずは、今日頑張った自分のご褒美にアイスを買いに行きますか」
ニコっと微笑みながら真は道路に力強く一歩踏み出した。