狭間(下)
「ではでは、行きましょうかね」
ニコニコとしながらドアの方を向き直して夫人は言う。
「行くって扉の中にですか?」
不思議に思い、真は彼女に尋ねる。
「違うわよ。あの中入ったら私はともかくあなたまで死んじゃうわ」
「死ぬって僕はもう死んでるんですよ?今更生き返っているとでも言うんですか?」
「まあまあ、急がなくても追々説明してあげるわ。それでいい?」
微笑を浮かべて彼女は聞き返す。
今すぐ知りたいと言う気持ちはあったのだが、彼女の今の体調の事を考えるとこれ以上無理させてはいけないなと思い、真は納得して頷いた。
真の了承を確認して彼女はお礼にニッコリと微笑む。そして前を向き直し、静かに目を閉じて息を整えながら空いているもう片方の手を扉にかざした。扉からは少し距離があるのでもちろん扉を開ける事はないだろう。
彼女はしばらく息を整えた後、ゆっくりと目を開け、そよ風の様に早く優しく言葉を吐いた。
「闇技・物体抹消」
その瞬間、これまでに真が今まで聞いたこともない位の大音量で扉が唸った。
唸った理由としては扉が変形し始めたからである。扉の中央を軸に時計回りで回転しゆっくりと歪んでいき、回転すればするほど軸に吸い込まれて小さくなっていっていた。
幾ら金は金属の中で柔らかい方といえ、原型の状態のままで歪む事は絶対にあり得ないし、まして小さくはならない。だんだんと回転していく扉を見ていると金属では無く水飴の様に見えてきてしまった。
こんな非現実的な出来事を目にして真はどう受け入れるのか分からず、アホらしく口をボケーっと開けて突っ立つ。頭の中は扉と同じくグルグルと渦巻いて混乱し、思考力も狂い出して使い物にならない。もう真は考える事を放棄し、片頬をピクピクと引きつらせて渦巻を眺めていった。
もう金色の水飴の塊としか見えなくなる位までに渦巻き、縮小し続けた扉はいつしか空間に吸い込まれて跡形もなく消えてしまった。
「消えちゃった…」
目の前で扉の代わりに広がっている星空をただ眺めながら真は呟く。
「これで終わりって勝手に思わないでちょうだい。これからが本番だからね!」
放心しかけている真に夫人は目線だけを送って話しかける。声色から見て彼女はどうやらこの状況を楽しんでいる様だった。
彼女の言葉を聞いて少し真はホッとする。使わないとは言え、ここから出る手段であろうあの扉をただ消しただけではまずい。真は扉の他に脱出手段が無いと思って僅かながら焦っていたが、どうやらその焦りは無駄だった様だ。
「さあ、早速いくわ!」
そう言って彼女は前を見直し、扉が吸い込まれた場所を睨め、さらに言葉を続けた。
「闇技・空間剥離」
そう言って彼女はかざしている手を勢いよく左下へ振り下ろす。すると、扉が消滅した辺りからビキビキとヒビが入り穴が開く。その穴の中から濃い紫色の煙が溢れ出て来た。
流れ出た煙はドライアイスみたいに重力に引っ張られてそのまま下へ流れ落る。そして真たちが立っている透明な床に当たると九十度方向転換して地面を這って四方八方に広がっていった。
夫人は静かに真の手を離して靴で流れる煙をかき分けて煙の発生源の穴へ近づいていく。発生源の元に着くと彼女は掌を外側にして穴の中に手を突っ込み、内側から挟む様に掴んだ。
「ちょっと、何してるんですか?」
夫人の行動を不思議に思って真は彼女を止めようとする。
「何って、今からこの穴を大きく開けるのよ?」
「え、え?穴を大きく開ける⁈どう言う事なんですか⁇」
「言葉通りなのだけれど…まあそこで見ていなさい。考えるより見た方が早いわよ」
「あ、えー…うん?…」
思考力に続き、語彙力までも働かなくなり真はまともに返事まで出来なくなってしまう。周章狼狽する彼が面白かったのか夫人はクスクスと笑った。
「それじゃ、開けましょうかね」
そう言って夫人は腕に力を入れる。すると、ピキピキと音がして穴の周りに白い大きなヒビが入った。
フン!と夫人は力んで勢いよく腕を大きく広げる。ガラス破片はその彼女の腕に付いて行く様に大きいものから細かいものに砕けて左右に散乱していく。
この付近にある建造物はあの扉以外にはない。どうやらこの空間そのものが夫人の手によっていとも簡単に割れてしまったのだ。
「あ、え⁈うわ〜っ!」
驚く間も無く開かれた割れ目から噴き出された強烈な風と煙に吹き飛ばされて真はバランスを崩ずして倒れてしまった。
「あらあら、大丈夫?」
「え、ええ。何とか…大丈夫です…」
流れる風に耐えながら真は立ち上がる。
「ちょっと私のところまで来れる?無理しなくてもいいわよ」
ドレスと髪を風になびかせながら心配そうに夫人は真に尋ねる。はい、と真はその問いに対して返事をした。
風も最初よりかは弱まってきたものの、夫人の元まで近づくには大変だった。
「ハァ…やっと着いた…」
夫人の近くまで着き、両膝を持って荒く息をして真は言う。
「本当に大丈夫?一応ここに入ってからがあなたにとって頑張りどころなのだけれど」
「頑張りどころって…」
息を整えながら真は目の前の割れ目の中に覗き込んだ。
目の前に広がるこの光景を一言で例えるとするならば、それは疎ましいものだった。
紫煙で出来た円柱を横に倒した様な広闊な空間が真の視界一杯に広がる。その空間内で円柱の軸に当たる部分で青や赤紫系統の沈静色、重量色の煙がとこからか吹いてきている強風に流されて手前左下からその逆側に向かって奥にある白い光点に吸い込まれる様に線を作って流れている。
気味悪いことに流れているのは煙だけで無く、高くて薄い響きのある不気味な叫び声を上げながら流れていく小さな亡霊の姿や頭骸骨を象った灰色の薄煙が蛇行しながら他の煙と同じ様に光点へ向かって飛んでいる。二体三体位なら良かったのだが、見えている範囲内では数十体程はいたのだ。
その亡霊達の姿は蟻程の大きさに見えたのだが、それは多分亡霊が小さいのでは無く、その道までに物凄い距離があるから小さく見えるのだろう。
「いつ見ても酷いものだわね…」
真の隣で夫人は独り言を呟く。声の調子や彼女の表情から見てとても寂しいそうな様子だった。
「いつも見ているんですか?これ…」
煙の流れる様子を覗き見ながら恐る恐る真は彼女に尋ねる。
「いつもって訳じゃ無いかな。ここに来る時に一回見て今もう一回見てるから実質二回しか見てないけれどね」
苦笑を浮かべて夫人は答えた。
「ちょ、ちょっと待ってください!…来るときに見たって事はこの中から来たって事ですか?」
彼女の返事を聞き、突然真は慌て始める。
「ええ、そうだけれど?」
なぜ彼が慌てているのか分からず、夫人は頭を傾げる。
「って事は今から向かおうとしている場所に行くにはここに入れって事ですよね…?」
「まあ、そういう事になるわね」
何も動じる事なく夫人は平然と答えた。
「そういう事じゃ無いっすよ!こんなかに入ったら絶対死にますって‼︎」
勢いよく体ごと夫人の方へ振り向いて真は叫ぶ。彼の顔は血の気が抜けて青白く変わっていた。
「大丈夫よ。死にはしないわ」
「いやいやいや、どう見てもあれは入るな危険って言う雰囲気じゃ無いですか!」
「気のせいじゃ無い?現にここに来るときにこの中を通ってきたけれど、特に何も起きなかったわよ」
尖った唇を指で押さえて夫人は言う。
「だって何か不思議な力とかがあるからですよね。そんな物僕は持ってないですよ!」
両手を忙しく動かして真は入りたく無いと主張する。けれども夫人は真の意見には肯定せず、代わりに右手を彼の方へ置いた。
「まあ大丈夫でしょう。気合を入れましょ!気合が有れば行けるわ!」
「それは無理がありますって…。そもそもこれは気合で何とか出来るものじゃないですよね…」
「出来るか出来ないかはやってみないと分からないわ。取り敢えず頑張るだけ頑張ってみましょ!」
空いた左掌を胸の辺りで軽く握って、ニッコリと微笑んで夫人は真を励ました。
「…ハァ…、分かりましたよ。もう要するにここへ飛び込めばいいんですね」
しばらく黙り込んで考えた後、真はため息と共に言葉を吐く。半分、投げ遣りな所はあるが、これ以外の方法は無いのだろうと直接的に理解して彼は飛び込む覚悟を決めた。
さっきもそうだったがどうやら真は夫人の笑顔に弱いみたいだ。可愛らしい彼女の笑顔を見ると断る事は出来ず、つい了承してしまう。
この事に気付いて彼女はわざと笑っているのか、それともそれに気付いていなくて純粋に笑っているのか分からないが、何となく彼女が企みを持って笑っている様には見えない。だからこそ余計に安易で彼女の要求を飲んでしまうのだろう。
「けれど少しは不安よね。まあ私が言うのも何だけれど、ここに入ってもあなたの心身に大きな異変は生じない、その事は絶対保証するわ。だからそんなに不安にならないでちょうだいね」
真が不安になっているだろうと思い、夫人は彼のその不安を和らげようと声をかけた。
何かが些細な事がある度に夫人は心配そうに声をかけてくれる。本当に彼女は自分の事をすごく大切に思ってくれてるんだなと思えてきて、そう思うとだんだん心がホッと温まってきた。
「ええ、大丈夫ですよ。疑ってなどいませんよ。だから心配しないでくださいね」
嬉しさのあまりに今度は真が優しく微笑んで答えた。
するとその時、物凄い風声と共に割れ目の中から突風が吹き出した。
もちろん、近くにいた二人は風の影響をもろに受けてしまう。けれども、突風とは言っても少しバランスが崩れる程の強さだったので夫人の方は風に押されて一歩後ずさるだけだった。
「あっぷねえ…」
真は体ごと夫人の方へ向いていたので背中全体で風を受けて大きくバランスを崩す。けれども咄嗟に彼は近くにある穴の割れ目を掴んでなんとかバランスを保つ事が出来た。
ピキッ……
しかしホッとしたのも束の間、小さな亀裂音と共に真の体は軽くなった。
体の力が一瞬でどこかへ抜けていき、立っているはずなのに視線が傾いていく。そして軽かった体も次第に下への引力に引っ張られて重くなっていった。
どうやら咄嗟に掴んだ場所が悪く、真の体を支えきれず割れ落ちてしまい、それにつられて真も倒れてしまったのだ。しかも倒れた方向が前では無く後ろ、と言う事は倒れている先に待っているのは煙と亡霊が彷徨う疎ましいあの空間なのだ。
「待って‼︎」
倒れる真に気付いて急いで夫人は手を伸ばして彼を助けようとする。けれども彼に届くあと数センチの所で真の落下速度の方が上回り、虚しくも助ける事は出来なかった。
風を背中で感じて、小さくなっていく割れ目を眺めながら真は下へ落ちていく。風を感じているうちに我に返り、彼は自分が落下しているということに気付いたのだが、それはもう遅かった。何も出来ないままに真は煙の線に体を引っ張られ、そのまま静かに煙の中に飲み込まれていってしまった。