狭間(上)
ゴーン…ゴーン…ゴーン…
低くて力強い、けれどもどこか心地よさを感じられるような鐘の音に起こされて真は目を覚ました。
意識はまだはっきりとしておらず、重い瞼を擦りながら目を開ける。
「………え⁈」
開いた真の目に飛び込んできた光景に彼は思わず声が漏れてしまった。
点々と無数の光の粒が黒混じりの紫色の空に隙間なく散りめられていて、それはまるで星空の様なものが彼の視界から溢れて四方八方に広がっていたのだ。
真は昔に知人と共に山奥にキャンプへ行ったときに満天の星空を一回だけ見た事があるが、それさえもが比べ物にならない位に今見ているものの方が何十倍も綺麗であった。
しかも、この美しい景色は上一八〇度だけで無く足より下、つまり水平線以下にも限りなく広がっているのである。真は高いところは割と平気な方であるが、そんな彼でさえも流石に下を見下ろした時は声を上げて腰を抜かしそうになった。
落ちないか心配になって真は四つん這いになり、コンコンと叩いたり優しく踏んだりして確かめる。慎重に尚且つ安全に確かめたところ、安心出来ることにどうやら丈夫な透明な床があるらしく落ちる事は多分ないという結果となった。
この姿勢を保ったまま真は床下に広がっている星空を眺め始める。しばらくすれば見えない床に対する恐怖は遥か彼方へ流されていってしまっていた。
これは本当にいつも見上げて見ている星空なのかなどの無駄な思考を全部切り捨てて、脳の中に唯一残された好奇心の思うがままにに真は上下左右に頭を動かしていった。
白鳥座やオリオン座など自分の知っている星座を見つけるたびに声を出してキャッキャと一人で騒ぎ喚く。
気付けば重かった瞼は大きく見開かれてキラキラと輝いており、いつしか彼はこの壮大な景色の虜となっていった。
ゴーン…ゴーン…ゴーン…
再びどこかで鐘が鳴る。その鐘の音を聞いて真はハッと我に帰った。
「そういえばこの音、どっからなってるんだ?」
頭を傾げて小さく独り言を呟く。星の事は一旦頭の片隅に置いておいて、彼は辺りをキョロキョロ見渡してこの鐘の音の発信源を探し始めた。
しばらく見渡していると、少し遠くの方に一段と光り輝いている場所が目に入る。最初は他の物と変わらないような星だろうなと思っていたが、星にしては他のものより明るすぎるし少し点の大きい。しかも他の星達は赤や青に光っているのに対しその何かだけは金色のようにキラキラと光っていて、明かに違う雰囲気を醸し出していたのだ。
正体不明の何かに対する少しの恐怖心とそれが何かと気になる好奇心が同時に真の心の中で芽生えた。
けれども、男の子だからかやはり前者より後者の方が勝ってしまう。いつしか真は好奇心に連れられてその何かに向かって歩き始めた。
近づいて行けば行く程、その何かの姿が見え始めた。
真よりも数十倍大きな金の長方形の板の上に色と長さが同じ半円の板がくっ付いた様な物が一つ。その半円の丁度真ん中から真っすぐに切れ込みが入っており、その切れ込みの中央の所には線を挟む様な場所に取っ手が付いている。どうやらその何かは巨大な金製の豪華な二面式の扉だった。
ゴーン…ゴーン…ゴーン…
半円の中に埋められている鐘がゆっくりと揺れて重低音を響かせた。どうやら数分間隔でなっている様だった。
その鐘の下の扉の面には微笑む一人の美しい女神絵が左右二面にも渡って彫られている。下地が金板だからか、とても神秘的に見えた。
扉には女神の他にも、小さな可愛らしい天使の姿も何人か彫られている。天使が彫られているという事はこれは多分、天国への扉なのだろう。そう思うと何となく神秘さとは逆に切なさや寂しさが彫刻から感じられた。
「やっぱり、俺は死んだんだな…」
寂しそうに真は独り言を吐いた。
ここに目覚めてから何となく心のどこかで何となくそうかもしれないかなとは思っていた。怪我しているはずの体は無傷だし、気も意識が朦朧している時の様にふわふわと軽い。
自分の中で何気なく浮かび上がってくる認めたくないマイナスの思考がこうしてはっきり具現化されていると、違うと信じていた希望が打ち砕かれて、自然と悄然していってしまう。
けれども、実際に考え直すと確かにこうなることも不思議では無い。刺されたりしているのにそこから意識を保てられた時点で十分凄い事であるのだ。だからこうなる事は当たり前だ、しょうがないのだ、と自分に言い聞かせる。
開き直ると言ったらおかしいかもしれないが自分に無理矢理にでもそう思い込ませて彼は大きく深呼吸をし、両手の掌を黄金の扉にくっ付けた。
金製だからだろうか、触れた時ヒヤッと冷たく感じる。しかし、しばらく触っていると手の温度が伝わって、触っている部分がゆっくりと温かくなっていった。
「それじゃ、行くか」
不安や躊躇いを振り払って真は小さく呟き、扉に触れている両手に力を込めて奥へ押し込んだ。
「待って!それを開けちゃダメ!」
扉が少し動いたのと同時に後ろから声がした。天の声とかの様な微かなものではなく、はっきりとしている声だ。
この空間に自分以外の誰かがいるのか、という事に驚いて真は腕に込めている力を弱めて慌てて後ろを振り向く。そこには真と同じく扉の光を浴びている一人の女性が立っていた。
十六、十七世紀のフランスの貴族が着てそうな豪華な黒いドレスと柄の大きい帽子を身につけている。この見た目からして女性よりかは夫人と比喩した方が正しいのだろう。
「え…っと、あなたは…誰ですか?」
恐れげに立っている夫人に向けて尋ねる。けれども夫人は彼の質問には答えず、代わりに足を動かして彼との距離を詰め始めた。
ゆっくりと近づいてくる正体不明の夫人に対し真は逃げもせず彼女を見つめる。もちろん怖くて逃げたいとは思っていたのだが、その気持ちよりも扉を開けた自分を止めた様に彼女は何か知っているのでは無いかと言う期待感が真の逃走心を押さえつけた。
「その扉から少し離れてちょうだい」
歩きながら夫人が言う。
「え、あ、はい…」
ぎこちなく真は返事をして彼女の言う通りに動いた。
ゆっくりと近づいてきていた夫人はとうとう真の目の前に着く。遠くて見えていなかった彼女の顔がだんだんと見え始めた。
優しい目つきで顔も綺麗に整っていて文句が言えないほどに美しい。長くて艶のある黒髪は同じ黒いドレスに溶け込む様に垂れ下がっている。彼女の今の顔の表情や雰囲気は真の後ろの扉に彫られている女神とどこか似ているものだった。
真の元に立ち止まるや否や立っている真を突然自分の胸の中へ引き寄せて、ギュッと強く抱きしめる。まだ少し怯えていた真も突然抱きしめられて、その怯臆の感情が全ては羞恥へ変わって顔を真っ赤に染まっていく。恥ずかしさのあまり、彼女から離れようと抵抗したのだが彼女は離してくれ無かった。
「助けられなくてごめんね。怖かったわよね」
真の頭をポンポンと優しく叩きながら夫人は優しく囁く。なぜ自分が抱きしめられているのか分からなかったが、彼女に抱きしめられると次第に軽かった気が重さを取り戻したのか体がさっきより重く感じるようになった。
また、じんわりと夫人の温もりが伝わってきてそれはまるで我が子を思う母の温もりの様で、あまりの温かさに真はその感覚に身を任せて彼女の懐に心をそっと預けた。
「あなたくらいの子供って可愛いわ…」
抱きしめながらボソッと彼女が呟く。その呟きを聞いて忘れていた恥ずかしさが蘇る。
「ちょ!やっぱりやめてください!」
無理矢理夫人の手を解けて真は声を張って言う。しかし彼の顔は真っ赤に染められていてる為、申し訳ない気持ちよりも笑いが夫人の中で込み上げてきた。
「あらら、気持ちよさそうにしてたのに。やっぱり恥ずかしかった?最近の子は恥ずかしがり屋が多いのね」
「は、恥ずかしいですよ!って言うかあなたは一体誰なんですか?」
「私が誰かって?気になる?」
真の顔を横目で見つめて、彼を焦らす様に夫人は言う。
「気になりますよ!」
真は首を勢いよく縦に振って返事をする。必死に頷く真っ赤な彼を見て口を手で隠してクスッと笑い声を漏らした。
「あなたってやっぱり可愛いわね」
そう言いながら夫人は真の頭を手で犬と戯れ合うみたいにワシャワシャと強く撫でる。「やめてくださいよ!」と真は彼女に嘆願するのだが、彼女は止めるはずも無く意地悪して撫でる力を強めた。
「あ〜、すっきりしたわ!」
しばらく自分のおもちゃとなっていた真を解放して夫人は満足気に言う。
「すっきりじゃないですよ…。痛かったですから…」
頭を押さえて真は言った。
優しく頭を撫でられたというよりかは激しく頭を引っ張られ、今押さえているのだがその感覚すらあるのか無いのか分からなくなるほど痛い。そのせいで彼の目は少し潤んでいた。
「それで結局あなたは誰なんですか…。教えて下さいよ…」
潤んだ目を夫人に向けて真は言った。
「今すぐに教えたいのだけど、少し場所を変えてもよろしい?少し疲れてしまって」
苦笑いしながら夫人は真に尋ねた。
確かに最初と比べて疲れている様には見えるが、彼女がここに来てからものすごく疲れる事はしていないはず。けれども彼女が嘘を言っている様にも見えない。不思議に思いながらも真はあえてそこには触れずに首を一回縦に振った。
「ありがとう」と真にお礼を言って夫人は彼から体を背けてドアの方へ近づく。
「それじゃ、ちょっと私の隣に来てくれるかしら」
後ろを振り返って夫人は手で真をおいでおいでと手招く。招かれるままに真は夫人の隣へ走り寄った。
「何かする事があるんですか?」
「もちろんよ!君の仕事は私の手を繋ぐ事ですわ。離したら許しませんからね!」
満面の優しい笑みを浮かべて彼女は真の左手を握る。花の様な可愛らしい笑顔を見せられては断る事は出来るはずもなく、真は小さく息を吐いて彼女の手を握り返した。
最初は見た目だけで勝手に夫人と比喩したのだがそれを撤回させて貰おう。彼女は一人の夫人ではあるかも知れない。もし、見た目以外で彼女を例えるとするならば一人の夫人と言うよりかは笑顔の絶えない天真爛漫な一人の少女と言った方が正しいのだろう。