オジスタンス
一方その頃――
工藤の案内で、植木は東京の片隅を移動していた。
それはかつて山手線沿線と呼ばれた地域。
ほんの数年前まで隆盛を極めたそこは、品川付近から流入した大量の海水により、今ではその多くが水没してしまっている。
移動は、当然船になる。
その船も、モーターボートを使うわけにはいかない。音が目立つためだ。
今二人が使用しているのは、渡し船に使用されていた手漕ぎ船である。ボートの後部にまるで尾びれのように取り付けられたオールで漕ぐのだ。
朝もやかかる海は、船の姿をかき消す。
同時に風景も薄ぼんやりとしか見えないが、逆にかつての栄華溢れた街が崩壊した様を直視せずに済む。
ビルの背は高く、全てが水没したわけではないが、一階や二階が水没してしまえばもう使い物にはならない。電気系統がほとんど死んでいる――というより仮に生きていても、もう既にこの付近には送電されていない。
墓標のように屹立するビル群は、今となっては灯台がわりに道を示す存在だった。
向かっているのは、秋葉原。
そう極端に高い建物はないが、その三階や四階をそのまま利用し、水路によって行き来するヴェネツィアを思わせる文化を形成している。
今となってはそうそうこの辺りを船で通る者もいないゆえ、さしたる障害も無く、その近くまで差し掛かった。
オールで漕いだ工藤の腕はパンパンだったが。
「もうそろそろ着くぜ」
「そうかい? じゃあ代わろうか?」
寝そべっていた植木が半身を起こす。
「いや、運動不足だったしな。このまま最後まで行くさ」
それより、と続ける。
「一つ聞いておきたい。アンタが今回の決起を止めたいってのはわかった。だが、それは成り行きでそうしてるだけだろう? となると、アンタの目的はわからん事になる。このご時世に一人でうろついてるんだ。何か理由があるんだろ?」
「うーん、目的ねえ。あるようなないような……わっかるかなあ、わっかんねえよなあ」
顎に手を当て、思案する植木。
「いやね、俺もようわからんのよ。何せ記憶がないんでね」
「ああ……そういえばそう言ってたな」
「逆に言やあ、俺にとっての目的ってえのは、記憶を取り戻す事かもしれねえな。あ、そうだそうだ。最初はそれで旅してたんだ。何か思い出さねえかなってな。あんまりにも思い出さねえんで、今となっちゃただのブラリ旅になってんだがな。だから、別段大それた目的もねえのよ」
記憶喪失の患者は、自身のアイデンティティーの喪失に強く不安を覚えると言う。しかし植木の顔に、記憶を失った悲壮感はなかった。
「その割には信念めいたものを感じるが……」
「記憶がねえ以上、心の赴くままに生きるしかねえからな」
「なるほどな。……少なくとも、決起を止めたいと思うってことは、アンタのどこかにそう考えるに至った記憶があるのかもしれない。……記憶、見つかるといいな」
「ありがとよ。ま、気楽に行こうぜ」
さて、そうこうしているうちに、船は秋葉原に侵入していた。
かつて香港の九龍城は雑多かつ無計画に建物が密集し、混沌のるつぼと化していた。
現在の秋葉原は、それによく似ている。
行政主導で無い街の利用と拡張が、混沌極まる様相を呈していた。
もともとが電気街だった事もあり、独自の電気網を作り出しており、国家からの電力供給に頼らない、いわば自治区に近い状態なのだ。
水没した建物同士を蜘蛛の巣のように張り巡らされた電気ケーブルがつなぎ、屋上にはガソリン式の発電機やソーラーパネルが並ぶ。
得体の知れない看板がずらりと軒を連ね、一見して何の建物かはよくわからない。
八百屋の看板に墓石屋の看板が覆いかぶさるようにかかり、その横には医院の看板がかけられているなど、まさに無法地帯だ。
遠くからは銃声ともつかない得体の知れない音が聞こえ、フランス語らしき声がよく聞こえてくる。
さて、そんな街の駅前へ船は向かってゆく。
海水に半ば沈み、もう使用されていない駅の二階部分を超え、屋上に「三千世界のラジオ天国」と書かれた巨大な看板が目立つビルへ進む。
「あれがオジスタンスとやらの集会場かい?」
「ああ。今日は蜂起作戦の説明日だから、もうほとんどの人間は集まっているはずだ……」
かつて電子部品などを売っていたラジオ天国――通称ラジ天――というビルだ。
このド派手な看板は、この建物が改装される前、屋上に設置されており、秋葉原の顔となっていた。
その後、改装に伴い姿を消し、一階入口の上にそれと似たデザインのネオンサインが代わりに置かれていた。
その結果、ネオンは水没してしまったのだが、それを補うために旧看板のレプリカを再度屋上に設置しているのだった。
「へえ、懐かしい看板だな……」
「そうか? じゃあアンタも記憶を失う前に来てたんじゃないか?」
「記憶にございません……ってな具合だな。何とも言えねえ」
遠い目をして、呟く。
「案外、アンタの記憶もすぐに戻るかもしれないな」
「かもな……」
さて、そんなラジ天ビルの三階部分の元は窓だった箇所に船をつける。
窓が玄関替わりというわけだ。
そうして中に入ると、加齢臭が鼻をついた。
あの、中年特有の枕のにおいである。
「なるほどねぇ」
思わず、植木は苦笑を洩らした。
「オッサンが集まりゃにおいもするわな」
工藤も笑い、それから身を低くした。
「ここが仕掛けになっていてな……」
水没していた階段の、手前の床タイルをずらす。
タイルは四隅のうち右上だけピンで止められているらしく、簡単に半時計回りにスライドした。
すると、その下に取っ手とおぼしきくぼみが現れた。
「おお」
「後は持ち上げりゃ……」
工藤はそのくぼみに手をかけ、床板を持ち上げた。
タイルにして9枚分の床面が持ち上がる。
そう、巧妙に床に偽装された隠し通路である。
ふちに設置された梯子で下に降りていく。
うす暗いが、水没はしていない。
「凄えだろ? ここは気密して水を抜いてるのさ。だから外からは水没したようにしか見えやしねえ。階段の部分も、あそこだけ密閉しといて後で上から水を入れてんだ」
「へえ~、よく考えてんのな」
元々が家電販売店であるため、この隠しスペースはなかなかの広さを持っていた。
バスケットのコートより広いそこに、まるで迷路のように積まれた段ボールが所せましと並べられている。
何が入っているかは判然としないが、持ち手用の穴からにょろりと伸びたLED――おそらくはクリスマスツリーの流用――が淡い光を放ち、足元を照らしている。
そんな段ボールの森の奥からはひときわ大きな明かりが見えた。
そちらへ向かうと、段ボールではなく、ビールケースがまるで門のように並んでいた。中央部分は完全に場違いだが襖になっている。
「止まれ」
「!?」
奥から、男の声がした。
よくよく見れば、ビールケースの網目の向こうに男が立っているのが見える。
「合言葉を言え。山と言えば?」
「川」