勝利
「う……ぐ……」
放送室より三階下。瓦礫が散乱する廊下に月光は居た。
かつて絨毯が敷かれていたそこは、床の穴に飲み込まれるように大理石がむき出しになっている。
足をBCに掴まれ、その穴に引き込まれようとしており、大きな瓦礫にしがみつく事でそれに耐えていた。
だが、それも限界が近い。
額の脂汗も、深く刻まれた眉間のしわも、彼女の指先の震えも、二の腕の痺れも、その終末の到来を告げていた。
彼女の脚を掴むBCの端末は、ストッキングが引き裂けてなお、その力を緩めない。
「く、こんな……こんなものに……この私が……」
掴まれた足より、強烈な不快感が全身を駆け上ってくる。
それは、彼女が切り捨ててきた者たちの怒りであり呪いであり、圧してきた者たちの悲しみであり絶望だった。
「う……知った……事か……恨むなら……無能な己を恨め……!」
いくら呪詛を唱えても無駄。
彼女を引き込もうとする力が緩むことは無い。
「うっ……!」
ついに力尽き、瓦礫を離してしまう。
それはまるで掃除機のコードが巻き戻されるように、一気に穴へ引き込まれていく。
「ああああああ!」
が、その腕を掴む者がいた。
「……間一髪、と言ったところか」
「な、何だと……!?」
月光を掴んだのは、無論、綺羅星であった。
だが、月光は驚愕に目をむく。
「な、なぜ貴様が……」
「ふん、そうだろうな。貴方のイメージの中の私は、貴方など助けないのだろう。むしろ、ポストが空いて助かる、そう思うタイプだろう」
言いつつ、しかし空いた左腕で警棒を振り、月光の脚を掴むBCの腕を叩きのめす。
いかなBCとはいえ、全ての衝撃を吸収できるわけではない。
刃羅琉に似た顔面を打擲されるとたまらず引っ込んでいった。
勿論、本体はいまだ健在。あくまで一瞬追い返しただけで、穴の底から迫っている本体は、やがてここまで駆け上って来て二人を取り込むだろう。
「……答えろ……なぜ私を助けた」
「貴方は、『私』だ」
「なに……?」
「植木長介という男に出会わず、あのままこの組織で出世していけば、きっと貴方のようになっていた」
だが、と続ける。
「私は出会った。出会えた。だから私は変わった。それだけの事です」
綺羅星は笑う。屈託なく。
その笑みに毒気を抜かれたように、月光の肩から力が抜けた。
「……ふん、大人がそうそう生き方など変えられるものか。ガキの言いそうな事だ」
「どうでしょうか? これから、それが証明されるはずです」
「貴様の言う事は、何一つ……理解できん」
「オッサンたちがこれから何をするか、そういう話です。……立てますか?」
首を横に振る月光。
彼女の脚はあまりに強い力で掴まれていたため、真っ赤に内出血を起こしており、とても歩ける状態ではなかった。
躊躇なく、抱えて背負う綺羅星。
彼女は、そのまま非常階段へ向かって歩き出した。五階上がれば、突入した場所から脱出できるからだ。
そうして一階ほど上がったところで、大きな振動が二人を襲った。
咄嗟に手すりに掴まりこらえた綺羅星だったが、どうやらBCの本体がすぐ下の階まで登っていているらしかった。
いや、実際に迫ってきている。
非常階段の手すりから下を覗くと、もう一階下にまで黒い塊が蠢いているのが見えた。
「くっ……」
「……もういい。私を置いていけ」
ぼそりと月光が呟く。
その声色は、それが善意からの提案ではなく、諦めによるものだという事が明らかだった。
「それは出来ない相談です。しないと決めたからです」
「……愚か者め」
月光の言葉は、実際正しい。
人一人を抱えて登るスピードより、BCの浸食速度の方が早い。
あっという間に、足元まで黒き触手が迫ってきた。
そこから人型の端末が飛び出し、綺羅星の足首を掴んだ。
「……諦める、ものか」
構わず階段を踏みしめる綺羅星。
一段一段、登って行く。
が、その足に更に別の人型が絡みついて引き倒す。
「ぐっ……!」
腹や胸を階段の角に打ち付け、呻く綺羅星。
しかし倒れてなお、綺羅星は階段に腕をかけて無理やり登ろうとする。
さしもの月光も、その執念に驚きおののく。
「ど、どうしてそこまで出来る……」
「植木なら……きっとこうする!」
もう一段、と伸ばした手。
カランコロンカラン。
木が金属を打ち付ける軽妙な音が響き。綺羅星の手を、掴む者が居た。
「来ると……信じていた」
「頑張ったな」
綺羅星の手を握り、植木が微笑む。
「ふふ……」
「どうした、そんなにニヤけて」
「やはり、お前ならそうするよな……『お前と同じ行動が取れた自分が嬉しい』のさ」
「……うーん? まぁ、あんたがいいならいいか」
植木はゲタでBCの端末を蹴飛ばし、二人を上の踊り場へと引き上げた。
そして、BCの前に仁王立ちする。
そんな植木を飲み込もうとBCが端末を一斉に放った。
蜘蛛の糸に群がる亡者の群れが如く、植木に迫る。
「危ない!」
「そうだな……コイツはどう呼ぶか。とりあえず『ポチでいい』か」
「え?」
「ポチ、お座り」
その言葉に、BCの端末はぴたりと侵攻を止め、床に伏した。
それきり、蠢きはするものの、襲い掛かることなく留まっている。
「……は?」
「……は?」
余りに異様な光景に、綺羅星と月光が揃って間の抜けた声を漏らす。
「な、何が起きたんだ……? 貴様何をした!」
うろたえる月光に、かつての威厳は最早無い。
「おお、上手く行った」
一方の植木は、上機嫌で指を鳴らす。あたかも、石切りが成功して向こう岸に上手く着いた、そのくらいの軽い様子だった。
「何って、ごらんの通りだよ。『既に勝ってた』って事だ」
「勝つ……? 貴様がか?」
「いいや。日本中のオッサンたちと、時間を稼いだ綺羅星の勝ちって事さ」